2018年3月18日日曜日

古代数術から見た経脈の長さと営気の流注

     卓廉士*1(重慶医科大学中医薬学院、重慶)
      『中国針灸』2008年8月第28巻第8期   〔*〕内は訳注。
以下,抜粋。
四は四季の数であり、五行と配するために特に一季を増やして、あわせて五季とする。春・夏・長夏・秋・冬は、生・長・化・収・蔵の数に符合する。五は五行の常数であり、『易経』繫辭上は「天數五、地數五、五位相得而各有合。天數二十有五、地數三十、凡天地之數、五十有五、此所以成變化而行鬼神也〔天の數は五、地の數は五、五位相得て各おの合有り。天の數二十有五、地の數三十、凡そ天地の數、五十有五、此れ變化を成して鬼神を行う所以なり〕」という。よって、五も重要な基本数のひとつであり、五の倍数である十・十五・二十・二十五・三十・三十五……と、三百六十五にいたるまで、「天地の数」とみなされる。まさにいわゆる「天地之間、六合之内、不離于五、人亦應之〔天地の間、六合の内、五を離れず、人も亦た之に應ず〕」(『霊枢』陰陽二十五人)である。
三と五は、数術の重要な基本数であり、『黄帝内経』においては、出現頻度がきわめて高いことがわかった。たとえば、三は、三候・三部・三陰・三陽、その倍数では六気・六腑・病の六変・陰陽六経・情志の九気・形神の九蔵・頭部の九竅・鍼の九鍼・十二経脈・十二節・十二時・十二月である。五は、五臓・五官・五色・五音・五体・五志・五乱、その倍数では「二十五陽」(『素問』陰陽別論)、「二十五変」(『素問』玉機真蔵論)、「二十五穴」(『素問』気穴論)、「二十五腧」(『霊枢』本輸)、「陰陽二十五人」(『霊枢』陰陽二十五人)、「衞氣行于陰二十五度、行于陽二十五度」「營周不休、五十而復大會」(『霊枢』営衛生会)、三百六十五節(『素問』六節蔵象論)、「三百六十五絡」(『素問』針解)などである。このほか、『内経』では河図洛書にある天地の生成の数ももちいられている。
 三と五は数術の基本数であり、古代人の尊崇を受けて、「三五の道」と称された。『史記』天官書には「爲天數者、必通三五〔天數を爲(おさ)むる者は、必ず三五に通ずべし〕」といわれ、「三五」は宇宙時空の至数を内包していて、きわめて神秘的なものと考えられた。『漢書』律暦志は「數者……始於一而三之……而五數備矣〔*焉〕……始〔*故〕三五相包……太極運三辰五星於上、而元氣轉三統五行於下〔數なる者は……一に始まりて而して之を三にす(三を乗じ)……而して五數備わる(五行の数が備わる)……故に三五相包み(三統と五行を相い包摂し)……太極は三辰五星を上に運び、而して元氣は三統五行を下に轉ず(太極は三辰・五星を上にめぐらし、元気は三統五行を下に転ずる)〕」という。「三五の道」とは、天人が「上」「下」に交通する道である。よって数術の演繹はつねに三五の形式による。古代人は、「以三應五(三を以て五に應じ)」(『淮南子』天文訓)、三五十五、四五二十、五五二十五、六五三十、七五三十五、八五四十、九五四十五の数を得る。これらの結果を固定してある種の常数として、天人聯繋の紐帯とみなす。
 各経脈の長さをみると、足陽経が古代の八尺を取っている以外、その他はみな三五の倍数である。手三陽経はそれぞれ長さ三尺五寸、足三陰経はそれぞれ六尺五寸、蹻脉の長さは七尺五寸、任督二脈はそれぞれ四尺五寸である。これ以外に注意すべきは、手足陰陽経脈の差も三五およびその倍数であることである。足陽経と足陰経の差は、一尺五寸(8-6.5=1.5)であり、手陽経と手陰経の差も一尺五寸(5-3.5=1.5)であり、手足陽経の差は三尺(8-5=3)であり、手足陰経の差も三尺(6.5-3.5=3)である。数術は単位と小数は使わないので、上述の一尺五寸・三尺五寸・四尺五寸・五尺・七尺五寸は、それぞれ十五・三十五・四十五・五十・七十五と見るべきで、いずれも「三五之道」の数術に属す。
 経脈の総数は二十八本であり、上では二十八宿に応じる。二十八の数と合わせるために、『霊枢』脈度では衝脈・帯脈・維脈を捨てて論じない。『霊枢』五十営は「天周二十八宿、宿三十六分」という。これから分かるように、経脈の総数の実際は、六六の天数を隠し持っている。「天以六六之節、人以九九制會」とは、天数と相応ずるためであり、経脈は長さにおいては、九九の数を採用している。『霊枢』脈度によれば、経脈は左右に各一、あわせて長さ十六丈二尺(81×2=162)であり、人体の片側の経脈は八丈一尺で、九九の数である。任・督の二脈はあわせて九尺(4.5+4.5)であり、また「九九制会」の数に含まれる。「制会」には、制約・規範の意味があり、天人の交流を実現するために、臓腑の気化や経脈の長さなどの生理指標はかならず九九の数の制約と規範を受けているということである。
 数術を用いて、経脈の長さを整理してみると、興味深い現象に行き当たる。つまり、上肢が下肢より長いのである。手足の経脈の長さは人体の上肢と下肢の比例が倒置してあらわれる。手陰経は手から胸にいたり、長さ三尺五寸であり、上肢の長さを表している。しかし手陽経は手から頭にいたり、長さ五尺であり、上肢と頭部の長さを表している。そうすると、頭の長さは手陽経と手陰経の差となり、一尺五寸(5-3.5=1.5)である。任脈は会陰から咽喉にいたり、長さ四尺五寸であり、胸腹部の長さを表している。人体全長から頭部と胸腹部の長さを引けば、下肢の長さとなり、三尺である(8-1.5-4.5=3)。これは、あきらかに上肢の三尺五寸より短い(3.5-3=0.5)。明清の鍼灸書籍に描かれている経絡図譜は往々にして上肢が下肢より長く、形態も素朴で古拙であり、古法鍼灸の心を得て伝えているにちがいない。(図1・手少陽三焦図。清代劉清臣『医学集成』より)〔*省略〕
  4 数術と営気の流注
 『内経』は営気の流注理論に関して、同じように「人生於地、懸命於天〔人は地に生まれ、命を天に懸く〕」(『素問』宝命全形論)という観点から、解釈と説明をする。『霊枢』五十営は「天周二十八宿、宿三十六分、人氣行一周、千八分。日行二十八宿、人經脉上下・左右・前後二十八脉、周身十六丈二尺、以應二十八宿。漏水下百刻、以分晝夜、故人一呼、脉再動、氣行三寸、一吸、脉亦再動、氣行三寸、呼吸定息、氣行六寸。十息、氣行六尺、日行二分。二百七十息、氣行十六丈二尺、氣行交通于中、一周于身、下水二刻、日行二十分有奇〔*3〕、五百四十息、氣行再周于身、下水四刻、日行四十分。二千七百息、氣行十周于身、下水二十刻、日行五宿二十分。一萬三千五百息、氣行五十營于身、水下百刻、日行二十八宿、漏水皆盡、脉終矣。所謂交通者、并行一數也、故五十營備、得盡天地之壽矣、凡行八百一十丈也」という。
 経脈の全長は十六丈二尺であり、上において二十八宿に応じるのは、『霊枢』脈度と同じである。天のめぐりは毎宿(星座)三十六分、六六の数をめぐる。人は九九の数をめぐってはじめて天体の運行と一致を保てる。九は三を源とする。三は生生の常数である。「人一呼、脉再動、氣行三寸、一吸、脉亦再動」、気のめぐりは三から始まり、その後は三の倍数として増加して、からだを五十回営(めぐ)り、三五の数に合う。気のめぐりは一周で二百七十息で、三九の数に合う。気は五十周して、「凡行八百一十丈」(16.2×50=810)、まさに九九の数に合う。八十一は、数術の極数であるので、「天地の寿を尽くすことを得る」。
 営気の流注には二つの部分がふくまれる。1.気のめぐりの長さと呼吸が数術に符合する。あわせて一万三千五百息で、気は八百一十丈めぐる。2.日(太陽)の分度と呼吸も数術に符合するはずである。あわせて一万三千五百息で、日は一〇〇八分めぐる。この二つの部分は相互に配合する。「いわゆる交通とは、并せて一つの数を行る」のであり、いずれもめぐるのは「九九制会」であり、つまり三三・六六・九九の数である。ここで一つ注意すべきことがある。数字の上では、第一の部分の計算にはあやまりがない。「呼吸定息、氣行六寸」の累計から来ている(810÷13500=0.06)。第二の部分は「日行二分」という見解とは大いにくい違う(1008÷13500=0.0746666)。張景岳はこの誤りを指摘して、次のように注した。「其日行之數、當以毎日千八分之數為實、以一萬三千五百息為法除之、則毎十息日行止七釐四毫六絲六忽不盡。此云日行二分者、傳久之誤也〔其の日行の數は、當に毎日千八分の數を以て實と為すべし。一萬三千五百息を以て法と為し之を除せば,則ち十息毎に日行ること止(た)だ七釐四毫六絲六忽不盡のみ。此に云う日に行ること二分なる者は,傳久しきの誤りなり〕」〔*4〕という。馬蒔も次のようにいう。「按正文云:『二分』、今細推之、其所謂二分者誤也。假如日二分、則百息當行二十分、千息當行二百分、萬息當行二千分、加三千五百息、又當行七百分、原數止得一千八分、今反多得一千六百九十二分。想此經向無明注、遂致誤傳未正〔按ずるに正文に『二分』と云う。今ま細かに之を推せば、其の謂う所の二分なる者は誤りなり。假如(もし)日に二分なれば、則ち百息に當に二十分行るべし。千息に當に二百分行るべし。萬息に當に二千分行るべし。三千五百息を加えれば、又た當に七百分を行るべし。原(もと)の數は止(た)だ一千八分を得るのみ。今ま反って多く一千六百九十二分を得。想うに此の經、向(さき)に明注無し。遂に誤傳を致して未だ正されず〕」。古代の医家は多く「日行二分」について、記述に誤りがあると考えた。筆者もこれに同意する。その理由は、「二」が「九九制会」の数術カテゴリーに属さないためである。
経脈の長さと営気の流注は、天道が感応聯繋を生じる数術演繹であることには、疑いない。しかしながら、数術は数学ではないので、結論として証明するのは容易ではない。それは、九天の高さと九地の深さを測ることができないのと同じである。この考え方は、経脈の研究に非常に有益である。なぜなら、少なくともわれわれは、呼吸の回数、脈拍数、心拍数、心脈符号度〔*未詳〕、血流速度などの現代医学の指標から、経脈の長さと営気の流注を研究する糸口を見いだすのは困難であることを知っているからである。現代科学の方法を採用し、営気の流注を「新たに評価し、あわせて慎重に検証する」ことを主張する学者[3]もいるが、着手するには困難がつきまとうと思われる。もし、数術には証明するすべがないことを理解するなら、おそらく現代実証科学の手段をもちいる、営衛流注研究の実行可能性について、反省するところがあるであろう。

1 件のコメント:

  1. 『千金方』での灸に壮数でおもしろい結果があります。
    6壮、8壮、11壮、13壮、15壮、60壮、80壮、90壮がありません。
    100の位でいえば、400壮、600壮、700壮、900壮がありませんでした。
    逆に多いのは、100、7、3、50、30です。
    100壮が、21%
     7壮が、14%
    年壮が、12%
     3壮が、12%
    50壮が、6%
    これだけで、全体の60%をしめる。
    6や8を嫌い、100や7、3が好きなのがわかります。


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