2010年3月31日水曜日

『史記』倉公伝

 これは機能テストのための書き込みです。

  太倉公者,齊太倉長,臨菑人也,姓淳于氏,名意。少而喜醫方術。高后八年,更受師同郡元里公乘陽慶。慶年七十餘,無子,使意盡去其故方,更悉以禁方予之,傳黄帝、扁鵲之脈書,五色診病,知人生死,決嫌疑,定可治,及藥論,甚精。受之三年,爲人治病,決死生多驗。然左右行游諸侯,不以家爲家,或不爲人治病,病家多怨之者。
『史記』の倉公伝は,正史に載る医家の伝の中で異例に長いものだと言う人があるが,本当にそうなのか?
  そんなことはない。倉公伝の本文は「太倉公者」から「此歳中亦除肉刑法」までであって,そう長くもない。その前半は詔問と応対の文章を資料とし,後半は孝文本紀と共通の材料に拠っていると思われる。そして付録されている詔問と応対の文章が長いので,伝記の文章が長いと錯覚されるだけである。で,本文と資料の間に問題が有る。本文の読解ではこの点に注意して進めていこう。
  太倉長は,医学と関わりの有るお役目なのか? 詔問の最後のあたりで,淳于意から医を学んだものの一人として,菑川王の「太倉馬長」馮信というものの名が挙がっている。太倉が各地から集まってきた物資を保管するところと解すれば,薬用に供されるものもその内に含まれるはずで,そこそこの関係は有ったのかも知れない。馮信が学んだのは主に薬に関することである。
  臨菑の人という。この点にも若干の問題が有る。淳于意の前の師匠は菑川の公孫光であり,後の師匠は公孫光の紹介による臨菑の陽慶である。無論,臨菑は大都市であり,また陽慶は医を業としていたわけではないから,臨菑の人である淳于意が,臨菑の人である陽慶を知らなくても別に不思議はない。ただ,詔問の文中にはどこの人とは明記されてないように思う。臨菑は斉の首都,菑川はその東南東で,そう遠くはない。
  淳于氏は,春秋の頃に山東地方にあった小国の名に因む。菑川のさらに東南東にあたる。有名な人に,先ず戦国時代に斉の威王を諫めた弁舌家の淳于髠がいる。秦の始皇帝の郡県制に反対意見を述べた淳于越も,斉の出身である。後の時代には,三国時代に袁紹に仕えた武将に淳于瓊というのがいる。また鑑真和尚の俗姓も淳于である。
  若くして医の方術を喜ぶという。菑川の公孫光が最初の師匠というわけではない。それ以前にすでに,そこそこの治療実績も有った。ところが菑川の公孫光が古方を伝えていると聞いて出かけていって師事した。その方が尽きたところで,さらに公孫光の紹介で臨菑の陽慶に師事して,さらに貴重な古方を承けた。高后八年(180bc)のことである。
  その時,陽慶はすでに七十余歳で,「無子」というが,詔問の資料には男子の「殷」が登場する。そこで「無子」は衍文であるとか,あるいは医学を伝える前に死亡したとか説かれる。そうではあるまい。文章を分かり易くするために,司馬遷が資料を脚色した可能性が有る。陽慶は貴重な医書を伝えていたが,七十歳にもなって,伝えるべき子がいなかったから,お気に入りの弟子に授けた。後の資料を見なければ,すっきりとした話ではないか。事実は異なる。子はいたし,医を業とする同胞もいたらしい。
  伝えられた医書とは如何なるものであったか? おそらくは「黄帝、扁鵲之脈書」と「五色診病」であろう。それによって,人の生死を知り,嫌疑を決し,治すべきを定める。詔問中の詳しい篇名は省かれている。しかし,診籍を見ると,診断法の中心は脈診と望診であり,「黄帝、扁鵲之脈書」と「五色診病」を挙げるのは,的確な判断と言えそうである。その後の「薬論」もあるいは書名かも知れない。これも診籍中の治療が概ね投薬であるのと呼応している。
  これを承けること三年というのは,三年で学び終えたのか,師匠が死んだのか? おそらくは,秘方を承けて,三年でほぼ学び得て,またそのころ師匠の陽慶が死亡したので学び終えることになった。さらに陽慶亡き後にも,斉の文王が病んだとき,吏によって拘束されるのを恐れて,国中(おそらくは斉国中)を遊行して,方を探し求め,数師に事え,その要事を受けている。
  「然左右行游諸侯,不以家爲家」は,詔問資料ではその斉の文王が病んで,召されそうになったときに,治せないとふんで避けた際の文中に有る。「不爲人治病」にいたっては,貧しいから病人を治療して謝礼を得たいからという,お召しを避ける理由として述べられている句の裏返しである。また,陽慶は富豪であって医者ではないという話において,「不肯爲人治病,當以此故不聞」とある。従って「不爲人治病,病家多怨之者」は,司馬遷による作文であり,これが淳于意が訴えられたのは,治療を断って,病家に恨まれたからだと理解される理由となった。

  文帝四年中,人上書言意,以刑罪當傳西之長安。意有五女,隨而泣。意怒,罵曰:“生子不生男,緩急無可使者!”於是少女緹縈,傷父之言,乃隨父西。上書曰:“妾父爲吏,齊中稱其廉平,今坐法當刑。妾切痛死者不可復生,而刑者不可復續,雖欲改過自新,其道莫由,終不可得。妾願入身爲官婢,以贖父刑罪,使得改行自新也。”書聞,上悲其意,此歳中亦除肉刑法。
文帝四年(176bc)は,十三年(167bc)の誤りである。『史記』孝文本紀にはそうなっている。文章自体も,ほとんど同じで,要するに文帝の名君ぶりを言いたいだけのことである。
  ただ,このとき淳于意は何歳だったのだろう。「子が有っても男の子がいないから,ことあるときに役にたたない」と罵ったというけれど,頼りになるような男の子が有り得るというと何歳くらいに想定すべきなんだろう。詔問資料中の「至高后八年」に徐広が注して「意年二十六」という。文帝十三年のこととしても,三十九歳にしかならない。いくら当時でも,これでは罵るほうが無理ではないか。ところがここに滝川亀次郎が『会注考証』の底本に選んだ金陵本では,「意年三十六」となっており,訴えられたときに四十九歳であるから,五人いたという内の季の女が上書するのも不可能ではなさそうである。
  淳于意が訴えられたのは,治療を断って,病家に恨まれたからだと一般に理解されている。しかし,治療を断ったからといって,長安に送られて,肉刑に処せられるだろうか。当時の刑法の状況が分からないのだが,やっぱり釈然としない。。
  実は家伝の秘方を承けたのを,(相当な貴重品の)窃盗の如くに考えられたのではないか。上で,陽慶には実は子が有ったと言った。この子は医者ではなく,また淳于意が陽慶に師事するについての仲介をなしている様子なので,この人が訴えた可能性は排除して良いだろう。しかし,詔問資料の中に,公孫光の言として,「吾有所善者皆疏,同産處臨菑,善爲方,吾不若」とある。これを,「私には仲の良い医者がいるが,そいつの技倆はたいしたことはない,ただその同胞で臨菑に住んでいるのは,たいした技倆で,私なんぞおよびもつかない」と解釈できるとすると,陽慶には医者の同胞がいることになる。あるいは一族もろともに遍歴医だったのかもしれない。陽慶は成功して富豪となって,医者はやめた。子も医者にはならなかった。そこで,みこんだ弟子の淳于意に秘伝書を伝えた。遍歴医の間の伝授は,「其の人であるか否か」が問題であって,気にいった弟子に伝えるのがむしろ常態であった,という説が有る。しかし,同胞にしてみれば,秘伝書は一族の共有財産であって,勝手に変な人に伝授されてはこまる,という訴えだったのではないか。詔問資料の後ろのほうにある「愼毋令我子孫知若學我方也」は,「愼毋令我同胞知若學我方也」であるべきなのかも知れない。
  あるいはまた,高后歿き後,誰が皇帝になるかについての二大候補の一方であった斉国自体が,文帝の朝廷からしてみれば,仮想敵国のごときものである。淳于意は,斉に於ける政治的立場を買いかぶられたのかも知れない。突拍子もない説のようだが,後文に「身居陽虚侯國,因事侯」とあり,本文にも「左右行游諸侯,不以家爲家」といい,女の上書中にも「妾父爲吏,齊中稱其廉平」とある。斉王(もとの陽虚侯)のお覚えめでたいことで,他の医者仲間から妬まれた可能性もある。太史公曰には,「士無賢不肖,入朝見疑」云々とある。この司馬遷の「言いたいこと」からすれば,「宮廷で目立ちすぎた」という珍説も案外と馬鹿にならないかも知れない。

1 件のコメント:

  1. これはコメントの投稿テストです。コメントでは複雑なレイアウトとか画像の添付とかはできないようです。ちょっとした相槌程度ですね。新しい内容は新しい投稿で,ということになりそうです。

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