顧従徳本『黄帝内経素問』では、「炅」字の最後の一画を欠筆する篇とそうでない篇がある。
なぜでしょうか? ご教示ください。
『素問』挙痛論(39) 欠筆あり
11-02a06 得炅則痛立止
11-02a07 注:炅,熱也
11-02a08 與炅氣相薄則脉滿
11-02a09 炅氣從上
11-04a01 炅則氣泄
11-04b02 炅則腠理開
『素問』長刺節論(55) 欠筆なし
14-10a02 盡炅病已
14-10a04 注:炅,熱也
14-10a06 病起筋炅病已止
14-10b06 炅汗出
『素問』調経論(62) 欠筆なし
17-04b05 乃爲炅中
17-04b06 注:炅,熱也
『素問』疏五過論(77) 欠筆なし
23-08a01 膿積寒炅
23-08a01 注:炅,謂熱也
『素問』陰陽類論(79) 欠筆あり
24-02a09 弦而沈急不鼔,炅至以病皆死 (ちなみに「弦」も欠筆)
24-02a10 注:炅,熱也
欠筆する篇とそうでない篇があるし,さらには欠筆する巻とそうでない巻がある。
返信削除で,ほとんどの場合,一枚の版木に「炅」字は出現する。巻十一挙痛論の場合だけ二枚で,刻者も異なる。
そこで,単なる思いつきですが,刻工の気まぐれじゃないか。
欠筆という習慣が有ったといっても,それほど厳しかったばかりでもなかったらしい。
現に,『素問』に欠筆しなかった頁が有っても,それが咎められて云々という話を,聞いたことが無い。
刻工の中にも,素直に厳格な人と,馬馬鹿鹿の人がいた。
「炅」は宋の太宗の諱だけれど,他にも誰かいたかしら。
弦は宋の始祖に関わるらしいけれど,他にも誰かいたかしら。
ちょっとわかりにくかった。
削除同じ刻工が欠筆したり,しなかったり,ということは無い,という意味です。
欠筆する刻工と,しない刻工がいる。
気になったのですが、欠筆をするしないというのは刻工に一任されていたという事だったのでしょうか?
削除咎められるとしたら、刻工でなく、編集の責任者になるような。
「刻工に一任されていた」? 実のところそこが弱いところ。
返信削除ようは,それほど厳格に「欠筆しないと咎められる」という事例ではなかろう,ということです。
一番,咎められるのは,それは刊行者でしょう。次いで編著者。
で,ろくにチェックされてないから,欠筆したりしなかったり,となる。
しないでも大丈夫と思ってたんでしょう,編著者も刊行者も。
編著者と刻工の間に,本当はさらに清書した人がいる。良い加減だったのはその清書した人だったかも知れない。
ついつい普段のクセがでた,そのときの気分次第になってしまった。
いずれにせよ,統一が取れてない欠筆の有無に,たいしたワケはないんじゃないか,という感想,思いつきです。
どうしても言葉足らずになる。
削除咎められるかも知れないのは,刊行者は編著者か,清書した者か彫刻した者か。
版下がどうなっていたかは,所詮は揚げ足取り,原稿はどうだったかは,結局は判断しづらかろう。
で,最終的に世に出した刊行者は,咎められるべきときには免れ難たかろう。
で,そんなことよりもなによりも医古文の基礎で知った知識を,そうそういつでもどこでも振りかざすわけにもいかんだろう,ということ。
現に欠筆が咎められて刊行を差し止められた『素問』『霊枢』なんて知らない(知らないだけかも知らんが)し,顧従徳本『素問』の刻工名が宋代の宋校時からのものなのか,明代の顧従徳の刊行時のものなのか,どっちだったかすら自信が無くなった。
欠筆という習慣が有るんだという知識が有ると,別に強制されなくともわざわざ欠筆して,知識をひけらかそうという輩も出てくる。江戸末期の医書に欠筆されているのは家だったか康だったか。
で,顧従徳本の欠筆は衒いか,うっかりか。
顧従徳本の時代は,そういうことにかなり大らかだったと,誰かが書いていたように思う。ましてや,明朝の皇帝とか皇族とかに,炅や玄に関わるものなんていたかしら。