2011年1月20日木曜日

22-4 濟急方灸穴并介保圖

22-4濟急方灸穴并介保圖
    京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『濟急方灸穴并介保圖』(サ・三)
    オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』22所収
    本書は多紀元悳撰『広恵済急方』からの抜粋で、この序も同書からの写し。

  一オモテ  219頁
濟急方刻成安元謂余曰此是 先大君仁民之一事
獨序此書者非足下不可余駭而問故乃徐語余曰距
今十数年矣 先大君一日召臣而問曰仄聞民間疾疫
方其急遽際無遑請醫或僻遠乏醫雖請途遙或
夜間若阻事而不來遂至不可救者往々而有是可憫矣
豈無有救急之方可以備不虞者歟臣不敢妄對退而思之
葢救濟方法非無其書但山埜小民亦能可蓄可辨其
  一ウラ  220頁
可以當 上旨者未之有也於是日夜渉獵諸方書隨
得而抄録夷蠻之奇與夫俗間所傳亦皆采擇不遺裒
而成卷因施諸行事而歷試其功驗亦有年所已五更其
稿而未成書爾後 先大君燕間時召侍醫而問民間疾
疫元悳亦在末則五内為之如燬痛思奉職無狀而無副仁
民之台慮憤悶將疾矣既而 先大君溘捐萬民元悳
慟哭不能起者数日矣然日夜督児元簡等就事竟至今春
而書始脱稿焉足下久陪侍帷幄而與聞其 眀命矣是
  二オモテ 221頁
故敢需一言焉爾義行受而未開卷愀然酸鼻亦將慟矣
於乎 先大君深仁廣德無得而穪哉安元能體
上旨而盡力其職永輔其仁於下焉誰不嘉賞乎余雖不敏
豈可不文為觧蔽其忠誠哉乃録其語以為之序若夫其
書之精選何竢余言四海之民得之則安不得即苦譬之非
大旱之膏雨則中流一壺雖欲不貴得乎欲使山野小民常
讀而熟知故俚語以國字云安元其氏多紀令嗣字安長亦
為通家久矣
  二ウラ  222頁
 寛政紀元歳次己酉十一月冬至日
   肥前守從五位下佐野義行撰
  〔白文「朝散/大夫印」、朱文「藤原/義行」〕


  【訓み下し】
  一オモテ  219頁
濟急方刻成る。安元、余に謂いて曰く、此れは是れ 先大君仁民の一事、
獨り此の書に序せん者は、足下に非ざれば不可なり、と。余駭(おどろ)きて故を問う。乃ち徐(しず)かに余に語りて曰く、
今に距つること十數年。 先大君一日、臣を召して問いて曰く、仄(ひそ)かに聞く、民間疾疫、
其の急遽の際に方(あ)たりて醫を請うに遑無く、或いは僻遠にして醫乏しく、請うと雖も途遙(とお)く、或いは
夜間若しくは事に阻して來たらず。遂に救う可からずに至る者往往にして有り。是れ憫れむ可し。
豈に有救急の方、以て不虞に備う可き者無きか、と。臣敢えて妄りに對(こた)えず。退きて之を思う。
蓋し救濟の方法、其の書無きに非ざれば、但だ山野の小民も亦た能く蓄う可く辨ず可く、其の
  一ウラ  220頁
以て 上旨に當たる可き者は、未だ之有らざるなり。是に於いて、日夜諸の方書を渉獵し、
得るに隨いて抄録し、夷蠻の奇、夫(か)の俗間の傳うる所と、亦た皆な采擇して遺(のこ)さず。裒して
卷を成す。因りて諸(これ)を行事に施し、而して其の功驗を歷試するに、亦た年所有り。已に五たび其の
稿を更(か)えて、而して未だ書を成さず。爾後 先大君燕間時(しば)しば侍醫を召して、而して民間の疾
疫を問わせたます。元悳も亦た末に在れば、則ち五内之が為に燬(や)くが如し。痛く奉職の無狀にして仁
民の台慮に副(そ)うこと無きを思い、憤悶將(ほとん)ど疾めり。既にして 先大君溘として萬民を捐(す)つ。元悳
慟哭して起くること能わざること數日。然れども日夜兒元簡等を督して事に就く。竟に今春に至りて、
而して書始めて稿を脱す。足下久しく帷幄に陪侍して、而して其の 明命を與(あず)かり聞けり。是の
  二オモテ 221頁
故に敢えて一言を需(もと)むるのみ、と。義行受けて而して未だ卷を開かざるに、愀然として酸鼻し、亦た將に慟せんとす。
於乎(ああ) 先大君深仁廣德、得て穪する無きかな。安元能く
上旨に體して、而して力を其の職に盡くし、永く其の仁を下に輔く。誰か嘉賞せざらんや。余、不敏と雖も
豈に不文を解と為して其の忠誠を蔽(おお)う可けんや。乃ち其の語を録して以て之が序と為す。若(も)し夫(そ)れ其の
書の精選は、何ぞ余が言を竢(ま)たんや。四海の民、之を得れば則ち安く、得ざれば即ち苦しむ。之を譬うるに
大旱の膏雨に非ざれば、則ち中流の一壺なり。貴びずんと欲すと雖も得んや。山野の小民をして常に
讀みて熟知せしめんと欲す。故に俚語、國字を以てすと云う。安元、其の氏多紀、令嗣字は安長、亦た
通家為(た)ること久し。
  二ウラ  222頁
 寛政紀元歳次己酉十一月冬至日
   肥前守從五位下佐野義行撰


  【注釋】
  一オモテ  219頁
○濟急方:『広恵済急方』:多紀元悳の著、その子元簡の校訂になる救急医療書。全三巻。 ○安元:多紀元悳(たきもとのり)(1732~1801)。字は仲明、号は藍溪。法印となり、廣壽院、のちに永壽院を改める。 ○先大君:亡き将軍。次の和語序によれば、十代将軍徳川家治であろう。/元悳は寛延三年、九代将軍家重にお目見え、明和三年に家督を相続した。明和五年に奥医師、法眼に叙せらる。天明四年に家治より御料の羽織を賜る。同八年家斉の御匙となる。寛政二年法印に進む(『多紀氏の事蹟』23頁)。 ○仁民:『孟子』盡心上:「君子之於物也、愛之而弗仁。於民也、仁之而弗親、親親而仁民、仁民而愛物」。 ○足下:目上や同輩に対する尊称。 ○急遽際:『広恵済急方』は「急遽之際」に作る。 ○不虞:不慮。意想外の事柄。 
  一ウラ  220頁
○當上旨:上様の意向に合致する。 ○夷蠻:東方、南方のひと。蘭方のことか。 ○裒:あつめる。 ○年所:年数。多年。『書經』君奭:「故殷禮陟配天、多歷年所」。 ○爾後:この後。 ○燕間:ひまな折り。 ○侍醫:奥医師。 ○五内:五臓。内心。からだの中、全体。 ○痛:はなはだしく。 ○無狀:功績がないこと。 ○台慮:将軍の配慮。「台」は相手に対する尊称。 ○既而:そうこうしているうちに。まもなく。 ○溘:突然。 ○捐萬民:万民を捨ててこの世を去る。 ○元簡:元悳の長子。字は廉夫、安長と称す。桂山、櫟窓と号す。法眼。 ○今春:寛政元年春。 ○陪侍:そばに仕える。 ○帷幄:将軍の帳幕。 ○眀命:聡明な命令。将軍の命令。「眀」は「明」の異体字。
  二オモテ 221頁
○義行:この序の筆者。 ○愀然:憂愁のさま。 ○酸鼻:悲痛、傷心のあまり、涙が出て、鼻がつんとするさま。 ○慟:慟哭する。悲哀の感情が高まって大声で泣く。 ○深仁:深い仁。 ○廣德:廣い德。 ○不文:文才がない。 ○觧:「解」の異体字。解答。説明。 ○若夫:~に関しては。 ○精選:周到に選抜する。えりすぐり。 ○竢:「俟」の異体字。 ○四海:東西南北の海。天下のあらゆるところ。 ○膏雨:作物を潤し育てる雨。慈雨。 ○中流一壺:「中流」は河の中央。「壺」はひさご、ひょうたん。河の中央で転覆した船に乗っていたひとにとって、命を救ってくれるひょうたん。『鶡冠子』卷下・學問:「中河失船、一壺千金」。ふだん何でもないものでも、時によっては貴重なものとなる比喩。 ○俚語:俗語。和語。 ○國字:かな。漢字かな交じり文。 ○令嗣:他人の子の尊称。 ○通家:代々親しく交際している家。専門家。
  二ウラ  222頁
○寛政紀元歳次己酉:一七八九年。 ○肥前守從五位下佐野義行:のりゆき。「大和高取城主植村出羽守家道の三男、佐野兵庫頭德行の養子となり、……天明……三年十二月十八日從五位下兵庫頭に叙任し、後肥前守と改む。……序を草した時は三十三歳であった」(『多紀家の事蹟』二三四頁)。印形の「朝散大夫」は、従五位下の唐名。
『広恵済急方』:多紀元悳(たきもとのり)(1732~1801)の著、その子元簡(もとやす)(1754~1810)の校訂になる救急医療書。全3巻。寛政元(1789)年、中野清翰(なかのきよふみ(ママ))・佐野義行(さのよし(ママ)ゆき)序。同年開彫。翌同2(1800)年、元簡跋。同年印行。元悳は父元孝(もとたか)の跡を継いで医学校躋寿館(せいじゅかん)を主宰した人物で、将軍家斉(いえなり)の御匙(おさじ)、法印。本書は、田舎や旅先などで専門医の医療が受けられない状況に備えて作られた応急書で、一般人向けに、平仮名で記し、入手しやすい薬物で簡単な処方を選用。また応急手当法や灸療法などに及び、民間療法を採用してある。『近世漢方集成』に影印収録。また『近世歴史資料集成』(科学書院、1990)にも収める。〔『日本漢方典籍辞典』〕


 【和語序】
 (「く」を伸ばした繰り返し記号は、「々」でかえる。変体仮名は、通用のものにかえる。「ミ」などカタカナは、ひらがなにかえる。合字は「こと」など、二字にかえる。)

それひとの世にあるおりにふれてやまひなきことあた
はずされはわか神代よりして醫療のみち今につた
はりもろこしのひしりと(も)百草をなめてそのうれへを
のそくのをしへかたみによヽにたえすみな生育のこと
はりにして人主仁愛の體とはなしたまふなるへしそも
安永の頃 東の御めくみひろくもらし給はぬあま
  223頁
り民のやまひあらんことをうれへ給ひてそれをのそ
きえさせんことのおほしをきてにつねに侍醫をめし
てはやめるものヽ多少よにをこなはるヽことのあるなきを
とはせ給ふそのひのとのとりの春多紀元悳に 仰下され
しはをよそ世に急症のあつしきにのそみて醫をこふ
まなく遠きさかひにくすしのまれなるあたりは
さらなりまして窮巷などにはほとこすへき術をも
しらすいたつらに命をおとすたくひと(も)すくなからし
さる時にいたりそれに用ひすくふへき經驗の方
を筆しひろくさつくへきよしうち々ことよさし
たまふ元のりつヽしみてうけたまはるされとその
ことのやすからぬをおもひめくらしつヽかヽるかし
  224頁
こきをあまねく世にしらしめんはもとよりねかふところ
なれはなへてわか邦の家〃につたふるところをよひもろこ
しはたえひすの國まてをも遠くもとめひ
ろくあつめすくれたるをあけ萃れるをぬきて
書なりぬ實に天明七年の春になん名つけて濟
急方といふさるかしこき御めくみをもてかく世の
たからとなりぬへきはもとす(の)りかいさほしなりかな
しいかな天台に雲かくれたまひて此卷を
御覽にそなへさりしことと泣血帙にそヽく然るに
今あらたに 御世つかせおはしましてかヽるこ
とヽもうちをかせ給はすかの おほん德を世
  225頁
にあらはしかつはたみの生育をおほしめして此書
を世にしめすへきよし 命下れりけに慈民の御
まつりことをいやつきにあふき奉りぬこれか
はしめ 仰ことうけ給はりつたへたるは三嶋
但馬守政喜なり清翰そのはしめ終を聞しれはあら
ましをしるすへく元のりのこふにまかせて
つかみしかき筆をとることをしかなりといふ
   寛政元年秋八月
       中埜監物藤原清翰謹識


  【句切り、漢字を増やしてみる】
それ人の世にある折りに触れて、病なきこと能
わず、されば我が神代よりして、醫療の道、今に伝わ
り、唐土(もろこし)の聖(ひじり)も百草を嘗めて、その患(うれ)えを
除くの教え、かたみに世々に絶えず、みな生育の理(ことわり)
にして人主仁愛の體とは、なし給うなるべし、そも
安永の頃 東の御惠み廣くもらし給わぬ餘
  223頁
り、民の病あらんことを憂え給いて、それを除
き得させんことの多し掟に、つねに侍醫を召し
ては、病めるものの多少、世に行なわるることの有る無きを
問わせ給う、その丁酉の春、多紀元悳に 仰せ下され
しは、凡そ世に急症の篤しきに臨みて、醫を乞う
間なく、遠き境に醫師(くすし)の稀れなる邊(あた)りは
さらなり、まして窮巷などには施すべき術をも
知らず、徒らに命を落とす類(たぐい)も少なからじ、
さる時に至り、それに用い、救うべき經驗の方
を筆し、廣く授くべき由、内うち言寄さし
給う。元悳(もとのり)謹みて承る、されどその
事の易からぬを思い巡らしつつ、かかる賢
  224頁
きを、あまねく世に知らしめんは、元より願うところ
なれば、なべて我が邦の家々に傳うるところ、及び唐土
はた夷(えびす)の國までをも遠く求め、廣
く集め、優れたるを挙げ、萃(やつ)れるを抜きて、
書なりぬ、實に天明七年の春になん、名付けて濟
急方という、さる賢き御惠みをもて、かく世の
寶となりぬべきは、元悳(もとのり)が功績(いさおし)なり、悲
しいかな、天台に雲かくれ給いて、此の卷を
御覽に供(そな)えざりしことと、泣血、帙に注ぐ。然るに
今新たに 御世嗣(つ)がせおわしまして、かる事
どもうち置かせ給わず、かの 御德を世
  225頁
にあらわし、且つは民の生育を思(おぼ)し召して、此の書
を世に示すべき由、 命下れり、げに慈民の御
政治(まつりごと)をいや嗣(つ)ぎに仰ぎ奉りぬ、これが
初め 仰ぐ事うけ給わり傳えたるは、三嶋
但馬守政喜なり、清翰その初め終わりを聞き知れば、あら
ましを記(しる)すべく、元悳(もとのり)の乞うにまかせて、
摑みし書き筆を執ることを然(しか)なりと云う、
   寛政元年秋八月
       中埜監物藤原清翰謹識

  【注釋】
○もろこしのひしり:神農氏。 ○をしへかたみに:「かたみに」は「片身に」。それぞれ。各自。代わる代わる。 
  223頁
○おほしをきてに:「多し掟に」でよいか? ○ひのとのとりの春:丁酉。安永六年(一七七七)。 
  224頁
○はた:あるいは。 ○えひす:南蛮人。 ○天台に雲かくれ:天明六年(一七八六)八月、家治死去。 ○泣血:血の涙。 ○帙:書籍を保護する入れ物。 
  225頁
○いやつきに:「いや」は、ますます。 ○三嶋但馬守政喜:平氏支流、三嶋政春(まさはる)(『寛政重修諸家譜』卷五百六十六/第九の三三三頁)と同一人物か。政春は、宝暦十三年、御小納戸(将軍に近侍し、雑用を行う)となり、天明八年十二月十六日從五位下但馬守に叙任し、寛政二年に作事奉行に転ずる。 ○寛政元年:一七八九年。 ○中埜監物藤原清翰:きよふで。監物清方の六男。兄備中守房彦の嗣となり、安永五年十月家を継ぎ、六年七月西丸小納戸となり、十二月布衣を著する事を許され、八年六月から本丸の小納戸を勤めた。序を書いた時は三十歳である。『多紀氏の事蹟』234頁。

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