2013年12月29日日曜日

素問次注集疏叙

素問次注集疏叙
素問載道之書也固非狹見短識之所可得而窺焉
是以庸下之徒為不可企及英邁之士亦或觀以為迂遠
古義之泯焉無聞未必不職由之可勝歎也乎哉愚
每讀王太僕次注茫乎不得其畔涯乃取玄臺馬氏
鶴臯呉氏景岳張氏注讀之稍得其端緒 皇朝近
世有劉君父子之二識然後素問似無復餘蘊殊不
知古義之所存以王氏為最於是乎擇馬呉張三家
及劉君二識所釋撰次注集疏其間亦有管蠡之攷
  ウラ
但以夏蟲之見固不足厠於前人率省而不載有客
謂曰子無啓發之識而欲列作者之林何其不知量
之甚也愚答曰短綆不可以汲深井不若假人之長
以補我短然而比之逞詞鋒弄舌尖以誇於世者其
是非得失果奈何客唯而去是為叙明治六年癸酉
九月十三日山田業廣識于東京小石川富坂町寓居

  【訓讀】
素問次注集疏叙
素問は道を載するの書なり。固(まこと)に狹見短識の得て窺う可き所に非ず。
是(ここ)を以て庸下の徒は為に企及す可からず、英邁の士も亦た或いは觀て以て迂遠と為す。
古義の泯(ほろ)びて聞くこと無きは、未だ必ずしも職として之に由らずんばあらずして、歎きに勝つ可けんや。愚
王太僕の次注を讀む每に、茫乎として其の畔涯を得ず。乃ち玄臺馬氏·
鶴臯呉氏·景岳張氏の注を取りて之を讀み、稍や其の端緒を得たり。 皇朝近
世に劉君父子の二識有り。然る後、素問復た餘蘊無きに似たるも、殊に
古義の存する所は、王氏を以て最と為すを知らず。是(ここ)に於いてか馬呉張三家
及び劉君二識の釋する所を擇び、次注集疏を撰す。其の間亦た管蠡の攷有るも、
  ウラ
但だ夏蟲の見を以てするのみにして、固(もと)より前人に厠(ま)じるに足らず。率ね省いて載せず。客有りて
謂いて曰く、子、啓發するの識無くして、而して作者の林に列せんと欲す。何ぞ其れ量ることを知らざる
の甚しきや、と。愚、答えて曰く、短綆、以て深井を汲む可からず。人の長を假りて、
以て我が短を補うに若(し)かず。然り而して之を詞鋒を逞しくし、舌尖を弄し、以て世に誇る者と比ぶれば、其の
是非得失、果して奈何(いかん)、と。客、唯して去る。是れを叙と為す。明治六年癸酉
九月十三日、山田業廣、東京小石川富坂町の寓居に識(しる)す。

  【注釋】
○素問載道之書也:朱震亨『格致余論』序の冒頭:「素問載道書也」。多紀元簡『素問識』序の冒頭で引用される。『素問識』に「之」字あり。『格致余論』序は次のようにつづく。「詞簡而義深、去古漸遠、衍文錯簡、仍或有之、故非吾儒不能讀」。 ○固:たしかに。当然。 ○狹見短識:見識がせまく浅い。 ○可得:可能をあらわす助動詞の役割をはたす。できる。 ○是以:このため。 ○庸下:凡庸下級。 ○為:そのために。 ○企及:つま先だってやっと達する。努力して到達しようと望む。 ○英邁:才智抜群。 ○以為:~と思う。 ○迂遠:直接役に立たないさま。実際的でない。 ○泯:消滅する。 ○職:もっぱら。主として。「もとより」とも訓む。 ○勝:打ち勝つ。抑制する。 ○愚:自称。謙遜していう。 ○王太僕次注:唐の王冰。その注を次注という。全元起の訓解を初めての注とすると、それに次ぐ。また「次」には、順序立てる、編集するという意味もある。王冰は、全元起本に大幅な順序の変更、編輯をおこなった。 ○茫乎:茫然。知ることがない。ぼやけて曖昧なさま。はっきりしないさま。 ○不得其畔涯:とりとめがない。注の意味している内容を理解できない。意義を確定できない。/畔涯:境界。境域。 ○乃:そこで。 ○玄臺馬氏:馬蒔。明代の医家。字は仲化、玄臺は号。会稽(いま浙江省紹興)のひと。王冰本『素問』は二十四巻本であるが、『漢書』藝文志にしたがって、『素問』『霊枢』とも九巻として、それぞれの『註証発微』を著わした。特に『霊枢註証発微』は、『霊枢』に対するはじめての注釈書として後世重んじられ、経絡経穴に関する注が詳しい。 ○鶴臯呉氏:明代の医家(1552-1620年?)。字は山甫,鶴臯(異体は「皋」)は号で、參黃子とも号した。歙県(いま安徽省)のひと。『素問』に対してすぐれた注も記しているが、経文を一部書き換えたり、篇名をかえたりしている。その注釈書は、『素問呉注』あるいは『呉注素問』などとよばれている。 ○景岳張氏:明代の医家(1563-1640年)。字は會卿、景岳は号。通一子とも号した。もと四川省綿竹のひとで、のちに浙江の會稽(いま紹興)に居をうつした。『素問』『霊枢』を内容によって分類し注をつけ、『類経』三十二巻を著わした。 ○端緒:糸口。 ○ 皇朝:一字空格(敬意をあらわすために文字を空けて書く)あり。 ○近世:ちかごろ。 ○劉君父子之二識:多紀元簡の『素問識』と多紀元堅の『素問紹識』。後漢の霊帝の末裔とされるので、劉姓を称す。 ○餘蘊:残ったところ。あますところ。 ○最:至極。最重要なもの、ひと。 ○於是乎:「於是」に同じ。 ○管蠡之攷:「管蠡」は、「管窺蠡測」の略。自分の見識が浅く狭いことをいう謙遜語。「攷」は「考」の異体。
  ウラ
○夏蟲:夏の虫。『莊子』秋水:「井蛙不可以語於海者、拘於虛也。夏蟲不可以語於冰者、篤於時也」。夏の虫は氷のことを語れないし、井の中の蛙は、海を語れない。知識が狭いこと。 ○厠:「廁」の異体。身をその中に置く。 ○子:あなた。 ○啓發之識:ひとびとを啓発する知識。 ○林:同類のものが集まるところ。司馬遷『報任安書』:「列於君子之林矣」。 ○不知量:身のほどを知らない。買いかぶる。 ○愚:自称。 ○短綆不可以汲深井:「綆」は、井戸の水を汲むつるべの縄。短い綆では、深い井戸の水を汲み出すことはできない。『荀子』榮辱:「短綆不可以汲深井之泉、知不幾者不可與及聖人之言」。能力が足りなければ、ものごとを成し遂げられないことの比喩。 ○逞:顕示する。ひけらかす。 ○詞鋒:文章語句が刃のように鋭い。 ○弄:もてあそぶ。たわむれる。 ○舌尖:舌先。口先。発語。 ○是非得失:正しいことと間違っていること、得るところと失うところ。 ○唯:応答の声。「唯唯」であれば、謹んで応諾する意。「唯而不諾」「唯而不對」とつづくことが多いが、そうだとすると、客は納得しなかったことになる。ひとまず、著者の言に納得して去ったと解しておく。 ○叙:「敘」の異体。「序」と同じ。 ○明治六年癸酉:1873年。政変の年。 ○山田業廣:やまだなりひろ(1808~81)。業広は高崎藩医で、字は子勤(しきん)、通称昌栄(しょうえい)、号は椿庭(ちんてい)。朝川善庵(あさかわぜんあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・多紀元堅(たきもとかた)、池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ(『日本漢方典籍辞典』)。 ○小石川富坂町:現文京区。江戸時代には、上・中・下の富坂町があった。明治五年には、もと火除地であった地域に、西富坂町が設置されたという。

2013年12月28日土曜日

醫經訓詁小引

醫經訓詁小引
余弱冠每讀醫經苦其訓詁之難通者嗣後讀
素靈二識及難經疏證得稍就其緒劉君家世
精於醫經初學者當以此數書為津梁但其說
散在各篇倉卒際或有(・)不便撿閲者(・)乃鈔訓詁
之可以通於漢唐以還醫籍者以輯醫經訓詁
若干卷旁採素問紹識及先友澁江全善所纂
靈樞講義以補原識未言及者若夫全經大義
精意自有各家注解在焉豈俟斯區々捷徑之
冊子乎哉明治二年己巳孟冬山田業廣識于
  ウラ
峯來書屋

  【訓讀】
醫經訓詁小引
余、弱冠にして醫經を讀む每に、其の訓詁の通じ難き者(こと)に苦しむ。嗣後、
素靈二識及び難經疏證を讀みて、稍や其の緒に就くを得。劉君が家、世々
醫經に精(くわ)し。初學の者、當に此の數書を以て津梁と為すべし。但だ其の說
各篇に散在す。倉卒の際、或いは撿閲に便ならず。乃ち訓詁
の以て漢唐以還の醫籍に通ず可き者を鈔して、以て醫經の訓詁
若干卷を輯す。旁ら素問紹識、及び先友澁江全善纂する所の
靈樞講義を採り、以て原識の未だ言及せざる者を補う。若し夫(そ)れ全經の大義
精意は、自ら各家の注解に在る有り。豈に斯の區々たる捷徑の
冊子を俟たんや。明治二年己巳孟冬、山田業廣
  ウラ
峯來書屋に識(しる)す。

  【注釋】
○小引:文章や書籍の前に置かれる簡単な説明。この書を起稿した縁起などを述べる。 ○弱冠:『禮記』曲禮上:「二十曰弱冠」。孔穎達˙正義:「二十成人、初加冠、體猶未壯、故曰弱也」。男子二十歲前後をいう。 ○醫經:『黄帝内経』(『素問』『霊枢』)『難経』など。 ○嗣後:こののち。以後。 ○素靈二識:多紀元簡の『素問識』と『霊枢識』。 ○難經疏證:多紀元胤(もとつぐ)(1789~1827)の著になる『難経』の注解書。全2巻2冊。文政2(1819)年成、同5(1822)年刊。漢文。考証医家の元胤が『難経集注』を底本とし、諸文献を引用し、父多紀元簡(もとやす)や弟元堅(もとかた)の説も取り入れて完成したわが国における『難経』研究の精華。巻首に「難経解題(なんぎょうかいだい)」1篇を付す。『皇漢医学叢書』に活字収録され、中国の『難経』研究にも少なからぬ影響を与えた。人民衛生出版社活字本(1957)もある。『難経古注集成』に影印収録されている(『日本漢方典籍辞典』)。 ○就緒:物事の見通しがついて、事を始める。着手する。『詩經』大雅˙常武:「不留不處、三事就緒」。 ○劉:多紀家の祖先は後漢の霊帝(劉氏)であるという。 ○津梁:渡し場と橋。人を導く手引きとなるものの比喩。 ○倉卒:突然なこと。急なこと。忙しく慌ただしいこと。あわてて事を行うこと。 ○或(・)有不便撿閲者(・):「或」と「者」字に消去記号あり。/撿閲:「撿」は「檢」に同じ。検閲。調べあらためる。 ○乃:そこで。 ○鈔:「抄」に同じ。書写する。書物などの一部分を抜き出して書く。 ○以還:以来。以後。 ○輯:蒐録して整理する。あつめてまとめる。 ○旁:別に。その他として。 ○素問紹識:多紀元堅(たきもとかた)(1795~1857)の著になる『素問』の注釈書。全4巻。弘化3(1846)年自序。「紹識」とは父多紀元簡(もとやす)の『素問識(そもんし)』を紹す(継ぐ・承ける)の意で、『素問識』の時点では未発見であった仁和寺本『太素』をはじめとする資料を用い、『素問識』を補翼する目的で執筆されたものである。未刊で写本として伝えられたが、その1写本が中国に渡って『皇漢医学叢書』に活字収録された。石原明(いしはらあきら)旧蔵本(小島宝素[こじまほうそ]手沢本)が『黄帝内経古注選集』に影印収録され、さらに自筆稿の最善本(大阪大学懐徳堂文庫本)の影印本(北里東医研医史研、1996)、またそれによる活字校訂本(日本内経学会、1996)が出版されている。なお、本書の前段階となった元堅の著書に『素問参楊(そもんさんよう)』(新発現の楊上善注を参ずるという意)なる書もある(『日本漢方典籍辞典』)。 ○先友:今は亡き友。 ○澁江全善:渋江抽斎(しぶえちゅうさい)(1805~58)。抽斎は森鷗外(もりおうがい)の歴史小説によって知られる考証医家で、弘前藩医。名は全善(かねよし)、字は道純(どうじゅん)また子良(しりょう)。狩谷棭斎(かりやえきさい)・市野迷庵(いちのめいあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ。多紀元堅(たきもとかた)に才を愛され、江戸医学館講師となり、古医籍の研究を行った(『日本漢方典籍辞典』)。 ○纂:編輯する。あつめる。 ○靈樞講義:『黄帝内経霊枢』の校注書。全25巻。弘化元(1844)年、江戸医学館で同書を講義することを契機に作成されたもので、その後の補訂も加えられている。抽斎の謹厳実直な性格を反映し、『太素』『甲乙経』などの典籍と詳細な校合がなされるが、私見は抑制してある。考証学的『霊枢』研究の最高峰に位置する書で、抽斎の代表作といえる。刊行されるには至らず、抽斎自筆本(京大富士川本)が『黄帝内経古注選集』に影印収録される。伊沢氏旧蔵本(静嘉堂本)や山田業広(やまだなりひろ)旧蔵本(東大鶚軒本)も伝えられる(『日本漢方典籍辞典』)。 ○原識:『素問識』と『霊枢識』。 ○若夫:~に関しては。 ○大義:経文中の要義。精要なところ。 ○精意:精しく深い意味。 ○區々:謙遜の語。小さな。わずかな言うに足りない。つまらない。 ○捷徑:近道。正道によらず簡便な方法。 ○明治二年己巳:1869年。この年十二月、高崎藩の医学校督学となる。明治四年に廃藩置県。 ○孟冬:陰暦十月。 ○山田業廣:(やまだなりひろ)(1808~1881)。業広は高崎藩医で、字は子勤(しきん)、通称昌栄(しょうえい)、号は椿庭(ちんてい)。朝川善庵(あさかわぜんあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・多紀元堅(たきもとかた)、池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ(『日本漢方典籍辞典』)。
  ウラ
○峯來書屋:山田業廣の書斎名であろう。


  【跋】
余於安政戊午草此書後明治己巳抄素靈二識顏曰
醫經訓詁分卷凡九抄冩卒業以挿架  業廣
     安政五年戊午七月廿八日校讀了 業廣

  【訓讀】
余、安政戊午に此の書を草す。後の明治己巳に素靈二識を抄す。顏して
醫經訓詁と曰う。卷に分かつこと凡(すべ)て九、抄冩、業を卒え、以て架に挿す。 業廣
     安政五年戊午七月廿八日、校讀了(おわ)んぬ。 業廣

  【注釋】
○安政戊午:安政5年(1858)。 ○草:起稿する。草稿を書く。 ○明治己巳:1869年。 ○抄:写す。抄写する。 ○素靈二識:『素問識』と『霊枢識』。 ○顏:題名を付ける。 ○凡九:全部で九巻。 ○卒業:完成する。 ○挿架:書架に並んだ本の間に差し入れる。「挿」は「插」の異体。  

2013年12月27日金曜日

新年の研究発表の案内

おおとり会館

醫經聲類跋

(醫經聲類再稿跋)
慶應三年丁卯十月再稿 四年戊辰三月十七/日卒業椿庭業廣

醫經聲類跋
余丙午罹災架藏烏有筆研無聊於是創意
輯傷寒雜病論類纂卅餘卷尋欲及素靈而
其書洪翰未遑因先以國字分其聲類但頭緒
甚夥取彼而遺此蠅頭抹摋殆不可讀終倦而廢
之又思年已逾耳順在今未就他日更增聾聵恐
無所成乃取素靈難經三書且鈔且校自冬至春
比舊稿雖稍改面目而遺漏不鮮漫裝為三卷
以達宿志此特便蒙云耳若夫類纂全書以期
大成則責在子弟也慶應戊辰三月山田業廣識
  ウラ
于江戸本郷椿庭樓上
 (時征討使入于江戸城門晝閉/人情匈〃余亦有移居于上毛之命
  酸鼻之餘筆于此)

  【訓讀】
醫經聲類跋
余、丙午に災に罹(かか)り、架藏烏有し、筆研無聊す。是(ここ)に於いて創意し、
傷寒雜病論類纂卅餘卷を輯す。尋(つ)いで素靈に及ばんと欲す。而れども
其の書洪翰にして未だ遑(いとま)あらず。因りて先ず國字を以て其の聲類に分かつ。但だ頭緒
甚だ夥しくして、彼を取りて此を遺(のこ)し、蠅頭抹摋して、殆ど讀む可からず。終(つい)に倦みて
之を廢す。又た思うに年已に耳順を逾ゆ。今に在りても未だ就(な)らず。他日は更に聾聵を增し、恐らくは
成す所無からん。乃ち素靈難經の三書を取り、且つ鈔し且かつ校し、冬自り春に至る。
舊稿に比して、稍や面目を改むと雖も、而して遺漏鮮(すくな)からず。漫(そぞ)ろに裝して三卷と為し、
以て宿志を達す。此れ特に蒙に便なりと云うのみ。若し夫れ全書を類纂し、以て
大成を期すは、則ち責は子弟に在るなり。慶應戊辰三月、山田業廣
  ウラ
江戸本郷椿庭樓上に識(しる)す。
 (時に征討使、江戸に入り、城門晝に閉づ。人情匈々たり。余も亦た居を上毛に移すの命有り。酸鼻の餘り、此に筆す。)

  【注釋】
○聲類:「聲類」とは、声韻学では声母を指し、形声字の声符をいうが、ここでは、音声順(いろは順)に医学用語を分類した、という意味。下文を参照。 ○丙午:弘化三年(1846)。 ○罹災:江戸本郷春木町の住居、火災に遭う。本郷弓町に居を移す。 ○架藏:棚に所蔵した書物。 ○烏有:全くなくなる。 ○筆研:ふでと硯。ひろく文具。筆をとってなにかを書き留める。 ○無聊:することがなくなる。 ○創意:新しいことをはじめる。 ○輯:あつめる。 ○傷寒雜病論類纂卅餘卷:嘉永二年(1849)、草稿。三十三巻。現在、京都大学所蔵。 ○尋:すぐに。まもなく。 ○素靈:『素問』と『霊枢』。 ○洪翰:「浩瀚」に同じ。広大多数。 ○國字:かな。 ○頭緒:端緒。 ○蠅頭:ハエの頭のように小さなもの(文字)の比喩。 ○抹摋:「抹殺」「抹煞」に同じ。消しさる。 ○耳順:『論語』為政:「六十而耳順」。六十歳。 ○未就:完成にいたらない。 ○他日:将来。 ○聾聵:耳が遠い。無知。 ○且鈔且校:筆写すると同時に校正もする。 ○改面目:面目を一新する。もとのものを改めて新しい形をなす。 ○漫:いい加減に。きままに。謙遜の辞。 ○裝:包裝する。装丁する。 ○宿志:宿願。もともとあったこころざし。 ○便蒙:初学者·こども(童蒙)·理解のおそいひと(蒙昧)に便利である。 ○若夫:~に関しては。 ○類纂:分類編纂する。 ○全書:書物全体。  ○期大成:大きな成就をなしとげる、待つ、期待する。 ○責:責務。 ○子弟:森枳園『椿庭山田先生墓碣』によれば、「門弟凡そ三百名」という。 ○慶應戊辰:慶応 四年(1868)。 ○山田業廣:やまだなりひろ(1808~81)。業広は高崎藩医で、字は子勤(しきん)、通称昌栄(しょうえい)、号は椿庭(ちんてい)。朝川善庵(あさかわぜんあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・多紀元堅(たきもとかた)、池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ(『日本漢方典籍辞典』)。
  ウラ
○江戸本郷椿庭樓:「椿」は、住まいの春木町の「春」と「木」の合字。 ○征討使:戊辰戦争時のいわゆる官軍。有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍。四月四日に江戸城明け渡しとなる。 ○匈〃:乱れて不安なさま。 ○上毛:上野国(こうづけのくに)。「上州」。高崎藩は上野国群馬郡にあった。 ○酸鼻:泣きたくなるとき、鼻が酸っぱいようなにおいを感じる。悲痛なさま。悲しくて泣きたくなる。

2013年12月7日土曜日

2013年12月8日日曜講座会場変更のご案内

日本内経医学会日曜講座参加者各位

いつも日本内経医学会日曜講座にご参加いただき、ありがとうございます。
すでに日曜講座等でご案内していますとおり、平成25年12月8日(第2日曜日)の日曜講座の会場を、以下の通り変更させて頂きます。

ご迷惑をおかけして申し訳ございませんが、ご理解ご了承のほど、よろしくお願いいたします。

①中級クラス(宮川、岩井): 赤羽会館3階 第2集会室
               東京都北区赤羽南1-13-1 JR赤羽駅東口徒歩5分
【赤羽駅からの道順】
赤羽駅東口を出てすぐ右にある交番の角を右に曲がり
ミスタードーナツの前の横断歩道を渡って立ち食いそば屋の
角を右に50メートルほど線路沿いに進みます。左手に見えて
くる庄やとパチンコ屋の間を左に曲がり真っ直ぐ進むと
大通りのスクランブル交差点にでますので、横断したところ
にある消防署の左側の道を真っ直ぐ行った西友の向かいに
赤羽会館があります。

②初級クラス(荒川、林): 鶯谷書院 東京都台東区根岸1-1-35窪田国際特許ビル4階
  JR鶯谷駅南口から徒歩3~4分
【鶯谷駅からの道順】
鶯谷駅南口を降りてすぐ左に曲がり、跨線橋を渡ります。
階段を降りて、右手のトンネルをくぐり、右に曲がると、
左方向に線路沿いの細い道をたどります。広い道に出て
左後方に曲り、3軒目のビルの4階です。
隣には鰻屋の宮川、正面には上野郵便局があります。

2013年11月12日火曜日

扁倉伝割解

 本会会員の矢吹杏子さんがまとめ、自費出版した、『扁倉伝割解』五家注(翻字)と研究 を、会員、読者におわけします。
 『扁倉伝割解』は名古屋の浅井図南の注釈で、浅井家の家学でもあり、図南をふくめ五世代の書き込み注釈があります。それを一括して翻字したものです。ほぼ漢文だけです。
 研究部門は、宮川浩也がかつて発表した『扁倉伝割解』に関する論文3本を収めています。こちらは日本文です。
 全212ページです。
 会員は制作実費と送料あわせて1000円を下記あて送ってください。直接お渡しできれば650円でおわけします。
 非会員は、3000円(送料込み)でおわけいたしますので、下記あて送ってください。
 どちらも、現金封筒でなくて、普通郵便で良いかとおもいます。到着次第発送します。 
 333-0802川口市戸塚東1-1-32 宮川浩也

2013年10月30日水曜日

『素問攷注』序

 『素問攷注』
 (序) 〔〕内はあとから加えられた文字。【以】は、あとから消されたと思われる。
劉桂山先生有素問識已上梓茝庭先生有素
問紹識鈔寫傳之未出于人間若合讀二書則
可謂始讀得素問也今茲講此書於躋壽館
因改舊稿眼目一倣皇侃論語義疏之體例
〔其義皆據王注但王注略而不書王注義不可據者旁引他説今〕
【以】正文及前注〔不論倭漢古今皆亦采用者〕爲大書以拙考爲子注以備他日
之遺忘併授兒約之云安政庚申正月初五夜
三更燈下起業森養竹立之

  【訓讀】
劉桂山先生に素問識有り、已に上梓す。茝庭先生に素
問紹識有り、鈔寫して之を傳うるも、未だ人間に出でず。若し合せて二書を讀めば、則ち
始めて素問を讀み得たりと謂っつ可し。今茲、此の書を躋壽館に講ず。
因って舊稿の眼目を改む。一に皇侃の論語義疏の體例に倣う。
〔其の義は皆な王注に據る。但だ王注略して書せず、王注の義、據る可からざる者は、旁ら他説を引く。今〕
正文及び前注〔倭漢古今を論ぜず、皆な亦た采用する者は〕大書を爲し、拙考を以て子注と爲し、以て他日
の遺忘に備え、併せて兒約之に授くと云う。安政庚申正月初五夜
三更燈下起業 森養竹立之

  【注釋】
○劉桂山先生:多紀元簡(たきもとやす)。1755~1810。元簡の通称は安清(あんせい)、のち安長(あんちょう)、字は廉夫(れんぷ)、号は桂山(けいざん)。井上金峨(いのうえきんが)に儒を、父の多紀元悳(もとのり)に医を学んだ。松平定信(まつだいらさだのぶ)の信任を得て寛政2(1790)年、奥医師・法眼に進んだ。翌年、躋寿館(せいじゅかん)が幕府直轄の医学館となるにともない、助教として幕府医官の子弟を教育。同11年には御匙(おさじ)(将軍侍医)となったが、享和元年寄合医師におとされ、文化7(1810)年奥医師に復したが、この年没した。『日本漢方典籍辞典』 ○素問識:http://daikei.blogspot.jp/2013/10/blog-post.htmlなどを参照。 ○上梓:版木に文字を彫る。木版印刷する。出版する。 ○茝庭先生:多紀元堅(たきもとかた)。元堅の字は亦柔(えきじゅう)、号は茝庭(さいてい)、三松(さんしょう)。幼名は鋼之進、のち安叔(あんしゅく)。元簡(もとやす)の第5子で、元簡の家督は兄元胤(もとつぐ)が継ぎ、元堅は別に一家を興した。天保7(1836)年奥医師、法眼。同11年法印。弘化2(1845)年将軍家慶(いえよし)の御匙(おさじ)(侍医)。父の考証学の学風を継いで善本(ぜんぽん)医籍の収集、校訂、復刻に務め、渋江抽斎(しぶえちゅうさい)、森立之(もりたつゆき)、小島宝素(こじまほうそ)らの考証医学者を育てた。『日本漢方典籍辞典』 ○素問紹識:http://daikei.blogspot.jp/2013/10/blog-post_9.htmlなどを参照。 ○鈔寫:抄写。謄写する。書き写す。複写する。 ○人間:世間。社会。民間。 ○今茲:今年。 ○躋壽館:医学館。江戸幕府の官医養成のための医学校。同様の名称は各藩にもみられる。前身は幕府奥医師多紀氏の私営になる躋寿館(せいじゆかん)で,1765年(明和2)5月多紀元孝が神田佐久間町の司天台(天文台)旧地に設置,数度罹災したが,多紀家代々の努力によって発展した。84年(天明4)には100日間医生を学舎に寄宿教育する百日教育の法という独特の法を実施,医案会,疑問会,薬品会等を行うなどして評判を高め,多くの医生を集めた(世界大百科事典 第2版)。 ○眼目:事物の主要なところの比喩。面目。 ○皇侃:(488-545) 中国、南北朝時代の梁(りよう)の学者。「五経」に通達。主著「論語義疏」一〇巻は南宋代に逸書となったが、日本に伝存した写本が中国に逆輸入された。こうかん。三省堂 大辞林。 ○論語義疏:中国,梁の皇侃(おうがん)(488‐545)が著した《論語》の注釈書。10巻。何晏(かあん)の《論語集解(しっかい)》にもとづきそれ以後の六朝人の説を集めてさらに解釈したもの。古義を知るのに貴重で,また仏教や老荘の盛んな時代の解として特色がある。中国で滅び,日本に伝わったものを江戸時代に根本遜志が校刻して逆輸出し,中国の学界を驚かせた。武内義雄の校定した懐徳堂本がよい。【金谷 治】世界大百科事典 第2版 ○體例:著作の編輯・整理の様式。スタイル。記述形式。 ○其義皆據王注:基本的な意味の理解(句読など)は王冰注にしたがう。 ○旁引:ひろく前人の著作などを引用して明証・根拠とする。 ○正文:『素問』の経文。 ○前注:前人の注。 ○大書:大きな文字で書く。 ○拙考:森立之の考え。 ○子注:本書の作者によって本文のあいだにはさまれた小字注。 ○他日:将来。今後。 ○遺忘:忘卻。うっかり忘れる。 ○約之:森約之は、森立之の長男として江戸の福山藩邸に生まれた。医号は養眞。学問を父森立之に学び、躋寿館の聴聞にも列席し、後に『本草経』を講義した。父森立之の手写事業を手伝い、森約之の手になる写本が残る。最後に福山に移り、福山藩の藩校である誠之館の講師となった。 東京大学 > 附属図書館 > 総合図書館 > 特別展示会 > 2011年:総合図書館貴重書展 > 展示資料一覧 > 植物 『周定王救荒本草和名撰』解説/のりゆき。1835~1871。 ○安政庚申:安政七年(1960)。 ○三更:夜十二時前後二時間ぐらいのあいだ。 ○森養竹立之:もりたつゆき。1807~85。立之は江戸の人で、字は立夫(りつぷ)、号は枳園(きえん)ほか別号多数。狩谷棭斎(かりやえきさい)・伊沢蘭軒(いざわらんけん)・小島宝素(こじまほうそ)などに学び、一時浪人生活を送ったが、弘化5(1848)年福山藩医に復し、江戸医学館の講師となり、幕末・明治初には先輩・同僚の業績を引き継いで考証学の第一人者となった。書誌学者としても知られる。/立之の字は立夫(りっぷ)、通称養真(ようしん)のち養竹(ようちく)。号は枳園(きえん)。15歳で家督を継ぎ福山阿部侯の医員となったが、天保(1837)年禄を失い、落魄して12年間家族とともに相模(さがみ)を流浪した。弘化5(1848)年帰参して江戸に戻り、医学館を活動拠点として古典医書の校勘業務や、研究・執筆に従事した。維新後はすでに没した先輩や同僚の業績を引継ぎ、考証医家の第一人者として名をなした。他に『傷寒論攷注』『本草経攷注』の大著がある。ともに『日本漢方典籍辞典』
 またhttp://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/mori-kien/mori-kien.htmを参照。

2013年10月22日火曜日

大修館『中国文化大事典』2013年

医学関連の項目は、小曽戸洋先生や林克先生等が執筆されている。

「鍼灸」の項目に、「皇甫謐が『素問』・『鍼経』・『明堂孔穴』の3書を撰した『甲乙経』」というくだりがある(筆者は、浦山きか先生)。

いわゆる「明堂経」の書名については、『甲乙経』の序をどう句切るかで、説がわかれる。
中国での通説である『明堂孔穴針灸治要』、黄龍祥先生も支持する谷田伸治氏の『明堂』、それから『明堂孔穴』の3説がおもなものであろう(詳細は、谷田伸治氏「『甲乙経』を構成する三部とはなにか」、『漢方の臨床』、三六巻一号(1989年)を参照)。
最近、この書名について発言しているのは、浦山久嗣先生で、『明堂孔穴』説。

ちなみに、
*前田育徳会尊経閣文庫の重要文化財『黄帝内経明堂』巻一にある序文は、以下でよむことができる(もとは、日本内経医学会編『黄帝内経明堂』北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部刊行)。
*http://aeam.umin.ac.jp/medemiru/no3/meido-jo.PDF

ネット上ではフォントの関係か、以下の文字が欠けるが、ダウンロードすれば表示される(と思う)。

2頁:(神)明
   (神)化
3頁:形(神)
   (教)興
4頁:取(諸)

2013年10月9日水曜日

『素問紹識』序跋

  『素問紹識』序跋
・大阪大学附属図書館(懐徳堂文庫)所蔵自筆稿本による。〔〕内はのちに補われた文字。

素問紹識序
   江戸侍醫法印尚藥兼醫學教諭丹波元堅撰
素問紹識何爲而作也紹先君子素問之識而作也先君子之
於斯經自壯乃爲人講授稱爲絶學攷究之精宜無復餘蘊紹
識之作當為贅旒而敢秉筆爲之者抑亦有不得已也楊上善
太素經注世久失傳頃年出自仁和寺文庫經文異同與楊氏
所解雖不逮啓玄之覈然其可據以補闕訂誤出新校正所援
之外者頗多則不得不採擇以庚續此其一也先兄柳沜先生
夙承箕業殫思研索將有撰述而天不假之年中歳謝世其遺
言餘論卓卓可傳者仍有讀本標記存固不得〔不〕表出以貽後此
  ウラ
其二也近日張宛鄰琦著有素問釋義一編其書無甚發明然
其用心亦摯間有可取他如尤在涇等數家之說或有原識之
未及引用者更有一二親知寄贈所得者倶未可全没其善此
其三也乾隆以來學者專治小學如段若膺阮子元〔王伯申〕諸人其所
輯著可藉以證明經義者往往有之亦宜摘録以補原識者矣
此其四也此皆紹識之所以爲作而愚管之見亦僭録入以俟
有道是正之昔姚察爲漢書訓纂其曾孫班續而著書題云紹
訓今之命名𥨸取其義云弘化三年歳在桑兆敦牂八月望

  【和訓】
素問紹識序
    江戸侍醫法印尚藥兼醫學教諭丹波元堅撰
素問紹識、何の為にして作るや。先君子の素問の識を紹(つ)ぎて作るなり。先君子の
斯の經に於けるや、壯自り乃ち人の為に講授し、稱して絶學と為す。攷究の精、宜しく復た餘蘊無かるべし。紹
識の作、當に贅旒と為すべし。而れども敢えて筆を秉(と)って之を為すは、抑そも亦た已むを得ざる有るなり。楊上善の
太素經注、世に久しく失傳す。頃年、仁和寺の文庫自り出づ。經文の異同、楊氏の
解する所と、啓玄の覈に逮ばずと雖も、然れども其の據って以て闕を補い誤を訂する可く、新校正の援(ひ)く所
の外に出づる者、頗る多ければ、則ち採擇して以て庚(さら)に續せざるを得ず。此れ其の一なり。先兄柳沜先生、
夙に箕業を承け、思を殫(つ)くして研索し、將に撰述有らんとす。而れども天、之に年を假さず、中歳にして世を謝す。其の遺
言餘論卓卓として傳う可き者は、仍お讀本有りて標記存す。固(もと)より表に出だして以て後に貽(のこ)さざるを得ず。此れ
  ウラ
其の二なり。近日、張宛鄰琦の著に素問釋義一編有り。其の書、甚しくは發明無し。然れども
其の心を用いること亦た摯にして、間ま取る可き有り。他に尤在涇等の如き、數家の說、或いは原識の
未だ引用に及ばざる者有り。更に一二の親知、寄贈して得る所の者有り。倶に未だ全くは其の善を没す可からず。此れ
其の三なり。乾隆以來の學者、專ら小學を治む。段若膺、阮子元、王伯申の如き諸人、其の
輯著する所、藉(よ)りて以て經義を證明す可き者、往往にして之有り。亦た宜しく摘録して以て原識を補うべき者なり。
此れ其の四なり。此れ皆な紹識の為作する所以なり。而して愚管の見も亦た僭して録入し、以て
有道の之を是正するを俟つ。昔、姚察、漢書訓纂を爲(つく)り、其の曾孫班續いて書を著し、題して紹
訓と云う。今の命名、竊(ひそ)かに其の義を取ると云う。弘化三年、歳は桑兆敦牂に在り、八月の望

  【注釋】
○江戸侍醫:幕府の医官。 ○法印: 中世以降、僧に準じて医師・絵師・儒者・仏師・連歌師などに対して与えられた称号(デジタル大辞泉)。医師では最高位。 ○尚藥:御匙(医師)の漢訳名。 ○醫學教諭:医学館世話役の漢訳名。 ○丹波元堅:もとかた。元堅の字は亦柔(えきじゅう)、号は茝庭(さいてい)、三松(さんしょう)。幼名は鋼之進、のち安叔(あんしゅく)。元簡(もとやす)の第5子で、元簡の家督は兄元胤(もとつぐ)が継ぎ、元堅は別に一家を興した。天保7(1836)年奥医師、法眼。同11年法印。弘化2(1845)年将軍家慶(いえよし)の御匙(おさじ)(侍医)。父の考証学の学風を継いで善本医籍の収集、校訂、復刻に務め、渋江抽斎(しぶえちゅうさい)、森立之(もりたつゆき)、小島宝素(こじまほうそ)らの考証医学者を育てた(『日本漢方典籍辞典』)。 ○何為:何故に。 ○紹:継承する。つづける。 ○先君子:今は亡き父親。 ○素問之識:『素問識』。多紀元簡(たきもとやす。1755~1810)の著になる『素問』の注釈書。全8巻。文化3(1806)年自序。没後の天保8(1837)年刊。『素問』の考証学研究のスタンダード。『聿修堂医学叢書(いっしゅうどういがくそうしょ)』(1884)や『皇漢医学叢書』に収められ、早くに中国でも知られた。廖平(りょうへい)『六訳館(りくやくかん)叢書』にも少なからぬ影響を与えている。かつて影印本(績文堂、1981)がある。別に元簡の口述を筆記した『素問記聞(そもんきぶん)』(写本)という書もある(『日本漢方典籍辞典』)。/「識」は「志」「誌」に通ず。標記。記録。ノート。 ○斯經:『素問』。 ○壯:三十歳ぐらい。『禮記』曲禮上:「三十曰壯」。 ○講授:元簡は安永九年(1780)に医学館で『素問』を開講。三十歳以前より『素問』を講じていた。 ○稱:たたえる。ほめる。 ○絶學:造詣が深く独創的な学識。 ○攷究:探究。調査研究。「攷」は、「考」の異体。 ○餘蘊:不足の部分。余すところ。 ○贅旒:「旒」は、旗の下に垂れた飾り物。ひとにつかまれて動かされることから、臣下にあやつられる君主の比喩。ここでは、無駄で権威のないものの意か。 ○秉筆:執筆する。 ○抑亦:加えてまたさらに。 ○楊上善:隋から唐にかけての医家。『黄帝内経太素』三十巻、『黄帝内経明堂類成』十三巻などを編纂した。 ○太素經注:首巻を欠いているため、詳細不明だが、唐の高宗のころに成書したと考えられる。 ○世久失傳:奈良時代前半には渡来していたが、室町時代ごろから存否不明となり、江戸時代には亡佚書とされていた(丸山敏明『鍼灸古典入門』から要約)。 ○頃年:近年。 ○仁和寺:京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院。 ○啓玄:王冰。唐代医家(710~805年?)。啟玄子と号す。全元起本『素問』を編次注釈した。 ○覈:詳細、精確。 ○補闕訂誤:欠落をうめ、誤りを訂正する。 ○新校正:北宋の嘉祐二年(1057年)に、校正医書局が、医学古典の校正出版事業をおこなった。その中で、王注『素問』をもとに、林億らは新たな校正をおこない、その際、『黄帝内経太素』の楊上善注を多く引用した。 ○庚:「更」に通ず。 ○先兄:亡きあに。 ○柳沜先生:多紀元胤(たきもとつぐ/1789~1827)。元胤は多紀元簡(もとやす)の三男で嫡嗣。通称は安良(あんりょう)、のち安元(あんげん)、字は奕禧(えきき)・紹翁(しょうおう)、号は柳沜(りゅうはん)。大田錦城(おおたきんじょう)に儒を、父元簡に医を学んだ。文化3(1806)年医学館督事となり、文政5(1827)年法眼(ほうげん)に進んだが、同年39歳で没した(『日本漢方典籍辞典』)。 ○夙:はやくに。 ○承:うけつぐ。 ○箕業:祖先の事業。「箕裘」とも。 ○思:思慮。 ○研索:研究探索する。 ○天不假之年:早世する。/「之」:柳沜先生。/「假」:貸し出す。あたえる。/清·平歩青『霞外裙屑』巻六:「予以先生此考、為一生心力所瘁、成以行世、足為読史者一助、惜天不假年、積四十六年之歳月、僅成全史三之一」。 ○中歳:中年。 ○謝世:死亡する。 ○遺言:生前にのこしたことば。遺書。絶筆。 ○餘論:のこしたことば。完結していなかった言論。 ○卓卓:高く遠いさま。傑出しているさま。 ○讀本:閲読していた版本。 ○標記:本に書きつけられたノート。覚え書き。 ○
  ウラ
○張宛鄰琦:張琦(1764~1833)。初名は翊。字は翰風、宛隣と号す。江蘇陽湖のひと。張恵言の弟。嘉慶18年(1822)の挙人。『清史稿』に伝あり。『戰國策釋地』などを撰す。 ○素問釋義:十巻。王冰の注文を主とするも、まま発明あり。宛隣書屋叢書所収。 ○發明:前人が明らかにしていなかった創造性のある解説。発揮。 ○用心:熱心に取り組む。専心する。精を出す。 ○摯:誠実である。まじめである。 ○間:ときに。ときどき。 ○可取:採用できる。学ぶに値する。 ○尤在涇:尤怡(?~1749)。清代の医家。字は在涇、飲鶴山人・拙吾・花溪恒徳老人と号す。『清史稿』に伝あり。江蘇長洲のひと。『医学読書記』などを撰す。 ○原識:元簡の『素問識』。 ○親知:親戚と友人(知己)。 ○乾隆:清・乾隆帝(第6代皇帝)の時代。1711~1799年。乾隆から嘉慶にかけて考証学は、全盛をむかえた。 ○小學:文字の字形・字義・字音を研究する学問。文字学・声韻(音韻)学・訓古学。 ○段若膺:段玉裁(1735~1815)。清の経学者、文字学者。字は若膺、茂堂と号した。江蘇省金壇の人。乾隆25年(1760)の挙人で、四川省巫山県の知事にまでなった。官吏としての経歴は恵まれたものといえないが、最初の上京以後戴震に師事、役所の仕事を終えてから夜研究に専念する生活を送り、多くの業績をあげた。《六書(りくしよ)音均(おんいん)表》は古音(こいん)を17部に分け、とくに後代一つに合流していた支・脂・之3部の区別を明らかにしたことの意味は大きい(世界大百科事典 第2版)。/1763年北京で戴震に師事。官吏となって知県を歴任したが、1782年以後郷里に隠棲し学問に専心。《説文解字》の注に精根を傾け、《説文解字注》を著し、清朝考証学の名を高からしめた(百科事典マイペディア)。 ○阮子元:阮元(1764~1849)。中国、清の学者・政治家。儀徴(江蘇省)の人。字は伯元。号、芸台(うんだい)。戴震の学を継承、多くの人材を集め、考証学の振興に努めた。編著「経籍籑詁』」「皇清経解」など(デジタル大辞泉)。/学者としては宋学を排して漢学を宗とし、直接には戴震の学問を継承して言語や文字の研究から古代の制度や思想を解明しようとした。しかしその学問領域はきわめて広く、乾隆・嘉慶年間(1736~1820)における考証学の集大成者で、詁経精舎(浙江)、学海堂(広東)を設立して学術を振興し、多くの学者を集めて書物の編纂事業を統督し、学界に貢献した(世界大百科事典 第2版)。/浙江省の学政(文教担当)となって『経籍纂詁』106巻を編纂し、巡撫のとき杭州に詁経精舎を建てた。両広総督のときには学海堂を建てて後進を養成し、『皇清経解』1400巻を刊行した。江西巡撫の時には日本の山井鼎の『七経孟子考文』を参酌して『十三経注疏校勘記』416巻を編纂したことは有名である。乾隆・嘉慶の漢学を、編纂、彙刻の面で集大成し、漠学の実証的方法を提唱した最後の学者であった。閻若璩の『尚書古文疏証』や胡渭の『易図明辯』のような重要な書は、古い漢儒の経典を批判したという理由で排斥した。「凡古必真、凡漢皆好」、つまり文献は古いほど真であり、漢の時代のものはすべて好いという「漢学」の規準によって顧炎武、黄宗羲らの名著も斥けられた。阮元の編纂した『学海堂経解』はこの点で功罪半ばする。しかし後年になって方東樹の漢易批判を受けて、宋学と漢学の調和を考え直してもいる(Internet恋する中国・中国データベース)。 ○王伯申:王引之(1766~1834)。清の経学者。字は伯申、曼卿と号した。江蘇高郵の人。嘉慶4年(1799)最優秀の成績で進士となり、工部尚書にまでなった。父王念孫の学を受けついで、ことに文字・音韻の学に詳しく、高郵王氏父子と並称された。実は王念孫の父、王安国(文粛公)も吏部尚書にまでなった篤学の高官で、王引之の学問は王氏3代の学の精華である。《経義述聞》15巻、《経伝釈詞》10巻はとくに名高いが、経書の訓詁を説く《経義述聞》は、すなわち〈聞けるを述ぶ〉を書名とするように、すすんで父王念孫の学問の祖述者であろうとしているため、どこが王引之の独創であるかを見とどけることが、しばしば困難となる(世界大百科事典 第2版)。 ○輯:多くの材料をあつめて整理する。 ○藉:依る。借りる。 ○經義:経文の意味。 ○摘録:要点をかいつまんで書き記す。 ○為作:つくる。 ○愚管之見:浅はかな見解。愚かな管見。謙遜語。 ○僭:おのれの身分をわきまえず。僭越ながら。 ○有道:学問道徳を有するひと。 ○姚察:南朝陳の史家。字は伯審。梁・陳隋の三朝に仕える。『漢書訓纂』『漢書集解』を撰す。/小島宝素写本は「姚思廉」に作る。姚思廉、唐初の史家。字は簡之。姚察の子。『梁書』と『陳書』を編纂す。 ○漢書訓纂:『隋書』經籍志「漢書訓纂三十卷(陳吏部尚書姚察撰)。漢書集解一卷(姚察撰)」。 ○曾孫班:姚珽(641~714年)、唐の大臣。姚思廉の孫。姚察のひまご。/宝素本は「其子察」に作る。 ○紹訓:『漢書紹訓』四十巻(佚)。『舊唐書』姚璹・弟珽傳「珽嘗以其曾祖察所撰漢書訓纂、多為後之注漢書者隱沒名氏、將為己說。珽乃撰漢書紹訓四十卷、以發明舊義、行於代」。『新唐書』姚思廉・璹・珽傳「始、曾祖察嘗撰漢書訓纂、而後之注漢書者、多竊取其義為己說、珽著紹訓以發明舊義云」。 ○𥨸:「竊」の異体。 ○云:語末の助詞。意味はない。 ○弘化三年:1846年。丙午。 ○歳:木星。 ○桑兆:丙の別名。『爾雅』釋天:「大歲……在丙曰柔兆」。 ○敦牂:午の別名。『爾雅』釋天:「大歲……在午曰敦牂」。 ○望:旧暦十五日。