2 臓腑背兪と経脈関係における別の理論形式
2.1 臓腑背兪と十二経脈の関連
(1)五臓の背兪と経脈の関係には,一般的な意味の腧穴帰経を除いて,実際にはさらに別の理論形式,すなわち経脈標本がある。その基本的な内容は,経脈は四肢部を本〔ねもと〕とし,頭・身部を標〔こずえ〕として,標と本によって頭・身と四肢の間にある,ある種の上下の関連をたとえており,経脈はこの連係の基礎であり,説明である。その中で,陰経脈と陽経脈では標の部位が異なる。陽経の標はみな頭頸にあり,陰経の標は主に体幹にある。足の三陰経と手の少陰経の標はみな「背兪」(足の太陰経と少陰経の標は舌)に,手の太陰経と厥陰経の標は腋脇にある。これを他の(たとえば根結などの)鍼灸理論と比較して,経脈標本が有する独特な内容は,五臓の背兪と陰脈との関係,すなわち標と本で上下に関連する形式であり,(肺を除く)五臓の背兪がそれぞれ五臓の経脈と対応し,五臓の背兪の主治作用に,対応する経脈が連絡する基礎を提供している。
四気街〔訳注〕の理論では,胸の気街と腹の気街の気は背部ではみな背兪にとどまり,腹部の腧穴とともに「腹痛中満暴脹,及び新積有るもの」〔『霊枢』衛気(52)〕を主治する。背兪について言えば,経脈標本と四気街は,それぞれ経脈と部位という異なる観点からその主治原理を説明している[3]。経脈標本と四気街は,(五臓の)背兪をもっぱら論じているわけではないが,両者はおなじ(『霊枢』衛気〔52〕)篇内にまとめられ,『霊枢』背腧〔51〕の直後にあり,内容の関連や篇の配置から,いずれも編者がこれらの理論を構成する要素として背兪を理解していたこと,もしくはこれらの理論と背兪には密接な関連があると認識していたことを示している。
[3] 赵京生. 气街理论研究[J]. 针刺研究,2013,38(6):502-505.
〔気街:4つあり,「四街」「四気街」ともいう。脈気がめぐる道であり,経脈の気が集まり流れる共通の通路である。『霊枢』衛気(52)に,「胸気に街有り,腹気に街有り,頭気に街有り,脛気に街有り」,『霊枢』動輸(62)に「四街は,気の径路なり」とあり,頭・胸・腹・脛の各部にはみな気の経路があることを説明している。『霊枢』衛気は,「故に気の頭に在る者は,之を脳に止(とど)む。気の胸に在る者は,これを膺と背兪に止む。気の腹に在る者は,之を背腧と衝脈の臍の左右の動脈に于(お)ける者とに止む。気の脛に在る者は,之を気街と承山、踝の上と以下とに止む」という。つまり,経気の頭部にあるものはみな脳につながり,経気の胸部に到るものはみな胸と背兪につながり,経気の腹部にあるものはみな背兪と腹部の衝脈とつながり,経気の下肢に到るものはみな気衝の部につながっている。したがって,これらの部位にあるツボは,その局所と関連する内臓の病変を主治できる以外に,さらに四肢の部分にある疾病も治療できる。(百度百科)〕
したがって,『内経』にはすでに背兪に関する理論形式があり,その中で経脈標本によって確立された背兪穴と諸陰脈との関係は,『甲乙経』『千金方』などの晋唐文献の中に反映され,さらに理論と応用の両方が展開されている。
(2)孫思邈は経脈標本に内包された関係について,標の背兪は本の「応」であり,「応」は四肢と頭・身の上下の部位にある対応する関係を表わしている,と明確に述べている。たとえば『千金要方』に,「厥陰之本在行間上五寸,応在背兪〔宋版:厥陰の本は行間の上伍寸に在り,応は背輸に在り〕」(巻11第1),足の太陰脈は「其脈本在中封前上四寸之中,応在背兪与舌本〔宋版:其の脈の本は中封の前上四寸の中に在り,応は背輸と舌本に在り〕」(巻15第1)とある。さらに進んで,『千金翼方』の「三陰三陽流注法」が十二経脈の要穴を論じて,さらに兪募穴と五兪穴を同列に論じている。たとえば,「肺手太陰:少商・魚際・大泉・列欠・経渠・尺沢,募中府・兪三椎。大腸手陽明:商陽・二間・三間・合谷・陽渓・曲池,募天枢・兪十六椎……」。また「五蔵六腑三陰三陽十二経脈,蔵腑出井・流滎・注兪・過原・行経・入合,募(兪)前後法〔五蔵六腑三陰三陽十二経脈,蔵腑は井に出で,滎に流れ,兪に注ぎ,原を過ぎ,経に行き,合に入る,募(兪)前後法〕」(巻26)という概括的な理論も述べられている。明らかに孫氏は,十二経脈各経の最重要兪穴として,四肢部の五兪穴以外に,さらに体幹部の兪募穴があると考えている。したがって,十二経脈の概念のもとでは,兪募穴はそれぞれ対応する経脈に直接関連づけられ,背兪の本である「応」の形式を経脈帰属性の方式に変換させている。
孫氏にこのような認識が形成されたのは,『内経』の経脈標本に基づくものであり,『脈経』『甲乙経』などの影響もあるはずである(詳細は後述)。その認識過程は,『千金要方』から『千金翼方』へいたる表現の変化から推察することができる。『千金要方』巻29・五臓六腑変化傍通訣〔第4〕の一節は,臓腑に関連する散らばっている内容を,「五蔵経」「六腑経」「五腑輸」「六腑輸」「五蔵募」「六腑募」「五蔵脈出」(=五兪穴)「六腑脈出」(=五兪穴)という名称で(現在の表に類似する形式にして)「纂集して相附」していて,関連する腧穴の内容はすなわち五兪穴と兪募穴である。同巻の三陰三陽流注〔手三陰三陽穴流注法第2上と足三陰三陽穴流注法第2下〕の一節に列記されている十二経脈の腧穴は五兪穴しかない。これを基礎として,『千金要方』を補うために編撰された『千金翼方』の「三陰三陽流注法」〔巻26・取孔穴法第1末〕では,兪募穴を組み入れ,さらに理論化された表現になっている。提示されている背兪と経脈の関係は,本質的な意味において腧穴帰経と同じであり,違うのは形式だけである。後世の医家の多くは孫氏の意図をしっかり理解しておらず,一般に『千金要方』の経脈流注の内容は引用しても,『千金翼方』のこれよりさらに価値がある認識は顕彰されていない。
2.2 関連する経験的根拠と理論的認識
孫氏の上述したような認識と方法の源は,『内経』にあるはずである。
(1)『霊枢』九針十二原〔01〕の「十二原」は,その代表である。これらの穴は手関節・足関節付近にある五臓陰脈の原穴と胸腹部にある鬲の原〔訳注〕および肓の原からなり,みな臓病を主治する。『千金翼方』での十二経の五兪穴に兪募穴を加えた分類法は,これと類似する。病証,とりわけ臓腑病の治療に四肢と体幹部の2つの穴を取る方法は,『内経』にも見える。たとえば腑病の治療には,下肢穴(下合穴等)と腹部穴(肓の原)を取る。「邪在大腸,刺肓之原・巨虚上廉・三里〔邪 大腸に在れば,肓の原と巨虚上廉と三里を刺す〕」。「邪在小腸者……取之肓原以散之,刺太陰以予之,取厥陰以下之,取巨虚下廉以去之〔邪 小腸に在る者は……之を肓の原に取って以て之を散じ,太陰を刺して以て之に予(あた)え,厥陰に取って以て之を下し,巨虚下廉に取って以て之を去る〕」(『霊枢』四時気〔19〕)。腹満と霍乱の治療には,四肢穴と背兪・募穴を取り,「腹暴満,按之不下,取手太陽経絡者,胃之募也,少陰兪去脊椎三寸傍五,用員利鍼。霍乱,刺兪傍五,足陽明及上傍三〔腹暴(にわ)かに満ち,之を按ずるも下らざるは,手の太陽経の絡なる者,胃の募なると,少陰の兪 脊椎を去ること三寸の傍らを五たび取り,員利鍼を用う。霍乱は,兪の傍らを五たび,足の陽明及び上傍を三たび刺す〕」(『素問』通評虚実論〔28〕)。『内経』時代の,このような治療のための用穴基準を理論的にまとめたものは,五臓の陰経からはじまり,おもに2つの形式がある。1つは臓病を治療する四肢の穴と腹部の穴を一緒にまとめる,すなわち「十二原」である。もう1つは経脈標本の陰経の標本である(体幹部の腧穴では,両者には軽重があり,1つは前で1つは後。その中の鬲の原と肓の原は胸腹臓腑の主治穴として,精錬して分類され,募穴が生み出された始まりとしての意義を有する可能性がある)。
〔鬲の原:『太素』巻21 九鍼之一・諸原所生に「鬲之原出于鳩尾,鳩尾一,肓之原出于脖胦,脖胦一」(『霊枢』九針十二原(01)は「鬲」を「膏」に作る)とある。趙京生主編『针灸学基本概念术语通典』(人民衛生出版社,2014年,276頁)「鬲肓」を参照。また「何以“膏肓”一误再误?」(http://www.360doc.com/content/16/1210/16/7288840_613561457.shtml),李鼎『鍼灸学釈難』(浅野周訳)問76:「膏肓」という名の変遷と,この経穴の名前の意味は何か? を参照。〕
(2)『難経』が論じている3種類の腧穴においてすら,五兪穴と兪募穴はその2つを占めている(もう1つは八会穴)。
(3)その後,漢代の著作と考えられている『黄帝蝦蟆経』は,五臓の「募輸」及び陰脈の四肢穴の鍼刺禁忌日を論述して,「四時五蔵王日,禁之無治〔四時五蔵の王日(=旺日)は,之を禁じて治すること無かれ〕」としている。たとえば,本書の第5には,「五蔵属五神日:春肝,王甲乙日,無治肝募輸及足厥陰。夏心,王丙丁日,無治心募輸及心主、手小陰。四季脾,王戊己日,無治脾募輸及足太陰。秋肺,王庚辛日,無治肺募輸及手太陰。冬腎,王壬癸日,無治腎募輸及足小陰〔五蔵属五神日:春は肝,甲乙の日に王ず,肝の募輸及び足の厥陰を治すること無かれ。夏は心,丙丁の日に王ず,心の募輸及び心主と手の小陰を治すること無かれ。四季は脾,戊己【原文は「已」に誤る】の日に王ず,脾の募輸及び足の太陰を治すること無かれ。秋は肺,庚辛の日に王ず,肺の募輸及び手の太陰を治すること無かれ。冬は腎,壬癸の日に王ず,腎の募輸及び足の小陰を治すること無かれ〕」とある。その「肝の募輸」などの五臓の名前に募輸を加えた表現の仕方は『素問』奇病論〔47〕に見える。曰わく:「胆虚気上溢而口為之苦,治之以胆募兪,治在『陰陽十二官相使』中〔胆虚して気は上溢して,口 之が為に苦し,之を治するに胆の募兪を以てす。治は『陰陽十二官相使』中に在り〕」(注:「胆の募兪」について,楊上善は胆の募穴 日月と考え,王冰は胆の募穴と背兪と考えている。按ずるに『内経』では六腑に背兪穴がないことは,前述したとおりであるので,楊注に従うべきである。『陰陽十二官相使』について,王冰は注して「今経已に亡ぶ」という。『甲乙経』巻3〔第19〕にある胃の募 中脘穴の注に「呂広撰『募腧経』」とある。呂広は三国時代の呉の人である。また,「募輸」は募穴と背兪穴を意味するというのは,『内経』の注釈書以外では,主に明清の医書に見られる)。『黄帝蝦蟆経』が論じているもの(体幹穴と四肢穴にある運用上の関連性)は,兪募穴とそれに対応する臓腑経脈の内在的〔=本来備わっている,固有の〕関係を示している。
(4)『脈経』は臓腑の基本的な内容と脈法を論じているが,そこで言及されている唯一の腧穴は兪募穴である。たとえば巻3〔第1〕に「肝象木,与胆合為府。其経足厥陰,与足少陽為表裏……肝兪在背第九椎,募在期門;胆兪在背第十椎,募在日月〔肝は木を象(かたど)る,胆と合して府と為す。其の経は足の厥陰,足の少陽と表裏を為す……肝兪は背の第九椎に在り,募は期門に在り。胆兪は背の第十椎に在り,募は日月に在り〕」とある。臓腑経脈病症を論じて,五臓の病の治療では,対応する経脈の五兪穴と兪募穴を取穴する。たとえば巻6〔第1〕には,「肝病,其色青,手足拘急,脇下苦満,或時眩冒,其脈弦長,此為可治。宜服防風竹瀝湯,秦艽散。春当刺大敦,夏刺行間,冬刺曲泉,皆補之。季夏刺太衝,秋刺中郄,皆瀉之。又当灸期門百壮,背第九椎五十壮〔肝の病,其の色は青,手足拘急し,脇下苦満し,或いは時に眩冒す,其の脈 弦長なれば,此れ治す可しと為す。宜しく防風竹瀝湯,秦艽散を服すべし。春は当(まさ)に大敦を刺し,夏は行間を刺し,冬は曲泉を刺して,皆な之を補うべし。季夏は太衝を刺し,秋は中郄を刺し,皆な之を瀉す。又た当に期門に百壮,背の第九椎に五十壮灸すべし〕」(注:六腑の病は,『霊枢』によって,主に下合穴を取る)とあり,提示されている五臓病に対する選穴には,一定の規範と原則が含意されている。
(5)『甲乙経』は臓腑の脹を治療するために用いる腧穴を掲載している。五臓の脹はみな対応する背兪穴と原穴(心臓を除く),すなわち背兪穴に四肢穴を加えたものである(六腑の脹にはやや乱れがあるが,多くは募穴である)。たとえば巻8第3の五臟六府脹には,「心脹者,心兪主之,亦取列欠。肺脹者,肺兪主之,亦取太淵。肝脹者,肝兪主之,亦取太衝。脾脹者,脾兪主之,亦取太白。腎脹者,腎兪主之,亦取太渓……〔心脹は,心兪之を主(つかさど)り,亦た列欠を取る。肺脹は,肺兪之を主り,亦た太淵を取る。肝脹は,肝兪之を主り,亦た太衝を取る。脾脹は,脾兪之を主り,亦た太白を取る。腎脹は,腎兪之を主り,亦た太渓を取る……〕」とある。五臓の原穴の多くは手関節・足関節の付近に位置し,これらの部位は経脈の本が所在する範囲でもある。したがって,五臓の脹に背兪穴と原穴を取穴する方法は,陰経の標と本を具体的に運用したものと見なすことができる。
(6)南北朝時代の『産経』[4]の逐月養胎の中には,このような十二経脈にしたがって兪募穴と四肢穴を記述する形式もある。「夫婦人妊身,十二経脈主胎,養胎当月不可針灸其脈也〔夫(そ)れ婦人 妊身すれば,十二経脈 胎を主る,胎を養うに月に当たれば其の脈に針灸す可からず〕」(『医心方』巻22・妊婦脈図月禁法に見える)。言及されている10本の経脈(手の少陰と太陽の経はない)の穴は,みな該当する経の四肢部の穴に兪募穴を加えたもので(兪募穴の前に「又」字があり,四肢の穴とは区別されている),全体としては兪募穴をそれぞれ対応する臓腑の経脈に組み込む形式になっている。たとえば,「肝脈穴,自大敦上至陰廉,各十二穴。又募二穴,名期門;又輸二穴,在脊第九椎節下両旁,各一寸半〔肝脈の穴は,大敦自(よ)り上りて陰廉に至るまで,各十二穴。又た募二穴,期門と名づく。又た輸二穴,脊の第九椎節下の両旁,各一寸半に在り〕」とある。その表現の仕方は『脈経』に似ているが,言及されている四肢部の腧穴は,五兪穴だけでなく,すべての腧穴である。内容的にも形式的にも,兪募穴が十二経に帰属するという意味は明確であるが,経脈腧穴の発展過程においては,めったに見られないものである。
[4] 张志斌.古代中医妇产科疾病史[M].北京:中医古籍出版社,2000:40.
(7)十二経脈と臓腑背兪の間にある関係の基礎について,楊上善は経脈の循行連係として理解している。たとえば足の厥陰の根結を,「厥陰先出大敦為根,行至行間上五寸所為本,行至玉英・膻中為結,後至肝輸為標〔厥陰は先ず大敦に出でて根を為し,行(めぐ)りて行間の上五寸所(の所(ところ)/所(ばかり))に至りて本を為し,行りて玉英と膻中に至りて結を為し,後に肝輸に至りて標を為す〕」(『太素』巻10・経脈根結)と解釈している。
これらの応用と理論は,のちの『千金翼方』に見られる十二経の五兪穴に兪募穴を加えた分類方法の基礎であったはずで,孫思邈が実際に応用することから始めて,精錬して腧穴と経脈との関係を一種の革新的な理論形式でまとめたものである。
2.3 断続的な認識
臓腑背兪とそれに対応する十二経脈を直接関連づけた形式は,経脈標本に基づいて発展した腧穴理論の一つであり,足の太陽経に臓腑背兪を関連づけただけのものよりも,臨床の指針として勝(まさ)っている。しかしながら,この極めて価値のある認識に,唐以後しかるべき反応はほとんどなかった。たとえば,宋代の『銅人腧穴鍼灸図経』巻下にある「傍通十二経絡流注孔穴図」は,五兪穴に触れるだけであり,『鍼灸資生経』が掲載する体幹部の腧穴は,数穴(乳中・府舍・関元など)を除いて,経脈との関連には言及がない。明代の『鍼方六集』巻1〔神照集〕・手足三陰三陽流注総論一は,各経脈の起止穴である。唯一『経穴指掌図書』〔施沛編纂。封面には「経穴指掌図書」とあるが,叙は「経穴図書」,凡例・目録・巻頭はみな「経穴指掌図」に作る。なおこの書と対になる『蔵府指掌図書』は,凡例・目録・巻頭はみな「図書」に作る〕には,「十二経背兪腹募図」があるが,「十二経井滎腧原経合及動脈別絡根結図」と2つの表に分かれていて,『千金翼方』では経脈に帰属する意味が明確であったのには,形式としてはるかに及ばない。つまり,『内経』での陰経の標という認識構想は,唐代まで継続して発展したが、その後はほぼ中断したのである。
近代になって,背兪穴と十二経脈の関係は,また次第に注目されるようになった。代表的なものをあげれば,20世紀の20~30年代の日本の鍼灸家は,臓腑背兪と対応する十二経脈は通じていると考えて,主穴として用いて各種の病症を治療している。代田文誌が著わした『沢田流見聞録:鍼灸真髄』には,代田の師である澤田健の経験が記述されている[5]。小腸兪に灸すると上腕の神経痛が即座に止まり,「小腸兪と手の太陽小腸経には密接なつながりがある」と考え,「経絡と経穴」の関係では,肺兪・厥陰兪・心兪などの穴をそれぞれ肺経・心包経・心経などに記入し,「兪と募と経のつながり」として説明している。その後,長濱善夫らは,感覚の敏感な患者に対する鍼刺反応について,かなり系統的な観察をおこない,兪募穴には「それぞれ,その本来の経絡と相当な関係があるらしい」と考えた。臓腑背兪に刺鍼したときに生ずる感覚は,局部以外では,対応する臓腑の経脈の四肢末端部にも現われた[6]。この影響を受けて,我が国の孟昭威ら[7]は,13例の経絡敏感人をあいついで観察し,程度に違いがあるものの,臓腑背兪が「背兪と同名の経に達する」「感伝」があらわれた。たとえば,「肺兪に刺鍼すると感伝線が肺経に沿って母指に達し,心兪に刺鍼すると感伝線が心経に沿って小指に達した」。郭原[8]にも類似の報告がある。陳連芝ら[9]の報告では,指/趾痛(拇指/趾と小指/趾痛が最も多い)に対して,まず「痛む指(趾)が所属する経絡に対応する背兪穴を主穴として取り,所属する経絡の他の一端,すなわち起止穴を配合穴とする。たとえば,拇指痛には肺兪を主穴として取り,中府を配合穴とする」と,良好な効果が得られ,「背兪穴と四肢の関節には内在的な〔=本来備わっている,固有の〕つながりがあるので,指趾痛ではしばしば背兪穴に陽性反応がある」と考えた。
[5] 代田文志,泽田派见闻录:针灸真髓[M] ·承淡安,承为奋译. 南京:江苏人民出版社,1958;43,79-80.
[6] 长滨善夫,丸山昌朗. 经络之研究[M]. 承淡安译. 上海:千顷堂书局,1955:30-31.
[7] 孟昭威,李人明,孙东. 背部俞穴和十二经的关系-膀胱经是十二经的核心[J]. 针灸学报,1985(1 ):16-20.
[8] 郭原. 背俞穴感传的临床研究[J]. 辽宁中医杂志,1990 (4):35-37.
[9] 陈连芝,王振林. 针刺背俞穴为主治疗指趾痛[J]. 中国针灸,1999,19(12):754.
これらの臨床治験と関連研究は,前人の認識の再発見に属し,唐以前にあった背兪穴に関する理論的価値に一定程度,証拠を提供するものである。
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