2022年12月6日火曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その5

 五則:馬刀

『霊枢』癰疽(81):

發於腋下,赤堅者,名曰米疽。治之以砭石,欲細而長,疏砭之,塗以豕膏,六日已,勿裹之。其癰堅而不潰者,為馬刀挾癭,急治之〔腋の下に發して,赤く堅き者は,名づけて米疽と曰う。之を治するに砭石を以てし,細くして長からんことを欲す。疏(まば)らに之を砭す。塗るに豕の膏(あぶら)を以てし,六日にして已(や)む。之を裹(つつ)むこと勿かれ。其の癰の堅くして潰(つぶ)れざる者は,馬刀挾癭と為す。急(すみ)やかに之を治せ〕[11]135。


 馬刀:『内経』の教師用参考書は,「俠癭」と一つにして解釈し,「病名。瘰癧の類に属す。常に連なって出現し,堅い。其の形が長いものを馬刀という。耳の下と頸項に生じて,欠盆から腋の下まで続いたり,あるいは肩の上に生じて下ったりする」[2]462と注釈している。この注は,諸説を取り合わせようと努力して,かえって意味不明なものになってしまっている。『霊枢』の原文にしたがえば,この病はすでに「腋の下に発する」と分類されていて,「其の癰 堅くして潰(つぶ)れざる者」は,「赤く堅き者」と対になって挙げられていることは明白である。したがって「馬刀」は部位を言っているのであって,腋の下にある癰疽の名に属するとすべきである。これは『諸病源候論』〔巻32・癰疽病〕疽候によっても裏付けられる。「發於掖下,赤堅者,名曰米疽也;堅而不潰者,為馬刀也〔掖(わき)の下に發して,赤く堅き者は,名づけて米疽と曰うなり。堅くして潰れざる者は,馬刀と為すなり〕」[26]。


 『霊枢』経脈(10)に「膽足少陽之脈,……是主骨所生病者……腋下腫,馬刀俠癭」とある。「馬刀」は足少陽脈の「所生病」に属する。かつまた『甲乙経』に収録された「馬刀」を治療する穴の多くは,足臨泣・陽輔・淵腋・章門などの足少陽の穴を取り,その発病部位が足少陽脈がめぐるルート上にあることがわかる。また『甲乙経』巻八・五藏傳病發寒熱第一下で引用される『明堂』の三つの条文で,「腋下腫」が「馬刀瘻」と一緒に挙げられている[4]271-272。これもその部位が腋の下に近いことを示している。「馬刀」と並んで見えるものには「馬瘍」という病名もある。『甲乙経』巻三・腋脇下凡八穴第十八に引用される『明堂』に「淵腋,在腋下三寸宛宛中,舉臂取之,刺入三分,不可灸,灸之不幸,生腫蝕馬刀傷,內潰者死,寒熱生馬瘍可治〔淵腋は,腋の下三寸宛宛たる中に在り,臂を舉げて之を取る。刺入すること三分,灸す可からず。之を灸すれば幸いあらず,腫蝕馬刀を生じて傷(やぶ)れ,內に潰(つぶ)るる者は死す。寒熱して馬瘍を生ずれば治す可し〕」とあり,注文で『素問』気穴論(58)の淵腋〔淵掖〕穴の注「足少陽脈氣所發〔足少陽脈氣 發する所〕」[4]106を示している。これは馬刀と馬瘍の発病部位が淵腋穴周辺の腋下部に位置することを示している。そして同時に淵腋穴は馬刀を治療する主穴である。『甲乙経』巻九の第四に「胸滿馬刀,臂不得舉,淵腋主之〔胸滿馬刀,臂 舉ぐること得ざるは,淵腋 之を主る〕」[4]295とあり,巻十一の第九下に「馬刀腫瘻,淵腋・章門・支溝主之」[4]353とある。


 出土医書では,以下のものに「馬」という病名があらわれる。『足臂十一脈灸経』7-8:「足少陽脈……其病……脇痛,□痛,產馬」[17]189。『脈書』簡四:「在夜(腋)下,為馬」[19]115。天回医簡では「𦟐」あるいは「㾺」と書かれている。天回医簡303に「少陽產瘻產㾺,脇外穜(腫)」,簡594に「(足少陽脈)腋𦟐痛」(図3)とある。


図3 天回医簡 簡303と594〔省略〕


その発病部位が腋の下であること,および少陽脈の所産病に属するなどの記述から,われわれはそれを『霊枢』『甲乙経』に見られる「馬刀」と結びつけることは容易である。すなわち,「馬」と「馬刀」は同じものを指しており,癰疽の形状を描写しているのではないことは明らかである。天回医簡の文字をみれば,「𦟐」は肉(月)部に従っていて,人体のある部位を指すとするべきである。「㾺」は病部に従っているので,これはこの部位と関連する病の名前である。『説文解字』病部に「㾺,目病。一曰惡氣箸身也。一曰蝕創〔㾺は,目の病。一に曰わく,惡氣 身に箸(つ)くなり,と。一に曰わく,蝕(くさ)れ創(かさ),と〕」[27]とある。「目の病」という意味は,明らかにこれとは合致しない。『五十二病方』の目録に「治㾺」があり,その治方に「㾺者,癕痛而潰〔㾺なる者は,癕(=癰)痛みて潰(つぶ)る〕」[17]297とある。これも癰疽に類する疾病であり,『霊枢』と同じで,『説文解字』にいう「蝕創」の意味に近い。天回の漆塗り経脈人形の銘文にも「腋淵」(筆者は,もともとの字形は「夾淵」に作ると考えている)という名称があらわれ,腋の下の部位にしるされていて,『霊枢』『明堂』がいう「淵腋」に相当する[27]。


 以上の文献の整理を通して,われわれは『霊枢』の癰疽篇と経脈篇に見える「馬刀」という病名は,出土医書に見える「馬」病に由来する可能性が高いと考える。逆に伝世医籍にある関連記述も,出土医書にあらわれる「𦟐」「㾺」などの字を考証して解釈する助けとなる。その病の特徴は,発病部位が腋の下であり,足少陽脈がめぐるところであり,癰疽の病証に属し,治療に常用されるのはそこに近い淵腋穴である。したがって頸項部に発症する瘰癧とは異なる病であるので,混同してはならない。


 裘錫圭先生は次のように指摘している。「出土文献は古書の真偽と時代,古書の体例およびその源とその発展,古書の校勘と解読などの古典学の問題を研究する上で,極めて際立った重要な役割を発揮することができる」[29]19。さらに「中国古典学の再建」を展望して,「大量の出土文献が発見され,その整理と研究は,中国古典学の再建に前例のない好条件をもたらした。古典学研究と密接に関連する出土文献は将来もひきつづきあらわれるだろうし,すでに発表された出土文献には新たに整理し,研究を続ける必要があるものがある」[29]24という。天回医簡は,新たに発掘された早期の医学文献として,中国医学経典を校読〔校勘解読〕する上で,伝世文献では代えがたい重要なはたらきを果たすことができ,すでに学界の注目を集め議論を引き起こしている。


0 件のコメント:

コメントを投稿