二つの道を統合し,同異を並行させる
『霊枢』以前,先人たちはすでに「百慮一致」という著述目標を掲げ,「同を求めて異を存す〔小異を残して,大同を求める〕」の理念によって成功例を示してきた。しかし,先人たちの実践は同一書の中で「同と異」を処理することにとどまり,最終的に達成された「百慮一致」は大幅に妥協を伴うものが多かった。たとえば『淮南子』は諸家の説を包容し,互いに相容れない対立する見解についてもできる限り調和させ,一書の中に共存させようとした。その結果,「同を求む」と「異を存す」のいずれも思い通りにはいかず,真に矛盾のない調和のとれた統一体系を構築するには至らなかった。『霊枢』の作者は独自の道を切り開き,「魚」と〔非常に美味だという〕「熊の掌」は,片方しか得られないという難題を巧みに解決した〔『孟子』告子上:「孟子曰:魚,我所欲也;熊掌,亦我所欲也,二者不可得兼」〕。
伝世本『霊枢』『素問』の篇目の構成をつぶさに見るすると,次のような規則が見出される
一つ目は,医学理論体系(たとえば,気街学説・経絡学説・経筋学説・営衛学説・三焦学説など)はすべて『霊枢』にある。一方,鍼道に関する解釈や修練・応用,そして主流ではない各家の諸説や別論の多くは『素問』にある。
二つ目は,主流の学説・診法・輸穴・刺法・治法は『霊枢』にあり,主流ではない各家の学説・診法・刺法・治法は『素問』にある。
三つ目は,刺法の基準や治療の大法は『霊枢』に集約されている一方で,具体的な臨床応用の多くは『素問』にある。
四つ目は,作者によって新たに打ち立てられた学説,たとえば営衛循環説や,陰陽が相互に貫通すること,周して復た始まること,環の端無きが如き経脈循環などの内容は『霊枢』で論じられている。人迎寸口脈法の構築・完成・論証も『霊枢』にある。
このように位置づけることによって,主たるものと従たるもの,詳述すべきものと略述すべきものを明確にし,理論的革新の簡明さを強調しつつ,臨床応用の実用性や資料性にも配慮されている。その結果,「道を論じて同を求める」と「術を言いながら異を存す」という二重の目標が最大限に実現されている。「異を存す」は主に以下の点にあらわれている。すなわち,新たに人迎寸口脈法を『霊枢』に立て,三部九候の旧法を『素問』に完全に保存した。これも作者が保存した最大限の「異」である。経脈の基準を『霊枢』に「経脈」〔篇〕として定め,経脈に関する別説を『素問』に「経脈別論」として保存した。その蔵象学説や陰陽学説の異説別論もみな『素問』に専篇を設けて保存している。背腧の基準を『霊枢』に定め,背腧に関する別説を『素問』に保存した。
『霊枢』と『素問』は,内容の配置だけでなく,具体的な編纂方法にも明確な違いがある。『霊枢』は理論体系の構築を主眼としているため,各篇の間には非常に強い内在的な論理が存在する。しばしば関連する概念や原理が前の篇で既に論じられており,後の篇でそれが直接引用されたり,さらに補足されたりする。これらの篇は,まとめて読まなければ解釈が難しい。たとえば,刺節真邪篇と五禁篇,陰陽二十五人篇と通天篇,陰陽二十五人篇と五音五味篇などは,非常に密接に関連しており,ほとんど切り離すことができない。最も典型的な例は経脈篇であり,これは営気・五十営・経水・脈度・禁服・経別・営衛生会・逆順肥瘦などの諸篇による段階的な布石を経て最終的に完成した篇である。もし関連する篇を読まなければ,経脈篇を正確かつ完全に理解することはできないのである。
漢代の総集の下部分類を「内」「外」で分ける伝統に従えば,『霊枢』は内篇と見なすことができ,理論体系の構築を目的とした著作である。一方,『素問』は外篇と見なされ,臨床応用や参考資料としての性質を持つ。内篇は主に共通点を求め,外篇は主に相違点を保存している。この両者の「体と用」が一体となって,すべてを備えた医経を構成している。この巧妙な設計は,現代の教科書における「教材」と「教学参考書〔補助教材〕」の前身と呼んでも決して過言ではない。
『霊枢』以前,古人はすでに著作や立説には「博」〔広く詳しく〕と「約」〔簡潔で要点を押さえる〕の二つの方法があることを知っていた。ただし,先人の考えでは,この二つはどちらか一方しか選べず,博か約かで,博と約の両立はできなかった。従来の著作や立説は,多くが『淮南子』〔要略〕の示した「多く之が辞を為し,博く之が説を為す」という博く通ずる道を歩んできた。『霊枢』の作者は,この二者択一の難題に対して独自の道を切り開き,「先に博くし,後に約にする」という方法によって,一つの書物の中に「博」と「約」の両方の道を示した。すなわち,まず「多く之が辞を為し,博く之が説を為す」方式で理論体系の構築を完成させ,通じ達することを図ったうえで,その中から要点を抽出し,簡潔にまとめた九篇を巻頭に置いたのである。特に注目すべきは,この簡約化の過程が単なる「要点の抜粋」ではなく,一つの再創造・再完成の過程であったという点である。この巧妙な設計を,現代教科書の「総論」「各論」モデルのひな型と呼んでも決して過言ではない。
素材は三つ,用法は二つ
既に学者が指摘しているように,伝世本『霊枢』『素問』は『漢書』芸文志に著録された七部の医経全てを採用した可能性がある。筆者の調査によりさらに明らかになったのは,『霊枢』『素問』を編纂する素材には三つの主要な出典があるということである。
その一,医家の文献であり,三家七経を主体とするもの。
その二,医家以外の諸家の関連文献。
その三,『霊枢』『素問』の編纂時に作者が新たに発見した素材文献。
医家以外からの文献の採用については,主に『漢書』芸文志に記載されている「易」「陰陽家」「五行家」「雑家」などの関連諸家の文献から取材されている。現存する資料から確定できる点は二つある。
その一,『素問』脈解は全篇を通じて「十二消息卦」を用いて六つの経脈の脈候を解説している(『霊枢』にも直接または間接的な引用が見られる)。すでに知られているように,「十二消息卦」は前漢末期に孟喜によって創始されたものであり,新しい学説が登場すると,まずはその本来の分野で用いられ,影響力が拡大するにつれて他の分野にも応用されるようになる。したがって,時期的に見てもこの学説は『霊枢』『素問』の作者が『漢書』芸文志に著録された『孟氏京房』十一篇から医書に取り入れたものと考えられる。
その二,『素問』『霊枢』は『淮南子』(すなわち『漢書』芸文志に著録されている『淮南内』二十一篇)から多くの素材を取っている。この書における治国や用人についての論,陰陽五行の説は,『素問』『霊枢』の中でそれぞれ異なる程度や方法で反映されている。
『霊枢』が最新の解剖学資料を採用しているかどうかを考証することは,極めて困難なことである。しかし幸いにも,『霊枢』大惑論の冒頭には,非常に詳細な医案が記載されており,そこには明確な場所と,おおよその時期――すなわち前漢の梁孝王の東苑清泠台――が示されている。医案は病症と診療の細部にわたる描写が極めて具体的かつ生き生きとしており,また黄帝が一人称で記述されていることから,これは漢代のある帝王もしくは著名人の実際の病案であった可能性がきわめて高い。書物に記載されるに至ったのは,当該人物の死後しばらく経ってからであるはずである。また,医案中で詳細に記述されている脳神経の構造と機能に関する知識は,前漢の王莽時代におこなわれた人体解剖実験〔天鳳三年(16年)〕に由来する可能性が最も高く,この二つの時間的な節目も,ちょうど一致している。この明確な手がかりに基づき,海論・経脈・寒熱病・衛気・動輸などの篇における脳神経とその機能に関する論述は,いずれも同じ資料を出典としていると推測できる。このほか,腸胃篇と平人絶穀篇における胃腸の解剖学的数値についても,最新の解剖資料に基づいているはずである。
『霊枢』と『素問』には,採用した文献の新旧において違いがあり,素材の引用方法にも明確な差異がある。『霊枢』は主に著者が確立した理論的枠組みに従い,新旧の素材を用いて新たな篇章を創作している。一方,『素問』では改編が比較的少なく,原文献の旧態を最大限に保存している。論文と原始資料を比較することで明らかになるのは,『霊枢』が主に「撰」〔創作・再構成〕を重視しているのに対し,『素問』は「編」〔編集・整理〕を主としているという点である。作者が『素問』において体現した「存異」は,単に異説を保存するだけでなく,その異説の旧態までも保存しているのである。『霊枢』で使用された一部の原資料が『素問』になお完全な形で保存されていることからも,著者に文献を保存しようとする意識が強かったことが容易に窺える。
優れた篇を評価しつつ過失を思索する
優れた篇の首尾を分析する
具体的な事例を選んで,著者の構成上の巧みな筆致を分析することは,読者により直観的で深い印象を与えることができるかもしれない。紙幅の制限もあるので,本書の首篇と尾篇の二つを選び,篇首の設計についてのみ簡潔に解説する。原書の冒頭は伝世本『霊枢』の第一篇「九針十二原」であり,尾篇は第七十三篇「官能」である。
黃帝問于岐伯曰:余子萬民,養百姓,而收其租稅。余哀其不給,而屬有疾病。余欲勿使被毒藥,無用砭石,欲以微針通其經脈,調其血氣,營其逆順出入之會,令可傳於後世。必明為之法,令終而不滅,久而不絕,易用難忘;為之經紀,異其篇章,別其表裏;為之終始,令各有形,先立針經,願聞其情。岐伯答曰:臣請推而次之,令有綱紀,始於一,終於九焉。請言其道。(九針十二原)
黃帝問于岐伯曰:余聞九針于夫子,衆多矣,不可勝數,余推而論之,以為一紀。余司誦之,子聽其理,非則語余,請其正道,令可久傳,後世無患,得其人乃傳,非其人勿言。岐伯稽首再拜曰:請聽聖王之道。(官能)
冒頭の篇は黄帝が道を問うて岐伯が道を答える形で始まる。一方,結末の篇では黄帝が学んだ「衆多の」鍼道をすでに融通無碍に理解し整理して「以て一紀〔一つの体系〕と為」し,岐伯に道を説く。岐伯は「稽首再拝」して「聖王の道」を恭しく聴く。
冒頭の篇で示された鍼道の定義は「微針を以て其の経脈を通ぜしめ,其の血気を調え,其の逆順出入の会を営す」であり,結尾の篇では「血気を理(おさ)めて諸々の逆順を調え,陰陽を察して諸々の方論を兼ぬ」と記されている。いずれも「血気」に集約され,脈輸における「血気出入の会」に帰着する。
冒頭の篇と結尾の篇で論じられている載道の術〔思想道理を表明する方法〕は全く同じであり,いずれも血気の輸に対する毫鍼による虚実の補瀉と経脈の調節法である。
冒頭の篇で黄帝が「先ず鍼経を立てる」ことを望んだ目的は,「必ず明らかに之が法と為し,終わって滅びず,久しくして絶えず,用い易く忘れ難(がた)く,之が経紀と為す」ためであった。結尾の篇では鍼道を立てる目的を「久しく伝う可く,後世に患い無からしむ」と改めて強調し,「余は推して之を論じ,以て一紀と為す」と述べる。これによって「之が経紀と為す」『鍼経』がすでに確立されたことを明示して,冒頭の篇と見事に呼応している。経紀が確立された後に,さらに継承の規範:「其の人を得れば乃ち伝え,其の人に非(あら)ざれば言うこと勿かれ」を定めた。そしていかにして「其の人を得る」かを問うことで「官能」の議論へと導き,鍼の道を追求する読者に尽きることのない余韻と深い思索を残す。これは全書において完璧かつ絶妙な「画竜点睛の筆〔最後の仕上げ〕」と言えよう。
表現手法においては,冒頭の篇では毎回「凡」字で始まり,「畢」字で締めくくる。たとえば「凡用針者」「凡将用針」「凡二十七気以上下」「凡此十二原者」などであり,「針道畢矣」「九針畢矣」「針害畢矣」「刺之道畢矣」などである。結語の篇においても同様の手法が用いられ,首尾一貫して統一されている。
このような前後に呼応し合った一体の設計を目の当たりにすると,「一時の作に非(あら)ず,一人の書に非(あら)ず」「論文集」といった既成概念はもはや成り立ちがたい。
ついでに言えば,結尾の篇である「官能」の後半で論じられる「官能」は『淮南子』を参考にしており,「針論に曰わく」と引用されている「其の人に得れば乃ち伝え,其の人に非(あら)ざれば言うこと勿かれ」の「其の人を得る」「其の人に非ず」は,『淮南子』で君主が人材を用いる道を論じる際の常用表現である。具体的に七種類の人物〔明目者・聰耳者・捷疾辭語者・語徐而安靜,手巧而心審諦者・緩節柔筋而心和調者・疾毒言語輕人者・爪苦手毒,為事善傷者〕の任用について論じる文の形式は,『淮南子』主術訓と瓜二つであり,篇名の「官能」さえも,『淮南子』〔兵略訓〕の「官は其の任に勝(た)え,人は其の事を能くす」を典拠としている。『霊枢』の成書年代を最も如実に示す結尾の篇の後半部が論じている「官能」は,取材の内容と引用,さらには篇名に至るまで,いずれも明らかに『淮南子』の影響を受けている。また『淮南子』は成書後すぐにお蔵入りとなり,前漢後期まで解禁されなかったことが知られている。このことも,『霊枢』の編纂年代が前漢後期より古くないことを示す内的証拠の一つである。
『霊枢』のこの初めと末尾の二篇の設計だけを見るならば,完璧と言えよう。しかし全書の設計全体から見ると,『淮南子』に比べて全体を締めくくる絶妙な後序が欠けている。
古今の過ちを論ずる
全書の設計を論じる後序の連係が欠けていたために,伝世本『霊枢』では結尾篇の位置がずれただけでなく〔官能は,『霊枢』81篇中の第73篇〕,他の篇の混乱や経文の人為的な誤改も,多くこれと関連している。たとえば『霊枢』病伝と『素問』標本病伝は本来,論文と素材の関係にある。後世の人はこれを察せず,しばしば一方を他方に当てはめ,恣意的に改竄や妄注を加えた。宋代の新校正をおこなった諸医家や明代の楼英といった一流の専門家でさえ,この問題においてはみな誤りを犯している。もしこのような一流の専門家たちが十数年にわたり『霊枢』に傾倒しながらも次々と失敗したのなら,今日の我々の『霊枢』探求の道は,いかにして遠回りを減らせるだろうか。十数年前,この〔『霊枢』探求の〕道を歩むと決めた時,すでに『霊枢』を解釈する上で最も恐れるべきは理解できないことではなく,自分では理解したと思い込んでいるのに実は全く理解していないことだと気づいていた。この道に正しい進路を示す標識が見つからないのなら,誤った進路の座標を見つけなければならない。そうすれば,自分が正しい進路から外れた時にすぐに気づき,新たな進路を探索できるからである。若い頃に『甲乙鍼経』〔『鍼灸甲乙経』〕を読んだことで得た最大の収穫は,経典を解釈する道筋で誤りを示す四つの道標を明確に理解したことである。
第一に,作者の編纂思想と編纂方法がわからなければ,真に理解したことにならない。これを達成しなければ,原書を正しく理解できないばかりか,古医経を評価したり整理する資格すらない。王冰が『素問』の編次や文字に大幅な誤改を加えた根本的な原因は,原作者の編纂思想を理解せず,『素問』という一冊の書物の編纂方式を把握していなかったことにある。
第二に,全書の編纂体例を解読できなければ,まだ入門の域に達したことにならない。王冰はまさに『素問』の篇名の命名体例が分からなかったために,篇名を勝手に改め,文章を再編成し,原書に修復不可能な損害を与えたのである。
第三に,基本構成とテキストの忠実度を見分けられなければ,結論を必ず誤る。初期の古典であればあるほど,広く流布した古籍であればあるほど,その構成は複雑になり,テキストの歪(ひず)みも大きくなる。構成を弁別せず,文字を校勘しなければ,後世の人が増補した文字や誤ったテキストを原典原作者の思想を考察するために誤って使って間違った結論を導き出しても,自分ではそれに気づかないということがしばしば起こる。
第四に,医学を知らず歴史を理解していなければ,古医経を読んでその奥義に達することは難しい。これは本来,古医経を解釈する上で最も重要かつ最も目立つ警告の道標であるにもかかわらず,実際にはほとんど注目されていない。その結果,多くの探求者がこの「事故多発」区間で訳も分からぬまま次々と足をすくわれて過ちを犯すこととなったのである。
十数年来,私はまさに上記の四つの誤りを示す道標を頼りに,幾度となく試行錯誤を重ねて経典解釈の正しい方向を逆算して導き出した。峰に沿って山道を迂回し,山や川が幾重にも重なりあい,行き止まりかと思った迷路からようやく抜け出し,柳の葉が暗くし花が明るく咲いている〔あかるい展望が開けた〕道へとたどり着いた〔宋・陸游『遊山西村』:山重水複疑無路,柳暗花明又一村。〕が,それでもなお,多くの未解決の謎や新たな発見が私を惹きつけ,前進し続けるよう促している。『黄帝内経』が成功裡に世界記憶遺産に登録されたことを受け,ひとりの中国人として,ひとりの中国医学に携わる者として,より一層努力して深く研究し,その内に秘められた不変の価値を発掘し,世界にさらに多くの,さらに大きな驚きと感動をもたらすべきだと思っている。
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