2020年12月28日月曜日

拙訳 黄龍祥 『鍼経』『素問』の編撰と所伝の謎を解く 02

 正しい翻訳は『季刊内経』No.220(2020年秋号)掲載

 左合昌美先生訳 『針経』『素問』編撰と流伝の謎を解く

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2 書名

 伝世本『霊枢』『素問』の命名については、先人の研究を総括して次のように判断した。

 第一、外篇の名は『素問』である。内篇には固定した名称がなく、唐は以前は「九巻」が暫定的に用いられた。あわせて前後して、「九虚」(「九墟」とも書く)、「九霊」、「鍼経」、「霊枢」など、異なる命名案があり、伝世本では『霊枢』が引き続き用いられている。

 第二、もともと全体の書名はない。筆者としては、内外篇全体の命名案として内篇は「黄帝鍼経」、外篇は「黄帝素問」と決めた。

 内篇の題名について、伝世本『霊枢』の冒頭篇「九針十二原」は、「鍼経」といい、口問篇も「九鍼の経」という。筆者は調べてみて、伝世本『霊枢』と『素問』中の「九鍼」には広義と狭義の2つの用法があることに気づいた。広義の「九鍼」は鍼灸の道を指すが、狭義の「九鍼」は9種類の鍼具を指す。書名としての「九鍼の経」の「九鍼」は広義の用法であるが、書中に多く登場する「九鍼」もしばしば「九鍼の経」の略語、つまり「鍼経」を指すものとして用いられている。

  しかし、原本に書名がなかった、あるいは原本の書名が書き写し伝えられる過程で失われたため、漢末の『傷寒論』序は、内篇を援用する際そのまま「九巻」の名を用いている。しかし、この序文の構成と年代については学界に論争があり[1]、これを根拠として、この暫定的な名称がすでに漢代に見える、と確定することはできない。年代の確実な魏晋の『脈経』が『九巻』として内篇を引用しているのは明らかだが、伝世本『脈経』ではこれらの引用文の出典が全部『鍼経』に変更されている。これは宋代の校正医書局が変えたものである。宋以前にあった古本『脈経』の引用文の表記については、唐代の王冰「補注黄帝内経素問序」に附された「新校正」が、次のようにはっきり述べている。「又『素問』外九巻、漢·張仲景及西晋王叔和『脈経』只為之九巻、皇甫士安名為『鍼経』、亦専名『九巻』〔又た『素問』の外に九巻あり。漢の張仲景及び西晋の王叔和『脈経』は、只だ之を九巻と為(い)い、皇甫士安 名づけて『鍼経』と為し、亦た専ら『九巻』を名とす〕」[2]。ここでは、張仲景の書と『脈経』は、内篇を引用するのに、いずれも「九巻」の名を用いていることが明言されている。「皇甫士安名為『鍼経』、亦専名『九巻』」とは、『鍼灸甲乙経』序が引く『鍼経』を指しているが、本文の引用文では『九巻』と表記されていることを言っている。あいにくなことに、伝世本『鍼灸甲乙経』序にも疑問があるので[3]、これに基づいて西晋時代にはすでに「鍼経」という名称が内篇を指す名称として専ら用いられていた、とは認定できない。これから分かることは、初期に伝えられた内篇には書名がなく、後世の医書ではそのまま「九巻」という暫定的な名称で引用され、唐代の楊上善が勅を奉じて『太素』を官修した時までは、「九巻」「素問」を用いて内・外篇を引いていて、専用の書名「九虚」(また「九墟」)「鍼経」「九霊」「霊枢」などは、みな晋以後、唐以前に登場し、その中の『霊枢』が継承されて今でも使われているということである。

 このように、伝世本の『霊枢』が言及する内篇の書名である「鍼経」は、正式な書名が付けられなかったか、あるいは伝えられた初期に書名が失われて、かなり長期にわたってずっと「九巻」という暫定名で伝えられていたことが分かる。対して外篇は、社会に流布したはじめからすぐに「素問」と呼ばれ、今に至るまで使われている。内篇外篇は最初から一つの書として伝えられたが、内篇外篇を統括する全体の書名はなく、後世になって「黄帝内経」を全体の書名として、内篇が「黄帝内経素問」(唐代の王冰注本)、外篇が「黄帝内経霊枢」(宋代の史崧本)といわれる。ここでの「黄帝内経」は、実際のところ「黄帝医経」の別称として用いられている。この点については、以下の古医籍の命名からはっきり見て取れる。すなわち『黄帝内経太素』と『黄帝内経明堂』である。この角度から見れば、「黄帝内経素問」「黄帝内経霊枢」という命名法は筋が通っている。しかしながら、この名称にすると、伝世本『霊枢』『素問』は『漢書』藝文志に著録されている『黄帝内経』と同じものであると、人々に極めて誤解されやすくなる。したがって、採用するべきではない。

 伝世本『霊枢』『素問』が最初に著録された官修目録『隋書』経書志には、『黄帝鍼経』『黄帝素問』とある。外篇の名称は古今に相違がなく、内篇には様々な名称がある。しかし、国内外の図書目録の著録を見ると、「黄帝鍼経」という名称がもっとも通用している。公式文書の正式名称からもこの点が見て取れる。例えば、唐政府の詔令永徽令・開元令および宋の天聖令は、みな「黄帝鍼経」と称している。

 『黄帝鍼経』『黄帝素問』という書名にある「黄帝」を「黄帝医経」または「黄帝医派」と読み解き、全体の書名として使用することは全く可能であり、かつこのような用例は、早くも漢代の劉向父子が校書した時にすでに創られ使われていた。

    〔『漢書』藝文志にいう「右醫經 七家、二百一十六卷。醫經者,原人血脈……」のことか。「黄帝医派」は未詳〕。

 伝世本『淮南子』を成立当初、作者である淮南王・劉安は『鴻烈』と名づけたが、これはただその主に編集した一部分の名であって全部ではないので、『漢書』は『内書』『内篇』と題している。前漢末の劉歆〔劉向の子〕は全体の書名を『淮南』と定めた。しかし内篇の原作者がつけた題名は「鴻烈」である。劉歆はあるいは政治的な要素に配慮して、不便だが評価の意味を含まない中立的な「内」字を選んだのかも知れない。雑家類には「『淮南内』二十一篇、王安①。『淮南外』三十三篇」として正式に著録された[4]。「淮南」については、地名・学派名・人名・書名といった多くの捉え方ができる。劉向・劉歆父子によって公式に認めれた『淮南内』は、政治的な影響がなくなる魏晋の時代になると、もともとの「内篇」という書名を人々がまた用いるようになり、さらに劉歆が考案したものを加えて、全体の書名を『淮南鴻烈』と名づけた。

    原注①:「王安」とは、「淮南王劉安」の略称か、あるいは劉安の誤りか、確定できない。

    〔劉安[生]文帝1(前179)?.~[没]元狩1(前122)。中国、前漢高祖の孫で、淮南王。『淮南子』の撰者。呉楚七国とともに景帝に対して謀反を企てて果たさず (→呉楚七国の乱 ) 、のちに多くの士を養って武帝の時代に再び挙兵しようとしたが、事前に発覚し、捕えられて自殺した。学を好み、多くの賓客とともに『内書』 21編、『中書』8編、『外書』 23編を著した。『淮南子』はその一部である『内書』にあたる。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)/『淮南鴻烈』、前漢の劉安・蘇非・李尚・伍被らの編著。/後漢の高誘『淮南鴻烈解』序:「号曰鴻烈。鴻、大也。烈、明也。……劉向校定撰具名之淮南。又有十九篇者、謂之淮南外篇」。/『漢書』巻44・淮南衡山済北王伝第14:「招致賓客方術之士数千人、作為内書二十一篇、外書甚衆、又有中篇八巻、言神仙黄白之術、亦二十余万言」。/『漢書』藝文志・雑家:「淮南内二十一篇(王安)。淮南外三十三篇」。〕


 この例によれば、『黄帝鍼経』『黄帝素問』の中の「黄帝」も、書名として理解してまったく問題ない。つまり「黄帝」を全体の書名として用い、「鍼経」を子目〔細目〕としての内篇の名とし、「素問」を子目としての外篇の名としている。全体の書名〔黄帝〕を加えれば、『鍼経』と『素問』が表裏をなす一つの書であることを示すだけでなく、漢代および漢以降に伝わった他の「鍼経」という名を持つ医書との区別も示せる。

 歴史と論理を統一するという原則に基づき、筆者は伝世本の『霊枢』と『素問』の名称案を以下のように確定する。内篇の名称は『鍼経』、外篇の名称は『素問』、内篇の非省略名は『黄帝鍼経』、外篇の非省略名は『黄帝素問』である。「黄帝」を全体の書名としたので、もはや「黄帝内経」を全体の書名としては用いない。したがって、以下では特に伝世本を除いて、内篇の正式名称として『鍼経』を採用し、『霊枢』『九墟』『九霊』をその別称とする。


3 年代

『鍼経』と『素問』の成書について、学界での見解の相違は大きい。しかし、「一時の文に非ず、一人の書に非ず」といった共通認識がある。筆者の最近の研究では、この共通認識とは正反対の判断が得られた。『鍼経』と『素問』は性質が異なるが、『鍼経』は「撰」であり、『素問』は「編」である。しかし同一人物が完成したもの、あるいは、みな漢代に成書したものである①。

  ①「漢代に成書した」とは、原作者が編集した原本の年代を指す。原本が社会に伝えられ、後の人がおこなった増補や改編は、原本の年代の認定に影響しない。例えば後代の人(特に宋人)が『傷寒論』『脈経』『備急千金要方』といった経典におこなった補足と改編の度合いは、『鍼経』『素問』に対する改編に比べて一層甚だしいが、学会ではこれらの経典は宋代に成書したという見解が提出されたことは一度もない。

 一例を挙げて、筆者の問題に対する解答を考える筋道を説明する。唐代の孫思邈『備急千金要方』は、唐以前の各家の文献を素材として編集したものである。もしこの書が書き写し伝えられる過程で、表紙と自序がともに失われたと仮定する。われわれは書名も作者も成書年代も知らない。従来の『鍼経』と『素問』の成書を考察した考え方に照らして、この書名・作者・成書年代の「三無」古医籍の年代を考察したら、どんな結論が得られるだろうか?この書を文献を編集したものと考えれば、次のような様々な異なる判断が得られる。すなわち、先秦に成書した。漢代に成書した。魏晋南北朝に成書した。隋代に成書した。唐代に成書した。そこで最後に、諸説を調停した「定説」が得られる。すなわち「此れ一時に成り、一人に出づるの書に非ず」②である。しかし、この先入観を捨てて、この書をある時期に単独のものとして成立した中医臨床診療全書とすれば、正しい答えが得られやすい。すなわち、本書は唐代に成書したものであり、さらに比較的正確な成書年代を狭めることができる。

  ②この論理によって類推すれば、多くの後世の中医古典は、みな一時の一人の作品ではないと言える。『新修本草』『証類本草』『本草綱目』『諸病源候論』『太平聖恵方』が、その最も典型的なものである。

  〔「此非成于一時出于一人之書」は、漢代以前に成書した書籍についてよく言われる言葉。たとえば、余嘉錫『四庫提要辨証』巻7・越絶書:「要之、此書非一時一人所作」。『素問』について呂復は「『内経素問』、世称黄帝岐伯問答之書、及観其旨意、殆非一時之言、其所譔述、亦非一人之手」(『九霊山房集』巻27)という。〕

 この仮想的な年代調査実験を通して、われわれは以下のことがはっきりする。すなわち現在『鍼経』『素問』の成書を調査考察するとは、それが編集された年代のことであって、その書の中に採用された原始文献の年代のことではない。この思考回路によれば、漢以前の古医籍を多く書中に素材として取り入れているとしても、伝世本『霊枢』『素問』が成書したのは漢代である、と確定できる。

 第一、書籍の性質から考察すると、『鍼経』と『素問』、特に前者は古典を整理した成果ではなく、理論革新の著作であり、『漢書』藝文志に著録された『黄帝内経』『黄帝外経』とは性質が全く異なる。

 第二、『鍼経』の序論的性質を有する初篇「九鍼十二原」の構造から見て、その本文は秦代、乃至先秦の文献を採用しているとはいえ、主人公の前口上ははっきりとした漢帝の口調を帯びている[6]。

 また九針十二原篇の冒頭の文章から知られることは、黄帝の口を借りてこの書を編纂する趣旨と編纂計画を述べていることであり、本書の作者の手によるのは間違いない。しかし、作者の筆による「黄帝」のイメージは秦の始皇帝とは相容れず、かえって『漢書』に記載されている漢帝の言動とそっくりであり、これはまさに本書の作者が身を置いた年代を反映しているのである。本文に秦代や先秦の特徴ある文が現れるといっても、この篇が漢代に創作されたという確定になんら影響はない。また知られることは、全体の結びの篇としての官能篇は、首篇である九針十二原と相応じていて、いずれも一人の手によることである。であれば、これも必ず漢代に書かれたことになる。もしこの書の序論と結語が漢代に書かれていると確定するならば、本書全体が漢代に書かれていると基本的に判定してよいことになる。

 第三、『霊枢』大惑論に「東苑」「清泠の台」とある。「東苑」だけならば、いつのどこの建築物であるのか確定するのは難しいけれども、「東苑」と「清泠の台」が一緒につながっているのであれば、正確な場所を探し出すことができる。東苑とは、前漢の梁孝王が紀元前153年から紀元前150年の間に建てた、あずまや・離宮・湖水・奇山・草花・陵墓などが一体となった皇帝が狩猟・巡行・娯楽などをおこなうために供される多目的庭園であり、「清泠台」はその中の美しい景観の一つである[7]。

『霊枢』大惑論で述べられた故事は、東苑を背景に、ある漢代の帝王の真実の診療録である可能性が極めて高い。つまり、世界で最初の精神分析法を適用した診療録と称することができる[8]。このほか、この内篇に反映されている精細な死体解剖の知識の最も可能性の高い情報源は、王莽時代の公式死体解剖の成果である[9]。ほぼ後漢末以後、東苑はしだいに荒廃した。したがって大惑論は、後漢以前に書かれたに違いない。

 第四、本書の全体的な学術の大筋から見ると、内外篇はともに扁鵲医籍の文を大量に引用しているが、すべて新しく決めた理論の枠組みに合わせて変更を加えている[10]。例えば五色篇は素材を扁鵲医学から取っているが、中に挿入された脈法は『鍼経』が推奨する最新の診察法「人迎寸口脈法」であって、これは後代の人が編集した動かぬ証拠である。また、『史記』扁鵲倉公列伝や近ごろ老官山から出土した扁鵲医籍からも分かるように、漢代の初中期に流行した扁鵲医籍に見られる蔵象説は、「心肺肝胃腎」を五臓とし、〔前〕漢中期の非医籍『淮南子』と依然として同じである。しかし『鍼経』の新しい理論体系では、扁鵲が五蔵として論じている「胃」は、一部の置き換えられていない例を除いて、みな「脾」に換えられている[11]。また、五蔵の五行配当には、いわゆる「古文説」と「今文説」があるが、『鍼経』『素問』に見えるものはほぼ例外なく「今文説」である。これは明らかに、著者が新たに定めた理論枠組みに基づいて改編した結果である。

 第五、内外篇のテキストから、それが置かれた社会背景には以下の特徴があることが容易に見いだせる。その1、国土の統一、思想文化における大一統〔天下統一の重視〕の成熟、そして黄帝文化の大一統の指導者としての地位の確立。その2、医学の象徴的な意味としての扁鵲の下降の始まり、それに対する黄帝の上昇。その3、黄帝諸臣内での岐伯の地位の向上。その4、医学文献が極めて豊富になり、かつ系統的に整理された。以上の4つがみな備わっているのは、漢代である。『漢書』藝文志に著録された医経類の図書目録では、黄帝の名義に帰する医経の篇巻の数が明らかに扁鵲のものを超えていること、また神仙類の図書目録に『黄帝岐伯按摩』十巻が著録されていることから、以下のような結論が下せる。すなわち、遅くとも劉向が校書したときには、医学の象徴としての扁鵲の意味が下降し始め、医学の象徴としての黄帝の意味が上昇し、かつ黄帝諸臣内での岐伯の地位が向上し、さらに医学の始まりとの関連が明らかになった。

    〔黄帝と岐伯は、医学の創始者とされ、医学を「岐黄の術」ともいう〕。

 第六、国家蔵書機構から見ると、「蘭台」は漢代に設立された国家蔵書機構で、内府〔宮廷〕に属する書庫である。『鍼経』『素問』には、秘典要籍を「霊蘭の室」に置くという経文が繰り返し登場する。その内容は以下の通り。

    「黄帝曰:……是謂陰陽之極、天地之蓋、請蔵之霊蘭之室、弗敢使泄也」。(『霊枢』外揣(45))

    「黄帝曰:善。請蔵之霊蘭之室、不敢妄出也」。(『霊枢』刺節真邪(75))

      ―楊上善注:霊蘭之室、黄帝蔵書之府、今之蘭台故名者也。(『太素』〔巻22〕五節刺)

    「黄帝曰:善哉、余聞精光之道、大聖之業、而宣明大道、非斎戒択吉日、不敢受也。黄帝乃択吉日良兆、而蔵霊蘭之室、以伝保焉」。(『素問』霊蘭秘典論(08))

    「帝曰:至哉!聖人之道、天地大化、運行之節、臨御之紀、陰陽之政、寒暑之令、非夫子孰能通之!請蔵之霊蘭之室、署曰『六元正紀』、非斎戒不敢示、慎伝也」。(『素問』六元正紀大論(71))

    「帝乃辟左右而起、再拝曰:今日発蒙解惑、蔵之金匱、不敢復出。乃蔵之金蘭之室、署曰気穴所在」。(『素問』気穴論(58))

    「黄帝曰:善乎哉論!明乎哉道!請蔵之金匱、命曰三実、然此一夫之論也」。(『霊枢』歳露論(79))

『素問』の経文そのものから「金蘭の室」は「金匱」であることが分かり、「霊蘭の室」についての楊上善注によれば、すなわち「蘭台」であり、みな蔵書の府である。その中の「蘭台」は漢代に設立された国家蔵書機構で、内府に属する蔵書室であり、多くの国家法規と皇帝の詔令などを所蔵している。同時にまた重要な校書・著述の場所でもある。蘭台の全盛期は前漢の明・章・和帝三朝のときで、和帝以後、東観の興隆とともに多くの文人が東観の修史に召集され、蘭台の国家蔵書・著述と校書の機能は、次第に東観に取って代わられた[12]。「金匱」は秦代の国家蔵書室であり、漢代には外府〔王室〕に属する蔵書室として用いられ、所蔵された多くは玉版〔貴重な典籍、特に図などを含む〕と図讖〔未来の吉凶を予言した書物〕である[13]。『鍼経』『素問』に見える多くの「霊蘭の室」「金蘭の室」が、みな「帝曰」「黄帝曰」とともに言及されているのも道理である。

 以上の6点を総合すると、以下のことが分かる。すなわち、『鍼経』『素問』は漢代に成書した。およそ文化思想の大一統を構築した『淮南子』がしだいに解禁されてきた前漢晚期から、『傷寒論』が成書した後漢晚期までの間である。第6条から見れば、成書年代の下限は、後漢中期まで引き上げることができる。なぜなら、後漢の初期には蔵書の校書はまだ蘭台で行なわれていたが、和帝〔在位88~105〕以後、後漢末まではずっと東観で行なわれていた。もし成書が後漢中期以後であれば、『鍼経』に頻繁に言及される国家官庁蔵書室の大半は、「東観の室」「東観」などと書かれたはずである。

『素問』のテキストにはより古風で素朴な特徴があるので、『素問』が先にでき『鍼経』ができたのはそれより後である、と考えるひとがいる。しかし筆者が調べたところ、『素問』には『鍼経』の結語篇の文を注解した篇が2篇あるのだから、『鍼経』より前に成書したはずがないことは明らかである。人々がこのような印象を持つ理由は、主に作者が内外篇に対して異なる位置づけをし、異なる編纂方法を採用したことを理解できていないことによる。『鍼経』の理論革新に対して、『素問』は古典の整理という性質をより多く持っているため、集録された初期文献の旧態がより多く保存されているのである。


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