1 臓腑背兪と足太陽経関係との構築
臓腑背兪が足太陽膀胱経に帰属することが最初に見える伝世文献は『外台秘要方』(以下『外台』と略す)である。これ以前は臓腑背兪と足太陽経との間に明確な関係は基本的になかった。
1.1 『内経』の背兪に対する認識
『霊枢』背腧〔51〕は背兪を専門に論じた篇であるが,「五蔵之腧,出于背〔五蔵の腧は,背に出づ〕」と言うのみで,内外間の経脈のつながりについての言及はない。『霊枢』衛気〔52〕は,(五臓の)背兪と経脈の関係を明示している。すなわち経脈標本理論にいう,足の三陰経と手の少陰経の「標は背腧に在り」である。この点とその意義は,従来の研究では十分に重要視されていなかった。
このほか,腧穴の帰経〔=各腧穴がどの経脈に帰属するか〕を記している『素問』気府論〔59〕では,足の太陽脈気が発する所の諸穴の中で,背兪と関連する内容としては,「俠背以下至尻尾二十一節十五間各一,五蔵之兪各五,六府之兪各六〔背を俠(はさ)んで以て下り尻尾に至る二十一節十五間に各々一,五蔵の兪各々五,六府の兪各々六〕」がある。この中の「五蔵之兪各五,六府之兪各六」の12字は『黄帝内経太素』(以下『太素』と略す)には見えないので,あとから追加されたのかも知れない。日本の注釈家である森立之の『素問攷注』は「此十二字,恐是王冰所朱書〔此の十二字,恐らくは是れ王冰の朱書する所〕」と考えている。
『素問』刺瘧〔36〕には,「風瘧,瘧発則汗出悪風,刺三陽経背兪之血者〔風瘧,瘧発すれば則ち汗出(い)で風を悪(にく)む,三陽経の背兪の血ある者を刺す〕」とある。「三陽経」を『鍼灸甲乙経』(以下『甲乙経』と略す)は「足三陽経」に作り,楊上善は「手足の三陽経」と解釈し,馬蒔と張介賓は「足の三陽経」を指すと考えるが,王冰と張志聡のみは,「足の太陽経」と解釈している。
『素問』挙痛論〔39〕では,「心与背相引而痛者〔心と背と相い引きて痛む者〕」の機序について,「寒気客於背兪之脈,則脈泣,脈泣則血虚,血虚則痛,其兪注於心,故相引而痛〔寒気 背兪の脈に客すれば,則ち脈泣(しぶ)り,脈泣れば則ち血虚し,血虚せば則ち痛み,其の兪は心に注ぐ,故に相い引きて痛む〕」と解釈している。楊上善は「背兪之脈」とは「足の太陽脈」を指し,心兪には絡脈があって心に至ると考え,「背輸之脈,足太陽脈也。太陽心輸之胳注於心中,故寒客太陽,引心而痛〔背輸の脈は,足の太陽脈なり。太陽の心輸の胳は心中に注ぐ,故に寒 太陽に客すれば,心を引きて痛む〕」(『太素』巻27・邪客)と注する。
『素問』気穴論〔58〕:「中𦛗両傍各五,凡十穴〔中𦛗の両傍各々五,凡(すべ)て十穴〕」。原文は,具体的な腧穴名と帰経を明らかにしていない。王冰は,「謂五蔵之背兪也……此五蔵兪者,各俠脊相去同身寸之一寸半,並足太陽脈之会〔五蔵の背兪を謂うなり。(肺兪は,第三椎下の両傍に在り。心兪は,第五椎下の両傍に在り。肝兪は,第九椎下の両傍に在り。脾兪は,第十一椎下の両傍に在り。腎兪は,第十四椎下の両傍に在り。)此の五蔵の兪は,各々脊を俠んで相い去ること同身寸の一寸半,並びに足の太陽脈の会〕」と注している。
以上からわかるように,背兪と経脈の関係について,『内経』は経脈の標本という形で五臓の背兪と五臓の陰経との関係を明示しているが,臓腑背兪と足の太陽経との関係については,『内経』ではまだ確定できておらず,明言しているのは注釈家である。
1.2 後世の医家の背兪に対する認識
『甲乙経』巻3の内容は,腧穴の部位と所属の経脈である。臓腑背兪では,胆兪と三焦兪を除いて,みな「足の太陽脈気が発する所」という言及はない。しかし背部の脊柱をはさんでそれぞれ3寸(第2行)にある諸穴では,みな「足太陽脈気が発する所」とはっきり述べられている。王冰が注した『素問』気府論〔59〕にある諸穴もこれと同じで,「十五間各一者,今『中誥孔穴図経』所存者十三穴,左右共二十六穴,謂附分・魄戸・神堂・譩譆・膈関・魂門・陽綱・意舎・胃倉・肓門・志室・胞肓・秩辺十三也〔「十五間各々一なる者」,今『中誥孔穴図経』に存する所の者は十三穴,左右共に二十六穴【王冰注本には「穴」字なし】,附分・魄戸・神堂・譩譆・膈関・魂門・陽綱・意舎・胃倉・肓門・志室・胞肓・秩辺の十三を謂うなり〕」とある。
『外台秘要』〔原文のまま〕巻39の内容は腧穴であり,主に『甲乙経』から集められている。しかし王燾の整理方法は,十二経によって諸穴をまとめ,一経一図(図はすでに失われている)であり,「今因十二経而画図人十二身也〔(諸家は並びに三人を以て図と為すが,)今ま十二経に因って画いて人の十二身に図とするなり〕」(巻首の「明堂序」)。そのため名称もやや変わっていて,「某臓(あるいは某腑)人」という。任脈の腧穴は足の少陰腎経に入れ,督脈の腧穴は足の太陽膀胱経に入れている。背部の腧穴はみな足の太陽膀胱経に入れて,「膀胱腑人」という(「十二身流注五臓六腑明堂」に見える)。「足太陽脈気が発する所」と明記された穴も,『甲乙経』と同じである。したがって,臓腑背兪と足の太陽経の直接的な関係は,現在目にする文献では,唐中期にはじめて現われた。しかし,「王燾は,ただ,『甲乙経』の部位別で行〔列〕に従い配列された腧穴を新たに組み合わせただけで」,「その改められた編成の原則は,行〔列〕に従って経には従わないことであり,もともと『甲乙経』で同一の行〔列〕にある穴は,みな一つの組に帰属させた。たとえば,同一の行〔列〕上にある中府・雲門・期門・日月穴は,みな〈脾人〉に帰属させた」[2]。この方法はあまりに粗雑すぎて,腧穴にかかわる経脈帰属が主治の法則を完全には反映できないことは明らかである。それにも関わらず,『外台』のこの背兪の帰経方法が後世にあたえた影響は大きい。宋代の『銅人腧穴鍼灸図経』(巻上)がその例である。
[2] 黄龙祥. 针灸名著集成[M]. 北京:华夏出版社, 1996:1218.
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