2013年10月30日水曜日

『素問攷注』序

 『素問攷注』
 (序) 〔〕内はあとから加えられた文字。【以】は、あとから消されたと思われる。
劉桂山先生有素問識已上梓茝庭先生有素
問紹識鈔寫傳之未出于人間若合讀二書則
可謂始讀得素問也今茲講此書於躋壽館
因改舊稿眼目一倣皇侃論語義疏之體例
〔其義皆據王注但王注略而不書王注義不可據者旁引他説今〕
【以】正文及前注〔不論倭漢古今皆亦采用者〕爲大書以拙考爲子注以備他日
之遺忘併授兒約之云安政庚申正月初五夜
三更燈下起業森養竹立之

  【訓讀】
劉桂山先生に素問識有り、已に上梓す。茝庭先生に素
問紹識有り、鈔寫して之を傳うるも、未だ人間に出でず。若し合せて二書を讀めば、則ち
始めて素問を讀み得たりと謂っつ可し。今茲、此の書を躋壽館に講ず。
因って舊稿の眼目を改む。一に皇侃の論語義疏の體例に倣う。
〔其の義は皆な王注に據る。但だ王注略して書せず、王注の義、據る可からざる者は、旁ら他説を引く。今〕
正文及び前注〔倭漢古今を論ぜず、皆な亦た采用する者は〕大書を爲し、拙考を以て子注と爲し、以て他日
の遺忘に備え、併せて兒約之に授くと云う。安政庚申正月初五夜
三更燈下起業 森養竹立之

  【注釋】
○劉桂山先生:多紀元簡(たきもとやす)。1755~1810。元簡の通称は安清(あんせい)、のち安長(あんちょう)、字は廉夫(れんぷ)、号は桂山(けいざん)。井上金峨(いのうえきんが)に儒を、父の多紀元悳(もとのり)に医を学んだ。松平定信(まつだいらさだのぶ)の信任を得て寛政2(1790)年、奥医師・法眼に進んだ。翌年、躋寿館(せいじゅかん)が幕府直轄の医学館となるにともない、助教として幕府医官の子弟を教育。同11年には御匙(おさじ)(将軍侍医)となったが、享和元年寄合医師におとされ、文化7(1810)年奥医師に復したが、この年没した。『日本漢方典籍辞典』 ○素問識:http://daikei.blogspot.jp/2013/10/blog-post.htmlなどを参照。 ○上梓:版木に文字を彫る。木版印刷する。出版する。 ○茝庭先生:多紀元堅(たきもとかた)。元堅の字は亦柔(えきじゅう)、号は茝庭(さいてい)、三松(さんしょう)。幼名は鋼之進、のち安叔(あんしゅく)。元簡(もとやす)の第5子で、元簡の家督は兄元胤(もとつぐ)が継ぎ、元堅は別に一家を興した。天保7(1836)年奥医師、法眼。同11年法印。弘化2(1845)年将軍家慶(いえよし)の御匙(おさじ)(侍医)。父の考証学の学風を継いで善本(ぜんぽん)医籍の収集、校訂、復刻に務め、渋江抽斎(しぶえちゅうさい)、森立之(もりたつゆき)、小島宝素(こじまほうそ)らの考証医学者を育てた。『日本漢方典籍辞典』 ○素問紹識:http://daikei.blogspot.jp/2013/10/blog-post_9.htmlなどを参照。 ○鈔寫:抄写。謄写する。書き写す。複写する。 ○人間:世間。社会。民間。 ○今茲:今年。 ○躋壽館:医学館。江戸幕府の官医養成のための医学校。同様の名称は各藩にもみられる。前身は幕府奥医師多紀氏の私営になる躋寿館(せいじゆかん)で,1765年(明和2)5月多紀元孝が神田佐久間町の司天台(天文台)旧地に設置,数度罹災したが,多紀家代々の努力によって発展した。84年(天明4)には100日間医生を学舎に寄宿教育する百日教育の法という独特の法を実施,医案会,疑問会,薬品会等を行うなどして評判を高め,多くの医生を集めた(世界大百科事典 第2版)。 ○眼目:事物の主要なところの比喩。面目。 ○皇侃:(488-545) 中国、南北朝時代の梁(りよう)の学者。「五経」に通達。主著「論語義疏」一〇巻は南宋代に逸書となったが、日本に伝存した写本が中国に逆輸入された。こうかん。三省堂 大辞林。 ○論語義疏:中国,梁の皇侃(おうがん)(488‐545)が著した《論語》の注釈書。10巻。何晏(かあん)の《論語集解(しっかい)》にもとづきそれ以後の六朝人の説を集めてさらに解釈したもの。古義を知るのに貴重で,また仏教や老荘の盛んな時代の解として特色がある。中国で滅び,日本に伝わったものを江戸時代に根本遜志が校刻して逆輸出し,中国の学界を驚かせた。武内義雄の校定した懐徳堂本がよい。【金谷 治】世界大百科事典 第2版 ○體例:著作の編輯・整理の様式。スタイル。記述形式。 ○其義皆據王注:基本的な意味の理解(句読など)は王冰注にしたがう。 ○旁引:ひろく前人の著作などを引用して明証・根拠とする。 ○正文:『素問』の経文。 ○前注:前人の注。 ○大書:大きな文字で書く。 ○拙考:森立之の考え。 ○子注:本書の作者によって本文のあいだにはさまれた小字注。 ○他日:将来。今後。 ○遺忘:忘卻。うっかり忘れる。 ○約之:森約之は、森立之の長男として江戸の福山藩邸に生まれた。医号は養眞。学問を父森立之に学び、躋寿館の聴聞にも列席し、後に『本草経』を講義した。父森立之の手写事業を手伝い、森約之の手になる写本が残る。最後に福山に移り、福山藩の藩校である誠之館の講師となった。 東京大学 > 附属図書館 > 総合図書館 > 特別展示会 > 2011年:総合図書館貴重書展 > 展示資料一覧 > 植物 『周定王救荒本草和名撰』解説/のりゆき。1835~1871。 ○安政庚申:安政七年(1960)。 ○三更:夜十二時前後二時間ぐらいのあいだ。 ○森養竹立之:もりたつゆき。1807~85。立之は江戸の人で、字は立夫(りつぷ)、号は枳園(きえん)ほか別号多数。狩谷棭斎(かりやえきさい)・伊沢蘭軒(いざわらんけん)・小島宝素(こじまほうそ)などに学び、一時浪人生活を送ったが、弘化5(1848)年福山藩医に復し、江戸医学館の講師となり、幕末・明治初には先輩・同僚の業績を引き継いで考証学の第一人者となった。書誌学者としても知られる。/立之の字は立夫(りっぷ)、通称養真(ようしん)のち養竹(ようちく)。号は枳園(きえん)。15歳で家督を継ぎ福山阿部侯の医員となったが、天保(1837)年禄を失い、落魄して12年間家族とともに相模(さがみ)を流浪した。弘化5(1848)年帰参して江戸に戻り、医学館を活動拠点として古典医書の校勘業務や、研究・執筆に従事した。維新後はすでに没した先輩や同僚の業績を引継ぎ、考証医家の第一人者として名をなした。他に『傷寒論攷注』『本草経攷注』の大著がある。ともに『日本漢方典籍辞典』
 またhttp://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/mori-kien/mori-kien.htmを参照。

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