2015年9月21日月曜日

手書きの略字体で思い出したこと

国会図書館に,多紀元簡の『病名纂』があります。
文字が薄くなって消滅寸前でしたが,デジタルライブラリーに写真が掲載されました。
拡大すれば,なんとか判読できそうです。
これでは,「門」は「门」に近く書いてあり,「草」は「艸」を省略して「屮」と書いてあります。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536639

また,江戸時代の地図は,小さい字を書くために,画数の少ない字を使用することが多いです。
たとえば,東京都中央区に,霊巌寺に由来する霊巌島という地名がありました。
そこにかかる橋,霊巌橋は立之が『素問攷注』で用いたのと同じ「灵」を使って,「灵岸橋」と表記されていることが多いです。
もちろん「霊」字で書かれていることもありますが。これとて,「靈」の略字でしょう。
http://d.hatena.ne.jp/tokaidorekisi/20131024/1382603814

2 件のコメント:

  1. 略字体とか俗字体とかの使用に関して,わたしの考え方について,いささか誤解があるような気がする。
    基本的にはどれでも書きやすい形に書けばいいと思っている。だからといって,髙橋さんには申し訳ないが,うちは“はしごだか”なんて主張されると,腹の中ではアホかと思う。自身自身の苗字についていえば,人偏の有る無しなんて全く気にしません。ただし,正式な文章に書くとなったら,本当は高橋と書くべきだろうとは思う。佐佐木もね。
    電子データについても,分かりやすい普通の字体でいいじゃないかといわれると,普通の字体ってなんだとくってかかる。「どれでもいいよ」は「どれでも不満」ということじゃないかとね。あるいは,どっちでもいいという入力はできないと。そこで『康煕字典』とか,あるいはいっそ『干禄字書』とかによりかかろうかと。だから誤解される。
    だから,门と書いたり灵と書いたりの大部分は,書きやすい字形を選んだに過ぎないことが多かろうとは思う。しかし,旁光となると,かつてはこのほうが正式であったという認識が(おぼろげでも)無ければ,勝手に肉旁をはずしたりはしなかったろうと思う。版本か板本かも,どちらも有るよ,あるいはそれぞれの場合が有るよという認識は有って,基本的には選んで,時には無意識にどちらかを書いた,原資料に基づくのが多くかったんじゃないか,と思う。
    これが正しい>どちらかというと>どちらでもいい>略字のほうが書きやすい。普段はこうした図式かと思うが,膀胱か旁光かの書き分けには,この図式とはやや違う気分が有ったろうということ。上手くいえないけど。
    版本と板本についても,単に細字双行に書くには木偏のほうが書きやすいかったから(だけ)といわれては,それは違うんじゃないかといったまでのつもりです。菉竹さんが「だけ」といっているわけじゃないのはわかるけど,読み手の中には誤解する人がいるんじゃないかと。これは老婆心。

    結論からいえば,「版本か板本かにはそれぞれ拠り所が有るが(菉竹さんが詳しく述べている),『素問攷注』の用例の中には,単に書きやすいから板本と書いたに過ぎない場合も有りそう」くらいが無事だったんじゃないかと思う。

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  2. 結論からいえば,……。
    神麹斎先生,わたくしの乱暴な物言いを,まとめていただきまして,ありがとうございます。_(_^_)_

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