2012年8月25日土曜日

『難經古義』叙 その4

 ●卷下 滕萬卿 末文

○余纘前修之業。自壯歲時。講究此書。業已數百遍。至今三十年所。無日不鑽研。古人云。讀書百遍。其義自通。不佞如萬卿。雖未曾中其肯綮。然旦莫寓意。以竢左右逢其原之日久矣。顧其距春秋時邈焉。則其言亦淵乎深哉。故其歷世所注傳。自呉呂廣。至明呉文昺。凡十有九家。愈繁愈雜。辟猶百川派分。無繇尋源。於是舟之方之。漸得觀㴑洄之瀾。以問渤海之津。嘗讀韓非子說林。其中有言。秦荊有郄。荊人傍說晉叔向。叔向論城壺丘可否。以令二國和焉。余讀至是。喟然歎曰。烏虖。扁鵲設難之意。於叔向乎盡矣。無乃刻意叔向。以體扁鵲乎。乃余所注解。有取乎爾。亦有取乎爾。  難經古義之下畢。

  【訓讀】
○余 前修の業を纘(あつ)めて、壯歲の時自(よ)り、此の書を講究すること、業已(すで)に數百遍。今に至って三十年所(ばか)り。日として鑽研せざること無し。古人云く、讀書百遍、其の義自ら通ず、と。不佞 萬卿が如きは、未だ曾て其の肯綮に中たらずと雖も、然れども旦莫意を寓して、以て左右 其の原に逢うの日を竢(ま)つこと久し。顧だに其の春秋の時を距つること邈(はるか)かなり。則ち其の言も亦た淵乎として深きかな。故に其の歷世 注傳する所、呉の呂廣自り、明の呉文昺に至るまで、凡そ十有九家。愈(いよ)いよ繁にして愈いよ雜なり。辟えば猶お百川派分かれ。源を尋ぬるに繇(よし)無し。是(ここ)に於いて之を舟し之を方し、漸く㴑洄の瀾を觀て、以て渤海の津を問うことを得たり。嘗て『韓非子』の說林を讀む。其の中に言有り。秦荊に郄有り。荊人(ひと)傍ら晉の叔向に說く。叔向 壺丘に城する可否を論じて、以て二國をして和せしむ。余讀んで是に至って、喟然として歎じて曰く「烏虖(ああ)、扁鵲 難を設くるの意、叔向に於いて盡せり。無乃(むし)ろ叔向に刻意して、以て扁鵲に體せんか。乃ち余が注解する所、取ること有らば、亦た取ること有るのみ。  『難經古義』の下 畢んぬ。

  【注釋】
○纘:集合する。/継承する。
○前修:昔の徳を積んだ賢人。優れた先人。
○業:功績。学問。工作。
○壯歲:三十歲。壮年。『禮記』曲禮上「三十曰壯,有室。」
○講究:研究。探究。
○業已:既已。
○所:概数をあらわす。ぐらい。およそ。
○無日:一日もない。/毎日研鑽につとめた。
○鑽研:徹底的に深く研究する。
○古人云:『三國志』魏書 王肅傳「亦歷注經傳,頗傳於世」注「魏略曰……讀書百徧而義自見。」
○不佞:不才。自己を謙遜する語。
○中其肯綮:骨と和筋肉の結合する部位。ものごとの急所のたとえ。
○旦莫:タンボ。旦暮。朝夕。
○寓意:意味をなにかに言寄せる、かこつける。ここでは、隠された意味を探ることか。
○竢:「俟」の異体。待つ。
○左右逢其原:『孟子』離婁下「資之深,則取之左右逢其原(これに資(と)ること深ければ、則ち之を左右に取りて其の原に逢う)。」左右どちらからでも、その水源にたどり着ける。みなもとを見つけ出す。
○顧:しかし。ただ。
○春秋時:孔子が『春秋』を作り、その記載は魯の隱公元年から魯の哀公十四年まで,およそ二百四十二年(紀元前722~前481)。この時代を「春秋」という。
○淵乎:深いさま。
○歷世:代々。歴代。
○傳:経義を解釈した文や書籍。
○呉呂廣:隋煬帝楊廣の諱を避けて「呂博」にもつくる。はじめて『難経』に施注したとされる。『難経集注』中にその説がみえる。他に『募腧經』『玉匱針經』(『金縢玉匱針經』『呂博金縢玉匱針經』ともいう)を撰するもいずれも佚。『玉匱鍼經』序「呂博、少以醫術知名、善診脈論疾、多所著述。吳赤烏二年、為太醫令……」。
○明呉文昺:『難經』(第三十九舊三十一)難に「明呉文昞辨真云」とある。吳文炳、字は紹軒、号は光甫。明代のひと。『新刊太醫院校正八十一難經辨真』に「盧國 扁鵲 秦越人 精著/盱江 紹軒 吳文炳 校録/閩建 書林 余雲坡 繡梓」とある。この書については、黄龍祥『難経稀書集成解題』(オリエント出版社)で「この書は実は熊宗立の『勿聴子俗解八十一難経』を重刊し、巻首に張世賢『図注八十一難経』の図解部分を掲載したものである。……学術的価値はなく、また版本的価値もなく……」という。
○凡十有九家:ひとまず、『医籍考』に従って、候補をあげる。1.呂廣(博/博望。『注衆難經』)、2.楊玄操(『黄帝八十一難經注』)、3.丁德用(『難經補注』)。4.虞庶。5.楊康侯。6.龐安時(『難經解義』)。7.宋庭臣(『黄帝八十一難經注釋』)。8.劉氏(『難經解』)。10.周與權(『難經辨正釋疑』)。11.王宗正(『難經疏義』)。12.高承德(『難經疏』)。13.李駉(『難經句解』)。14.謝復古(『難經注』)。15.馮玠(『難經注』)。16.紀天錫(『集注難經』)。17.張元素(『藥注難經』)。18.王少卿(『難經重玄』)。19.袁坤厚(『難經本旨』)。20.謝縉孫(『難經說』)。21.陳瑞孫(『難經辨疑』)。22.滑壽(『難經本義』)。23.呂復(『難經附說』)。24.熊宗立(『勿聽子俗解八十一難經』)。25.張世賢(『圖注難經』)。26.馬蒔(『難經正義』)。27.姚濬(『難經考誤』)。28.徐述(『難經補注』)。29.王文潔(『圖注八十一難經評林捷徑統宗』)。30.張景皐(『難經直解』)。31.黄淵(『難經箋釋』)。以下、清代なので滕萬卿が誤解していなければ可能性はない。32.徐大椿(『難經經釋』)。33.黄元御(『難經懸解』)。以下、省略。
○愈:さらに。
○繁雜:繁多雜亂。
○辟:「譬」に通ず。
○百川:多くの川。河川の総称。
○派分:分かれる。分派する。
○繇:「由」と同じ。
○尋:水源をたどる。さかのぼる。
○舟之方之:舟に乗って川を渡る。いかだに乗って川を渡る。『詩經』國風 谷風「就其深矣、方之舟之。就其淺矣、泳之游之」。箋云「方、泭也」。泭:「桴」と同じ。いかだ。
○㴑洄:「溯洄」。流れを遡る。
○瀾:なみ。大波。
○渤海:『史記』扁鵲傳「扁鵲者、勃海郡鄭人也。」
○津:渡し場。『論語』微子「使子路問津焉。」問津:ひとにものをたずねる。
○韓非子:戦国末(紀元前三世紀ごろ)、法家の韓非の著作を中心とし、その一派の論著を集めたもの。
○秦荊有郄:郄:「郤」に同じ。「隙」に通ず。間隙。みぞ。わだかまり。怨恨。不和。/『韓非子』說林下「荊王弟在秦,秦不出也。中射之士曰:「資臣百金,臣能出之。」因載百金之晉,見叔向,曰:「荊王弟在秦,秦不出也,請以百金委叔向。」叔向受金,而以見之晉平公曰:「可以城壺丘矣。」平公曰:「何也?」對曰:「荊王弟在秦,秦不出也,是秦惡荊也,必不敢禁我城壺丘。若禁之,我曰:為我出荊王之弟,吾不城也。彼如出之,可以德荊。彼不出,是卒惡也,必不敢禁我城壺丘矣。」公曰:「善。」乃城壺丘,謂秦公曰:「為我出荊王之弟,吾不城也。」秦因出之,荊王大說,以鍊金百鎰遺晉。」/楚王の弟が秦に滞在していたが、秦はかれを出国させなかった。楚王の侍従が王に言った。「わたくしに百金を与えてくだされいまくたくしは弟君を取り戻せます。」それにより王からいただいた百晳金を車に載せて晋に行き、家老の叔向に面会した。「楚王の弟が秦にいますが、秦が出そうとしません。どうかこの百金をゆだねますのでよろしくお願い申し上げます。」叔向は金を受け取ると、この使者を晋の平公に面会させ、「壺丘の地に城を築くのがよろしい」と進言した。平公は「どうしてか」と問うと、「楚王の弟は秦に行っていますが、秦は国へ帰そうとしません。これは秦が楚を憎んでいるからです。(わが国と今ことをおこうそうとはしないでしょうから)壺丘に城を築くことを止める気にはなりますまい。もし城を築くのを制止してきたら、こちらは『わが国のために楚王の弟を出国させたら、われわれも築城をやめよう』と言ってやりましょう。それで楚王の弟がもし秦から出られるのであれば、楚に恩を売ることができます。出国できないようであれば、これは憎しみをとあとしているのですから、われわれが壺丘に城を築くのを止めようとはしますまい」と答えた。平公は「よかろう」と言った。そこで壺丘に城を築くことにして、秦公に「わが国のために楚王の弟を出国させたら、われわれも築城をやめよう」と伝えた。秦はそこで出国させたので、楚王は大いに悦んで、純金百鎰を晋に贈った。
○喟然:嘆息するさま。
○歎:『論語』先進:「夫子喟然歎曰:『吾與點也(吾は点〔曽晰の名〕に与(くみ)せん)。』」
○烏虖:烏呼、烏乎、於虖とも。感嘆詞。
○設難:質問を設定する。
○叔向:姬姓、羊舌氏、名肸、字叔向。晋の公室の一族。賢大夫。前六世紀中期。
○無乃:推測の語気をあらわす。~ではないか。「乃ち~無からんや」。
○刻意:一意専心する。真剣に集中的におこなう。
○體:他人の立場になって考える。実行する。
○有取乎爾。亦有取乎爾:わたしの注解に有用な部分があるとするならば、それは取られて残っていくだろう。『孟子』盡心下「由孔子而來至於今,百有餘歲,去聖人之世,若此其未遠也;近聖人之居,若此其甚也,然而無有乎爾,則亦無有乎爾(然而(かくのごとくにして)有ルコト無クンバ、則チ亦有ルコト無カラン/孔子から今に至るまでは、百余年しか経っていない。聖人が世を去ってから、それほど遠くないのだ。聖人の故国の魯からわたし(孟子)の故郷鄒はこんなにも近いのだ。ならば、わたしが孔子の事跡を残さなければ、後世に聖人の道を聞いて知る者はいなくなってしまうだろう)。」/乎爾:感嘆や質問をあらわす語気詞。
○畢:終わり。

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