2015年5月10日日曜日

小阪 修平『そうだったのか現代思想-ニーチェからフーコーまで』

47頁:みなさん,近代科学というのは複雑な考えかただと思っていらっしゃる方もいるかもしれませんが,じつは単純な考えかたなんです。よぶんなことをいっさい度外視してかんがえる。十九世紀というのは,近代科学でわかることだけが正しいとかんがえられてきたんです。でもじつは,近代科学でわかるというのは,あらかじめわかりにくいものを度外視して,近代科学のやりかたでわかるものだけをわかるとかんがえたやりかたなんですね。

390頁:これは新聞でこのあいだ読んだんですが,こういうことはみなさんはどう思われます?今(九〇年代半ば),針灸の学会で,針灸の一般的なマニュアルをつくろうという試みがあるらしいんです。西洋医学と針灸の東洋医学が協力してつくるんですが,マニュアルをつくって治療のスタンダードをつくるというのは,近代的な発想ですね。昔だったら秘伝になるところです。これは悪い試みだと思われますか,いい試みだと思われますか。たとえば,針灸だけでなく伝統的な医学のよさというのは,一人一人の相手の経験とか体の微妙なバランスに対応して治療していくことのなかにあるのであって,一般的なマニュアルをつくれば,そういうのがなくなるとかんがえることもできます。

ぼくはサウナが好きでときどき行くんですが,そのあとごくたまにマッサージを受けるといつも腹が立つんですね。マニュアルがあってみんな同じようにするんです。ぼくはパッと相手を見た瞬間,だいたいどのへんが凝っているなあというのがわかります。このへんからモアーとした感じが漂っているとか,ぼくは技術自体はうまくないですが,そういうふうなのに反応してやる。そういうカンとか,トータルに言えば相手の食生活から悩んでいることまでいろいろ含めて,相手の人間を一つの全体としてかんがえていくのが伝統医学だと思います。そうすると,マニュアルをつくるのは悪いことか。

ぼくはマニュアルの使いかただと思います。いろんな経験によってわかるレベルがあって,ある程度の一般的な共通像をつくることができます。そうすると,ここがもんだいなんですが,必ずこの共通像からはじきだされてしまう,その人の個人的な特性なりいろんな雰囲気なりがあります。実際,ぼくがサウナに行ってマッサージを受けると,かなりレベルが低いんです。そういう人にとっては,こういうマニュアルは十分役に立つだろうと思います。ところが,マニュアルをつくることによって,ここからはじきだされてしまうものへの目配りというものがなくなってしまうと,このマニュアルというのはかえって悪影響をおよぼす。こういうことにも近代の特徴が表れていて,近代を批判することの難しさがあると思うのです。

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