『素問紹識』序跋
・大阪大学附属図書館(懐徳堂文庫)所蔵自筆稿本による。〔〕内はのちに補われた文字。
素問紹識序
江戸侍醫法印尚藥兼醫學教諭丹波元堅撰
素問紹識何爲而作也紹先君子素問之識而作也先君子之
於斯經自壯乃爲人講授稱爲絶學攷究之精宜無復餘蘊紹
識之作當為贅旒而敢秉筆爲之者抑亦有不得已也楊上善
太素經注世久失傳頃年出自仁和寺文庫經文異同與楊氏
所解雖不逮啓玄之覈然其可據以補闕訂誤出新校正所援
之外者頗多則不得不採擇以庚續此其一也先兄柳沜先生
夙承箕業殫思研索將有撰述而天不假之年中歳謝世其遺
言餘論卓卓可傳者仍有讀本標記存固不得〔不〕表出以貽後此
ウラ
其二也近日張宛鄰琦著有素問釋義一編其書無甚發明然
其用心亦摯間有可取他如尤在涇等數家之說或有原識之
未及引用者更有一二親知寄贈所得者倶未可全没其善此
其三也乾隆以來學者專治小學如段若膺阮子元〔王伯申〕諸人其所
輯著可藉以證明經義者往往有之亦宜摘録以補原識者矣
此其四也此皆紹識之所以爲作而愚管之見亦僭録入以俟
有道是正之昔姚察爲漢書訓纂其曾孫班續而著書題云紹
訓今之命名𥨸取其義云弘化三年歳在桑兆敦牂八月望
【和訓】
素問紹識序
江戸侍醫法印尚藥兼醫學教諭丹波元堅撰
素問紹識、何の為にして作るや。先君子の素問の識を紹(つ)ぎて作るなり。先君子の
斯の經に於けるや、壯自り乃ち人の為に講授し、稱して絶學と為す。攷究の精、宜しく復た餘蘊無かるべし。紹
識の作、當に贅旒と為すべし。而れども敢えて筆を秉(と)って之を為すは、抑そも亦た已むを得ざる有るなり。楊上善の
太素經注、世に久しく失傳す。頃年、仁和寺の文庫自り出づ。經文の異同、楊氏の
解する所と、啓玄の覈に逮ばずと雖も、然れども其の據って以て闕を補い誤を訂する可く、新校正の援(ひ)く所
の外に出づる者、頗る多ければ、則ち採擇して以て庚(さら)に續せざるを得ず。此れ其の一なり。先兄柳沜先生、
夙に箕業を承け、思を殫(つ)くして研索し、將に撰述有らんとす。而れども天、之に年を假さず、中歳にして世を謝す。其の遺
言餘論卓卓として傳う可き者は、仍お讀本有りて標記存す。固(もと)より表に出だして以て後に貽(のこ)さざるを得ず。此れ
ウラ
其の二なり。近日、張宛鄰琦の著に素問釋義一編有り。其の書、甚しくは發明無し。然れども
其の心を用いること亦た摯にして、間ま取る可き有り。他に尤在涇等の如き、數家の說、或いは原識の
未だ引用に及ばざる者有り。更に一二の親知、寄贈して得る所の者有り。倶に未だ全くは其の善を没す可からず。此れ
其の三なり。乾隆以來の學者、專ら小學を治む。段若膺、阮子元、王伯申の如き諸人、其の
輯著する所、藉(よ)りて以て經義を證明す可き者、往往にして之有り。亦た宜しく摘録して以て原識を補うべき者なり。
此れ其の四なり。此れ皆な紹識の為作する所以なり。而して愚管の見も亦た僭して録入し、以て
有道の之を是正するを俟つ。昔、姚察、漢書訓纂を爲(つく)り、其の曾孫班續いて書を著し、題して紹
訓と云う。今の命名、竊(ひそ)かに其の義を取ると云う。弘化三年、歳は桑兆敦牂に在り、八月の望
【注釋】
○江戸侍醫:幕府の医官。 ○法印: 中世以降、僧に準じて医師・絵師・儒者・仏師・連歌師などに対して与えられた称号(デジタル大辞泉)。医師では最高位。 ○尚藥:御匙(医師)の漢訳名。 ○醫學教諭:医学館世話役の漢訳名。 ○丹波元堅:もとかた。元堅の字は亦柔(えきじゅう)、号は茝庭(さいてい)、三松(さんしょう)。幼名は鋼之進、のち安叔(あんしゅく)。元簡(もとやす)の第5子で、元簡の家督は兄元胤(もとつぐ)が継ぎ、元堅は別に一家を興した。天保7(1836)年奥医師、法眼。同11年法印。弘化2(1845)年将軍家慶(いえよし)の御匙(おさじ)(侍医)。父の考証学の学風を継いで善本医籍の収集、校訂、復刻に務め、渋江抽斎(しぶえちゅうさい)、森立之(もりたつゆき)、小島宝素(こじまほうそ)らの考証医学者を育てた(『日本漢方典籍辞典』)。 ○何為:何故に。 ○紹:継承する。つづける。 ○先君子:今は亡き父親。 ○素問之識:『素問識』。多紀元簡(たきもとやす。1755~1810)の著になる『素問』の注釈書。全8巻。文化3(1806)年自序。没後の天保8(1837)年刊。『素問』の考証学研究のスタンダード。『聿修堂医学叢書(いっしゅうどういがくそうしょ)』(1884)や『皇漢医学叢書』に収められ、早くに中国でも知られた。廖平(りょうへい)『六訳館(りくやくかん)叢書』にも少なからぬ影響を与えている。かつて影印本(績文堂、1981)がある。別に元簡の口述を筆記した『素問記聞(そもんきぶん)』(写本)という書もある(『日本漢方典籍辞典』)。/「識」は「志」「誌」に通ず。標記。記録。ノート。 ○斯經:『素問』。 ○壯:三十歳ぐらい。『禮記』曲禮上:「三十曰壯」。 ○講授:元簡は安永九年(1780)に医学館で『素問』を開講。三十歳以前より『素問』を講じていた。 ○稱:たたえる。ほめる。 ○絶學:造詣が深く独創的な学識。 ○攷究:探究。調査研究。「攷」は、「考」の異体。 ○餘蘊:不足の部分。余すところ。 ○贅旒:「旒」は、旗の下に垂れた飾り物。ひとにつかまれて動かされることから、臣下にあやつられる君主の比喩。ここでは、無駄で権威のないものの意か。 ○秉筆:執筆する。 ○抑亦:加えてまたさらに。 ○楊上善:隋から唐にかけての医家。『黄帝内経太素』三十巻、『黄帝内経明堂類成』十三巻などを編纂した。 ○太素經注:首巻を欠いているため、詳細不明だが、唐の高宗のころに成書したと考えられる。 ○世久失傳:奈良時代前半には渡来していたが、室町時代ごろから存否不明となり、江戸時代には亡佚書とされていた(丸山敏明『鍼灸古典入門』から要約)。 ○頃年:近年。 ○仁和寺:京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院。 ○啓玄:王冰。唐代医家(710~805年?)。啟玄子と号す。全元起本『素問』を編次注釈した。 ○覈:詳細、精確。 ○補闕訂誤:欠落をうめ、誤りを訂正する。 ○新校正:北宋の嘉祐二年(1057年)に、校正医書局が、医学古典の校正出版事業をおこなった。その中で、王注『素問』をもとに、林億らは新たな校正をおこない、その際、『黄帝内経太素』の楊上善注を多く引用した。 ○庚:「更」に通ず。 ○先兄:亡きあに。 ○柳沜先生:多紀元胤(たきもとつぐ/1789~1827)。元胤は多紀元簡(もとやす)の三男で嫡嗣。通称は安良(あんりょう)、のち安元(あんげん)、字は奕禧(えきき)・紹翁(しょうおう)、号は柳沜(りゅうはん)。大田錦城(おおたきんじょう)に儒を、父元簡に医を学んだ。文化3(1806)年医学館督事となり、文政5(1827)年法眼(ほうげん)に進んだが、同年39歳で没した(『日本漢方典籍辞典』)。 ○夙:はやくに。 ○承:うけつぐ。 ○箕業:祖先の事業。「箕裘」とも。 ○思:思慮。 ○研索:研究探索する。 ○天不假之年:早世する。/「之」:柳沜先生。/「假」:貸し出す。あたえる。/清·平歩青『霞外裙屑』巻六:「予以先生此考、為一生心力所瘁、成以行世、足為読史者一助、惜天不假年、積四十六年之歳月、僅成全史三之一」。 ○中歳:中年。 ○謝世:死亡する。 ○遺言:生前にのこしたことば。遺書。絶筆。 ○餘論:のこしたことば。完結していなかった言論。 ○卓卓:高く遠いさま。傑出しているさま。 ○讀本:閲読していた版本。 ○標記:本に書きつけられたノート。覚え書き。 ○
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○張宛鄰琦:張琦(1764~1833)。初名は翊。字は翰風、宛隣と号す。江蘇陽湖のひと。張恵言の弟。嘉慶18年(1822)の挙人。『清史稿』に伝あり。『戰國策釋地』などを撰す。 ○素問釋義:十巻。王冰の注文を主とするも、まま発明あり。宛隣書屋叢書所収。 ○發明:前人が明らかにしていなかった創造性のある解説。発揮。 ○用心:熱心に取り組む。専心する。精を出す。 ○摯:誠実である。まじめである。 ○間:ときに。ときどき。 ○可取:採用できる。学ぶに値する。 ○尤在涇:尤怡(?~1749)。清代の医家。字は在涇、飲鶴山人・拙吾・花溪恒徳老人と号す。『清史稿』に伝あり。江蘇長洲のひと。『医学読書記』などを撰す。 ○原識:元簡の『素問識』。 ○親知:親戚と友人(知己)。 ○乾隆:清・乾隆帝(第6代皇帝)の時代。1711~1799年。乾隆から嘉慶にかけて考証学は、全盛をむかえた。 ○小學:文字の字形・字義・字音を研究する学問。文字学・声韻(音韻)学・訓古学。 ○段若膺:段玉裁(1735~1815)。清の経学者、文字学者。字は若膺、茂堂と号した。江蘇省金壇の人。乾隆25年(1760)の挙人で、四川省巫山県の知事にまでなった。官吏としての経歴は恵まれたものといえないが、最初の上京以後戴震に師事、役所の仕事を終えてから夜研究に専念する生活を送り、多くの業績をあげた。《六書(りくしよ)音均(おんいん)表》は古音(こいん)を17部に分け、とくに後代一つに合流していた支・脂・之3部の区別を明らかにしたことの意味は大きい(世界大百科事典 第2版)。/1763年北京で戴震に師事。官吏となって知県を歴任したが、1782年以後郷里に隠棲し学問に専心。《説文解字》の注に精根を傾け、《説文解字注》を著し、清朝考証学の名を高からしめた(百科事典マイペディア)。 ○阮子元:阮元(1764~1849)。中国、清の学者・政治家。儀徴(江蘇省)の人。字は伯元。号、芸台(うんだい)。戴震の学を継承、多くの人材を集め、考証学の振興に努めた。編著「経籍籑詁』」「皇清経解」など(デジタル大辞泉)。/学者としては宋学を排して漢学を宗とし、直接には戴震の学問を継承して言語や文字の研究から古代の制度や思想を解明しようとした。しかしその学問領域はきわめて広く、乾隆・嘉慶年間(1736~1820)における考証学の集大成者で、詁経精舎(浙江)、学海堂(広東)を設立して学術を振興し、多くの学者を集めて書物の編纂事業を統督し、学界に貢献した(世界大百科事典 第2版)。/浙江省の学政(文教担当)となって『経籍纂詁』106巻を編纂し、巡撫のとき杭州に詁経精舎を建てた。両広総督のときには学海堂を建てて後進を養成し、『皇清経解』1400巻を刊行した。江西巡撫の時には日本の山井鼎の『七経孟子考文』を参酌して『十三経注疏校勘記』416巻を編纂したことは有名である。乾隆・嘉慶の漢学を、編纂、彙刻の面で集大成し、漠学の実証的方法を提唱した最後の学者であった。閻若璩の『尚書古文疏証』や胡渭の『易図明辯』のような重要な書は、古い漢儒の経典を批判したという理由で排斥した。「凡古必真、凡漢皆好」、つまり文献は古いほど真であり、漢の時代のものはすべて好いという「漢学」の規準によって顧炎武、黄宗羲らの名著も斥けられた。阮元の編纂した『学海堂経解』はこの点で功罪半ばする。しかし後年になって方東樹の漢易批判を受けて、宋学と漢学の調和を考え直してもいる(Internet恋する中国・中国データベース)。 ○王伯申:王引之(1766~1834)。清の経学者。字は伯申、曼卿と号した。江蘇高郵の人。嘉慶4年(1799)最優秀の成績で進士となり、工部尚書にまでなった。父王念孫の学を受けついで、ことに文字・音韻の学に詳しく、高郵王氏父子と並称された。実は王念孫の父、王安国(文粛公)も吏部尚書にまでなった篤学の高官で、王引之の学問は王氏3代の学の精華である。《経義述聞》15巻、《経伝釈詞》10巻はとくに名高いが、経書の訓詁を説く《経義述聞》は、すなわち〈聞けるを述ぶ〉を書名とするように、すすんで父王念孫の学問の祖述者であろうとしているため、どこが王引之の独創であるかを見とどけることが、しばしば困難となる(世界大百科事典 第2版)。 ○輯:多くの材料をあつめて整理する。 ○藉:依る。借りる。 ○經義:経文の意味。 ○摘録:要点をかいつまんで書き記す。 ○為作:つくる。 ○愚管之見:浅はかな見解。愚かな管見。謙遜語。 ○僭:おのれの身分をわきまえず。僭越ながら。 ○有道:学問道徳を有するひと。 ○姚察:南朝陳の史家。字は伯審。梁・陳隋の三朝に仕える。『漢書訓纂』『漢書集解』を撰す。/小島宝素写本は「姚思廉」に作る。姚思廉、唐初の史家。字は簡之。姚察の子。『梁書』と『陳書』を編纂す。 ○漢書訓纂:『隋書』經籍志「漢書訓纂三十卷(陳吏部尚書姚察撰)。漢書集解一卷(姚察撰)」。 ○曾孫班:姚珽(641~714年)、唐の大臣。姚思廉の孫。姚察のひまご。/宝素本は「其子察」に作る。 ○紹訓:『漢書紹訓』四十巻(佚)。『舊唐書』姚璹・弟珽傳「珽嘗以其曾祖察所撰漢書訓纂、多為後之注漢書者隱沒名氏、將為己說。珽乃撰漢書紹訓四十卷、以發明舊義、行於代」。『新唐書』姚思廉・璹・珽傳「始、曾祖察嘗撰漢書訓纂、而後之注漢書者、多竊取其義為己說、珽著紹訓以發明舊義云」。 ○𥨸:「竊」の異体。 ○云:語末の助詞。意味はない。 ○弘化三年:1846年。丙午。 ○歳:木星。 ○桑兆:丙の別名。『爾雅』釋天:「大歲……在丙曰柔兆」。 ○敦牂:午の別名。『爾雅』釋天:「大歲……在午曰敦牂」。 ○望:旧暦十五日。
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