2014年5月16日金曜日

「云」と「曰」

http://ematagimik.cocolog-nifty.com/manimani/2010/07/post-8cf6.html

から,一部をひきます。

そんな中ふと『「又云」「又曰」攷-室町時代古辞書『下学集』を中心に-』(萩原義雄、2000)(PDF)という論文を見つけた。これは直接中国古典の事を論じてるわけではないが、注釈に「日本語の『いふ』を意味する中国古文の動詞(「言、謂、云、曰」)の意義の相違について」(井上壽老、1959)という論考を引用している。これを直接読みたいところだが、今読める環境に無いのでとりあえず簡単に孫引き(実際は萩原氏も『鎌田正博士八十壽記念漢文学論集』(1991)の「『曰』と『云』」(水沢利忠)から引用しているので曾孫引きになる)しておく。

「云」
其の言へる所の此の如きを挙げ磐す(示す?)--そういってゐる(ある)
状態的、既定的(過去ではない)
「嘗有発是言、而其言存於此」(嘗て是の言を発すること有り、而して其の言此に存す)を言う

「曰」
単に其の言ふを挙げ示す--さういふ
作用的、超時的(時に関しない)
「今発其言(今は歴史的現在)」(今其の言を発す)を言う
ここからすると「云」は既存の言葉などを提示する、つまりは伝聞・引用だろう。既定的(過去ではない)というのは完了のアスペクトと思われる。
一方「曰」は極単純な意味での直接話法、つまり実際の発話の記述だろう。超時的というのは現在過去未来いつでも使え、「今は歴史的現在」と言っているのは要は「その時」だろう。歴史的現在ってのは結局は過去(物語の発生した時点)の事を物語る手法だから。

2 件のコメント:

  1. もっと、俗なところでいえば、『新明解漢和辞典』(三省堂)に、「いう」に対して、云、曰、言、道、の使い分けが書いてあります。付録の同訓異義のところに。
    云:人のことばを写すときに用いる。
    曰:前条と通じて用いるが、云のほうがやや軽く、過去のことばをのべるときには、「某云」といって、曰を用いない。また、「謂曰」「告曰」のような軽い意に用いる場合もある。

    とあります。あまり、違いはないようなのだけど。

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  2. そもそもどうして曰と云の違いが気になったのか?

    実は『甲乙経』の構造を手探りしていたら,云は200箇所以上用いられているけれど,ほとんどが小字注文の中なんです。
    勿論,例外は有る。なにせ,『甲乙経』は医学経典の中で,まともな善本の無い代表なんだそうですから。
    曰は,素問曰とか九卷曰とか。これらを黄龍祥さんは,皇甫謐が編輯したものの中に,もとから有ったものといっている。

    で,小字注文の大部分は林億等の校語なんでしょう。勿論,例外は有る。
    大字はおおむね皇甫謐が編輯した部分。勿論,例外は有る。楊上善云なんて大字が有りますからね。

    で,例えば九卷曰で大字なら,まあ皇甫謐が編輯した内容なんだろうと思う。
    じゃあ,例えば九卷云で大字だったらどうか。大字だから皇甫謐の編輯分とみるか,云だから後人の補いとみるか。どっちを重く見るか。
    言い換えれば,云だから曰だからという理由付けにはどの程度の価値をみるか。大字の云が,曰の誤りであるという箇所も個別には有りそうだし。
    大字か小字かは,明抄本では医統本とは異なることが有るから,当然,それだけで皇甫謐か後人かは決定できない。
    曰と云の違いでも,引いたものが皇甫謐か後人かは決定できないだろうが,それでも一つの証拠にはなり得るのか。

    とまあ,いうようなことが疑問の始まりだったんです。

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