2025年11月3日月曜日

黄龍祥:『霊枢』は医学理論の体系を構築した著作である その1

       《灵枢》乃医学理论体系构建之作

 http://www.360doc.com/content/24/0203/00/29553696_1113145165.shtml

 https://news.qq.com/rain/a/20200815A07K8A00?suid=&media_id=

 本文转载自中国中医药报官方号 2020-07-21

 中国中医科学院首席研究员黄龙祥:


 伝世本『霊枢』は,唐代に定められた書名が『黄帝鍼経』であり,現存するすべての『霊枢』の版本は,宋の元祐七年(1092年)に高麗国から献上された『黄帝鍼経』に由来する。では,この鍼経はどのようにして成立したのか。この点は,今日において我々がこの経典を正確に校勘し,解読し,評価する上で避けられないし,かつ極めて厄介な問題である。眼前には,千年にわたる未解決の謎がいくつも存在している。


  神秘的な出自


 年代も作者も不明で,書名さえもはっきりしない古籍に対して,どこから探究を始めるべきか。もし『霊枢』の成書年代という「堅い氷」を解消することができれば,その他の諸々の意見の相違もおそらく容易に解決し,多くの疑問が氷解するであろう。


  漢代に成書した


 伝世本『霊枢』『素問』の成書年代については,学術界において多くの,かつ大きな意見の相違が存在する。しかし,「一時の文に非(あら)ず,一人の書に非(あら)ず」という一点については,次第に共通認識となりつつある。私は,かつて鍼灸古籍の版本鑑定をおこなった経験に着想を得て,以下のような「堅い氷」を打ち破る思考実験を設計した。すなわち,唐代の孫思邈による『備急千金要方』は,唐以前の諸家の文献を素材として編集された書物であるが,仮にこの書物が伝写の過程で表紙と自序をともに失い,書名も作者も成書年代も分からなくなったとする。そして,従来『霊枢』『素問』の成書を考察する際の方法で,この「三無〔無書名・無作者・無年代〕」の古医籍の年代を考察した場合,いかなる結論に至るであろうか。

 もしこの書を文献の編集物と見なすならば,成書時期については以下のようなさまざまな異なる判断が導き出される。すなわち,先秦に成書した,漢代に成書した,魏晋南北朝に成書した,隋代に成書した,唐代に成書した,である。こうして最終的には,諸説を調和させるための「定論」として,「この書は一時に成書したものでもなければ,一人の手によるものでもない」という結論に至る。しかし,もしこの先入観を捨て,この書を一時に成書した独立した中国医学の臨床診療全書と仮定すれば,正しい答え――すなわち唐代に成書したという結論――に容易に到達できる。そして,さらに綿密な考証をおこなうことで,より正確な成書年代の範囲を示すことも可能となる。

 この思考実験を通じて,私たちは次のことを理解することができる。すなわち,今日『霊枢』『素問』の成書を考察するとは,その編集がおこなわれた年代を指すものであって,決して書中で用いられている原始文献の年代ではないということである。新たな視点と方法に基づき,段階的かつ綿密な論証を通じて,五つの内部の証拠と二つの外部の傍証からなる内外の証拠が連携した証拠の連鎖を構築し,以下の判断を導き出した。

 『霊枢』『素問』はいずれも同一人物によって完成,あるいは総編集されており,その時期は漢代――前漢後期から後漢中期の間である。両書は同時期に構想され編集が進められたが,『霊枢』が先に完成し,『素問』はその後に編集された。


  作者は漢代の官吏である


 『霊枢』『素問』の作者について,筆者の最近の研究では明確に姓名を特定することはできなかったが,この人物の「指紋」と「足跡」を抽出することはできた。すなわち,当該作者は以下のような資質と条件を備えている。

 ① 国家の蔵書機関に長期間勤務した経歴を有し,劉向と李柱国が整理した医学書および関連する非医学文献のすべて,あるいは大部分を保有できた。その主要な執筆活動は,退任または罷免された後の数年以内に完了したと考えられる。

 ② 極めて高い理論構築能力と広範な天地人に関する知識,そして卓越した文章表現力を有している。

 作者は漢代の官吏出身であるが,著作自体は私撰であることが,以下の二点から分かる。

 第一に,全書を通じて治身や養生を論じる医家の話題が,帝王による治国・治民という大きな背景の中に置かることが多く,五臓論・鍼道論・用鍼論・五色論・鍼工論・治則論では,帝王による民の統治や国家運営の道が隠喩としてしばしば用いられている。

 第二に,全書は黄帝を主人公として叙述されており,冒頭の篇は治民の道という背景のもとに展開し,結尾の篇は治官の道という背景のもとにまとめられている。これはおそらく偶然や思いつきによるものではなく,作者の綿密な設計によるものである。このような書物は,扁鵲・倉公・華佗といった民間の医師によるものとは考えにくく,一般の医官であっても成し得るものではなかろう。


  書名は唐代に定まった


 『霊枢』『素問』は,同一の作者によって編纂された一つの総集の二つの下部分類であり,そのうちの一つは「素問」と名付けられたが,もう一方の下部分類の書名は不明である。世に出てから長い間ずっと「九巻」という仮の名称で引用されつづけた。従来,人々は『脈経』『甲乙経』の序文において本書が「鍼経」として引用されていることに注目してきたが,筆者の考察によれば,これらはいずれも後世の人々によって改変されたものであり,原書では「九巻」であった。したがって,これに基づいて遅くとも魏晋時代にはこの書にすでに専用の書名「鍼経」があったと判断することはできない。

 『霊枢』にはかつて専用の名称として『黄帝鍼経』があり,これは以下の三つの唐代初期の文献に見られる。すなわち,唐・永徽年間の政府の法令「医疾令」(651年),『備急千金要方』序例(650~658年),『隋書』経籍志(656年)である。作者不明で書名もつまびらかでなく,「九巻」という名称で五,六百年にわたり伝えられてきたこの医経は,初唐において『黄帝鍼経』という朝廷が定めた標準となる書名をついに持つに至ったのである。

 唐代に確定された『黄帝鍼経』『黄帝素問』という標準的な命名法は,歴史的にも論理的にも,宋代に登場した『黄帝内経霊枢』『黄帝内経素問』という名称よりも明らかに優れている。しかし,『霊枢』という名称はすでに古くから世に広く用いられているため,本稿でも慣例に従い『霊枢』の名を用いることとする。


  奇妙な設計


 伝世する秦漢の古典を考察すると,次のような法則が見出される。すなわち,ある作品が後世に深遠な影響を与える古典となり得るかどうかは,明確で適切な目標設定が重要であるのはもちろんだが,それ以上に,その目標をどのように提示するかという設計に大きく左右される。

 『霊枢』が天から降ってきたはずもなく,作者の編纂思想も無から生じたものではない。それは必ず,先人がすでに探究し,成功を収めた経験の上に再創造されたものである。さまざまな証拠が示すように,『霊枢』『素問』の作者は多くの面で前漢中期の『淮南子』から啓発を受けている。そして,前人を超え後世の模範となり得たのは,独自の道を切り開く実践方略と,綿密かつ周到な実現手法によるものである。


  多様な考えを一つにまとめ,先ず鍼経を立てた


 『漢書』芸文志の「医経類」から分かるように,漢代に伝承された諸家の医学書は,劉向と李柱国の整理によっても三家七経〔黃帝內經十八卷。外經三十九卷。扁鵲內經九卷。外經十二卷。白氏內經三十八卷。外經三十六卷。旁篇二十五卷。〕の多くに及んでいた。漢代の文化的大一統〔一統をたっとぶ〕という背景のもと,『霊枢』の作者は「之が毫毛を雑(まじ)え,渾束して一と為さん〔『霊枢』外揣(45):細かなものまで集めて全体として統一する〕」という方針を確立し,百家を融合して一つの医学体系を構築するという編纂の総目標を掲げた。そして,この総目標を実現する方法を「道」として定めた。すなわち,「夫(そ)れ惟(た)だ道のみ,道に非(あら)ずんば,何をか小大深浅,雑合して一と為す可けんや〔外揣:道あるのみである。道がなければ,小大深浅を取りまとめて一つにすることがどうしてできようか〕」というのである。この二つの選択は難しいものではなく,いずれも『淮南子』の設計思想から外れるものではない。最も難しい決断は,「道」の起点――すなわち百家の説を統合した理論体系の論理的出発点をどこに置くかという点であった。作者はこのために多大な精力を注ぎ,綿密な検証を重ね,黄帝の口を借りて『霊枢』の多くの篇章で重臣の岐伯と繰り返し議論し推敲をかさね,最終的に理論体系の論理的起点を「血気」に定めたのである。

 ひとたび「血気」が理論体系の起点として定められると,当時の状況下では「鍼」が道を体現し,道を伝えるための唯一無二の選択肢となる。こうして「先ず鍼経を立てる」という目標が自ずと定まったのである。作者は全書の首篇「九鍼十二原」において,次のように力強く記している――「余は毒薬を被らしむること勿(な)く,砭石を用いること無からしめんと欲す。微鍼を以て其の経脈を通じ,其の血気を調え,其の逆順出入の会を営し,後世に伝う可からしめんと欲す。必ず明らかに之が法を為(つく)る。終わって滅びず,久しくして絶えず,用い易く忘れ難(がた)くせしめ,之が経紀を為(つく)る/私は人々が薬物を飲むことなく,砭石を用いず,微細な鍼によって経脈を通じ,血気を調え,逆順・出入の会を営し,これを後世に伝えたいと願う。そのためには必ず明確な法則を作らねばならない。終わることなく滅びず,長く絶えず,使いやすく忘れにくいものとして,これを経典としてまとめるのである。」

 目標は非常に明確であり,作者は「必ず明法有り,以て度数を起こし,式に法り検押して,乃ち後に伝う可し/『霊枢』逆順肥痩(38):必ず明確な法則を設け,基準や規範を定め,規則に基づいて検証できるようにし,そのうえで後世に伝えられる」という鍼経を創作しようとしたのである。なお,当時の状況下で薬物ではなく鍼灸のみが医学体系の担い手および着地点としてなぜ選ばれたのかについては,紙幅の都合上,本稿では論述しない。

 作者の「百慮一致〔多様な考えを一つにまとめる〕」「万殊は一為(た)り〔異なっていてもその根源は同じである〕」という統合は主に以下の点にあらわれている。五帝の中で黄帝の名を用いて説を立てた。五方の中で中央を統一の基準とした。五行説において「今文説」を正統とした。異なる時期の各家の刺法を統合して鍼具および刺法の標準を「官鍼」とした。新旧の鍼刺診療経験をまとめて診療規範を「刺節」とした。経絡の数を27と定め,経脈を12,絡脈を15とし,経脈が循行する経路,そのつながり方,主治病症を統一した。「臓」「腑」の定義を統一し,五臓は「心・肝・脾・肺・腎」であり,六腑は「大腸・小腸・胃・胆・膀胱・三焦」であると定めた。

 革新的な点は主に以下の通りである。脈診において新たに「人迎寸口脈法」を確立した。経絡学説における革新が最も多く,またその影響力も最大である。主な内容は以下の通りである。「営衛」の概念および人迎寸口脈法の支えを借りて,従来の求心性である経脈の流注を陰陽・表裏が相互に貫通する循行様式へと改めた。「経別」と臓腑の「相合する」概念を用いることで,もともと表を流れていた六つの陽経が裏(うち)に入り,臓腑に絡属するようになった。これにより,「陰脈は其の蔵を栄し,陽脈は其の府を栄し,環の端無きが如く,其の紀を知ること莫く,終わって復た始まる〔『霊枢』脈度(17)〕」という経脈の連環が実現された。具体的な循行路線の修訂において特筆すべきは,最新の解剖学的発見に基づき,足の太陽脈に脳へ通じる主たる流注を加えたことである。この一筆の加筆は極めて意義深く,『霊枢』の多くの篇で詳しく述べられている。五行学説においては,「至陰」という新たな概念を創設し,「土」「黄」「脾」に配属させたことで,四時・五臓が五行と関連付けられるようになった。最終的には「長夏」という概念を用いて,従来の「季夏」説に置き換え,名称と実態が調和する五臓・五時・五方の五行体系を構築した。

 これらの統合と革新によって,『霊枢』の性質は明確に浮き彫りになった。すなわち,『霊枢』は医学体系を構築するための著作であるということであり,医学文献を整理した書ではなく,『漢書』芸文志に著録されている『黄帝内経』とは本質的に異なるのである。


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