2024年12月28日土曜日

黄龍祥 老官山から出土した金傷死候簡からみた傷科と法医学・鍼灸学による人体の急所に対する認識 4.1

4 討論


4.1  金傷死候簡と伝存する金傷文献研究の特殊な意義


    老官山から出土した金傷死候簡と伝存する金傷文献を研究する特殊な意義は,おもに以下の面である。


4.1.1 早期の金傷診療経験は,中国医学医の人体形態理論を構築し検証するための堅固な実践的基礎と評価の指標を提供した


    中国医学の各分野の中で,金傷研究の特殊な意義は,その最高の国家としての必要性と豊富な経験の蓄積にある。パンデミックのような伝染病を除いて,その他の類の疾病は金傷のようには短時間内に大量に繰り返し出現しないので,医者には多くの観察と思考と探求の機会が十分に与えられ,経験を積み,法則をまとめて,理論を構築するのは難しく,しかも理論の有効性について短時間の内に十分に大きいサンプルを利用して直接かつ迅速に検証することも難しい。

    金瘡が最も多く発生するのは戦場であり,軍事活動は太古から今にいたるまで常に国家の最も重要な活動の一つであるので,軍事医学は歴代政府によって重んじられてきた。『漢書』藝文志に記載された金創の専門書『金創瘲瘛方』は30巻もあって,早くも漢以前に軍医が金瘡診療の豊富な経験を蓄積したことをものがたっている。後世の人に十大兵書の一つに数えられた北宋の『虎鈐經』巻10*には金傷方を専門に論じた「金瘡統論」第103と「治金瘡」第104が置かれていて,金瘡の理論と治療について論じられている。

    *https://archive.org/details/06081584.cn/page/n29/mode/2up


    戦傷の救急治療の主体が変化するのに伴い,今日の中国医学従事者は戦傷の救急治療に関与する機会が少なくなり,この方面の実践経験を蓄積しにくくなった。そのため,出土および伝世の傷科文献を整理し学習することは,我々が中国医学の診療理論を理解し検証するための不可欠で有効な方法の一つである。


4.1.2 老官山金傷死候が出土したことによって,伝世金傷文献の源にさかのぼる上での適切な座標が提供された 


    隋以前の金傷文献の多くは失われて伝わらず,伝存する金傷文献の起源とその発展過程は明らかではなく,関連する文献と学術史を研究する上で大きな障害となっていたが,今回,老官山から金傷死候簡が出土したことによって,金傷文献の起源と発展を考察するための信頼にたる座標が提供されたことになる。

    老官山から出土した11枚の金傷死候簡からわかることは,最も遅くても前漢初期には医者は金傷の診療について豊富な経験を蓄積して,金傷の診療を指導する理論を構築していたということである。これらの理論と治療経験は,『漢書』藝文志に著録された『金創瘲瘛方』30巻の重要な素材となったことは疑いない。金傷死候簡と『諸病源候論』巻36・金瘡初傷候に述べられている致命傷部位に高い関連性があるという新たな発見に基づいて,以下のように基本的な判断ができる。漢以前の金傷文献の原書はすべて亡佚したが,その内容の少なくとも一部の方論は唐以前の大型総合医書(『諸病源候論』『千金要方』『外台秘要方』など)に収録されているはずで,今後,より多くの早期の金傷文献が発掘され,出土文献と伝世医籍の比較研究が深まることによって,金傷の学術が発展をとげた筋道をよりはっきりと整理できる可能性がある。


4.1.3  正確に「二重証拠法」を適用して,出土文献と伝世文献の難問を成功裏に解決するための典型的な実例を提供した


    70年余り前に,王国維氏は『古史新証』の中で「二重証拠法」を提案した。その方法論の根本的な価値は史料の源を開拓することにあり,その実質は源を異にする文献で互いに証明しあうことにあり,古代を重視するものでも現代を軽視するものでもない。

    老官山金傷死候簡を深く掘り下げた典型的な事例を通じて特に強調したいのは,「二重証拠法」をうまく活用して出土文献と伝世文献の難問を解決するために,中国医学の専門家はまず二つの認識上の問題を明確にする必要がある。

    第一に,「二重証拠法」の新たな発展に基づけば,出土文献は他の過程で発見された亡佚文献や伝世文献と性質を同じくする,多くの出典文献の一つに過ぎない。たとえば,老官山から出土した医簡と日本の仁和寺で発見された医学の巻子本〔『太素』〕,老官山前漢鍼灸木人や新たに発見された明・正統時代の仿宋鍼灸銅人形〔エルミタージュ美術館蔵〕などもみなこれに相当する。ただし,研究の具体的な問題によって,異なる出典の文献や文物などの史料は異なる価値を持っている。たとえば,伝存する『銅人腧穴鍼灸圖經』の校勘については,出土した宋・天聖年間の『新鑄銅人腧穴鍼灸圖經』の石刻残碑や,新たに発見された明・正統年間の『銅人腧穴鍼灸圖經』の仿宋石刻拓本の価値は,老官山から出土した漢代竹簡の鍼灸文献をはるかに上回る。同様に,『銅人腧穴鍼灸圖經』のテキストに対する正確な解読については,新たに発見された明・正統仿宋鍼灸銅人形の価値の方が,老官山から出土した鍼灸木人より明らかに高い。

    第二に,出土文献の価値がどれほど高くても,それが伝世文献と結びつく要素を見つけ,中国医学文献全体の中でその位置を明確にすることができなければ,活性化し,その価値を発揮することはできない。このような結びつきをより確実に,より多く探し出せれば,出土した文献の断片が中国医学の歴史という絵巻物全体の中でより正確に位置づけられ,その固有の価値がより多く発掘されることになる。老官山から出土した医簡の『十二脈』と『間別脈』を例とすれば,これらが経絡学説のテキスト体系においてどの位置にあるかを評価できなければ,その価値を確定できないだけでなく,テキストの性質すら確定できないし,正しく利用することさえできない[20]。

    [20]黄龙祥.老官山出土汉简脉书简解读 [J]. 中国针灸,2018,38(1):97-108.

    今回,筆者は老官山金傷死候簡と伝世文献との接点を見つけることで,その背後に隠されたかけがえのない重大な学術価値を発掘した。11枚の金傷死候簡と伝存する金傷文献の間に緊密な連係を確立し,伝存する金傷理論の流れを明確にしただけでなく,「人体急所の認識」という「鎖」を通じて,金傷・鍼灸・法医学の文献を密接につなぎ合わせることで,中国医学の文献と学術史の研究全体を活性化させた。それと同時に,金傷死候簡の釈読の中に残った一つ一つの謎と疑問は,伝世文献との融合の中で明らかになり,出土文献のかけがえのない価値も最大限に発揮された。そして一層深い意義は,この典型的な事例研究を通じて,中国医学内の異なる分野間のコミュニケーション,中国医学と法医学,さらには中国医学と西洋医学という二つの医学体系間の互いに恩恵を受ける対話に,新たな道を切り開いたことにある。

    正確に「二重証拠法」を運用して伝世文献と出土文献の研究における困難な問題を解決するには,伝世文献を深く掘り下げながら,系統的に研究する堅固な基礎が必要である。実のところ,地下にあった文献はひとたび発掘されれば,伝世文献の一部となる。伝世文献が各種の出典文献の中で最大で最も研究に値することは疑いない。文献学と学術史研究の豊富な経験,過去の考古学的発見の経験や教訓についての真剣な総括――高水準の典型的な実例研究――がなければ,正確に「二重証拠法」を応用して高水準の出土文献と伝世文献を相互に証拠とし,相互に解釈する研究をおこなうことは難しく,一回どれほど貴重な文献が出土したとしても,過去の幾多の出土医学書の研究のように――表面をかじっただけで終わり,数年で熱がさめて,また次の考古学的発見を期待することになる。 

黄龍祥 老官山から出土した金傷死候簡からみた傷科と法医学・鍼灸学による人体の急所に対する認識 3

3 老官山金傷死候簡と関連伝世文献の互校互釈


     伝世文献の中で,叙述の仕方が老官山金傷死候簡に最も近いのは,『素問』刺禁論である。人体の急所で最も近いのは,『諸病源候論』巻36・金瘡初傷候である。


        簡一六二:金傷。傷百節,斬絲骨,死。

 

    「絲(系)骨」を,宋代の骨解剖学文献である『聖濟總錄』巻191・〔鍼灸門〕骨度統論は「肺系骨」「肺系」に作る。『黃帝內經太素』巻27・十二邪で,楊上善は,「肺系為喉通氣之道」と注している。用語の規範化から考えれば,老官山医簡の「系骨」と比べれば,伝世文献が「肺系骨」に作るのはより明確である。なぜなら「系」は,人体の構造名として特定の部位を指すのではないが,「肺系」は特定の構造だからである。

    気管断裂が致命傷であるという認識は,宋元明清,歴代の法医学の鑑識によって確認されている。『洗冤集錄』が論じている急所に「喉下」があり,明代の法医学を代表する著作『實政錄』はさらに「咽喉」を致命傷の部位に入れた。明代の王文謨は『濟世碎金方』に「秘傳繼周打傷方」を収録し,その第一条で「氣管斷即死,不治」と明言している。説明を要することは,救急処置術の進歩に伴い,金傷によって気管が断たれても救うことができるようになった。たとえば,「(清)南伯安輯」の題がある『穴道拳訣』は,金傷による気管断裂の麻酔と縫合および術後の看護の全過程を詳細に記述している[11]。

    [11]丁继华.古代中医伤科图书集成 导引伤科[M].中国中医药出版社,2021:178.


    簡一六三:金傷。傷青上跬四寸,跛。


    この簡にある「跬」は,老官山『十二脈』の足太陽脈の「出外踝後胿」にある「胿」と源を同じくしていて,「腨」字と同じで,『黃帝內經』では,「踹」とも書かれている。足太陽脈が循行する部位である「胿」は「陥凹」の意味で用いられていることはすでに知られており,特定の固定的な部位を指すものではない。しかし,簡一六三の「上跬四寸」は,明らかに一つの特定の部位である。その負傷の症状である「跛」から下腿部にあると大体判断できるが,具体的にどこにあるかは伝世文献と結びつけて判断する必要がある。この竹簡の文と関連する伝世文献は以下の通り。


    刺腨腸內陷,為腫。(『素問』刺禁論)

    承筋,一名腨腸,一名直腸。在腨腸中央陷者中,足太陽脈氣所發。禁不可刺。(『黃帝明堂經』)

    承筋不可傷,傷即令人手脚攣縮。(『聖濟總錄』卷194・誤傷禁穴救鍼法》)

    伏兔一;腓二,腓者腨也;背三;五臟之腧四;項五。此五部有癰疽者死。(『靈樞』寒熱病)

    腿肚,雖不致命,傷重亦可致命。(『重刊補註洗冤錄集證』卷1・驗屍[12])

    [12]文晟等.重刊补注洗冤录集证.验尸:卷一[M].道光甲辰(1844)刊本.


    以上の時期が異なり,分類が異なる文献は,みな下腿の腨腸〔腓腹筋〕を傷つけてはならないとする。特に,『素問』『聖濟總錄』に記載されている腨腸を刺傷することによる症状である「腫」「手脚痙縮」は,簡一六三に記載されているのとほとんど同じで,「上胿四寸」と「腨腸中央」の関連に,より有力な証拠を提供している。「上跬四寸」は下腿腨腸の中央(承筋穴に当たるところ)であるので,「胿」は腨腸下端の陥凹(承山穴に当たるところ),すなわち『黃帝明堂經』に述べられている「承山,一名魚腹,一名腸山,一名肉柱,在兌腨腸下分肉間陷者中」である。これから分かるように,この竹簡の「胿」字と『十二脈』の「胿」字には,いずれも「陥凹」の意味がある。しかしながら簡一六三の「胿」の字形は,「承山」「魚腹」「腸山」「肉柱」という名称とは,みな離れている。その他の伝世文献にも「腨腸下分肉間陷」を「胿」という例は見えないので,この簡に誤字や脱字がある可能性を排除できない。


    簡一六四:金傷。傷頭角嬰脈,旋。


    伝世の鍼灸・金傷・法医学の諸家の文献は,みな額の角・太陽穴は傷つけるべきではないとし,「頭角嬰脈」の具体的な解釈さえ見られる。


    頭維,在額角髮際,夾本神兩旁各一寸五分,足少陽、陽明之會。刺入五分,禁不可灸。(『黃帝明堂經』)

    眼小眥後一寸,太陽穴,不可傷,傷即令人目枯,不可治也。(『聖濟總錄』卷194・誤傷禁穴救鍼法)


    『醫心方』巻2に引用される曹氏の不可灸20穴に,「維角者,在眼後髮際上至角脈是也……不可妄灸」とある。この額の角の脈を「角脈」とし,老官山金傷死候簡は「頭角嬰脈」という。一方は詳細で,もう一方は省略されているが,かならずしも頸部の脈と無理に解釈しなくてよい。

    二つの金傷の源となった文献である『諸病源候論』と『外臺祕要方』に記載された金傷の致命傷部位には,ともに「眉角」があり,宋以下の法医学文献の致命傷部位にもみな「額角」「太陽」があって,金傷簡と一致している。


    簡一六六:金傷。斬纓脈,血出不止,死。


    この「纓脈」はまた『素問』*にも見え,頸部の大脈を指す。『黃帝明堂經』では「人迎」と名づけられている。『醫心方』は,曹氏の禁灸穴と『范汪方』が論じる癰が発する危険な場所を引用しているが,そこにはともに「胡脈」とある。これは人体の急所を言っていて,ここを傷つけると,出血が止まらなくなって死ぬ。

    *『素問』通評虛實論。


    人迎,一名天五會。在頸大脈動應手,俠結喉旁,以候五藏氣,足陽明脈氣所發。禁不可灸,刺入四分,過深不幸殺人。(『黃帝明堂經』)

    胡脈,在頸本邊主乳中脈上是也,一名榮聽,人五藏血氣之注處也。無病不可多灸,熟則血氣決泄不可止。(『醫心方』卷2引ける曹氏禁灸穴)

    其血瘤,瘤附左右胡脈,及上下懸癰・舌本諸險處,皆不可令消,消即血出不止,殺人,不可不詳之。(『外臺祕要方』卷29引ける『深師方』)


    老官山金傷死候簡は頸部の「纓脈」を例として大脈を傷つけて,血が出て止まらなくなると死ぬことを説明している。また簡一六九も,「血出不止,死」という。およそ「動が手に応」ずる大脈を傷つけると,血が止まらずに出続けて死に至る可能性があるのは,「纓脈」一箇所だけに留まらないのは,明らかである。そのため『諸病源候論』巻50・金瘡候は,総括して「若傷于經脈,則血出不止,乃至悶頓」という。すなわち金刃によって大脈が傷つけられれば,流血が止まらず,失神して死亡する可能性がある。

    以上の各家の人体の急所に対する認識を見ると,鍼師の認識はより深く,定性的な認識があるだけではなく,一歩進んだ数量化の指標もある。具体的には人迎脈は人体の急所であるが,生と死の間の尺度を精確に把握すれば,鍼し灸することができるだけではなく,その上しばしば起死回生の要穴でもある。


    簡一六七:金傷。傷孅嬰,青,陰不用。


    孅嬰とは,両側の下腹の鼠鼷部を指す。鍼灸の経験によって,ここが傷つけられると,青腫・陰不用の症が引き起こされる可能性があることが明らかになった。


    刺氣街中脈,血不出,為腫鼠僕。 新校正云:按別本「僕」一作「鼷」。(『素問』刺禁論)


    氣街を刺して脈に中(あ)たり,血が出ないと鼠蹊部が青く腫れるのは,簡一六七に述べられていることと一致する。鼠鼷とは,両側の下腹部で股〔大腿〕と接するところである。『醫心方』巻2の「陰廉」穴の下にある楊上善『黃帝內經明堂』の注に「羊矢亦曰鼠鼷,陰之兩廉,腹與股相接之處」とある。


    氣衝(一作「氣街」),在歸來下,鼠鼷上一寸,動脈應手,足陽明脈氣所發。刺入三分,留七呼,灸三壯,灸之不幸使人不得息。主……陰疝,痿,莖中痛,兩丸騫,痛不可仰臥。(『黃帝明堂經』)


    腧穴の作用には二面性があり,腧穴の主治病症は往々にして誤って傷つけたことによる病症でもある[13]。気衝穴の主治病症にはまさに「陰疝・痿〔インポテンツ〕」の症があり,簡一六七の金傷による病症と一致している。


    簡一六五:金傷:傷股,從辨䐃,死。

    簡一六八:金傷:傷臂臑,從辨䐃,死。


    この二つの簡は,人体の大きな筋肉が横に断裂すると致命的であることを指摘している。『諸病源候論』巻36が引用する初期の金傷文献も,金刃で傷つき「腓腸を横に断たれれば」,致命的であることを指摘している。このほか,『黃帝內經』と『黃帝明堂經』に明確な関連文がある。


    伏兔,在膝上六寸起肉,足陽明脈氣所發。禁不可灸。(『黃帝明堂經』)

    身有五部:伏兔一;腓二,腓者腨也;背三;五臟之腧四;項五。此五部有癰疽者死。(『靈樞』寒熱病)


    清代の刑部の官僚は,殴り合いによる殺人事件の中には,「膊・胯・腿等厚處被毆死者〔上肢・下肢の,ぶ厚いところを殴打されて死んだ者〕」が確かに何人かいることに気づいた[14]。しかし,これらの部位が傷ついて死亡する確率は「頂心」などの急所よりも低いため,『大清律例』や律例館が編纂した官修書『律例官校正洗冤錄』では「致命傷部位」としては名を連ねていない。

    [14]郎廷栋.洗冤汇编[M].保顺斋藏板,1718.


    簡一六九:金傷。折頭傷腦,血出不止,死。


    頭を骨折し脳を傷つければ,それだけで死ぬ可能性があるが,さらに大脈を傷つけて「血出不止〔出血が止まらない〕」と死亡するリスクは高まる。脳を傷つけて死亡することについては,金傷・鍼灸・法医学の各文献にみな明言されている。特に『諸病源候論』などの金傷文献は脳の損傷の症状に対してとりわけ詳しく述べている。


    自餘腹破腸出,頭碎腦露,並亦難治〔自餘(このほか)腹破れ腸出で,頭碎け腦露わるるも,並びに亦た治し難し〕。(『諸病源候論』卷50・金瘡候)


    夫被打,陷骨傷頭,腦眩不舉,戴眼直視,口不能語,咽中沸聲如㹠子喘,口急,手為妄取,即日不死,三日小愈〔夫れ打を被り,骨を陷(おちい)らせ頭を傷(そこな)い,腦眩(くら)んで舉がらず,戴眼直視し,口 語る能わず,咽の中 沸く聲 㹠子(いのこ)の喘ぐが如く,口急(ひきつ)り,手妄りに取るを為し,即日に死せざれば,三日にして小(すこ)しく愈ゆ〕。(『諸病源候論』卷36・被打頭破腦出候)

    又破腦出血而不能言語,戴眼直視,咽中沸聲,口急唾出,兩手妄舉,亦皆死候,不可療。若腦出而無諸候者可療〔又た腦を破り血を出だして言語する能わず,戴眼直視し,咽の中 沸く聲し,口急(ひきつ)り唾出で,兩手妄りに舉ぐるは,亦た皆な死候にして,療す可からず。若し腦出づるも諸候無き者は療す可し〕。(『外臺祕要方』卷29・金瘡禁忌序一首)


    『外臺祕要方』によれば,『諸病源候論』巻36の「即日不死」の前には「皆死候,不可治」といった類の脱文があるはずである。原文が描く症状をみると,頭部の外傷後の陥没骨折による脳損傷であり,頭蓋内血腫を合併すれば,負傷者の大部分は早期に死亡し,「三日」も延命しない。もし頭蓋内血腫を伴わない軽度の脳挫傷であれば,即死せず,「三日にして小しく愈ゆ」る可能性はある。


    簡一七〇:金傷:傷百節帶會,訊(迅)而死。


    この簡が述べる「傷百節帶會」も脳外傷であり,その予後「迅(すみや)かにして死す」から見ると,簡一六九の内容よりも致命的な脳の領域である。この簡は,伝存する法医学文献が人体の致命的な部位を「必死の場所」と「死を速(まね)く場所」に分けた認識の源と見なすことができる。


    「百節帶會」の具体的な位置について,関連する伝世文献から探究する。


     刺頭中腦戶,入腦立死〔頭を刺し腦戶に中(あ)たり,腦に入らば立ちどころに死す〕。(『素問』刺禁論)


    経文にいう「立ちどころに死す」と,竹簡に述べられた「迅かにして死す」はまさに一致しているが,「脳戸」の具体的な位置については,古今の注家の理解は一致してない。確実なことは,この部位では脳の実質であり,かつ脳の生命中枢に鍼を深く刺入できことである。このような部位は,『靈樞』海論に二箇所記載がある。その上輸は「其の蓋」にあり,下輸は「風府」にある*。その中の「風府」の位置は明確であり,宋以降の歴代法医学文献は「致命」の場所と定めている。上輸である「其の蓋」について,楊上善は「上輸腦蓋,百會之穴」(『太素』巻5・四海合)と注し,清代の沈彤『釋骨』は,「頭之骨曰顱,其上曰顛(亦作巔),曰腦蓋,曰腦頂,亦曰頂」[15]という。すなわち髄海の上輸である「其の蓋」は,法医学文献でいう「頂心」であり,百会穴があるところに当たる。

    [15]陆拯.近代中医珍本集 医经分册[M].2版.浙江科学技术出版社,2003:467.

    *『靈樞』海論:「腦為髓之海,其輸上在於其蓋,下在風府」。


    既存の史料から知られることは,遅くとも宋代には「頂心〔頭頂部〕から脳を刺せば死を速(まね)く」ことが,医家以外の人にすでに知られていたことである。たとえば,宋の真宗の時代,礼部尚書の張詠は益州の知府〔長官〕であったときに,妻が平らな頭の鉄釘を頂心に打ち込んで夫を殺す事件を二件,目の当たりにした[16]。法医学者の宋慈は先人と当時の人の経験を系統的に総括して,その検死の規準を作成した。「如男子,須看頂心,恐有平頭釘〔如(も)し男子ならば,須(すべか)らく頂心を看るべし,恐らくは平頭の釘有らん〕」*。

    [16]钱斌作. 洗冤集录的世界[M].青少版.安徽科学技术出版社,2022:103.

    *『洗冤集錄』卷1・四・疑難雜說上。

    https://archive.org/details/02092495.cn/page/n17/mode/2up


    宋以降,歴代の法医学文献はみな「頂心」を致命箇所とした。また清代の『律例館校正洗冤罪録』は更にすすんで,「頂心」の左右両側も一撃で死に至る絶対的な致命の場所と認定した。


    簡一七一:〼□血二斗,死。


    伝存する医籍でも「血出でて止まざれば,死す」「出血多ければ,立ちどころに死す」と多く言われるが,このように精確な定量指標によって予後を判定することはまれである。現代医学知識によれば,出血は人体の血液容量の60%を超えると治癒できない。通常,人体内の血液総量は体重に比例し,体重の約7%~ 8%を占めている。もし体重が60 kgの人であれば,血液総量は4200 ~ 4800mLであり,秦漢の時代の「二斗」は現在の4000mLに相当し,60 kg成人の全血液量に近いので,必ず死ぬ。

    簡一七二:金傷,傷三毛,從陰及陽脈,死。


    「三毛」とは,『諸病源候論』巻36の金傷致命部位である「攢毛」であり,陰部の叢毛である。「陰及陽脈」とは,男女の陰部を指す。宋代の法医学鑑定の専門書『洗冤集錄』に並べられている急所では,男子は「陰嚢」,女子は「陰門」であり,宋以降の法医学鑑定は,みなこれに従っている。

    傷科の文献,たとえば危亦林の『世醫得效方』正骨兼金鏃科の「十不治症」篇には「陰子を傷破する者」[17]が掲載されている。陰子は「腎子」とも表現され,睾丸を指す。明代の王文謨『濟世碎金方』秘傳繼周打傷方は「腎子受傷,入小腹者,立死不治;腎子受傷皮破者,腎子未上小腹,可治〔腎子 傷を受け,小腹に入る者は,立ちどころに死して治せず。腎子 傷を受け皮破るる者も,腎子未だ小腹に上らざれば,治す可し〕」[18]という。もし陰嚢〔睾丸〕が脱出しても破砕しなければ,まだ救える術がある。たとえば元代の王承業と顧東甫の『接骨入骱全書』は陰囊縫合術を掲載して次のように言っている。「如有捏碎陰囊陰戶,卵子拖出者,以指輕輕擎上,油綿線縫合,外將金瘡藥封固,若不發熱寒,竟將吉利散治之,次服托裡散;如發寒熱,急投疏風理氣湯。如卵子捏碎者,此凶癥,不治也〔陰囊陰戶を捏(こ)ね碎きて,卵子拖(ひ)き出づる者有るが如きは,指を以て輕輕に擎(も)ち上げ,油綿線もて縫い合わせ,外は金瘡藥を將(も)って封(と)じ固む。若(も)し熱寒を發せざれば,竟に吉利散を將(も)って之を治し,次に托裡散を服(の)ましむ。如(も)し寒熱を發すれば,急ぎ疏風理氣湯を投ず。卵子の捏(こ)ね碎くる者の如きは,此れ凶癥にして,治せざるなり〕」[19]1108。

    [17]危亦林.世医得效方[M].中国中医药出版社,2009:730.

    [18]王文谟.济世碎金方[M].中国中医药出版社,2016:236-237.

    [19]丁继华.伤科集成 续集[M].中医古籍出版社,2006:1108,1105.


    実際,陰嚢と陰戸〔女性生殖器の外陰部〕は直接的な致命箇所ではないが,ここには神経が多く分布しているため非常に敏感であり,損傷は疼痛によるショックをまねき,致命的である。これについては,『接骨入骱全書』もすでに認識していて,「陰囊・陰戶・肛門穀道傷極者,痛切難忍,毒血迷心,未有不死者也〔陰囊・陰戶・肛門穀道の傷 極まる者は,痛切 忍び難く,毒血 心を迷わせ,未だ死せざる者有らざるなり〕」[19]1105と述べている。しかし現代の医療条件の下では,ショックを防げれば,睾丸の摘出や陰嚢の修復術をおこなって命を救うことができる。

    以上の出土文献と伝世文献の対比を通じて,以下のことが分かった。分類の異なる文献の人体の急所に対する認識の多くは近いが,同じ人体構造に対する命名には大きく異なるところがあるし,同じ種類の文献の中でも同一構造組織に対する表現も前後で異なることさえある。このような「同じ構造組織でも名称が異なる」という現象が広範囲に存在することは,後世の人が正確に理解するうえで大きな困難となり,人体の急所の認定にも一定の混乱をもたらした。




 

2024年12月27日金曜日

黄龍祥 老官山から出土した金傷死候簡からみた傷科と法医学・鍼灸学による人体の急所に対する認識 2

 2 伝世文献が論じる身体の急所とその相互関係


    伝世文献で系統的に人体の急所を論述するものには,金傷文献以外には,主に鍼灸と法医学類の文献がある。

    金傷文献の源は『諸病源候論』と『外臺祕要方』であり,前者の引用文の出所は不詳であるが,後者は『肘後方』から引かれている。その他の後期の金傷文献では,引用がある場合も,みな出典が詳細に記載されている。また金傷は「瘍医」に属するため,癰瘍死候が人体の急所部位を論じる場合は,金傷の文献の下にまとめて添えられている。鍼灸の源となる文献は伝世本『黃帝內經』『黃帝明堂經』(輯校本)である。法医学の源となる文献は,宋代の宋慈の『洗冤集錄』である。他に明代の法医学の重要文献である呂坤の『實政錄』,および清代に国家の名義で全国に公布された公文書『律例館校正洗冤錄』を参照とする。


2.1 金傷文献


    『諸病源候論』巻36と『外臺祕要方』巻29で述べられている金傷が致命傷となる部位は非常に近く,いくつかの特有の専門用語も同じであることさえあるが,それでも無視できない相違がいくつか見られる。これらの相違は両書が採用した文献の出典が異なる可能性があることを示唆している。


      夫被金刃所傷……若中絡脈・髀內陰股・天聰(窗)・眉角,橫斷腓腸,乳上[乳下]及與鳩尾・攢毛・小腹,尿從瘡出,氣如賁豚,及腦出,諸瘡如是者,多凶少愈〔夫れ金刃を被り傷つく所……若し絡脈・髀內陰股・天聰(窗)・眉角に中(あ)たり,腓腸を橫に斷ち,乳上[乳下]及び鳩尾と攢毛・小腹,尿 瘡(きず)從(よ)り出で,氣 賁豚の如く,腦に及んで出づ,諸瘡 是(か)くの如き者は,凶多く愈ゆること少なし〕。(『諸病源候論』卷36・金瘡初傷候)


    この条文の「天窗〔窓〕」字の誤りと「乳下」の脱文は,いずれも『醫心方』巻18・治金瘡方〔第5〕に引用されている『諸病源候論』によって校補した。

    『諸病源候論』のこの文は,老官山金傷害死候簡に反映されている人体の急所の認識にかなり近いが,実質的に異なるのは,この条文が内臓,特に心の重要性を指摘している点である。「乳上乳下及與鳩尾」の内部は心であり,その左乳の上下で搏動するところは心尖であり,中国医学の鍼灸文献は,これによって宗気の盛衰を診察する「胃の大絡」(『素問』平人氣象論)とし,傷科文献の『接骨入骱全書』は,これを「氣門」と呼び,「氣門,左乳上脈動處,傷即塞氣,救遲不過三時〔氣門は,左の乳の上 脈動ずる處,傷つけば即(ただ)ちに氣を塞ぎ,救うこと遲ければ三時を過ぎず〕」という[6]。『黃帝明堂經』は鳩尾穴を載せ,「不可灸刺」といい,『素問』氣府論の王冰注は,「鳩尾,心前穴名也。其正當心蔽骨之端」という。


      小兒為金刃所傷,謂之金瘡。若傷於經脈,則血出不止,乃至悶頓;若傷於諸臟俞募,亦不可治;自餘腹破腸出,頭碎腦露,並亦難治;其傷於肌肉,淺則成瘡,終不慮死〔小兒 金刃の傷つく所と為る,之を金瘡と謂う。若し經脈を傷つければ,則ち血出でて止まず,乃ち悶え頓(たお)るるに至る。若し諸臟の俞募を傷つければ,亦た治す可からず。自(この)餘(ほか)腹破れ腸出で,頭碎き腦露わるるは,並びに亦た治し難し。其れ肌肉を傷つくるに,淺ければ則ち瘡と成り,終に死を慮らず〕。(『諸病源候論』卷50・〔小兒雜病諸候六〕金瘡候)


    この条文と巻36の最も明らかな違いは,ここに鍼灸学特有の概念「兪募」が現われていること,また「金瘡」を定義する文が現われていることである。両者には由来を異にする出典があるに違いない。


      凡金瘡傷天窗・眉角・腦戶・臂裏跳脈・髀內陰股・兩乳上下・心鳩尾・小腸(腹)及五藏六腑輸,此皆是死處,不可療也。並出第三卷中。(『外臺祕要方』卷29・金瘡禁忌序一首)


    これと『諸病源候論』巻36との実質的な相違は,「腦戶」「腕裏跳脈」「五臟六腑輸」の三箇所が多く、「攢毛」の一箇所が欠けていることである。これは,『諸病源候論』巻50にある小児の「金瘡候」を論じている文献の出典により近い。


    特に説明すべき用語が二つある。その一,「天窗〔天窓〕」。この文と上で引用した『諸病源候論』の原文に見える「天窗」は,前頭部の顖門(ひよめき)(督脈の顖会穴がある場所)を指すのであって,小腸経の頸部にある「天窗〔天窓〕」穴のことではない。後世の金傷文献が引用する際,この「天窗」を頸部にある同名穴「天窗」と誤解していることが多いが,大きな誤りである[7]。

 [7]黄龙祥.出土医学文献的激活与利用--以敦煌卷子佚名灸方两组腧穴解读为例 [J].中医药历史与文化,2023, 2 (2):280-308.


    その二,「心鳩尾」。これは骨の名称で,別名は「鳩尾」「𩩲骬」「心蔽骨」「蔽骨」である。その骨の下五分にある穴名も「鳩尾」という。早くも『黃帝明堂經』*に明確な注釈と応用例がある。

*黄龍祥『黃帝明堂經輯校』:鳩尾:「一名尾翳,一名𩩲骬。在臆前蔽骨下五分,任脉之別。不可灸刺(鳩尾蓋心上,人無蔽骨者,當從上岐骨度下行一寸半)。主〔心中寒,脹滿不得食,息賁唾血,血瘀,熱病,胸中痛不得臥,心腹痛不可按,善噦,心疝,太息,面赤,心背相引而痛,數噫喘息,胸滿咳嘔,腹皮痛,瘙癢〕。(ママ)喉痹,食不下」。


    しかし,鍼灸文献に不慣れなひとが古い傷科の文献を整理したものでは,いつも「心鳩尾」を「心・鳩尾」と誤って句読点が打たれる。このような誤解は現代人に多く見られるだけでなく,早くも宋代に誤読された例がある。後世に十大兵書の一つとされた北宋の許洞『虎琢經』巻10「金瘡總說」に引用された『外臺祕要方』には次のように記されている。「夫金瘡不可治之者有九焉:一曰傷腦戶,二曰傷天窗,三曰傷臂中跳脈,四曰傷髀中陰股,五曰傷心,六曰傷乳,七曰傷鳩尾,八曰傷小腸,九曰傷五臟。此九者,皆死處也」[8]。この原本,『諸病源候論』は,もともと一つの急所であった「乳上乳下及與鳩尾」が,「心」「乳」「鳩尾」の三箇所に変化した。

    [8]许洞.虎钤经[M]//季羡林.四库家藏·子部·兵家.山东画报出版社,2004:76.


    以上の二つの金傷の源になった文献に記述された人体の急所の共通原則は,大脈と重要臓器である。比較していえば,『諸病源候論』巻36で論じられた人体の急所は,老官山の金傷死候簡で論じられたものにより近く,比較的初期の金傷文献を源としている。対して,『諸病源候論』巻50と『外臺祕要方』巻29で引用された『肘後方』が金傷致死を論じた文は比較的晩期の文献から出たか,あるいは『諸病源候論』巻36と源を同じくする文献を引用したが,引用する際に当時の医学の新知識に基づいてやや改編したもので,原文を直接引用したものではない。


    【附】癰疽文献が論ずる人体の急所


      身有五部:伏兔一;腓二,腓者腨也;背三;五臟之腧四;項五。此五部有癰疽者死。(『靈樞』寒熱病)


    この五部のうち,一・二・四はすでに先に引用した二種類の金傷の源になった文献に見える。その五の「項」は,宋代の法医学の専門書『洗冤集錄』に見える。その三の「背」は多く五臓と連係し,急所でもあり,しかも遅くとも唐代にあっては医者以外の人にも知られていた。たとえば史書の記載によると,唐の太宗は明堂の孔穴図を閲覧し,五臓の系〔繫〕がみな背に附着することを見た。そこで貞観四年の背を鞭打つのを禁ずる詔*に次のようにいう。「決罪人不得鞭背。且人之有生,繫於臟腑,灸針失所,尚致夭傷。鞭撲苟施,能無枉橫〔罪人の背を鞭うつを得ざるを決す。且つ人の生有るは,臟腑に繫(か)かる,灸針 所を失すれば,尚お夭傷を致す。鞭撲苟(も)し施さば,能(なん)ぞ枉橫無からんや〕」[9]。

    [9]周绍良.全唐文新编[M].第1部.第2册.吉林文史出版社,2000:873.

*『舊唐書』卷三 太宗 李世民 下 紀第三/貞觀四年:「十一月……戊寅,制決罪人不得鞭背,以明堂孔穴針灸之所」。李昂(第17代皇帝・文宗)『禁鞭背詔』:「朕比屬暇日,周覽國史,伏讀太宗因閱『明堂孔穴經』,見五臟之繫,咸附於背,乃下制,決罪人不得鞭背。且人之有生,繫於臟腑,灸針失所,尚致夭傷,鞭扑苟施,能無枉橫?況五刑之內,笞最為輕,豈可以至輕之刑,傷至重之命」。


      經言:……癰之疾,所發緩地不殺人,所發若在險地,宜令即消,若至小膿,猶可治,至大膿者致禍矣。一為腦(乃道反)戶,在玉枕下一寸;二為舌本;三為懸壅;四為頸節;五為胡脈;六為五藏俞;七為五[藏]繫;八為兩乳;九為心鳩尾;十為兩手魚際;十一為腸屈之間;十二為小道之後;十三為九孔;十四為兩脇腹;十五為神主之舍。凡十五處不可傷,而況於癰乎?〔經に言う:……癰の疾,發する所 緩地ならば人を殺さず,發する所若(も)し險地に在らば,宜しく即(ただ)ちに消さしむべし,若し小膿に至るとも,猶お治す可し,大膿に至る者は禍いを致さん。一は腦(乃道の反(かえし))戶と為し,玉枕の下一寸に在り;二は舌本と為す;三は懸壅と為す;四は頸節と為す;五は胡脈と為す;六は五藏俞と為す;七は五[藏]繫と為す;八は兩乳と為す;九は心鳩尾と為す;十は兩手の魚際と為す;十一は腸屈の間と為す;十二は小道の後と為す;十三は九孔と為す;十四は兩脇腹と為す;十五は神主の舍と為す。凡そ十五處 傷つく可からず,而して況わんや癰をや?〕(『范汪方』*,『醫心方』卷15〔說癰疽所由第一〕より引用)

 *范汪(308年~372年),字玄平,南陽順陽(今湖北光化北)人。東晉時期著名政治家、醫學家。


    この文はまた『外臺祕要方』〔卷24〕癰疽方一十四首が引用する「于氏法」にも見え,その注に「『范汪』同じ」とあり,その中の「五繫」を「五藏繫」に作る。注目に値するのは,先に引用した唐の太宗は明堂孔穴図を閲覧して「五臓の系〔=繫〕がみな背に附く」ことを知っており,この『范汪方』に引かれる「経」にもこの「五臓の系」という専門用語があり,しかも引用されている文には鍼灸の刺禁の影響が明らかに見られることである。たとえば「脳戸」は鍼灸の経穴であることが明確に注記されている。また「五臓兪」「舌本(『黃帝明堂經』では「風府」穴の別名)」「魚際」「腸屈(『黃帝明堂經』では「腹結」穴の別名)」も同様である。「胡脈」は『醫心方』巻2・禁灸法第4に引用された「曹氏說不可灸者」*の二十穴に見えて,注に「陳延之 同じ」とあり,やはり六朝以前の鍼灸明堂文献を出自としている。また曹氏說不可灸者の中には「神府」(すなわち鳩尾)**があるが,これも『范汪方』に引用された「神主の舎」と意味は同じである。

 *『醫心方』巻2・禁灸法第4:「胡脈在頸本邊主乳中脈上是也,一名榮聽,人五臟血氣之注處也,無病不可多多灸,〔「多多灸」:前後の文によれば「灸〻」の誤記〕熟則血氣決泄不可止;有疾可灸五十壯」。

 **『醫心方』巻2・禁灸法第四:「神府者,人神之明堂也,無病不可灸,灸則少氣之,恆使人無精守;有疾可灸百壯。此則鳩尾,一名龍頭是也」。


    『范汪方』に引用された「経」が論じた癰疽の危険部位についての説は,影響が大きく,前後して『集驗方』『小品方』などの初期の中国医学の名著に引用された。また『外臺祕要方』巻29が引用する『深師方』にいう「其血瘤,瘤附左右胡脈,及上下懸癰、舌本諸險處,皆不可令消,消即血出不止,殺人,不可不詳之〔其の血瘤,瘤 左右の胡脈に附し,上下の懸癰と舌本 諸々の險處に及べば,皆な消(のぞ)かしむ可からず,消(のぞ)けば即ち血出でて止まず,人を殺す,之を詳らかにせざる可からず〕」も,この説に基づいているとすべきである。


2.2 鍼灸文献


     凡刺胸腹者,必避五臟。中心者環死,中脾者五日死,中腎者七日死,中肺者五日死,中膈者,皆為傷中,其病雖愈,不過一歲必死。(『素問』診要經終論)


     刺中心,一日死,其動為噫。刺中肝,五日死,其動為語。刺中腎,六日死,其動為嚏。刺中肺,三日死,其動為咳。刺中脾,十日死,其動為吞。刺中膽,一日半死,其動為嘔。刺跗上中大脈,血出不止死。刺面中溜脈,不幸為盲。刺頭中腦戶,入腦立死。刺舌下中脈太過,血出不止為瘖。刺足下布絡中脈,血不出為腫。刺郤中大脈,令人仆脫色。刺氣街中脈,血不出,為腫鼠仆。刺脊間中髓,為傴。刺乳上,中乳房,為腫根蝕。刺缺盆中內陷,氣泄,令人喘咳逆。刺手魚腹內陷,為腫。(『素問』刺禁論)


    刺陰股中大脈,血出不止死。刺客主人內陷中脈,為內漏為聾。刺膝髕出液,為跛。刺臂太陰脈,出血多立死。刺足少陰脈,重虛出血,為舌難以言。(『素問』刺禁論)


     刺膺中陷中肺,為喘逆仰息。刺肘中內陷,氣歸之,為不屈伸。刺陰股下三寸內陷,令人遺溺。刺腋下脇間內陷,令人咳。刺少腹中膀胱溺出,令人少腹滿。刺腨腸內陷,為腫。刺眶上陷骨中脈,為漏為盲。刺關節中液出,不得屈伸。刺面中溜脈,不幸為盲。(『素問』刺禁論》)


         陰尺動脈在五里,五腧之禁也。(『靈樞』本輸)


    禁じられている場所の多くは,大脈・臓腑・脳である。五臓の急所では「心」の重要性がより際立っていて,「中心者環死〔心に中(あ)たる者は環死す〕」という。しかし心と同様に重要な器官は脳であり,いわゆる「刺頭中腦戶,入腦立死〔頭を刺し腦戶に中たり,腦に入らば立ちどころに死す〕」*である。また注目すべきは,上記の経文が論じている刺すことを禁じている中には,鍼の操作を誤った致傷もあって,致死部位ではないものもある。老官山金傷死候簡にも同様に致死部位ではなく,金刃による傷が記載されているのは,似たような体例である。

    *『素問』刺禁論(52)。


    『黃帝明堂經』が記載する禁刺と禁灸の腧穴は神庭・頭維・脳戸・風府・瘂門・承光・糸竹空・人迎・乳中・鳩尾・臍中・石門(女子は刺灸を禁ず)・気衝・淵腋・天府・経渠・五里・伏兔・承筋・地五会である。『諸病源候論』巻36に記載されている金傷の急所は,「天窗(顖門)」の一箇所をのぞいて,みなここに見える。鍼灸文献*にも顖会穴を刺せば,「不幸令人死〔不幸にして人をして死せしむ〕」と記載されている。顖会穴がはっきりと禁刺禁灸の列に入れられなかったおもな理由は,小児は通常2歳前に顖門〔泉門〕が閉じるからである。顖門が閉鎖された後は,頭蓋骨が肥厚するため,鍼による脳実質の損傷が起こりにくくなる。これから分かるように,金刃による致死部位は必ずしも微鍼の禁刺穴ではない。逆に,微鍼でも傷つけられる箇所は,一層金刃によって損傷される。

    *『銅人鍼灸經』巻2:「顖會……八歲以上方可針。顖門未合,若針,不幸令人死」。


2.3 法医学文献


      頂心・顖門・兩額角・兩太陽・喉下・胸前・兩乳・兩脇肋・心腹・腦後乘枕・陰囊・穀道,並係要害致命之處。(婦人看陰門・兩奶膀。)(『洗冤集錄』驗屍)*

        *https://archive.org/details/02092495.cn/page/n25/mode/2up

        乾隆49年『洗冤錄』巻1。

        https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300055979/29?ln=ja


    論じられている「致命の処」は,「頂心」「喉下」「両脇肋」の三箇所以外は,みな二つの金傷の源になった文献〔『諸病源候論』『外臺祕要方』〕に見られた。


    説明が必要な用語:「頂心」は頭頂部(百会穴があるところ)を指す。『黃帝明堂經』には「前頂」「後頂」があり,両者の間にある百会穴の位置は,『黃帝明堂經』は「頂中央」といい,北宋の官修医典『太平聖惠方』巻55は「頂當心」といい,宋代の『洗冤集錄』は「頂心」と名づけている。このように「前頂」「頂心」「後頂」の三者はちょうど前後に連続している。これにもとづけば,鍼灸文献は百会穴の別名として「頂心」を補うべきである。「乘枕」とは,後頭部の枕に乗るところを指す。「奶膀」は〔『洗冤集錄』の撰者〕宋慈が採用した宋代の口語で,特に女性の乳房を指すために使われている。

    明代の法医学検死の重要文献である呂坤の『實政錄』は,致命傷の部位を二つに分けている。その一,死をまねく致命的な場所には,頂心・顖門・耳根・咽喉・心坎・腰眼・小腹・腎嚢が含まれる。その二,必死の部位には,脳後・額角・胸膛・背後・脇肋が含まれる[10]*。

    [10]杨晓秋.明清刑事证据制度研究[M].中国政法大学出版社,2017:156.

    *https://archive.org/details/02087361.cn/page/n19/mode/2up


    清代はまた明代の呂坤による致命部位の分類に基づき,仰面〔正面〕十六箇所と合面〔背面〕六箇所に分けた。


        仰面致命共十六處:頂心・偏左・偏右・顖門・額顱・額角・兩太陽穴(左右)・兩耳竅(左右)・咽喉・胸膛・兩乳(左右)・心坎・肚腹・兩脇(左右)・臍肚・腎囊(婦人產門・女子陰戶);合面致命共六處:腦後・兩耳根(左右)・脊背・脊膂・兩後脇(左右)・腰眼(左右)。(『律例館校正洗冤錄』屍格)*

  *原文(「肾囊妇人产门、女子阴户」)のままでは,仰面が17箇所になってしまうため,以下を参考にして表記を修正した。(清)王又槐增輯・李虛舟補輯『(律例館校正)洗冤錄』。

 http://shanben.ioc.u-tokyo.ac.jp/main_p.php?nu=B3885500&order=rn_no&no=00769&im=0010016&pg=16

 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00003821?page=18


    『律例館校正洗冤錄』は清朝では官書として献上され,国家は段階的に下達する形で天下に公布した。つまり清朝の人々にとって,この書は必ず遵守しなければならない法医学鑑定のガイドラインであった。

    以上の三つの文献〔金傷・鍼灸・法医学〕では,年代を見れば,鍼灸文献が最も早く,法医学文献が最も遅い。内容を見れば,鍼灸文献が最も系統的であり,急所の確認だけでなく,関連する理論の説明もある。後世の医学関連各科への影響を見ても,同様に鍼灸文献の影響が最も早く,最も広い。もう一つ指摘しなければならないことがある。時期や学科が異なっても,人体の急所に対する認識に大きな変化はないが,救急技術の進歩と救急治療の経験の蓄積にともなって,宋以降,前代の文献に論じられていた人体の急所に対する認識は,定性から定量へという絶えざる深化する過程を経ていた。

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2024年12月26日木曜日

黄龍祥 老官山から出土した金傷死候簡からみた傷科と法医学・鍼灸学による人体の急所に対する認識 1

 1 老官山出土金傷死候簡の釈文と補注

    老官山漢墓から金傷死候簡が全部で11枚出土した。『天回醫簡』*では整理小組によって『脈書』下経に分類され,分類番号は162から172である。出土時の医簡の原番号との対応は以下の通り:一六二 -147〔正しくは417〕・一六三 -387・一六四 -411・一六五 -377・一六六 -435・一六七 -450・一六八 -551・一六九 -431・一七〇 -474・一七一 -473・一七二 -478。

    *『天回醫簡』:文物出版社,2022年。https://www.zgyswxyjs.cn/?list_8/230.html


    筆者の文章作成の都合,また読者が読みやすいように,特に出土した11枚の金傷死候簡にある説明が必要な専門用語を以下にまとめて考証する。

        簡一六二:金傷。傷百節,斬絲骨,死。

         (整理者注:絲骨,即系骨,實指氣管。《證治準繩·損傷門》:「嚨下之內為肺,系骨者,累累然共十二。」)

    整理者の注にある「気管」は現代人体解剖学の用語であるが,「系骨」は現代解剖学用語としては,動物の指節骨中の近指節骨(一般的には各指に3つの指節骨がある)を指し,気管を指しておらず,人体解剖用語にも用いられていない。

    伝世医籍で「系骨」が人体の構造を表わす例は未見である。整理者が引用した『證治準繩』の文は,宋代の官修医書『聖濟總錄』骨解剖の専門篇*に由来する。原文は「肺系骨」(また「肺系」)である。宋代の解剖学専門書『存真圖』は「肺系」「氣系」に作る。宋代の法医学検死の専門書『洗冤集錄』では,「気系」の名で統一して使用され,「気系」と並行する構造を「食系」と呼んだ。ここでの「肺系骨」という言葉についての断句の誤りは,今人の点校本『證治準繩』を書き写したものか,あるいは整理者が原書を引用した時に句読を誤ったのかは不明である。

    *『聖濟總錄』卷第一百九十一・鍼灸門・骨空穴法:「嚨下之內為肺系骨者累累然共十二(無髓勢),肺系之後為谷骨者一(無髓)」。


        簡一六三:金傷。傷青上跬四寸,跛。

         (整理者注:跬,疑指踝上小腿外側,即衣圭所垂處。)

    ここで整理者は老官山医簡『十二脈』の足太陽脈が循行する部位にある文「出外踝胿中」を内証*として採用せず,別の方法を開拓して「衣圭」から解を求めた。もし出土した漢代の関連する衣服の実物を傍証として提供できるのであれば,それも有意義な解釈法かもしれない。ここで考慮すべきは,もし衣圭**の垂れる所が「跬」だとすれば,「垂れる所」は小腿〔下腿〕の前・後・外側である可能性があるのに,どうして「小腿外側」とだけ言うのか,ということである。またこの医簡の「四寸」の前にある「跬」は,特定かつ確定した部位名でなければならないので,関連する伝世文献を調査して判定する必要がある。考証の詳細は,「〔3の〕老官山金傷死候簡と関連伝世文献の互校互釈」節を参照されたい。

    *内証:校勘学用語。その本の中での考証で得られる証拠。その本以外で得られる証拠を外証または傍証という。

    **衣圭:整理者注に「漢代流行的一種衣飾」とあり,以下に『漢書』江充傳の顔師古注,『釋名』釋衣服から引用文があるが省略する。


        簡一六四:金傷。傷頭角嬰脈,旋。

         (整理者注:嬰,讀為“纓”,借指人迎脈及其延續到頭角附近之分支;旋,眩暈。)

        簡一六六:金傷。斬纓脈,血出不止,死。

        簡一六七:金傷。傷孅嬰,青,陰不用。

         (整理者注:孅嬰,當讀為“讖嬰”,借指腹股溝及小腹側方。)

        この一連の医簡にはみな「嬰(纓)」の字が現われる。伝統的な考え方に基づくと,「嬰」(「纓」)はもっぱら首を指すことになる。簡一六四はなんとか説明できるとしても,簡一六七の例は明らかに説明がつかない。

        『說文解字』に,「嬰,頸飾〔頸かざり〕也。从女・賏。賏,其連也」といい,また「賏,頸飾也。从二貝」,「纓,冠系〔冠のひも〕也」という。これからわかるように,「賏-嬰-纓」は実は古今字である。古人は貝を輪にしたものを「賏」と呼び,アクセサリーとして用いた。多くは女性の装飾品であったので,「嬰」字が派生した。後に組み紐で作るようになったので,「纓」字がさらに作られた。

        「嬰」の本義は女性の装飾品である。最もよく身につける部位は首で,その次は頭である。これ以外,上古では下腹部にも用いられ,陰部を飾るとともに隠すことを兼ねていた。考古学の発見により,西周時代の墓ではなお,墓主が「頭と首に貝・玉管・石管・瑪瑙珠などが数珠つなぎになっている装飾品を巻いている」のを見ることができる [1] 。

 [1]王巍,黄秀纯.1981-1983年琉璃河西周燕国墓地发掘简报[J].考古,1984(5):405.


        老官山医簡の「嬰」「纓」の字の用例から,以下の規則を見いだせる。「嬰」「纓」といって具体的な部位名をかぶせないものは,特に頸部の両側を指す。たとえば金傷簡の「纓脈」と『犮理』の「嬰脈」は,みなこの例である。その他の頭と体幹の左右対称の部位は,「嬰」または「纓」ともいえるが,具体的な部位を明示しなければならない。「頭角嬰脈」「孅嬰」がすなわちこの例である。このような問題では,伝存する字典を用いて,むりやりにそれに合わせて解釈するようなことは決してしてはならず,反対に出土文献という瑞々しい史料を使って字書を充実させ,完備したものにしていくべきである。

        整理小組の意見によると,「孅」(「讖」)を鼠蹊部と解釈している。伝世文献で常用される用語は「鼠鼷」(または「鼠僕」)である。『黃帝內經』『黃帝明堂經』にもとづけば,鼠鼷が傷つくと確かに「腫」「陰痿〔インポテンツ〕」となる。つまり青腫であり,陰不用〔陰 用いられず/インポテンツ〕である。


        簡一六五:金傷:傷股,從辨䐃,死。

        簡一六八:金傷:傷臂臑,從辨䐃,死。

    この二つの竹簡には,ともに「辨䐃」という語が現われる。「䐃」の意味について,『黃帝內經太素』巻5・十二水において楊上善は,「䐃,臑等塊肉也」と注し,『素問』玉機真藏論で王冰は,「䐃,謂肘・膝後肉如塊者」と注する。金傷簡では,股〔大腿〕と臑〔上腕〕をともに「䐃」といっていることから見ると,王冰の注がふさわしいと思われる。

    「辨」の意味について,『說文解字』は,「辧,判也。从刀,辡聲」という。 段玉裁の注は「古辨・判・別三字義同也」という。晉・郭璞注『爾雅』卷5・釋器に,「革中絕謂之辨。中斷皮也」[2]とある。つまり「辨䐃」とは,臑〔上腕〕と大腿膝部にある大きな筋肉が横に断裂する傷である。

    [2]郭璞注.尔雅[M].浙江古籍出版社,2011:35.


        簡一六九:金傷。折頭傷腦,血出不止,死。

        簡一七〇:金傷:傷百節帶會,訊(迅)而死。

    簡一六九は「脳を傷」つければ死をまねくことを明言し,簡一七〇は「迅(はや)く死ぬ」といい,より致命的な部位であることがわかる。伝世の法医学文献は,「頂心〔頭頂の中央〕」を「死を速(まね)き命を致(うしな)う処」としている。

    簡一七〇「百節帶會」の「帶」の字は不鮮明で,整理小組は欠損がある字形を「帶」字と解釈した。『廣雅』釋詁三:「帶,束也」。『說文解字』糸部:「總,聚束也」。つまり「百節帶會」とは,「百節總會」とおなじである。『黃帝內經』の「骨者髓之府」「腦為髓之海」の説に基づけば,脳が「百節の總會」であることがわかる。清代の官修医学典籍『醫宗金鑒』正骨心法要訣の「顛頂骨」に「一名天靈蓋,位居至高,內函腦髓如蓋,以統全體者也〔一に天靈蓋と名づく,位 至高に居り,內に腦髓を函(い)れて蓋の如し,以て全體を統(す)ぶる者なり〕」という[3]。顛頂骨は周身の百節を統率するものでもある。伝存する道家の文献にも明確な論述がある。たとえば,『黃庭經』には「腦神精根字泥丸……泥丸百節皆有神」とあり,その梁丘子の注は「腦神丹田,百神之主」[4]という。法医学検死の代表作である宋代の『洗冤集錄』は人体の急所致命傷となる部位を論じて,「頂心」を第一にあげている*。宋代の許叔微による『普濟本事方』巻2は「泥丸即頂心是也,名百會穴」[5]という。これもすなわち百節の会の意味である。

    [3]吴谦.医宗金鉴 正骨心法要诀[M].赵燕宜整理.中国医药科技出版社,2017:21.

    [4]王西平.道家养生功法集要[M].陕西科学技术出版社,1989:21.

    [5]许叔微.普济本事方[M].中国中医药出版社,2007:29.

    *下文,2.3 法医学を参照。


        簡一七一:〼□血二斗,死。

        (整理者注:「血」上約殘損三字。/「血」の上,3字ほど欠損している。)〔『天回醫簡』の写真を見ると,「血」字の上部で竹簡が破損して失われている〕

    他の10本の竹簡を通観すると,みな「金傷」で始まるので,この簡に欠けている3字のうち,前の2字は「金傷」,3字目は「出」の字であると推察される。秦漢時代には一斗は十升に等しく,一升は現代の200㎖に相当し,二斗は4 000㎖である。60 kgの成人の総血液量(4200~4800 ㎖)にほぼ近いので,死に至るのは疑いない。


        簡一七二:金傷,傷三毛,從陰及陽脈,死。

    老官山から出土した鍼処方簡『刺數』に「厥陰足大指讚毛」とあり,経脈簡『十二脈』は「足大指叢毛」に作る。『靈樞』經脈の足厥陰脈は「大指叢毛」,足少陰脈は「三毛」に作る。これから「三」「叢」「讚(攢)」は通用することがわかる。簡一七二の「三毛」は,陰部の叢毛を指す。「陰及陽脈」とは,すなわち男女の陽根と陰門である。宋以降,法医学の文献はこれらの部位の刀傷は致命的であると明言している。


黄龍祥 老官山から出土した金傷死候簡からみた傷科と法医学・鍼灸学による人体の急所に対する認識 0

                                                 〔〕と*は,訳注。若干,改行を増やした。

                  『中国針灸』2024年10月第44卷第10期に掲載された。一部,修正あり。


  【要旨】老官山から出土した11枚の金傷死候簡の背後には,古代の医師の人体の急所に対する認識が反映されている。出土した金傷死候簡と伝世の金傷文献の縦断的研究*を通じて,老官山医簡の釈文と解読に残された疑問点が明らかになったが,伝世の金傷文献の起源と発展を整理するという以前には深く入ることができなかった道筋にも,信頼できる道標が見つかった。さらに,金傷・法医・鍼灸学の横断的比較を通じて発見されたことは,異なる学科の術語の相違や,同一学科内での後世の人々による前代の文献の誤読による古今の文献の差を除けば,金傷・法医・鍼灸学などの異なる学科が,数千年にわたって,異なる方法を通じて得られた人体の急所に関する認識には非常に高い一致が見られるということである。そのため,老官山の金傷死候簡が反映した傷科の人体の急所に対する認識は多重証拠の支持を得ただけでなく,鍼灸学・法医学検査などの関連学科理論の信頼性も有力な確証を得て,「二重証拠法」*を応用して出土と伝世文献の研究を行なって重大な学術問題を解決するために,非常に典型的な実例を提供して,さらに中国医学学術研究,特に異なる学科間の有効なコミュニケーションのための,新しい道を模索した。

    *縦断(的比較)研究 〔縦向研究/longitudinal study〕は主に一定期間内の個人または集団の発達変化に注目し,因果関係と長期的傾向を探求するためによく使用される。一方,横断(的比較)研究〔横向研究/cross-sectional study〕は同一時点における異なる個体あるいは群体間の差異に注目し,主に現象の描写と差異の比較に用いる。/本論に沿って言えば,著者は異分野を横断的に比較研究することを「横向研究」,一つの分野を通史的に研究することを「縦向研究」と呼んでいるようだ。

    **二重証拠法とは,歴史資料全般を『史記』などの伝世資料と甲骨文などの出土資料の二種類に大別した上で,伝世資料が出土資料によって否定されない限りは,伝世資料を基本的には信じてよいとする方法論である。

   【キーワード】老官山医簡; 金傷死候簡;人体の急所;文献研究;新しい方法の探究 

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     「金傷」は「金瘡」「金創」ともいい,刀剣による瘡傷を指す。金傷は,『周禮』に記載された医学分科では「瘍医」の所管に帰属していた。宋代には独立して「金鏃」科が設置され,元・明時代はこれを踏襲し,刀・斧・槍・矢などによる戦傷疾病の診療を主管した。金傷による生死の判定は戦場での救急処置の最優先事項であり,その理論の基礎は人体の急所の構造機能に対する認識にある。

    人体の急所の所在とその機能を研究するのは,金鏃科のほかにも,主なものに法医学と鍼灸学がある。文献に記載された時期から見ると,伝世医学文献の中で人体の急所に関する最も早く,最も明確な論述は鍼灸文献に見られ,傷科と法医学類の文献がそれに次ぐ。文献学と学術史・科学史研究の現状から見ると,鍼灸学が最も系統的であり,それに次ぐのは法医学で,最も弱いのは傷科である。

    このたびの老官山金傷死候簡の出土は,傷科文献の起源と発展を考察するうえで信頼性にたる正確な座標が提供されただけでなく,傷科・法医・鍼灸学という多学科にわたる交差研究の基盤も提供された。これによって中国医学関連問題の研究をより大きな背景の下で全体的に展開されるので,より明確で,より完全,正確な研究の結論が得られる可能性が高くなる。そのうえ,研究成果は多学科で共有されることにより,関連する学科のより深い考察を誘引することができるようになり,出土文献の意義と価値もこれによって最大限に発揮されることになる。