2014年8月16日土曜日

『經穴彙解』原南陽自序

經穴彙觧自序
舅氏淡園碕翁作經穴彙解
上下二卷以其季子失明從事於
鍼刺故有此著也余幼時在武城
侍膝下校之無何季子夭翁亦
棄此書而不省也余之東歸從
一ウラ
遊二三子偶問兪穴余素不
解鍼刺往〃失其對於是想
徃時彙觧之事乞之翁再
閲則所引僅〃三五家而已
未足以取徵於斯焉余乃以
家藏書脩補之增為八卷
頃得堀玄考遂輸通攻諸
說頗具余業已脱稿故不取
其說安井元越兪穴折衷全抄
通攻采擇之不精𢜩多遺漏
余固淺見寡聞引証疏脫豈
啻遂輸通攻而已哉希後之
覽者正之
享和癸亥仲春之日
南陽原昌克撰

【書き下し】
經穴彙解自序
舅氏淡園碕翁,『經穴彙解』上下二卷を作る。其の季子失明して,鍼刺に從事するを以て,故に此の著有るなり。余,幼き時,武城に在り。膝下に侍して,之を校す。何(いくば)くも無くして季子夭し,翁も亦た此の書を棄てて省みざるなり。余が東歸する從遊の二三子,偶たま兪穴を問う。余,素(もと)より鍼刺を解せざれば,往往にして其の對(こた)えを失す。是(ここ)に於いて,往時の『彙解』の事を想い,之を翁に再閲を乞えば,則ち引く所僅僅三五家のみにして,未だ以て斯(ここ)に徵を取るに足らず。余乃ち家藏の書を以て之を脩補し,增して八卷と爲す。頃(このご)ろ堀玄考の『遂輸通攻』を得たり。諸說頗る具わる。余が業已に脱稿す。故に其の說を取らず。安井元越『兪穴折衷』,全く『通攻』を抄し,之を采擇すれども精ならず,遺漏多きことを憾(うら)む。余,固(もと)より淺見寡聞,引證疏脱なり。豈に啻に『遂輸通攻』のみならんや。希(ねが)わくは後の覽る者,之を正せ。
享和癸亥仲春の日
南陽原昌克撰す

【注釋】
○舅氏:母親の兄弟。 ○淡園碕翁:戸崎淡園(1724~1806)。江戸時代中期~後期の儒者。享保(きょうほう)9年生まれ。平野金華の門で荻生徂徠(おぎゅう-そらい)の古文辞学をまなぶ。陸奥(むつ)守山藩(福島県)の藩校養老館教授となり,のち家老をつとめた。文化3年11月14日死去。83歳。常陸(ひたち)(茨城県)出身。名は哲,允明。字(あざな)は子明,哲夫。通称は五郎太夫。別号に浄巌。著作に「周易約説」など(デジタル版『日本人名大辞典』+Plus)。/江戸時代中期の漢学者。常陸(茨城県)松川の人。名は哲,允明,字は子明,哲夫,通称は五郎太夫。淡園と号す。家は水戸藩の支藩守山藩に仕えていた。徂徠学を学び,終生その学風を遵守した。18歳で守山藩御徒組に列し,明和年中(1764~72)に儒臣となって藩校養老館で講説を行い,子弟の教育に励んだ。また経済政策にもその力を発揮して,藩主一家の信頼は特に篤く,寛政10(1798)年には家老職にまで昇り,享和1(1801)年に老を以て致仕するまで,4代に仕えた。致仕後は浄巌と称し,著述に専念。経学の注釈書を中心に編著の数は極めて多い(高橋昌彦)(『朝日日本歴史人物事典』)。/「碕」は,「戸崎」の「崎」字の異体。「翁」は,年長者への尊称。『世説新語補』跋に,「守山碕允明謹撰」とある。 ○季子:末っ子。 ○失明:視力をうしなう。 ○從事:職業とする。仕事とする。 ○鍼刺:鍼立て。 ○武城:武蔵国。江戸。 ○膝下:父母のそば。父母にたいする敬称。 ○校:訂正する。考訂する。 ○無何:まもなく。 ○夭:若くして亡くなる。 ○東歸:故郷に帰る。漢、唐において,みやこ長安は,西方にあり,中原や江南のひとは,帰郷することを多く「東歸」と称した。 ○從遊:『傳習錄』卷上·徐愛「從遊之士,聞先生之教,往往得一而遺二」。したがい学ぶ。弟子。門人。
一ウラ
○二三子:諸君。 ○失其對:その答えを見いだせない。答えられない。「對」,応答。回答。 ○想:想起する。 ○徃時:「徃」は,「往」の異体。昔のこと。かつての。 ○閲:点検。しらべる。よむ。 ○僅〃:数量の少ないさま。ただ。わずかに。 ○徵:信服しうる証拠。証拠とするに足るもの。 ○於斯:「於此」に同じ。 ○脩補:「脩」は「修」の異体。修正し補充する。補綴。 ○頃:近ごろ。最近。 ○堀玄考遂輸通攻:堀元厚『隧輸通攷』。堀元厚(1686~1754)の著になる経穴学書。全6巻。未刊であるが、江戸中期には比較的流布したらしく、写本が少なからず伝存する。延享元(1744)年の掘正修(ほりまさなが)序、同年の自序、翌同2年の掘景山(ほりけいざん)(名正超[まさたつ])跋がある。衢昌栢(くしょうはく)(甫山[ほざん])との共著とされる。饗庭東庵(あえばとうあん)の『黄帝秘伝経脈発揮(こうていひでんけいみゃくはっき)』を基本資料に、諸説と自説を加えて成ったもの。巻1は総攷、巻2~4は正経八脈、巻5は奇経八脈、巻6は奇兪類集。元厚の経穴学に対する力量を示す書で、後世の日本経穴書に大きな影響を及ぼした。『臨床鍼灸古典全書』に京大富士川本が影印収録(『日本漢方典籍辞典』)。 ○業:事業。従事した工作。著作。 ○脱稿:著作原稿が完成している。 ○安井元越:生没年未詳。水戸のひと。京都に遊学して堀元厚に学ぶ。 ○兪穴折衷:『腧穴折衷』。明和元(1764)年,自序。 ○抄:謄写する。書き写す。 ○采擇:「採擇」に同じ。選び取る。採用する。 ○不精:精密でない。くわしくない。 ○𢜩:【忄+咸】『集韻』:「意不安皃/心がおちつかないさま」。ここでは「憾」の略体と解しておく。 ○固:元来。もともと。 ○淺見寡聞:見聞がせまく,知るところが多くない。『史記』卷一˙五帝本紀˙太史公曰:「非好學深思,心知其意,固難為淺見寡聞道也」。 ○引証:事実などを引用して自説の根拠とするもの,こと。 ○疏脫:疏忽,軽率。 ○豈啻遂輸通攻而已哉:わたくしが援引せず,漏らしているものは,堀元厚の『隧輸通攷』だけではない。 ○享和癸亥:享和三(1803)年。 ○仲春之日:陰暦二月。 ○南陽原昌克:(1753~1820)。江戸後期の医者。名は昌克,室号は叢桂亭。水戸藩医昌術の子として水戸に生まれる。儒学を伯父戸崎淡淵に,医学を父に学んだのち,京都に赴いて山脇東門、賀川玄迪らに師事して古医方,産術などを学ぶ。安永4(1775)年,帰郷して江戸南町(小石川)に住む。医書の字句,常則に拘泥することなく,臨機応変の治療をすることで知られていた。御側医から,享和2(1802)年には表医師肝煎。軍陣医学書『砦草』のほか『叢桂偶記』『叢桂亭医事小言』『経穴彙解』などの著がある。<参考文献>松田邦夫「『近世漢方医学書集成』18巻解説」(石田秀実)(『朝日日本歴史人物事典』)。/原南陽は親試実験医学を開花させた医人として、歴史上に名を残した。南陽は名を昌克、字は子柔、通称は玄璵といい、南陽は号である。宝暦三年(一七五三)水戸に生まれた。父は水戸侯の侍医であった。南陽は長じて京都に遊学した。そこで山脇東門について医術を修め、産科を賀川玄悦について習った。 学業が終って江戸に帰り開業したが、貧乏暮らしで、按摩鍼灸によって辛じて生活を立てていた。不遇時代、有名なエピソードがある。ある時水戸侯が急病になった。江戸の名医大家を呼んで手を尽くしたが、さらに効なく人事不省で危篤になった。その時、家臣の一人が南陽に治療を託してはどうかと進言し、南陽は水戸侯を診察し、劇薬走馬湯を投薬して、侯の病気を治してしまった。この件で水戸侯は南陽を徳とし、侍医に抜擢して五百石を与えたのである。走馬湯は杏仁と巴豆を処方したものだが、それを南陽は銭九文で買って投薬したので、九文の元手で五百石に成ったことが当時言いはやされた。 南陽の著書は数多いが、『叢桂亭医事小言』『叢桂偶記』『寄奇方記』『砦草』『経穴彙解』などがよく知られる。『叢桂亭医事小言』の中で南陽は、「余が門にて初学の童子にはまず傷寒論を暗記さするなり」と、はじめに古方を尊重することを示し、次いで、「方に古今なし、その験あるものを用ゆ」といい、「されども方は狭く使用することを貴ぶ」と述べている。同書には南陽の蔵方が集められているが、乙字湯は痔の薬としてあまりにも有名である。『砦草』は軍事上大切な医学の心得を書いたもので、我が国軍陣医学の著述として版になったものはこれが最初という歴史的な著書である。 南陽は自著の中で「方は約ならざれば薬種も多品になる、華佗は方数首に過ぎずというは上手にて面白き事味わい知るべし」「学んで是を約にするを第一の学問とす」といった簡約を旨とする思想を述べているが、これは実証主義から会得したもので、和田東郭の医学思想とオーバラップして、名人上手に共通するものを覚える。侍医の職に在ること三十余年、文政三年(一八二○)没した。享年六十八歳であった。(参考・松田邦夫『原南陽』)(近世漢方医学書編集委員会編『日本の漢方を築いた人々』)。

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