2010年11月16日火曜日

6-1 鍼道發秘

6-1鍼道發秘
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『鍼道發秘』(シ・五八九)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』6所収

  一オモテ
鍼道發秘序
醫有十三科鍼居其一焉夫疾病之初發也
大抵可鍼刺而已其既盛也可以湯藥治之
也鍼刺葢因輕揚之因重減之因衰彰之故
曰善用鍼者從陰引陽從陽引陰以右治左
以左治右以我治彼以表知裏以觀過不及
之理其從引左右彼我表裏及補瀉之術必
  一ウラ
有至理精蘊而存焉不然則焉得有若龎安
時診桐城孕婦七日不産而鍼其虎口使縮
手而遽下甄權治魯州刺史庫狄嶔風痺不
得挽弓針肩髃即可射者哉扁之言曰得之
於手而應於心口不能言有數而存焉於其
間可謂至言矣鍼之徃來刺之淺深進退遲
速動靜緩急如魚鼈之觸鈎若鳥銃之發炮
  二オモテ
通身貫徹手足瞤動譬諸良將布陣機會交
投矣葦原英俊幼而喪明研精鍼刺若練九
鍼尤工於毫鍼員利三稜等之術也是以王
侯大人固勿論焉士農工商之就於家而請
治者日以百數焉今茲辛卯夏著鍼道發秘
齎來乞序於余ヒ語之以謝肇淛之言曰古
之醫皆以鍼石灸炙為先藥餌次之今世灸
  二ウラ
艾唯施之風痺急卒之症鍼者百無一焉世
之專此技者苟讀斯書而知其有至理精蘊
也則鍼道復古我於發秘而見之英俊曰謹
奉教因書為序
天保二年重光單閼秋七月

東都醫官 岡本玄冶叔保撰  〔黒字「橘藏/之印」、白字「字曰/叔保」の印形〕



読み下し
醫に十三科有り。鍼、其の一に居す。夫れ疾病の初めて發(おこ)るや、
大抵、鍼刺して已(い)やす可し。其の既に盛んなるや、湯藥を以て之れを治す可し。
鍼刺は、葢し輕に因って之を揚げ、重に因って之を減ず。衰うるに因って之を彰す。故に
曰く、善く鍼を用いる者は、陰從り陽を引き、陽從り陰を引き、右を以て左を治し、
左を以て右を治し、我を以て彼を治し、表を以て裏を知り、以て過不及
の理を觀す。其の從引左右、彼我表裏、及び補瀉の術、必ず
  一ウラ
至理精蘊有りて存す。然らずんば(則ち)焉んぞ龎安
時、桐城の孕婦、七日産せざるを診して、其の虎口に鍼し、
手を縮せしむれば、遽かに下り、甄權、魯州刺史庫狄嶔、風痺
弓を挽くことを得ざるを治するに、肩髃に針して即ち射る可き若き者を有るを得んや。扁の言に曰く、之を
手に得て、心に應じ、口、言うこと能わず、數有りて其の
間に存す、と。至言と謂っつ可し。鍼の往來、刺の淺深、進退遲
速、動靜緩急、魚鼈の鈎に觸るるが如く、鳥銃の炮を發するが若し。
  二オモテ
通身貫徹、手足瞤動、諸(これ)を良將の陣を布くに譬うれば、機會交(こも)ごも
投ずるがごとし。葦原英俊、幼にして明を喪い、鍼刺を研精し、若く九
鍼を練し、尤も毫鍼、員利、三稜等の術に工(たくみ)なり。是(ここ)を以て王
侯大人は固(もと)より論勿し、士農工商の家に就いて
治を請う者、日に百を以て數う。今茲辛卯の夏、『鍼道發秘』を著し、
齎(もたら)し來たって、序を余に乞う。余、之に語るに、謝肇淛の言を以て、曰く、「古
の醫は、皆、鍼石灸炙を以て先と為し、藥餌は之に次ぐ。今世は灸
  二ウラ
艾唯だ之れを風痺急卒の症に施し、鍼する者は百に一無し」、と。世
の此の技を專らにする者、苟も斯の書を讀みて、其の至理精蘊有るを知らば、
(則ち)鍼道の古に復すること、我れ發秘に於いて之を見る。英俊曰く、「謹みて
教えを奉ず」、と。因りて書して序と為す。
天保二年重光單閼秋七月

東都醫官 岡本玄冶叔保撰


【注釋】
○醫有十三科:『元史』卷一百三 志第五十一 刑法二 學規:「諸醫人於十三科內、不能精通一科者、不得行醫。」 ○葢:「蓋」の異体字。 ○因輕揚之……:『素問』陰陽応象大論(05)「病之始起也、可刺而已。……故因其輕而揚之、因其重而減之、因其衰而彰之。」 ○故曰:陰陽応象大論:「故善用鍼者、從陰引陽、從陽引陰、以右治左、以左治右、以我知彼、以表知裏、以觀過與不及之理、見微得過、用之不殆」。
  一ウラ
○龎安時:『宋史』卷四百六十二 列傳第二百二十一 方技下:「龐安時字安常、蘄州蘄水人……嘗詣舒之桐城、有民家婦孕將產、七日而子不下、百術無所效.安時之弟子李百全適在傍舍、邀安時往視之.纔見、即連呼不死、令其家人以湯溫其腰腹、自為上下拊摩.孕者覺腸胃微痛、呻吟間生一男子.其家驚喜、而不知所以然.安時曰:「兒已出胞、而一手誤執母腸不復能脫、故非符藥所能為.吾隔腹捫兒手所在、鍼其虎口、既痛即縮手、所以遽生、無他術也.」取兒視之、右手虎口鍼痕存焉.其妙如此」」。また宋 張杲『醫説』卷二鍼灸にも見える。 ○甄權:『舊唐書』卷一百九十一 列傳第一百四十一 方伎:「甄權、許州扶溝人也.……隋魯州刺史庫狄嶔苦風患、手不得引弓、諸醫莫能療、權謂曰:「但將弓箭向垛、一鍼可以射矣.」鍼其肩隅一穴、應時即射.權之療疾、多此類也」。また宋 張杲『醫説』卷二鍼灸にも見える。 ○扁之言曰:『莊子』天道:「輪扁曰:“臣也、以臣之事觀之。斲輪、徐則甘而不固、疾則苦而不入。不徐不疾、得之於手而應於心、口不能言、有數存焉於其間。臣不能以喻臣之子、臣之子亦不能受之於臣、是以行年七十而老斲輪。古之人與其不可傳也死矣、然則君之所讀者、古人之糟魄已矣。”」。 ○徃:「往」の異体字。 ○魚鼈:魚とスッポン。広く水中に棲む生物を指す。 ○鈎:「鉤」の異体字。釣り針。 ○鳥銃:鳥嘴銃。鳥槍。銃の一種。近くの鳥なら粉砕され、やや離れたところの鳥はやっと原型をとどめる、ということで命名された。殺傷力が強い。 ○發炮:発砲に同じ。
  二オモテ
○通身:全身。 ○貫徹:貫通。通じて。 ○瞤動:ぴくぴく動く。 ○機會:適当な時機。 ○葦原英俊:寛政九(1797)四月十一日~安政四年(1857)一月二十四日。文政四年(1821)検校。天保三年(1832)法眼となり、葦原玄道と改めた。本姓は木曾氏。幼名は酒造太郎。名は義長。剃髪して英俊と改めた。(大浦慈觀、町泉寿郎兩先生による) ○幼而喪明:七歳のときに失明。 ○研精:緻密に研究する。 ○王侯大人:跋文を参照。 ○就:おもむく。今茲:ことし。 ○辛卯:天保二年(1831)。 ○謝肇淛:明のひと。『五雜組(五雜俎)』十六卷を著す。清代は禁書となった。 ○言曰:『五雜組』卷五:「古之醫、皆以針石灸艾為先、藥餌次之。今之灸艾、惟施之風痹急卒之症、針者百無一焉、石則絕不傳矣。」 
  二ウラ
○天保二年:1831年。辛卯年。 ○重光:辛の異名。 ○單閼:卯の異名。 ○東都:江戸。 ○醫官:幕府の医師。 ○岡本玄冶叔保:八世、法印崇室。叔保は字。(横田觀風先生による)初代は、天正(てんしょう)15年生まれ。曲直瀬玄朔(まなせ-げんさく)にまなぶ。元和(げんな)9年将軍徳川秀忠の侍医となり、のち将軍徳川家光の病をなおし、1000石の領地をえる。京都と江戸を往復、京都にいるときは天皇を診療した。正保(しょうほ)2年4月20日死去。59歳。京都出身。名は宗什、諸品。号は啓迪院。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)橘は、姓。
葦原検校英俊一系出於木曾義仲義仲十
九世孫曰義昌豊大閤時移封於下總阿知
戸食邑一萬石其子曰義利有故國除義利
六世孫曰義忠不事諸侯以劔法教授焉其
子忠大夫義富繼業遊歷諸國文化元年卒
于東都是英俊一之父也英俊幼而頴悟七
  一ウラ
歳喪明冒葦原氏以鍼醫為業深造其妙遊
事於松代侯賜月俸二十口謁尾紀二公又
應 儀同公及德川兵部卿之召他列侯貴
戚之請治療者不可勝數也居恆慨然歎世
醫之不熟鍼術而多誤人命矣今茲天保辛
卯夏著此書來乞言余曰醫之不熟術者臨
於死生緩急之地坐見其死草根木皮亦無
  二オモテ
所施矣若夫魏安行妻風痿十年不起王克
明一針而動履如初朱彦修治女子之病衆
患皆除唯頰丹不滅葛可久刺乳立消則術
妙皆入於神境矣是以軒轅岐伯娓娓論而
不置焉世醫之讀此書苟得肯綮焉則譬猶
射者交射矢鋒相觸墜於地而塵不揚御者
取道致遠氣力有餘未甞覺山谷之嶮原隰
  二ウラ
之夷視之一也鍼道發秘於是乎出焉英俊
甞建碑於粟津使余記祖先之事蹟焉因書
為跋

東都    信齋井田寛仁甫撰
読み下し
葦原検校英俊一は、系、木曾義仲に出づ。義仲十
九世の孫を義昌と曰う。豊大閤の時、封を下總阿知
戸に移す。食邑一萬石。其の子を義利と曰う。故有り、國除く。義利
六世孫を義忠と曰う。諸侯に事えず。劔法を以て教授す。其の
子忠大夫義富、業を繼ぎて諸國に遊歷す。文化元年、
東都に卒す。是れ英俊一の父なり。英俊幼にして頴悟、七
  一ウラ
歳、明を喪う。葦原氏を冒す。鍼醫を以て業と為す。深く其の妙に造(いた)る。
松代侯に遊事して、月俸二十口を賜う。尾紀二公に謁し、又
儀同公及び德川兵部卿の召に應ず。他の列侯貴
戚の治療を請う者、勝(あ)げて數う可からざるなり。居恆慨然として世
醫の鍼術に熟せず、而して多く人命を誤ることを歎ず。今茲天保辛
卯の夏、此の書を著し、來たって言を乞う。余曰く、醫の術に熟せざる者は、
死生緩急の地に臨んで、坐ながら其の死を見る。草根木皮も、亦
  二オモテ
施す所無し。夫(か)の魏安行の妻、風痿十年起たず、王克
明、一たび針して、而して動履、初めの如く、朱彦修、女子の病を治するに、衆
患皆除くも、唯だ頰丹滅せず、葛可久、乳に刺して立ちどころに消するが若きは、則ち術の
妙、皆(とも)に神境に入ればなり。是(ここ)を以て軒轅岐伯、娓娓として論じて
置かず。世醫の此の書を讀みて、苟も肯綮を得るときは、(則ち)譬えば猶お
射者交ごも射て、矢鋒相い觸れ、地に墜つるも塵揚らず、御者
道を取って遠を致し、氣力餘り有り、未だ嘗て山谷の嶮、原隰
  二ウラ
の夷を覺えず、之を視ること一なるがごときなり。鍼道發秘、是(ここ)に於いて出づ。英俊
嘗て碑を粟津に建つ。余をして祖先の事蹟を記せしむ。因って書して
跋と為す。

東都    信齋井田寛仁甫撰
【注釋】
○葦原検校英俊一:以下、横田観風著『新版 鍼道発秘講義』(日本の医学社、二〇〇六年、大浦慈観、町泉寿郎論文)を引用する。補足するのみ。 ○木曾義仲:源義仲(みなもとのよしなか)の通称。久寿1(1154) ~元暦1.1.20(1184.3.4)。平安時代末期の武将。源為義の子義賢の次男。(杉橋隆夫)『朝日日本歴史人物事典』の解説から ○義昌:木曾義昌(天文9(1540)~文禄4.3.17(1595.4.26))。安土桃山時代の武将。信濃国(長野県)木曾の領主義康の子。伊予守、左馬頭。弘治1(1555)年に甲斐(山梨県)の武田信玄に下り、その娘を妻とした。武田氏のもとで支配域を拡大し、木曾郡全域を領した。武田氏に衰えがみえ始めると、いち早く織田信長に内通する。天正10(1582) 年2月これを知った武田勝頼の軍が木曾に攻めてくると、織田信忠の援軍を得て鳥居峠で破った。同年3月信長から安曇・筑摩両郡を加増されたが、6月に信長が死んだため実際の支配はできず、2郡の領有を小笠原貞慶と争うことになる。同18年の小田原攻めののちは徳川家康の関東移封に従い、下総の海上郡に1万石を領して網戸(千葉県旭市)に居館を構えた。山梨県では裏切り者とされ、木曾では勇敢な領主とされるが、小領主として戦国時代を泳ぎ渡った典型的な人物である。なお、没した日を13日とする説もある。<参考文献>『岐蘇古今沿革志』『木曾福島町史』 (笹本正治)『朝日日本歴史人物事典』の解説。 ○豊大閤:豊臣秀吉。天文6.2(1537)~慶長3.8.18(1598.9.18)。安土桃山時代の武将。(林屋辰三郎)『朝日日本歴史人物事典』の解説から ○下總:現在の千葉県北部と茨城県の南部にあたる。 ○阿知戸:あじと。 ○食邑:領地。 ○義利:1577‐1639。織豊時代の武将。天正(てんしょう)5年生まれ。木曾義昌(よしまさ)の長男。母は武田信玄の娘真竜院。天正18年下総(しもうさ)蘆戸(あじと)(千葉県)1万石をつぐ。慶長5年関ケ原の戦いで石田三成方につき、所領没収、追放となった。叔父木曾義豊を殺害したためともいわれる。寛永16年死去。63歳。通称は仙三郎。講談社デジタル版 『日本人名大辞典』+Plusの解説より ○有故國除:上文を参照。 ○義忠:天明二年没。『新版』335頁。 ○不事諸侯:大名に仕官しない。浪人。 ○忠大夫義富:未詳。 ○文化元年:一八〇四年。 ○卒:死亡する。 ○東都:江戸。 ○頴悟:穎悟。聡明なることひとに過ぐるをいう。 
  一ウラ
○喪明:失明。 ○冒:他人の姓を名乗る。 ○葦原氏:父の後妻の姓。勾当叙任を期に葦原氏を称す。 ○造:至る。到達する。 ○遊事:つかえる。「遊」も「仕官する」意。 ○松代侯:松代藩(まつしろはん)は、江戸時代、信濃国埴科郡松代町(現在の長野県長野市松代町松代)にあった藩。信濃国内の藩では最高の石高を有した。長野県長野市の松代城を居城とし川中島四郡を領した。真田家。Wikipedia。六代、幸公。七代、幸専(ゆきたか)。八代、幸貫(ゆきつら)。 ○月俸二十口:二十人扶持。幕府では、一人扶持で一日当たり男五合、女三合の玄米が毎月支給され、他藩もこれにならった。 ○尾紀二公:尾張藩と紀州和歌山藩の藩主。 ○儀同公:一橋家第二代当主、治済(はるさだ)。 ○德川兵部卿:第十一代将軍、徳川家斉。 ○他列侯貴戚:町論文によれば、鍋島侯など。 ○居恆:日常。つねに。 ○慨然:感慨深く。 ○世醫:代々医学をもって職業としているひと。 ○誤人命:ひとの生命を傷つける。 ○今茲:ことし。 ○天保辛卯:天保二年(1831)。 ○乞言:教えの言葉を請い求める。ここでいう「言」とは、序跋のことか。 ○死生:死亡。 ○緩急:危急。緊急のとき。 ○坐:空しく。何の対処もとれずにいる。 ○草根木皮:薬物。 
  二オモテ
○若夫:~に関しては。 ○魏安行:『大漢和辞典』12-698。宋、饒州楽平のひと。字は彦成。滁州知などを歴任。 ○王克明:『宋史』卷四百六十二/列傳第二百二十一/方技下:「王克明、字彥昭、其始饒州樂平人、後徙湖州烏程縣。紹興、乾道間名醫也。……鍼灸尤精……魏安行妻風痿十年不起、克明施鍼、而步履如初。」 ○朱彦修:朱丹溪。(1281~1358年)、名震亨、字彦修、義烏(今浙江義烏市)赤岸の人。金元四大家のひとり。 ○葛可久:『明史』卷二百九十九 列傳第一百八十七 方伎/葛乾孫「葛乾孫、字可久、長洲人。父應雷、以醫名……」。(1305-1353)。元代、平江路の人。『古今圖書集成』醫部全録卷五百十・醫術名流列傳・明・葛乾孫に引ける『異林』に同様の内容が見える(葛乾孫は「兩乳」に刺した)が、井田信齋は『五雜組』から引用したのであろう。『五雜組』卷五:「魏安行妻風痿十年不起、王克明一針而動履如初。朱彥修治女子療疾皆愈、唯頰丹不滅、葛可久刺乳而立消。」 ○軒轅:黄帝の名号。姓は公孫、軒轅の丘に生まれたため、軒轅氏と称される。 ○岐伯:黄帝の臣。医学に精通し、黄帝と問答して、その内容は『内経』に記載される。 ○娓娓:談論して倦かず、勤勉なるさまをいう。 ○世醫:代々医学を業とするひと。 ○肯綮:事物の要所。 ○交:一斉に。 ○矢鋒:矢の尖端。『列子』湯問:「(紀昌 飛衛)相遇於野、二人交射;中路矢鋒相觸、而墜於地、而塵不揚。」弓の名人飛衛がその弟子紀昌に技を伝えたが、紀昌は天下の敵は師のみとして謀殺しようとして、互いに矢を射た。それが中央で矢の尖端がぶつかって地に落ちた。 ○御者:『列子』湯問:「造父之始從習御也……取道致遠、而氣力有餘、誠得其術也。……未嘗覺山谷之險。原隰之夷、視之一也。吾術窮矣。汝其識之。」 ○嶮:地勢が険悪で進みがたい。 ○原隰:広大にして平坦なところと低く湿った地。
  二ウラ
○夷:平坦。 ○粟津:いま、滋賀県大津市。 ○祖先之事蹟:木曾義仲の経歴など。横田「葦原検校について」を参照。碑文は義仲寺に現存する。 ○東都:江戸。 ○信齋井田寛仁:『諸葛孔明伝註』(文政一〇自序、同一二跋)に注す。『知道詩篇』(初編文政三序、続編天保三跋)を編集する。名は経綸、寛。字は子裕。号は信斎。(『新版 鍼道発秘講義』294頁)天保四年(1833)没。27歳。


語曰内不足者急於人知霈焉有餘厥聞四馳是以
達人專修其道也若夫庖丁之解牛王良之御車飛
衛之學射扁鵲之診病則其所好者道也進乎技矣
所謂霈焉有餘厥聞四馳何以急於人知乎葦原撿
挍之鍼術亦如四子則醫門多疾者於是可知矣天
保二庚寅十一月晦日初見於
大君翌年壬辰九月十四日重有
  三ウラ
命新 賜俸米準侍醫四年癸巳四月有佩刀之
命是古之所無也可謂德充於内應物於外者矣徃
歳著鍼道發秘官醫岡本玄冶法眼有題辭男信齋
亦作之序則何別以贅語為雖然其需不可拒也因
書登庸寵遇之次序以跋
天保五年癸巳春三月

          退耕老人撰〔白字の「田」と「龍」字の印形あり〕

読み下し
語に曰く、内、足らざる者は、人の知ることを急にす。霈焉として餘り有れば、厥の聞、四(よも)に馳す、と。是(ここ)を以て
達人は專ら其の道を修む。夫(か)の庖丁の牛を解き、王良の車を御し、飛
衛の射を學び、扁鵲の病を診するが若きは、則ち其の好む所の者は道なり。技より進む。
所謂る霈焉として餘り有り、厥の聞、四に馳す、何を以て人の知ることを急にせんや。葦原撿
校の鍼術も、亦た四子の如かるときは、則ち醫門多疾者、是(ここ)に於いて知る可し。天
保二庚寅十一月晦日、初めて
大君に見(まみ)ゆ。翌年壬辰九月十四日、重ねて
  三ウラ
命有り、新たに 俸米を賜う。侍醫に準ず。四年癸巳四月。佩刀の
命有り。是れ古の無き所なり。謂っつ可し、德、内に充ちて、物に、外に應ずる者と。往
歳、鍼道發秘を著す。官醫岡本玄冶法眼、題辭有り。男信齋も
亦た之れが序を作るときは、(則ち)何ぞ別に贅語を以て為せん。然りと雖も其の需(もと)め拒む可からざるなり。因って
登庸寵遇の次序を書して以て跋す。
天保五年癸巳春三月

          退耕老人撰す
【注釋】
○語曰:韓愈『五箴五首』知名箴:「內不足者、急於人知;霈焉有餘、厥聞四馳。」 ○霈焉有餘厥聞:名誉、名望。 ○四:四方。 ○庖丁之解牛:『莊子』養生主:「庖丁為文惠君解牛、手之所觸、肩之所倚、足之所履、膝之所踦、砉然嚮然、奏刀騞然、莫不中音。合於《桑林》之舞、乃中《經首》之會。文惠君曰:“譆!善哉!技蓋至此乎?”庖丁釋刀對曰:“臣之所好者道也、進乎技矣……」。 ○王良之御車:『荀子』王霸:「王良、造父者、善服馭者也。」 ○飛衛之學射:『列子』湯問:「甘蠅、古之善射者、彀弓而獸伏鳥下。弟子名飛衛、學射于甘蠅、而巧過其師。紀昌者、又學射于飛衛。飛衛曰:“爾先學不瞬、而後可言射矣。”紀昌歸、偃臥其妻之機下、以目承牽挺。二年之後、雖錐末倒眥而不瞬也。以告飛衛。飛衛曰:“未也、必學視而後可。視小如大、視微如著、而後告我。”昌以氂懸虱于牖。南面而望之。旬日之間、浸大也;三年之後、如車輪焉。以睹餘物、皆丘山也。乃以燕角之弧、朔蓬之簳、射之、貫虱之心、而懸不絕。以告飛衛。飛衛高蹈拊膺曰:“汝得之矣!“紀昌既盡衛之術、計天下之敵己者一人而已、乃謀殺飛衛。相遇于野、二人交射;中路端鋒相觸、而墜于地、而塵不揚。飛衛之矢先窮。紀昌遺一矢、既發、飛衛以棘刺之端扞之、而無差焉。于是二子泣而投弓、相拜于塗、請為父子。尅臂以誓、不得告術于人。」 ○扁鵲之診病:『史記』扁鵲倉公列傳を参照。 ○挍:「校」に同じ。 ○四子:庖丁、王良、飛衛、扁鵲。 ○天保二庚寅:天保二年(1831)は庚寅ではなく辛卯。 ○初見於大君:将軍にお目見え。原文、「大君」は一字台頭。寄合医師となったか。 ○翌年壬辰:天保三年。
  三ウラ
○賜俸米:二十人扶持。 ○準侍醫:奥医師となる。 ○四年癸巳:1833年。 ○佩刀:帯刀。打刀と脇差の 2本の刀を腰に帯びること。 ○德充於内應物於外:『莊子』德充符。篇名に関する郭象注:「德充于内、應物于外、外内玄合、信若符命、而遺其形骸也。」 ○徃歳:往年。過去。 ○岡本玄冶法眼:序の注を参照。 ○男:子息。 ○信齋:井田信齋。 ○贅語:贅言。余計な言辞。 ○登庸:人才を登用する。 ○寵遇:特別に恩寵ある待遇を受ける。 ○次序:次第。 ○天保五年癸巳:天保五年(1834)は甲午。前文に「四年癸巳」とある。 ○退耕老人:井田赤城。名は龍。通称は定七郎。字は雲卿。赤城・愚直翁・退耕処士と号す。長尾村神木(神奈川県川崎市高津区)の出身であるため、著作では長尾赤城と称することも多い。明和五年(1768)生まれ(一説、明和七年)、天保十三年(1842)没。大和高取藩に仕える(江戸詰)。晩年長尾に帰り、退耕処士と号した。

1 件のコメント:

  1. この序文にある文章であれば、「龎安時が、桐城の孕婦の、七日も難産でくるしんでいるのを診て、その虎口に鍼したら、手をひっこませて、すぐに生まれた」というわけで、別に胡乱な話ではない。虎口は、言わずもがな、合谷の異名で、三陰交と合谷が孕婦には禁忌なのは、徐文伯の故事にみえる。つまり、これは龎安時が合谷に的確に術を施したという手柄話のはずである。ところが『宋史』の列伝では、「胎児はすでに胞を出たけれど、片方の手で誤って母親の腸を握ってしまったから出るに出られなくなってしまった。符や薬ではどうにもならなくなったとき、わたしは腹を隔てて胎児の手の所在を確かめて、その虎口に針を刺した。だから、痛くて手を縮めて離したので、すぐに生まれたのだ」という具合に脚色されている。本来、正史の記事はより信頼のおけるはずのものであるけれど、時代によっては神秘的なほうが喜ばれることもある。特に方伎なんぞという分野ではその傾向が甚だしいと思う。用心すべきだろう。

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