正しい翻訳は『季刊内経』No.220(2020年秋号)掲載
左合昌美先生訳 『針経』『素問』編撰と流伝の謎を解く
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4 作者
著者について、筆者の最近の研究でわかったことは、『鍼経』と『素問』がともに一人によりまとめられたことである。作者の名前は不明だが、この人は以下の条件を備えていると判断できる。①国家蔵書機構に長期にわたって勤めた経験があり、劉向や李柱国が整理した全部または大部分の医学書を利用できた。②該博な天地人の知識および非凡な文章表現能力を持つ。
〔李柱国:漢の成帝時(前33~29年)の侍医で、医経など方技書の校訂に参与した。〕
『鍼経』『素問』を編纂するために採用された大量の漢以前の医経類の古書を、民間で揃えるのは不可能である。たとえ前漢の最も盛名を博した淮南国や梁国といった地方の学宮〔学校〕であっても揃えるのは容易ではない。後漢になって、劉向父子が校定した書籍がしだいに社会に流布し、それまで国家蔵書機構に収蔵されていた古籍の定本を民間で見る機会が得られたとしても、古籍が手書きで伝えられた時代には、特別な背景を持たない学者が、劉向父子が整理した全部または大部分の古医籍を読むことは明らかに不可能である。これについて『漢書』藝文志の方技略総序は、つぎのようにはっきり述べている。「方技者、皆生生之具、王官之一守也〔方技なる者は、皆な生生の具、王官の一守なり〕」[7]78。また『黄帝鍼灸甲乙経』序には、「方技者、蓋論病以及国、原診以知政。非能通三才之奥、安能及国之政哉〔方技なる者は、蓋し病を論じて以て国に及び、診を原(たず)ねて以て政を知る。能く三才の奥に通ずるに非ざれば、安(いず)くんぞ能く国の政に及ばんや〕」[14]とある。そのような特殊な社会背景の下で、『鍼経』『素問』のような各家を集大成し、また自ら体系をなした医経をつくることができる可能性が最も高い人は、蘭台の令官、あるいは長く蘭台に勤務した経験のある医官または著名な学者である。
〔後漢に始めて置かれた宮廷の蔵書の校定などを担当する「蘭台令史」という官があった。〕
次のような可能性もある。劉向父子と李柱国による医書の校正には、二段階の壮大な計画があった。第一段階で伝世の各医経を整理し、第二段階において新しい理論体系を構築し、百家を合わせて統一する。この可能性があるなら、この計画の第二段階の計画は、李柱国またはその後継者によって達成された可能性がより大きい。
さらに考察すると、次のことが明らかになる。『鍼経』『素問』は官修〔政府編修〕ではなく私修〔私的編修〕に由来する。これらの条件を備えた作者は、在任中に編纂したのではなく、退職したり、政治的な連座により罷免されたりしたのちに創作したのである。なぜなら劉歆本人がその在任前または在任中の同僚の著作であれば、劉歆は知らないはずがないし、かつ極端な政治的要因がない限り、著録しないわけにはいかないからである。
著者は必ずしも優れた医術の医官でなくとも、非常に高い理論構築能力を持っていなければならない。『鍼経』の構想と執筆から、著者の理論的洞察力が張仲景に勝るだけではなく、更に後の『鍼甲乙経』の作者にも勝ることが容易に見て取れる。『鍼経』『素問』に反映されている著者の学識から見れば、この人は当時の通儒の大家〔古今に通暁し学識が該博な儒者〕であり、その在任期間中、医学書の定本を繕写〔謄写編集〕する際に自分用に副本を取っておき、老年になってこの副本をもとにこの世を驚かす作品を創作した可能性が高い。言い換えれば、本書の編纂方法と作者の経歴は、司馬遷が『史記』を編修したのと同じで、個人が編纂したものであって、集団で編纂したものではない。作者は長い間官職に就いていたが、編纂が完成したのは職を退いた後である。その上『鍼経』のような「一家の言を成す」、特に公理的な方法で統一理論体系が構築された著作は、個人にしかできない。
5 伝承
『鍼経』『素問』の伝承について、筆者の最近の研究では以下のような結論が得られた。
第一、『淮南子』の運命とは正反対で、外篇は広く伝えられたが、内篇は限定的であった。
他の内外に篇が分かれた子書の伝承の法則性とは異なり、外篇『素問』は注目度が高く、改編され、続補され、注解されたが、内篇『鍼経』が改編や注解されることはまれであった。伝承の上でこのような特殊な現象が現われたことについて、以下の二つの要素が関係すると考える。その1、『鍼経』は入念に構想して編纂されており、全体に一貫した内在論理がある。作者の編纂思想を理解できないならば、後代の人は改編しようとしてもほとんど手の下しようがなく、これ以上創作する余地は小さい。対して外篇『素問』の応用例と資料性は、その筋道と系統性において内篇『鍼経』には遠く及ばないため、さらに整理する余地が大きい。その2、筆者の『鍼経』『素問』に対する総合的な調査によれば、六朝時代に全元起が整理した後の『素問』には、多くの文字の重出と混乱があり、さらには同じ文章が異なった篇に重出していることさえあった。以前の伝本に混乱や重出がひどければ、「其の重複を去る」ことは、本を編集するための基本的な要求である。このことは、ある種の突発的事件があったために、全体の編纂(主に外篇である『素問』の部分)を完成できなかった可能性を示唆する。つまり本書が未定稿――内篇には題名がまだ付けられず、その上全体の書名もない――であることと、みな関連があるのかも知れない。
〔子書:中国古代の図書は、経・史・子・集の四つに分類される。その三番目。ここには諸子百家・仏教・道教・小説・技藝・術数などの著作が含まれる。
『素問』王冰序:「而世本紕繆、篇目重畳、前後不倫、文義懸隔、施行不易、披会亦難、歳月既淹、襲以成弊。或一篇重出、而別立二名。或両論併呑、而都為一目。或問答未已、別樹篇題、或脱簡不書、而云世闕、……其中簡脱文断、義不相接者、捜求経論所有、遷移以補其処、篇目墜欠、指事不明者、量其意趣、加字以昭其義。篇論呑幷、義不相渉、闕漏名目者、区分事類、別目以冠篇首。君臣請問、礼儀乖失者、考校尊卑、増益以光其意。錯簡砕文、前後重畳者、詳其指趣、削去繁雑、以存其要」。〕
第二、伝世本には亡佚・錯簡・続編がある。
亡佚の証拠:伝世本『素問』の篇目および本文の亡佚については、非常に多くの考証があるので、贅言しない。実は、伝世本の『霊枢』にも失われているところがある。一番はっきりしているのは刺節真邪篇が引用する『刺節』の原文であり、早くからない。
錯簡については、唐代の王冰が注解したとき、すでに明確に指摘している。具体的な状況は以下の通り。
「帝曰:形度・骨度・脈度・節度,何以知其度也了」。
王冰注曰:「形度、具『三備経』。節度・脈度・骨度、幷具在『霊枢経』中。此問亦合在彼経篇首、錯簡也。一経以此問為『逆従論』首、非也」。(『素問』通評虚実論(28))
「治在『陰陽十二官相使』中」。
王冰注曰:「言治法具于彼篇、今経已亡」。(『素問』奇病論(47))
詳らかにするに、全元起注本『素問』には『十二蔵相使』篇があり、「凡此十二官者、不得相失也」「主不明則十二官危」の論があることから、『陰陽十二官相使』はこのような篇章であると推測される。
〔『素問』霊蘭秘典論(08)の冒頭:「新校正云:按全元起本名『十二藏相使』在第三巻」。〕
このほか、『素問』にある注〔『霊枢経』曰:などの引用文〕と『霊枢』の経文が完全には対応していないことからも、原文に脱簡や錯簡があることが見いだせる。
錯簡、同一書内あるいは同じ篇内の文章の前後の乱れについては、古今の注家がすでに多くの実例を発見し、指摘している。筆者が気づいたのは、『鍼経』の結語にあたる官能篇でまとめられた諸篇の要となる文のうち、伝世本『霊枢』には見えないものが1条あり、それが『素問』調経論(62)に見られることである。ちょうどこの篇は、『鍼経』理論体系を構築するための原案を明確に提出し、疾病の全般的な病機や鍼灸治療の全般的な治則を論述し、全般的な病因などの重要な理論命題を確立していて、全理論体系を構築する上で不可欠の重要な篇章である。著者の内外篇の構想原則に従えば、これも内篇に置かれてしかるべきものである。初期の伝本では、内外篇が一つまとまりとして伝えられ、そのうえ内篇は書名を欠いてたため、内外篇の文は混乱が生じやすかった。しかし現在のところ、さらに多くの『鍼経』と『素問』の両書で互いに入れ違っていることの証明となる、より多くの実例を見つけられていない。
このほか、伝世本『霊枢』の19~26篇はいささか特殊である。その1、黄帝君臣の問答(19篇の引用は除く)がない。その2、道を論ぜず、病症診療をいう。理屈からいえば、内篇ではなく外篇に置くべきである。これには二つの可能性がある。その1、伝えられる過程で篇の順序〔位置〕が乱れ、外篇にあった篇が内篇に混入された。その2、内篇は伝えられる過程で、篇目〔いくつかの篇〕が欠失して九巻に足りなくなったが、初期の伝本名が「九巻」であることは周知のことであったし、また、経文には「余聞九鍼九篇、夫子乃因而九之,九九八十一篇」と明言されている。それゆえ、外篇の文を用いて内篇の欠を補った。『素問』が早い時期に一巻を失ったことは、このこととあるいは関係があるのかも知れない。
また、伝世本『素問』が記載する王冰が引用する『霊枢経』『鍼経』の文、および林億の新校正による注文に基づき、伝世本『霊枢』の脱字・誤字・錯簡の例を知ることもできる。具体的には以下のごとし。
経文:「中部人、手少陰也」。
王冰注曰:謂心脈也。在掌後鋭骨之端、神門之分、動応於手也。『霊枢経』持鍼縦捨論、問曰:「少陰无輸、心不病乎?」対曰:「其外経病而蔵不病、故独取其経於掌後鋭骨之端」。正謂此也。(『素問』三部九候論(20))
いま調べてみると、王氏が引用した「持鍼縦捨論」の文は、伝世本では邪客篇に見られる。このことは、以下のことを物語っているのかも知れない。すなわち、伝世本の邪客篇は、原始本にあった複数の篇を一つに再編したもの、あるいは早期の伝本では「持鍼縦捨論」と「邪客」が隣り合っていたため、前者の篇名の文字が脱落し、その本文が伝世本の邪客篇に混入してしまった。
経文:「去寒就温、無泄皮膚、使気亟奪」。
王冰注曰:去、君子居室〔正しくは「去寒就温、言居深室也」〕。『霊枢経』曰:「冬日在骨、蟄虫周密、君子居室」。(『素問』四気調神大論(02))
いま調べてみると、王氏が引用した『霊枢経』の文は、伝世本『素問』の脈要精微論篇に見られる。
経文:「以淡泄之」。
王冰注曰:淡利竅、故以淡滲泄也。蔵気法時論曰:「脾苦湿、急食苦以燥之」。『霊枢経』曰:「淡利竅也」。(『素問』至真要大論(74))
いま調べてみると、以上の王氏が引用した『霊枢経』の文は、伝世本には見えない。
経文:「其気以至、適而自護」。
王冰注曰:『鍼経』曰:「経気已至、慎守勿失」。此其義也。(『素問』離合真邪論(27))
経文:「為虚与実者、工勿失其法」。
王冰注曰:『鍼経』曰:「経気已至、慎守勿失」。此之謂也。(『素問』鍼解(54))
この〔鍼解〕篇の下文にすぐ「経気已至、慎守勿失」という〔経〕文があるのに、王冰は本篇の経文を引用せず、「『鍼経』曰」と注する。『素問』離合真邪論も同じ〔で「『鍼経』曰」と注する〕。また鍼解篇は、『鍼経』九針十二原篇の経文の注解であることは知られている。したがって、引用された「経気已至、慎守勿失、勿変更也」が『鍼経』の文の注文であることが知られる。王冰が見た『鍼経』の伝本ではまだこの篇が失われていなかったので、これを引用できたのである。
外篇にあたる『素問』の配列に手が加えられていることについて、特に唐代の王冰が重注した時に行なった大幅な配置移動については、すでに多く現代人には知られているので、詳述しない。『鍼経』の配列の変更については、『素問』よりはるかに小さいとはいえ、伝世本の配列順序が原本とは異なっていることを示す証拠もある。最も顕著な例は、結語にあたる官能篇であり、伝世本では第73篇目であって、最終篇ではない。
『素問』以外の各篇を総称して「九巻」と呼んだということは、そう呼んだ最初の時点ですでに『素問』が九巻ではなかったことを暗示している。また、早い時期の伝本である『鍼灸甲乙経』『太素』に収録された『素問』のテキストも、みな〔一部の文章が欠けていることは除くとして〕まるまる一つの篇が伝世本に見えないというのは発見されていない。これは二つの可能性を示唆する。その1、『素問』の篇目の失われた時期が早い。その2、『素問』はもともと8巻であって、失われたことはない(伝承の過程で一時失われたことを除く)。
筆者の調査では、最も早く直接『鍼経』『素問』を引用しているのは、漢代の『難経』と『黄帝明堂経』であり、最も早く直接引用し、かつ出典を明示したのは魏晋の『脈経』である。
伝世本『霊枢』『素問』の源流について、日本の学者、真柳誠教授による近年の最新研究成果が指摘するところでは、現行の『霊枢』24巻は北宋・元佑刊『鍼経』9巻系統に基づいて改編されたもので、祖本は南宋・国子監紹興25年序刊本である。この時、国子監は『霊枢』と『素問』を合刻し、両書の合刻本を『黄帝内経』と総称したのである[15]。
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