2011年1月28日金曜日

24-4 經絡括要

24-4經絡括要
       京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『經絡括要』(ケ・173)
       オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』24所収
  一オモテ
經絡括要序
夫經絡者軒岐之言而出乎靈
素則其來也尚矣然而經絡流
注兪穴處所晉唐以降逮于宋
眀其説不乏然紛糾雜亂不免
有謬誤其誰適從可淂其眞乎
  一ウラ
蓋兪穴一差則灸刺非徒無益
反遺害於人也故聖人眀經絡
流注兪穴處所以垂教乎萬世
其有旨哉余友玄周其爲人強
識剛毅慨然發憤潛心於經絡
之書考究兪穴舉其尤難淂眞
  二オモテ
要穴五十有八從經旨能加辨
折以正衆説之是非名之曰經
絡括要其言也精且確足以使
後學淂所統知兪穴之眞矣其
功豈可不謂偉哉醫局命之剞
劂其功已完矣玄周瞽也而心
  三オモテ
不盲余嘉其於鍼業精思焦心
有所發眀題其卷首云
文政十年丁亥十二月既望
     畑定眀撰
  〔印形黒字「◆/光」、白字「◆德/之印」〕
     西宮先書
  〔印形白字「西宮/之印」、黒字「字/子禮」〕


  【訓み下し】
  一オモテ
經絡括要序
夫(そ)れ經絡なる者は軒岐の言にして、而して靈
素に出づ。則ち其の來たるや尚(ひさ)し。然り而して經絡・流
注・兪穴の處所は、晉唐以降、宋
明に逮(およ)びて、其の説乏しからず。然れども紛糾雜亂して
謬誤有るを免れず。其れ誰に適從して其の眞を得可けんや。
  一ウラ
蓋し兪穴は一たび差(たが)えれば則ち灸刺徒(いたず)らに益無きのみに非ず、
反って害を人に遺(のこ)すなり。故に聖人は經絡・
流注・兪穴の處所を明らかにして以て教えを萬世に垂る。
其れ旨有るかな。余が友玄周、其の爲人(ひととなり)は強
識剛毅にして慨然として發憤して心を經絡
の書に潛(ひそ)め、兪穴を考究して其の尤も得難き眞の
  二オモテ
要穴を擧ぐること五十有八。經旨に從いて能く辨
折を加えて以て衆説の是非を正す。之を名づけて經
絡括要と曰う。其の言たるや精にして且つ確、以て
後學をして兪穴の眞を統(す)べて知る所を得さしむるに足らん。其の
功、豈に偉と謂わざる可けんや。醫局、之を剞
劂に命ず。其の功、已に完(まつた)し。玄周は瞽なり。而(しか)れども心は
  三オモテ
盲にあらず。余は其の鍼業に於いて精思焦心して
發明する所有るを嘉(よみ)して、其の卷首に題すと云う。
文政十年丁亥十二月既望
     畑定明撰す
     西宮先書す


  【注釋】
  一オモテ
○軒岐:黄帝(軒轅)と岐伯。 ○靈素:『靈樞』と『素問』。 ○處所:場所。所在地。 ○紛糾:交錯して乱雑なさま。 ○適從:したがう。つく。『春秋左傳』僖公五年:「一國三公、吾誰適從」。 
  一ウラ
○差:誤る。 ○眀:「明」の異体字。 ○玄周:秋田藩の医官、横山玄周。本書の著者。『座頭論』あり。 ○強識:記憶力にすぐれる。 ○剛毅:(意志が)つよく、かたい。子路「子曰、剛毅、木訥、近仁(子曰く、剛毅、木訥は、仁に近し、と)。」  ○慨然:感嘆するさま。情緒が高ぶるさま。 ○發憤:足りないのを自覚して、力をふるう。『論語』述而:「發憤忘食、樂以忘憂」。 ○潛心:一心におこなう。心をしずめ集中する。
  二オモテ
○辨折:是非を辨ずる。 ○醫局:明徳館(下文を参照)内にあった養寿局のことであろう。 ○剞劂:雕刻用の曲刀。引伸して出版者。 ○瞽:盲人。
  三オモテ
○精思:子細に考える。 ○焦心:うれえる。 ○發明:前人が知らなかった意義を創造的に明らかにする。 ○文政十年:一八二六年。 ○畑定明: ○西宮先:  


   (跋)
  一オモテ
經絡之書源乎素靈而
晉皇甫謐以下唐宋元
明諸家所説不能無小
異同學者所疑而不能
定者不爲少矣是或印
授口傳之所秘不可以書
  一ウラ
見者也横山玄周積年
考索而有所得乃著其
説以公諸邦内爲針治
者其惠不亦大乎贊其
事者畑道伯津川龍宅
小笹養春亦此有勤哉
  二オモテ
明德館助教 糸井教


  書き下し
   (跋)
  一オモテ
經絡の書は素靈を源とす。而して
晉の皇甫謐以下、唐宋元
明の諸家の説く所は小なる
異同無きこと能わず。學者疑いて
定むる能ざる所の者は、少しと爲さず。是れ或いは印
授口傳の秘する所にして、書を以て
  一ウラ
見る可からざる者か。横山玄周は積年
考え索(もと)めて得る所有り。乃ち其の
説を著して以て諸(これ)を公にす。邦内の針治を爲す
者、其の惠み亦た大ならずや。其の
事を贊(たす)くる者は、畑道伯、津川龍宅、
小笹養春、亦た此れ勤め有るかな。
  二オモテ
明德館助教 糸井教

  【注釋】
○明德館:秋田藩黌明徳館。寛政元年(一七八九)創設。秋田藩第九代藩主佐竹義和(よしまさ)(1775-1815)により、城下東根小屋に上棟(御学館)、寛政五年明道館と命名し、文化八(1811)年に明徳館と改称した。 ○助教:明徳館には、総裁・祭酒・文学・助教各一名がいた。その他に、各局に教授・教授並が十数名いた。(『国史大辞典』秋田藩・藩校など) ○畑道伯:序を撰した畑定明との関係未詳。 ○津川龍宅:本書の校正者。 ○小笹養春:本書の校正者。 ○此有勤哉:判読に疑念あり。 ○糸井教:

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