2010年11月17日水曜日

6-3 一灸万全

6-3一灸万全
武田科学振興財団杏雨書屋所蔵(乾3633)
オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』6所収
 句点をうつ。破損のため読めない字を●であらわす〔おそらく「つ」であろう〕。一部の読みに自信なし。繰り返し記号(「く」を伸ばしたもの)は、「々」にかえた。合字の「コト」は「こと」とした。一部、カタカナでフリガナをつけた。

上一灸萬全并衞生覽要表
草莽の臣松本元泰、誠恐誠惶謹言、臣往年
太守公の浪華を過て始て入國し給ふとき、臣
等故國の   君公にしあれは、山妻とともに
難波橋の傍に伏て、其儀衞の齋整なる
  一ウラ
を縱觀する事を得たり、且   公の神武
ならせ給ふを仰き奉り、心中の驚喜かきりなし、
歸家の路すがら、山妻謂臣曰、「妾、今日かたしけ
なくも   君公を拝し奉り、竊に謂らく、
公上幼年にいますといへども、威德自から外にあら
  二オモテ  87
はるヽ事、賤妻等が申もなか々恐れあり、是れ
則ち闔國の大幸、ひとり賤妻等の幸ひのミに
あらず、但その無病にして、長壽ならせ給はんことを
祈るのミ、妾甞聞、漢土の神仙ハ不老不死の藥を
製すと、其遺方、今尚傳へなきにもあるべからず、良
  二ウラ
人幸に醫を業とす、請、その藥を探索して、今
の  公へ奉らば、無病長壽ならせ給ふこと疑なし」
と、臣曰、「汝、なんぞ言の愚なる、凡そ王侯貴人ハ、万一不
豫ならせ給ふなどのときは、則ち藩中に典藥の
宦あり、又其及ばさる所ある時は、普く諸方良醫を
  三オモテ  89
延請し、衆議を盡して、之を治し給ふ、豈草莽の
者の間然すべきことあらんや、且また不老不死の藥
の如も、其真にこれありと云にはあらず、秦の始皇、
漢の武帝に觀て見べし、假令これあるも、何そ臣輩
のあづかりしる所ならんや」と、嚴くこれを諭せし
  三ウラ
が、山妻曰、「しからば養生の訓を綴りて、これを奉らば、
いかん、妾又竊に聞、凡王侯貴人ハ、平生四體を勤め
玉わずして、或酒味色に過度し給ふもの多し、是
を以て、多く疾病を生し給ふことありと、疾病生れ
バ、いかに禀賦強健なりといへども、天壽を全ふする
  四オモテ  91
ことかたし、又貝原先生遺訓とて、『人の命ハ我にあり、
天にあらずと、老子いへり、人の命はもとより、天にうけ
て、生れ付たれども、養生よくすれば長し、養生
せされば短かし、長命ならんも短命ならんも、
我か心のまヽなり、身つよく長命に生れ付たる人
  四ウラ
も養生の術なかれは、早世す、虚弱にて短命な
るべきと見ゆる人も、保養よくすれば、命長し、是
皆人のしはざなれば、天にあらず、といへり、もし
すくれて、天然ミちかく生れ付たること、顔子などの
ごとくなる人にあらずば、己か養のちからによりて、長
  五オモテ  93
生するは理なり、たとへば火をうつミて、爐中
に蓄へば、久しくきえず、風吹所にあらはしおけ
ば、たちまちきゆ、蜜橘をあらはにおけば、とし
の内をもたもたず、もしふかく藏し、よく蓄へば、
夏までたもつが如し』となり、此に由て之を
  五ウラ
考ふれば、人よく常に養生をよくせば、必天
壽をたもたずといふことなし、良人、今其養生
訓を綴り、奉らは  公の壽康ならせ給わ
んこと疑なからん、はや々綴り奉るべし」と、臣曰、「汝が
寸心取へきに似たれども、汝か淺計、却て笑に堪た
  六オモテ
り、いかんとなれば  公の左右には、明臣良佐、常
に濟々たれば、豈秋毫の盡さざることあらんや、其
養生訓の如きも、古今先哲、既に盡せり、豈更に我
輩の贅することあらんや、汝且(シバラク)聒することなかれ、
我亦聽に堪へず」と、嚴しく之を呵責せしに、猶勤
  六ウラ
ば、獨語して曰、「妾をして醫をしらしめば、必良術
のなきにしもあるべからず」と、日夜に垂首して舎(ヤマ)ず
臣よつて一日按るに、臣が弱冠の頃、後藤某なる者、我
に不老不死の灸法を授しことあり、臣、原來これ
を實地に試るに、其効赫々たり、因て此一灸萬全の
  七オモテ  97
書を編ミ、捧げ奉らばやと、其一二をかたりければ、
山妻大悦し、「しかる良術のあるを何そ、妾がすヽめを
まち給ふや、急々其書を捧け奉るべし、然るに
公君、其灸効をたのミ給ふて、萬一また養生に
怠り給ふことあらば、譬は右に玉を執て、左りに是
  七ウラ
を捨給ふがごとし、亦何の裨益し給ふことかあらん、
良人、前にいふ、  公に明臣良佐濟々たれは、秋
毫の盡ざるなしと、しかれども妾按るに、凡君臣の
間、必恐れ憚の意あらん、是を以て瑣々たる末節
までは一々勝(アゲ)て諫べからず、しかる時ハ、所謂積で
  八オモテ  99
大を成もはかりがたし、養生訓の如きも、先哲既に
盡せりといへども、卷帙洪大  公、豈これを
逐一閲し給ふの暇あらんや、今良人就中(なかんずく)、尤卓見
なる者をゑらみ、繕修補綴して、以て一本に約し、
是をして一覽了然たらしめば、はやく其意を解釋
  八ウラ
し給ひ、自ら厚く守り給はん」と、臣謂へらく、「山妻が言、
其理なきにしもあらず、殊に養生は、酒味色を以て
切務とすれば、其行ひ專ら其人にありて、傍人
の毎事に制すべきにあらず、況や君臣の間に於
をや、しからば、別に其書を編輯するも、亦一補
  九オモテ  101
あらん」、こヽにおひて畧衆説を徧閲せしに、特貝原
益軒氏、及ひ香月牛山氏等の養生を盡せり、
臣、因て今兩家のゑらむ所に就て、其實地に徴し、益
ある説のミを捃摭し、且諸家の傑説、及ひ臣が愚
按などを附て、一本となし、題して衞生覽要と名
九ウラ
●く、遂に淨書して  公へ奉らんと欲す、伏て
冀は清間を以て、左右の明臣良醫に議せしめ、
或之を行ひ給はヽ(゛)、萬壽無疆は山嶽に等しからん、
伏冀は仁明恕察し給ひて  威尊を瀆冒
するの罪を深く咎給ふことなかれ、亦唯臣が老婆
十オモテ  103
心のミ、而てこの書、高貴へ奉るの法にあらずして、國
字を雜へ、并に傍訓を加ふる者は、普く故國の朝
野にも波及せしめ、婦女子までもよみやすからんこと
を希望すればなり、かくいふとしは、弘化二年乙巳
季夏吉旦、大坂堂嶋中街北滇堂に於て草莽
  十ウラ
の臣、松本元泰、誠恐恐惶謹白


 【注釋】
○草莽:田野。郷土に退居し、官についていない。 ○山妻:自分の妻の謙称。 ○儀衞:儀仗と衛士。 ○縱觀:思うがままに見る。 ○神武:英明にして勇武。 ○公上:君公。 ○闔國:全国。 ○不豫:貴人の病をいう。不例。 ○間然:欠点をついてあれこれと批判・非難すること。 ○四體を勤め:『論語』微子「四體不勤、五穀不分、孰為夫子(四體勤めず、五穀分たず、孰(たれ)をか夫子と為す)」。 ○禀賦:稟賦。ひとの天からさずかった資質。 ○貝原先生:1630-1714。益軒。江戸時代前期-中期の儒者、本草家、教育家。寛永7年11月14日生まれ。貝原寛斎の5男。筑前(ちくぜん)福岡藩主黒田光之につかえ、京都に遊学。寛文4年帰藩。陽明学から朱子学に転じるが、晩年には朱子学への疑問をまとめた「大疑録」もあらわす。教育、医学、本草などにも業績をのこした。正徳(しょうとく)4年8月27日死去。85歳。名は篤信。字(あざな)は子誠。通称は久兵衛。別号に損軒。著作はほかに「大和本草」「養生訓」「和俗童子訓」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説) ○遺訓:『養生訓』のこと。引用は卷一総論上に見える。 ○顔子:孔子の弟子、顔回。 ○寸心:心中。 ○良佐:賢い補佐。 ○濟々:陣容の盛大なるさま。 ○秋毫:秋に生え替わる鳥獣の細毛。後に微細なものの比喩。 ○聒:耳をさわがす。 ○垂首:首を垂れる。意気消沈したさま。 ○後藤:後藤艮山の系統か。 ○香月牛山:1656-1740。生年:明暦2(1656)。没年:元文5・3・16(1740・4・12) 江戸中期の医者。名は則真、字は啓益、牛山は号。貞庵、被髪翁とも号す。豊前国(福岡県)中津の人。のち筑前に移り、貝原益軒に儒学を、鶴原玄益に医学を学んだ。中津藩の医官として仕えたが、これを辞し京都に出て二条に医業を開いた。その医流は中国の金元時代の流れをくむいわゆる後世派に属し、当時の後世派医家の代表と目された。著書には『老人必要養草』『薬籠本草』『婦人寿草』『巻懐食鏡』などがある。生涯独身で子がなく、甥の則貫を養嗣としたが、則貫は牛山に先だって没したため、門人の則道を養嗣とし、香月家を継がせた。 (平野満) 朝日日本歴史人物事典。/『小児必用養育草』を著す。 ○弘化二年乙巳:1845年。 ○老婆心:〔仏語。年とった女性が必要以上に気を遣うことから〕自分の心遣いを、度を越しているかもしれないが、とへりくだっていう語。 ○季夏:旧暦六月。 ○松本元泰:1790-1883。江戸後期-明治時代の医師。寛政2年生まれ。大坂にでて医学を、さらに頼山陽(らい-さんよう)の門で漢学を、長崎で西洋医学をまなび、大坂堂島で開業。嘉永(かえい)3年郷里の伯耆(ほうき)(鳥取県)米子にかえり、牛種痘の普及につとめた。明治16年死去。94歳。著作に「一灸万全」、編著に「衛生覧要」。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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