2013年10月5日土曜日

『靈樞識』跋

  (『靈樞識』跋)
右先祖考所撰靈樞識六卷向僅行鈔本琰先君深
憾其傳之不遠將爲刊本以公于世乃與佶先兄謀
命琰佶從家所藏稿本重加訂正未及付梓而先君
先兄不幸後先即世不肖等以菲材猥忝先職恒恐
是舉之荏苒不果無以仰奉先志會醫黌新開活字
局遂俾千賀久徵余語瑞信及佶嗣子元昶等更相
讐挍從活字刷印裝成數部帙庶乎與素問識並行
均爲讀此經者之津筏雖未能若板本之精善而抑
亦先君先兄表章遺書之意歟葢嘗考之此經與太
素經互相參對旨義較然不假旁引曲證者有之從
  ウラ
前諸家之說更似駢拇枝指者有之惜當日其書仍
未出俾其出先祖考在日其所辨訂補正宜何如也
刻已告竣併附著斯言使後學有考焉
文久癸亥仲秋   孫元佶元琰拜手謹誌

  【和訓】
右、先祖考撰する所の靈樞識六卷、向(さき)に僅かに鈔本行わる。琰の先君、深く
其の之を傳うるも遠からざるを憾み、將に刊本を為(つく)りて、以て世に公にせんとし、乃ち佶の先兄と謀る。
琰と佶に命じて、家に藏する所の稿本に從って、重ねて訂正を加えしむ。未だ梓に付すに及ばずして、先君、
先兄不幸にも、後先して即世す。不肖等、菲材を以て猥りに先職を忝(はずかし)め、恒に
是の舉の荏苒として果さず、以て先志を仰奉すること無きを恐る。會(たま)たま醫黌、新たに活字
局を開く。遂に千賀久徵、余語瑞信、及び佶の嗣子元昶等をして、更ごも相い
讐挍せしめ、活字の刷印に從って裝して數部の帙と成る。庶(こいねが)はくは、素問識と並び行われ、
均しく此の經を讀む者の津筏と為らんことを。未だ板本の精善なるに若(し)くこと能わずと雖も、而して抑(そもそ)も
亦た先君先兄、遺書を表章するの意か。蓋し嘗て之を考うるに、此の經、太
素經と互いに相い參對すれば、旨義較然たるも、旁引曲證を假りざる者、之れ有り、
  ウラ
前の諸家の說に從って、更に駢拇枝指に似る者、之れ有り。惜しむらくは、當日其の書仍お
未だ出でず。其れをして先祖考在りし日に出でしむれば、其の辨訂補正する所、宜(ほとん)ど何如せん。
刻已に竣(おわ)りを告げ、併せて斯の言を附著し、後學をして考有らしむ。
文久癸亥仲秋   孫元佶元琰拜手して謹んで誌(しる)す

  【注釋】
○先:亡くなられた。 ○祖考:祖父。元簡。 ○向:かつて。 ○行:通行する。流通する。 ○鈔本:手書きの書籍。原稿を書き写した本。 ○琰:元琰(もとてる)。元堅の長男。字は希温、雲従と号す。幼名は詮之助、長じて安琢と称す。法印。養春院と称した。文政七年生まれ。明治九年卒す。年五十三(『多紀氏の事蹟』84頁)。 ○先君:亡くなった父親。元堅。元簡の五男。字は亦柔、茝庭と号す。法印。楽真院と称す。安政四年二月卒す。年六十三。 ○傳之不遠:『左傳』襄公二十五年:「仲尼曰、『志』有之、言以足志、文以足言。不言、誰知其志。言之無文、行而不遠」。 ○佶:元佶(もとただ)。元胤の四男。長兄、元昕の(子が幼かったため、元昕の)嗣となる。字は子述、安常と称し、棠辺と号す。医学館督事。法印。永春院と称す。文政八年生まれ。文久三年九月卒す。年三十九。 ○先兄:元昕(もとあき)。元胤の長男。兆燾、通称は安良、暁湖と号す。医学館督事。法眼。安政四年十月卒す。年五十三。 ○付梓:版木に文字を彫って印刷する。 ○後先:前後して。短期間に。 ○即世:世を去る。 ○不肖:出来の悪い子。 ○菲材:謙遜語。「菲才」に同じ。才能にとぼしい。 ○先職:先人の官職。医学館の重立(おもだつ)世話役(医学館督事)。 ○舉:行為。事業。 ○荏苒:なすことのないまま歳月が過ぎるさま。物事が延び延びになるさま。 ○仰奉:うやまい守る。 ○先志:先人の遺志。 ○會:ちょうど。うまい具合に。 ○醫黌:医学館(躋寿館)。 ○新開活字局:安政三年(1856)、元堅『雑病広要』より、躋寿館活字局、印行を開始。 ○千賀久徵:医学館で覆刻された聚珍版『聖済総録』(文化十年~十三年)に、校勘として「外班直房医官 千賀輯」の名がみえる。その子孫か。 ○余語瑞信:余語古庵からつづく余語瑞典の子孫か。 ○嗣子:家のあとを継ぐ子。あとつぎ。 ○元昶:元昕の次子。元佶のあとを継ぐ。幼名を安宣、のちに安洲と改め、桂蔭と号す。医学館督事。明治十九年卒す。年四十七。 ○更相:互いに。かれこれ。 ○讐挍:「校讎」に同じ。原稿と照らし合わせて、文字の誤りをただす。 ○素問識:多紀元簡(たきもとやす)(1755~1810)の著になる『素問』の注釈書。全8巻。文化3(1806)年自序。没後の天保8(1837)年刊。『素問』の考証学研究のスタンダード。『聿修堂医学叢書』(1884)や『皇漢医学叢書』に収められ、早くに中国でも知られた。廖平『六訳館叢書』にも少なからぬ影響を与えている。かつて影印本(績文堂、1981)がある。別に元簡の口述を筆記した『素問記聞』(写本)という書もある(『日本漢方典籍辞典』)。 ○津筏:川を渡るためのいかだ。人々が目的を達するための通路、学問の方法の比喩として多く用いられる。 ○若:およぶ。 ○板本:「版本」に同じ。整版。刻本。木版を彫ってつくった書籍。 ○精善:良質。 ○抑亦:さらにまた。あるいは。おそらく。 ○表章:「表彰」におなじ。顕彰する。 ○葢:「蓋」の異体。 ○太素經:楊上善『黄帝内経太素』。仁和寺などに所蔵されていることは、元簡在世中には知られていなかった。 ○參對:たがいに見比べ対照する。 ○旨義:旨意。主旨。意図。 ○較然:明瞭なさま。 ○假:借りる。依る。 ○旁引:広汎な証明。ひろく証拠を引用して論拠とする。 ○曲證:詳細な証明。多方面の考証。 
  ウラ
○駢拇枝指:『莊子』駢拇:「駢拇枝指、出乎性哉」。「駢拇」は足の親指と第二指がつらなって一本の指になっていること。「枝指」は、手の親指のわきに指が一本多く生えて、六本になっていること。「駢拇枝指」は、多く不必要なもの、役に立たないもののたとえ。 ○當日:当時。 ○俾:もし。 ○在日:生きていた日。 ○辨訂:誤りを判別しただす。 ○補正:欠けているところを補い、誤りを修正する。 ○宜:だいたい。おそらく。 ○何如:どのようであったろうか。 ○刻:とき。本書は活字本なので、版刻の意味ではないと判断したが、ひろく出版の意味か。 ○告竣:(大きな事業が)完成する。終わりを告げる。 ○文久癸亥:文久三年(1863)。 ○仲秋:陰暦八月。 ○拜手:「拜首」とも。跪いて手を地面につける礼。 ○誌:「識」と同じ。記す。

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