2014年1月1日水曜日

黃帝内經素問講義序

黃帝内經素問講義序
葢自天地闢而民生蠢〃焉聖人出而後異於物於
是垂衣裳造書契作為舟車網罟弧矢杵臼之器載
在易經不可誣也凡可以前民用者聖人無不為之
而況於醫乎夫隂陽氣血之微藏府經衇之詳辨虛
實於毫釐判死生於分寸其用心之難又豈直舟車
網罟弧矢杵臼而已哉吾固有以知内經之作成於
軒轅岐伯無疑也且夫聖人之教坦如大路易見易
知非敢有佶屈聱牙之詞而歴年久遠竹帛相傳授
受之失真與副墨之遞譌勢所必然不足為怪而續
  一ウラ
鳧斷鶴亦不能無焉則古經之所以難講于今矣昔
者晉皇甫謐撰甲乙梁全元起著訓解唐有楊王二
家今全氏不傳楊氏佚而復存我 邦講此經者曩
有芳邨恂益慄稻葉良仙通達而至寛政間驪恕公
劉廉夫二先生出顓以王氏為本廉夫先生著有素
問識近日劉茝庭先生有紹識之作寛自幼好讀此
經一奉楊王二家及素問二識為圭臬而間有一二
愚管得失互存則講誦之際或難乎條析於是竊俲
昔人經解之體捃拾衆說汰瑕擷瑜釐成一書題曰
素問講義若夫馬張以下諸家則概循文解釋遂不
  二オモテ
出王氏之窠臼故所引僅止數條吁寛何人以前哲
諸賢猝不易讀之經妄為刪述殆韓愈所謂不自量
者然思古之人猶今之人今之病即古之病也聖人
濟世愍民之意正大光明炳如觀火豈何必事隱澁
艱蹇使人難通曉者也哉葢鑽研日久而益知聖經
之所論同布帛菽粟不可一日離也今就經釋經不
相繞繳雖未能綜核妙理剖析義蘊覩之從來箋解
庶幾切於日用講肆之間歟然而經義鴻淵匪區〃
管窺蠡測所能得則此書亦一家私言不敢公然問
世聊傳諸子弟云爾
  二ウラ
嘉永七年甲寅春王正月人日侍醫法眼兼醫學教
諭喜多邨直寛士栗識于江戸學訓堂

  【訓讀】
黃帝内經素問講義序
蓋し天地闢(ひら)きし自り、而して民生ずること蠢蠢たり。聖人出で、而る後に物を異にす。
是(ここ)に於いて衣裳を垂れ、書契を造り、舟車·網罟·弧矢·杵臼の器を作為す。載せて
易經に在れば、誣(あざむ)く可からざるなり。凡そ以て民の用に前(さき)んずる可き者は、聖人、之を為さざる無し。
而して況んや醫をや。夫れ陰陽·氣血の微、藏府·經脈の詳、虛
實を毫釐に辨じ、死生を分寸に判(わか)つ。其の心を用いるの難きは、又た豈に直(ただ)に舟車·
網罟·弧矢·杵臼のみならんや。吾れ固(もと)より以(ゆえ)有って内經の作の、
軒轅·岐伯に成ること疑い無きを知るなり。且つ夫れ聖人の教え、坦(たい)らかなること大路の如し。見易く
知り易く、敢えて佶屈·聱牙の詞有ること非ず。而れども歴年久遠、竹帛相傳え、之を授
受して真を失い、副墨の譌を遞(つた)うるに與(あずか)るは、勢い必然とする所にして、怪しむと為すに足らず。而も
  一ウラ
鳧を續ぎ鶴を斷つも、亦た無きこと能わず。則ち古經の今に講ずること難き所以なり。
昔者(むかし)晉の皇甫謐、甲乙を撰し、梁の全元起、訓解を著し、唐に楊·王二
家有り。今ま全氏傳わらず、楊氏佚して復た存す。我が 邦、此の經を講ずる者、曩(さき)に
芳邨恂益慄、稻葉良仙通達有り。而して寛政の間に至って、驪恕公と
劉廉夫の二先生出で、顓(もつぱ)ら王氏を以て本と為す。廉夫先生の著に素
問識有り、近日劉茝庭先生に紹識の作有り。寛、幼き自り好んで此の
經を讀み、一に楊·王の二家、及び素問二識を奉じて、圭臬と為す。而して間ま一二
愚管有り、得失互いに存すれば、則ち講誦の際、或いは條析し難し。是(ここ)に於いて竊(ひそ)かに
昔人の經解の體に俲(なら)い、衆說を捃拾し、瑕を汰(よな)ぎ瑜を擷(つ)み、釐(おさ)めて一書と成す。題して
素問講義と曰う。夫(か)の馬·張以下の諸家の若きは、則ち概(おおむ)ね文に循(したが)って解釋し、遂に
  二オモテ
王氏の窠臼を出でず。故に引く所、僅かに數條に止むるのみ。吁(ああ)、寛、何人ぞ、前哲·
諸賢も、猝かに讀み易からざるの經を以て、妄りに刪述を為す。殆ど韓愈の謂う所の自ら量らざる
者なり。然れども古を思うの人は猶お今の人のごとし。今の病は即ち古の病なり。聖人
世を濟(すく)い民を愍(あわれ)むの意、正大光明にして、炳(あき)らかなること火を觀るが如し。豈に何ぞ必ずしも隱澁
艱蹇を事として、人をして通曉し難からしむる者ならんや。蓋し鑽研すること日久し。而して益ます聖經
の論ずる所を知り、布帛·菽粟と同じく、一日も離るる可からざるなり。今ま經に就きて經を釋し、
相い繞繳せず、未だ妙理を綜核し、義蘊を剖析すること能わずと雖も、之を從來の箋解に覩れば、
日用講肆の間に切なるに庶幾(ちか)からんか。然り而して經義は鴻淵にして、區區として
管窺蠡測して能く得る所に匪(あら)ざれば、則ち此の書も亦た一家の私言、敢えて公然として
世に問わず、聊か諸(これ)を子弟に傳うと云爾(しかいう)。
  二ウラ
嘉永七年甲寅春王正月人日、侍醫法眼兼醫學教
諭喜多邨直寛士栗、江戸學訓堂に識(しる)す。

  【注釋】
○葢:「蓋」の異体。 ○闢:開墾する。開天闢地。 ○蠢蠢:虫の蠕動するさま。 ○衣裳:衣服。上半身の服(衣)と下半身の服(裳)。 ○書契:文字。『易經』繫辭下:「上古結繩而治、後世聖人易之以書契」。 ○作為:つくる。 ○網罟:魚や獣をとらえるあみ。 ○弧矢:弓と箭。ゆみとや。 ○杵臼:きねとうす。 ○易經:書名。伏羲が卦をつくり、文王が繫辞し、孔子が十翼をつくったとされる。 ○隂:「陰」の異体。 ○衇:「脈」の異体。 ○毫釐:極めて微小な数。 ○分寸:微小のものの比喩。 ○用心:心をつくす。留意する。 ○有以:有因。有道理。有為。有何。 ○内經:『黄帝内経』。 ○軒轅:黄帝の名号。 ○岐伯:黄帝の臣。 ○坦:ひろく平ら。平坦。 ○佶屈聱牙:曲りくねっている。文章が晦渋で、読んでいてすらすら口にのぼらない。意味を理解するのに苦労する。 ○竹帛:簡冊と縑素(書写用の白絹)。古代では書写材料として用いられた。引伸して書籍をいう。 ○副墨:文字。 ○遞:つたえる。たがいに。かわる。 ○譌:過誤。あやまり。 ○勢所必然:情勢として必然的な傾向。 
  一ウラ
○續鳧斷鶴:自然の本性に反する比喩。ここでは、無理なことをするたとえであろう。『莊子』駢拇:「長者不為有餘、短者不為不足、是故鳧脛雖短、續之則憂、鶴脛雖長、斷之則悲」。 ○晉皇甫謐:215-282年、初名は靜、字は士安、玄晏先生と号す。『素問』『鍼経』『明堂経』をもとに『鍼灸甲乙経』を撰す。他に『帝王世紀』『高士傳』『玄晏春秋』等の撰あり。 ○梁全元起:南朝の齊梁ころのひと。『南史』王僧儒傳に「金(まま)元起」が、王僧儒に砭石について質問する記事あり。 ○訓解:『素問』の一番早い注釈書。佚。林億らの新校正注を参照。 ○唐有楊王二家:楊上善と王冰。 ○楊氏佚而復存:楊上善『黄帝内経太素』は、八世紀ごろに日本に伝わったが、しだいにその存在が知られなくなり、江戸末期に缺卷があるとはいえ、現存することが知られた。 ○芳邨恂益慄:名古屋玄医の門人。京都のひと。恂益は夭仙子・五雨子と号す。『内経綱紀』『二火辨妄』などを著わす。子の恂益に『黄帝内経素問大伝』あり。 ○稻葉良仙通達:『素問研』の撰者。他に『三焦営衛論』(1762)、『方伎則説』(1776)などあり。良仙は号。法橋。(石田秀実先生『素問研』解説) ○寛政:1789年~1801年。 ○驪恕公:目黒道琢。道琢は会津柳津(やないづ)の畠山氏を祖とする豪農の家に生まれた。名は尚忠(なおただ)、字は恕公(じょこう)、号は飯渓(はんけい)。江戸に出て曲直瀬玄佐(まなせげんさ)(7代道三[どうさん])の門に入り、塾頭となる。松平定信(まつだいらさだのぶ)の信任を受けて医学館の教授に招かれ34年にわたって医経を講義。考証医学の素地を作った(『日本漢方典籍辞典』)。 ○劉廉夫:多紀元簡(もとやす)。元簡の通称は安清(あんせい)、のち安長(あんちょう)、字は廉夫(れんぷ)、号は桂山(けいざん)。井上金峨(いのうえきんが)に儒を、父の多紀元悳(もとのり)に医を学んだ。松平定信の信任を得て寛政2(1790)年、奥医師・法眼に進んだ。翌年、躋寿館(せいじゅかん)が幕府直轄の医学館となるにともない、助教として幕府医官の子弟を教育。同11年には御匙(おさじ)(将軍侍医)となったが、享和元年寄合医師におとされ、文化7(1810)年奥医師に復したが、この年没した(『日本漢方典籍辞典』)。 ○顓:「専」に通ず。 ○素問識:『素問』の注釈書。全8巻。文化3(1806)年自序。没後の天保8(1837)年刊。『素問』の考証学研究のスタンダード。『聿修堂医学叢書(いっしゅうどういがくそうしょ)』(1884)や『皇漢医学叢書』に収められ、早くに中国でも知られた。廖平『六訳館(りくやくかん)叢書』にも少なからぬ影響を与えている。かつて影印本(績文堂、1981)がある。別に元簡の口述を筆記した『素問記聞(そもんきぶん)』(写本)という書もある(『日本漢方典籍辞典』)。 ○劉茝庭先生有紹識之作:『素問紹識』。多紀元堅(たきもとかた)(1795~1857)の著になる『素問』の注釈書。全4巻。弘化3(1846)年自序。「紹識」とは父多紀元簡(もとやす)の『素問識(そもんし)』を紹す(継ぐ・承ける)の意で、『素問識』の時点では未発見であった仁和寺本『太素』をはじめとする資料を用い、『素問識』を補翼する目的で執筆されたものである。未刊で写本として伝えられたが、その1写本が中国に渡って『皇漢医学叢書』に活字収録された。石原明(いしはらあきら)旧蔵本(小島宝素[こじまほうそ]手沢本)が『黄帝内経古注選集』に影印収録され、さらに自筆稿の最善本(大阪大学懐徳堂文庫本)の影印本(北里東医研医史研、1996)、またそれによる活字校訂本(日本内経学会、1996)が出版されている。なお、本書の前段階となった元堅の著書に『素問参楊(そもんさんよう)』(新発現の楊上善注を参ずるという意)なる書もある(『日本漢方典籍辞典』)。 ○此經:『素問』。 ○一:もっぱら。終始。 ○奉:尊重する。 ○素問二識:『素問識』と『素問紹識』。 ○圭臬:日時計。引伸して信奉して依拠する基準とするもの。 ○愚管:浅はかな見解。おろかな管見。謙遜語。 ○得失互存:得失(適当と不適当)相半ばする。 ○講誦:講授し読誦する。 ○條析:緻密に分析する。 ○竊:自己の見解が不確定であることを指して用いる謙遜語。 ○俲:まねる。 ○經解:経義を解釈する書。儒教の経典を解釈する著作。『皇清經解』『通志堂經解』などあり。 ○捃拾:収集する。 ○汰:無用のものを洗いのぞく。淘汰する。 ○瑕:あやまち、欠点。 ○擷:摘み取る。 ○瑜:美い玉。美徳。「瑕」と対をなして「すぐれた点」。 ○若夫:~に関しては。 ○馬張:馬玄台『素問註証発微』。張介賓『類経』。 
  二オモテ
○窠臼:一度出来あがって変わらない規格。決まりきったやり方。 ○前哲:前代の聡明で智慧あるひと。 ○刪述:著述する。孔子は『書』を序し『詩』を刪したと伝えられる。また『論語』では「述べて作らず」という。これより、著述することを「刪述」という。劉勰『文心雕龍』宗經:「自夫子刪述,而大寶咸耀」。 ○韓愈:中国、唐代中期の文学者、思想家、政治家。字は退之。郡望によって韓昌黎というが、実は河内南陽(河南省修武県)の人。最終官によって韓吏部といい、諡(おくりな)によって韓文公と呼ぶ。貞元8年(792)の進士。監察御史のとき、京兆尹李実を弾劾し、かえって連州陽山県(広東省)令に左遷、のち、中央に復帰し、中書舎人などを経て、817年(元和12)、地方軍閥呉元済討伐の行軍司馬となり、その功によって刑部侍郎となったが、憲宗が仏舎利を宮中に迎えたのに反対したため、再び潮州(広東省)刺史に左遷された(『世界大百科事典』第2版)。 ○不自量:韓愈『調張籍』:「蚍蜉撼大樹、可笑不自量」。 ○濟世:世の人をたすける。 ○愍:うれう。 ○正大光明:光明正大。公正無私。 ○炳如觀火:明若觀火。非常にはっきりしている。 ○隱:かくれてあらわれない。隱蔽。隱密。隱慝。 ○澁:文が難解。晦渋。 ○艱:困難。けわしい。艱澀(理解しがたいことばの形容)。 ○蹇:艱難。すらすら進まない。 ○鑽研:澈底的に深く研究する。 ○日久:時間が長い。 ○聖經:『黄帝内経』(素問)。 ○布帛菽粟:「布帛」は、衣服のための材料の総称。「菽粟」は、豆や穀物などの日常の食物。平常のものではあるが、一日として欠くべからざるもの。 ○繞繳:繳繞。かかわりまつわる。 ○綜核:まとめあつめて考える。総合的に考察する。 ○妙理:精微玄妙なる道理。 ○剖析:分析する。理解する。 ○義蘊:含意。意味の奥深いところ。 ○從來:以前から今まで。 ○箋解:箋注。古書の注解。 ○庶幾:期待する。 ○切:切実。密接。 ○日用:日常生活にもとめられる。日常的につかう。 ○講肆:講肄。講義学習。 ○然而:逆接の接続詞。 ○經義:経書の意味。 ○鴻:広大。 ○淵:深い。 ○區區:微小な。ちいさい。言うに足りない。 ○管窺蠡測:管を用いて天を窺い、蠡(ひさご)で海を測る。見識の浅薄なたとえ。 ○一家私言:個人的な見解。 ○問世:著作物を出版する。 ○云爾:語末の助詞。かくのごときのみ。
  二ウラ
○嘉永七年甲寅:1854年。 ○春王:正月。『春秋左氏傳』隱公元年:「元年春 王正月」。 ○人日:正月七日。 ○侍醫:幕府医官。 ○法眼:法印につぐ地位。 ○醫學教諭:医学館の重立(おもだつ)世話役。 ○喜多邨直寛士栗:きたむらただひろ(1804~76)。直寛は幕府医官喜多村槐園(かいえん)の長子で江戸生まれ。字は士栗(しりつ)、通称安斎(あんさい)のち安正(あんせい)、号は栲窓(ごうそう)のち香城(こうじょう)。儒を安積艮斎(あさかごんさい)に学び、江戸医学館の重職に就き、法眼(ほうげん)の位に進んだが、安政4(1857)年故あって辞し、以後、古医籍を研究し、数々の校訂出版と著述活動を行った。明治時代に活躍した栗本鋤雲(くりもとじょうん)はその実弟。/『黄帝内経素問講義』:『素問』の注解書。全12巻。嘉永7年(1854)年成。同著者の『素問剳記(そもんとうき)』の成果を拡張し、その3年後、直寛51歳時に脱稿したもの。『太素』をはじめとする諸資料を用い、先人の業績を顕彰しつつ継承。考証学的『黄帝内経』研究書に属するが、直寛独自の個性も反映されており、多紀(たき)氏に対する気概を感じさせる。2、3の写本が伝えられるが、先年、著者自筆本(東北大狩野本)が影印出版された(オリエント出版社、1987)。『日本漢方典籍辞典』/また詳しくは『近世漢方医学書集成』88の長谷川弥人先生、および『東洋医学古典注釈選集』4の石田秀実先生の解説を参照。 ○學訓堂:直寛の書堂。


  (跋)
本邦天明寛政間講素問者稱芳邨恂益慄稻
葉良仙通達驪恕公忠劉廉夫元簡而恂益有
綱紀予未見良仙有素問研恕公別無成書然
一醫官家弆其手澤訂本標記于次註上下行
欄之際朱墨爛然予嘗貸覽之後讀劉廉夫素問
識援据浩博極爲精覈而迨究其書則知原于恕
公者十之七出於良仙者十之二其間亦必有
採于恂益者是予所不知也而廉夫書中不一
語及此豈魏文所謂自古文人相忌憚者歟而
恐前哲之苦心或泯没不傳是可惋惜而已甲
寅秋仲予草素問講義而成因誌斯語於筴尾
後之讀者亦或有所稽攷乎
嘉永七年八月十九日三街拙者直寛


  【訓讀】
本邦、天明·寛政の間、素問を講ずる者、芳邨恂益慄、稻
葉良仙通達、驪恕公忠、劉廉夫元簡と稱す。而して恂益に
綱紀有れども、予未だ見ず。良仙に素問研有り。恕公別に成書無し。然れども
一醫官の家、其の手澤の訂本を弆し、次註を上下の行
欄の際に標記し、朱墨爛然たり。予嘗て之を貸覽す。後に劉廉夫の素問
識を讀むに、援据浩博、極めて精覈を爲す。而れども其の書を究むるに迨(およ)んで、則ち知る、恕
公に原(もと)づく者は十に七、良仙に出づる者は十に二なるを。其の間にも亦た必ず
恂益に採る者有らん。是れ予の知らざる所なり。而るに廉夫、書中に一
語も此れに及ばざるは、豈に魏文謂う所の古(いにしえ)自り文人の相い忌憚する者ならんや。而して
恐らくは前哲の苦心、或いは泯没して傳わらず。是れ惋惜す可きのみ。甲
寅秋仲、予、素問講義を草して成る。因って斯の語を筴尾に誌(しる)す。
後の讀者も亦た或いは稽攷する所有らんか。
嘉永七年八月十九日、三街拙者直寛


  【注釋】
○本邦:我が国。 ○天明:1781年~1789年。 ○寛政:1789年~1801年。 ○綱紀:『内経綱紀』。 ○素問研:オリエント出版社『黄帝内経研究叢書』所収。 ○成書:書物として成っているもの。書物。 ○弆:収蔵する。 ○手澤:先人の手垢のついたもの。先人がじかに書き加えたもの。 ○次註:王冰注。 ○朱墨爛然:朱筆と墨筆で評点をつけているのが鮮明である。熱心に読書にはげんださまを形容するのに用いる表現。 ○貸覽:借りて読む。 ○劉廉夫:多紀元簡。 ○援据:援據。援引依據。援用し拠り所とするもの。引証。 ○浩博:範囲が広く数が多い。 ○精覈:くわしく究明し、たしかである。 ○究:研究する。調査する。 ○十之七:十分の七。 ○魏文所謂自古文人相忌憚者歟:『梁書』列傳第四十四/文學下/顏協:「陳吏部尚書姚察曰、魏文帝稱古之文人、鮮能以名節自全(陳吏部尚書姚察曰く、魏の文帝、古の文人、能く名節〔名誉と節操〕を以て自ら全うすること鮮しと稱す、と)」。このことをいうか。/なお、喜多村直寛は、『素問箚記』の序において、銭大昕『廿二史考異』の序のことばをもちいて、剽窃の問題に言及している。 ○前哲:前代の賢者。 ○泯没:消失する。消滅する。 ○惋惜:嘆き惜しむ。かなしい。 ○甲寅:嘉永七年。1854年。 ○秋仲:陰暦八月。 ○草:起稿する。草稿をつくる。 ○筴尾:書冊の末。「筴」は「策(冊)」に同じ。 ○稽攷:考える。考証する。「攷」は「考」の異体。 ○三街:直寛は市ヶ谷御門内でうまれた。現在の市ヶ谷駅から田安門へ向かう靖国通りを三番町通りといったという。「三番町」を唐風に「三街」と表記したのであろう。

3 件のコメント:

  1. ……然して一醫官家,其の手澤訂本の標記を,次註上下行欄の際に弆す。……
    弆は,收藏の意味。しかし,もとの藏を弆に訂正したのは何故か,よくわからない。一醫官家って,ひょっとして自分のことじゃないか。それで照れて,こっそり仕舞い込むというニュアンスがある文字を用いた。『金史』に「其弆藏應禁器物,首納者毎斤給錢百文」とあるらしい。

    (肝心な文字の見誤りを指摘され,なるほどと思うので削除し訂正しました。お恥ずかしい。またどっちみち,いつものことながら,これは「なんかしっくりしないなあ」から捻り出した苦し紛れです。ご用心のほどお願い致します。)

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  2. 「然予嘗貸覽之」という以上、一醫官家=予=喜多村直寛は無理だと思う。

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  3. 要するに「次註を」じゃなくて,「次註の」の可能性はないか,というだけのことです。

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