2010年4月27日火曜日

『医案類語』叙 読み下し

醫案類語叙
我が醫の案有るは,猶お獄の案有るがごときなり。
經に據り律に合し,公(おおやけ)に斷じ明らかに決するは,
其の人をして冤無からしむる所以(ゆえん)なり。故に醫として
案を爲(つく)ること能わざるは,猶お心に知りて口に言わざるがごとし。治
の當否,何を以てか之を明らかんせん。是れ由り之れを觀れば,
  一ウラ
案の醫に於けるや,亦た關係の大ならずや。
是(ここ)に於いて,淇園君親(みずか)ら夫(か)の二
三醫子と,之れが著述を爲す。其の書爲(た)る
や,上は經傳より,下は百家に渉る。之を引き
之を證し,門を立て類を分かち,類聚して語を成し,國
字もて之を譯す。編成り,命(なづ)けて醫案類語と曰う。
  二オモテ
蓋し初學習業する者の爲に撰するなり。夫(そ)れ淇
園君の儒爲(た)るや,經を授けて義を解し,日々に
給するに暇あらず。而して銳意もて編述し,著す所多きに居り,
以て人を利せんと欲す。亦た壯ならずや。一日,
石田生を介して,序を余に託す。曰く,「斯の書將に
梓せんとす。文場の餘緒と雖も,而して事は醫に基づく。
  二ウラ
吾子は宿醫なり。願わくは一言以て之を弁ぜよ」と。
余,忸怩して曰く,「余は方伎中の人なり。惟だ
業のみ是れ務む。文雅,地を掃くこと久し。矧(いわ)んや
淺識寡聞をや。三都の玄
晏爲(た)ること能わず」と。辭せんと欲すること數回。又た幡然として改めて曰く,
「之を言いて文(かざ)らざること,吾れ猶お人のごときなり。余,手を下さずんば,
  三オモテ
或るひと,醫に人無きのみと謂わん。余が髪種種たり。
奚(いずく)んぞ羞縮を爲さん。顧(もと)より初學の案を作る者,
斯の成語を得るや,一枝,諸(これ)を桂林に取り,
片玉,諸を昆侖に取り,左右に之を取るも,自ら
其の原に逢いて,人人必ず徒冤無からん。然れば
則ち淇園君の績(いさお),豈に唯だに夫(か)の二三
  三ウラ
子の永錫爲(た)るのみならんや」と。
安永三年甲午秋八月穀旦。
 御醫法眼中山玄亨永貞
 甫,玄玄堂に撰す。時に年七十
 有八。

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