2024年10月31日木曜日

電脳医学古典資料庫 その3

 電脳医学古典資料庫 その3



2024年10月31日  第3回配信

以下のURLをクリック

http://point.umin.jp/temp/20241028.htm


内容:経穴部位,主治症のデータベース


★★★経穴データベース2024年バージョン

01 経穴データベース 一名 位置 穴性 帰経 など

02 経穴データベース 主治症 『鍼灸甲乙経』から『聖済総録』までの主治症

03 藍川慎 読甲乙経丙卷要略

04 藍川慎 鍼灸甲乙経孔穴主治

05 新彫孫真人千金方 巻第30 と 宋版の千金方


01から05は,あくまで個人的に整理したもので未完成バージョンです。

03と04は,藍川愼が天保10年(1839年)に『鍼灸甲乙経』を考証学的に編纂した著書です。

05は,宋本『千金方』と宋改前の『千金方』の巻30を整理したものです。


いずれも実用的な「手引き本」ではなく研究者向けです。


なお,穴名表記は(湧泉,涌泉,勇泉)などのように様々ですので,すべて数値化(湧泉なら&293;)してあります。

検索するときに「293」で統一して検索可能です。




【マクロありのExcelの注意】

はじめてこのファイルを開く時に、画面左上方に

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ダウンロードファイルは以下です

20241031.zip


小林


2024年10月30日水曜日

電脳医学古典資料 その2

 電脳医学古典資料 その2

以下のホームページにアクセスして下さい

http://point.umin.jp/temp/20241028.htm


2024/10/29 配信

http://point.umin.jp/temp/20241029001.zip

内容1:和暦,西暦の年表, 『大漢和辞典』のページを見つける資料
    日本内経医学会のblog(談話室)にある内容

・002 年表
・003 大漢和辞典5万字の親字と熟語索引 その他
・004 ブログ 日本内経医学会

http://point.umin.jp/temp/20241029002.zip

内容2:古典の病名など理解するための資料

万病回春 医学入門 諸病源候論 病名彙解など病名病因のまとめ マクロあり.xlsm

・万病回春(明・龔廷賢編 1615年)
・(回春)病因指南(岡本一抱)
・病名彙考(岡本一抱『万病回春指南』卷2・病名彙考)
・病名彙解(蘆川桂洲 貞享3年(1686))
・医学入門(明・李梴 1575序刊)
・諸病源候論(隋・巣元方 610年)
・鍼灸備要(青山道醇 明治20年(1887))
・鍼灸手引草(久木田七郎 大正1年(1912))
・丸山昌朗『内経』病名漢洋対比表


つづく

2024年10月29日火曜日

  扁鵲医籍考 06.2

 


 孫思邈が『刪繁方』から孫引きした『扁鵲鍼灸経』の条文は以上のものだけにとどまらない。ただ現在は確定された「指紋」が少ないために,それらを正確に識別できないだけである。しかし,すでに識別された佚文によっても,扁鵲医学の鍼灸腧穴における成果と特徴について,より具体的な理解が得られた。特に,『扁鵲鍼灸経』の一部腧穴の名称・位置・主治の内容が漢代の腧穴の古典『黄帝明堂経』に反映されていることが見つかった。


 ① 『扁鵲鍼灸経』の穴名は,『黄帝明堂経』では別名として処理されている。たとえば,「幽門,一名上門。在巨闕兩旁各五分陷者中」,「氣穴,一名胞門,一名子戶。在四滿下一寸,衝脈、足少陰之會。刺入一寸,灸五壯。主腹中痛,月水不通,奔泄,氣上下引腰脊痛」となっていて,上述した『扁鵲鍼灸経』で関わりのある穴の位置と主治はみな一致しているが,『扁鵲鍼灸経』の穴名は『黄帝明堂経』では別名として扱われている。もしさらに多くの『扁鵲鍼灸経』の佚文やこの書よりさらに古い扁鵲の腧穴の佚文を識別できるならば,『黄帝明堂』が利用した「扁鵲明堂」の実例をより多く見つけることができるであろう。

 ② 『扁鵲鍼灸経』と扁鵲の鍼灸処方の佚文を『華佗鍼灸経』『黄帝明堂経』の背部兪穴の位置と詳細に比較した結果,三者ともに背部兪穴の横方向の距離は実際には同じであり,「脊傍一寸」または「夾脊三寸」*に位置している。人々の理解の違いや伝承過程での誤字によって,三者の背俞穴の横方向の距離の記述に大きな違いが生じた。現代では扁鵲医学を継承している『華佗鍼灸経』の背部兪穴を経外奇穴とみなして「華佗夾脊穴」と名づけ,『黄帝明堂経』の背部兪穴と区別している。


    *たとえば,『医心方』が引用する『華佗鍼灸経』の背部兪穴は「諸椎俠脊相去一寸也」であるが,『備急肘後方〔肘後備急方〕』と『医心方』が引用する華佗の霍乱灸法は,ともに「去脊各一寸」としている。これにより,華佗の背部兪穴の文は「諸椎俠脊各相去一寸也」とすべきであることがわかる。『霊枢』背腧は背部兪穴を「皆挾脊相去三寸所」〔穴と穴との距離は脊椎を挟んで3寸ほど〕とし,『医心方』が引用する『黄帝明堂経』は「夾脊椎下間傍相去三寸」としている。文言は異なるが実質は同じであり,「去脊各一寸」〔脊椎の端からそれぞれ1寸〕と同じ表現である。これは古人は「脊」の幅を一寸と定めていたためである。後世の理解と表現の誤りによって,扁鵲と華佗の穴が「経外奇穴」となった。さらに『鍼灸甲乙経』の背部兪穴の記述の仕方に基づいて扁鵲と華佗の穴が改められたのである。


 ③ 『華佗鍼灸経』は『扁鵲鍼灸経』と相承関係にあり,扁鵲の鍼灸学を継承発展させたものである。たとえば,『扁鵲鍼灸経』に記載されている十九の背部兪穴のうち,最後の三穴には名称がなかったが,『華佗鍼灸経』ではこれらが補完されており,そのうちの第二十椎の名称は『扁鵲鍼灸経』の主治に直接基づいて「重下兪」と命名されている。この両書の関係が確定したことも,華佗が扁鵲医学の伝承者であることの有力な証拠となった。

 このほか,筆者は早くも『中国鍼灸学術史大綱』において,扁鵲医学の早期の鍼灸処方の主治は,『黄帝明堂経』の関連する腧穴に取り入れられていることをすでに明確に指摘している。たとえば,扁鵲の尸厥を治療した処方の主治は,隠白・大敦・厲兌の三穴の主症にすでに見られる。このことから分かることは,『黄帝明堂経』は実際上,漢代以前の諸家の鍼灸用穴の経験を集大成したものであって,『扁鵲偃側明堂』『扁鵲鍼灸経』が一家〔一流派〕の書であるのとは異なる性質が異なる,ということである。

 『扁鵲鍼灸経』の影響を受けたことが明確な鍼灸古籍には,敦煌巻子『佚名灸方』(詳細は敦煌巻子『佚名灸方』考を参照〔原書178頁~〕)や宋代の官修医書『太平聖恵方』鍼灸巻がある。たとえば『太平聖恵方』の「督兪」は『扁鵲鍼灸経』に見られ,その位置は『華佗鍼灸経』に基づくものである。また,厥陰兪は『扁鵲鍼灸経』に由来し,穴名は別名を採用しているが,扁鵲の原書では「関兪」(「闕兪」とも書かれている)を正式名称としている。気海兪は『華佗鍼灸経』に由来し,やはり別名が用いられていて,原書では「陽結兪」を正式名称としている。「関元兪」の位置と主治は『扁鵲鍼灸経』に由来する。

 孫思邈が孫引きした「扁鵲曰」の文には,典型的な鍼灸処方の特徴を持つ文も見られ,引用数は上述した『扁鵲鍼灸経』に由来する佚文よりも多い。その中には,鍼灸処方の穴名と位置が上述した『扁鵲鍼灸経』から引用された文とよく一致しているものもある。例:

     治眼暗灸方:灸大椎下數節第十,當脊中安灸二百壯,惟多為佳,至驗,不在方藥也(『新雕孫真人千金方』卷十一〔・肝勞第三〕)。

     眼暗,灸大椎下第十節,正當脊中二百壯,唯多佳。可以明目,神良。灸滿千日,不假湯藥(『千金翼方』卷二十七〔・肝病第一〕)。

     治眼暗灸方:灸大椎下數取第十節,正當脊中央二百壯,唯多為佳,至驗,不須方藥也(『醫心方』卷五〔・治目不明方第十三〕)。

     肝俞,主目不明,灸二百壯,小兒寸數斟酌,灸可一二七壯(『千金翼方』卷二十七〔・肝病第一〕)。

     治溫病後食五辛即不見物,遂成雀目,灸第九椎,名肝俞,二百壯,永差〔=瘥〕(『千金翼方』卷二十七〔・肝病第一〕)。

 これらの灸処方の穴名とその位置は,前述した『扁鵲鍼灸経』の佚文中の肝兪穴と非常に高い一致を示しており,両者の比較可能な主治症状さえも一致して,両者の関係は唐代鍼灸大家の甄権の腧穴専門書『鍼経』とその鍼灸処方の専門書『鍼方』の関係と同じである。しかしながら,これらの証拠だけでは謝士泰が『刪繁方』を編纂した際に引用した扁鵲の鍼灸の文が,それぞれ『扁鵲鍼灸経』ともう一つの鍼灸処方書に由来するかどうかを判断することはできない。まず,現在確認されている『扁鵲鍼灸経』の佚文だけでは,判定するには十分ではない。この書の内容は腧穴だけで,鍼灸処方には言及がない。次に,隋以前の図書目録には扁鵲の名を冠した鍼灸処方の専門書は著録されていない。しかし,最近出土した扁鵲医書によれば,漢以前にはすでに扁鵲の鍼灸処方の専門書(現在の専門篇に相当)が流布しており,原書には書名がない。いまのところ公開された数条の文は以下の通り。

    逆氣,兩辟(臂)、陽明各五及督;

    疽病、多臥,兩陽明、少陽各五;

    轉筋,足鉅陽落各五。

 筆者のこれまでの研究成果により,早期の扁鵲の鍼灸処方を判定する「指紋」の特徴は確立されている。その特徴は,第一に,鍼灸処方が経脈と同名の「経脈穴」,または「経脈穴」と,部位は表記されているが名称のない穴から構成されていること,第二に,穴の下に鍼刺の数が記されていることである。

 上に挙げた出土文献はこの二つの特徴を完全に満たしているので,この出土文献は早期の扁鵲の鍼灸処方の専門書と判定できる。特に注目すべきは,鍼灸処方に絡脈穴「足巨陽落」が現われたことである。これはきわめて価値のある発見である。全文が公開され,さらに多くの絡脈穴を用いる鍼灸処方が見つかれば,扁鵲の鍼灸処方の新たな発展を示すこととなる。かつまたとりわけ都合がいいことには,六朝時代の謝士泰が引用した扁鵲の鍼灸処方にも一致度がきわめて高い鍼灸処方の佚文が見つけられることである。

    『刪繁方』……治轉筋,脛骨痛不可忍方:灸屈膝下廉橫筋上三炷(『醫心方』卷六〔・治筋病方第二十三〕)。

    治轉筋,脛骨痛不可忍,灸屈膝下廉橫筋上三壯(『新雕孫真人千金方』卷十一〔・治筋極第四〕と『千金翼方』卷二十七〔・肝病第一〕)。

 処方中の「屈膝下廉横筋上」とは,すなわち『霊枢』本輸にいう「太陽之絡」★である委陽脈であり,謝士泰が引用したこの扁鵲の鍼灸処方と老官山から出土した漢簡の扁鵲の鍼灸処方には継承関係があることを示している。『黄帝明堂経』には「委陽,三焦下輔俞也。在足太陽之前,少陽之後,出於膕中外廉兩筋間,扶承下六寸,此足太陽之絡也」とあり,同じ脈の同じ穴だと言える。特に主治の症状として「脚急兢兢然,筋急痛」★★もはっきりと挙げられている。これも『黄帝明堂経』が扁鵲の鍼灸経験を採用したもう一つの例証である。

    ★『靈樞』本輸:「三焦下腧在於足大趾之前,少陽之後,出于膕中外廉,名曰委陽,是太陽絡也」。

    ★★『鍼灸甲乙經』卷9・足厥陰脈動喜怒不時發㿗疝遺溺癃第11:「胸滿膨膨然,實則癃閉,腋下腫,虛則遺溺,脚急兢兢然,筋急痛,不得大小便,腰痛引腹不得俯仰,委陽主之」。

 扁鵲の鍼灸処方の「指紋」の特徴に基づき,筆者は15年前に,出土した漢代の画像石「扁鵲鍼刺図」と『史記』扁鵲倉公列伝にみえる倉公の鍼刺処方をあらためて解読し,あわせて伝世本『素問』に収録されている早期の扁鵲の鍼処方を識別した。

  *黄龙祥. 中国针灸学术史大纲 [M]. 北京:华夏出版社,2001:223-226.

 孫思邈の書に保存された大量の扁鵲の鍼灸処方を見ると,多くは尸厥・卒中(五臓六腑の中風を含む)・癲狂・癰疽・瘧病に集中しており,これらはまさに早期の扁鵲医学の鍼灸治療でよく見られる病症であった。その中の多くの処方にも早期の扁鵲の鍼灸処方の「経脈穴」を用いるという特徴が反映されている。その例は,『孫真人千金方』巻十四・〔治〕風癲第五に収録されている倉公の鍼灸癲狂処方にも見られる。

    狂癲風驚,厥逆心煩,灸巨陽五十壯。

    狂癲鬼語,灸足太陽四十壯。

    狂走驚恍惚,灸足陽明三十壯。

    狂癲癇易疾,灸足少陽隨年壯。

    狂癲驚走恍惚,嗔喜笑罵〔原書『孫真人千金方』は「瞋喜罵笑」に作る〕歌哭鬼語,悉灸頭太陽、腦戶、風池、手太陽、陽蹻、少陽、太陰、陰蹻、足跟,悉隨隨〔原書『孫真人千金方』は「隨」一字に作る〕年壯。

 また,扁鵲鍼灸の診脈刺脈の特徴に基づいて,筆者は伝世本『霊枢』癲狂が扁鵲医学を源とすると判定した*。

    * 黄龙祥. 扁鹊医籍辨佚与拼接 [J]. 中华医史杂志,2005,45(1):33-43. /『季刊内經』No.203 2016年夏号:岡田隆訳 黄龍祥「散佚扁鵲医籍の識別・収集・連結」 

 ここで特に注目すべきは「頭太陽」穴である。筆者が以前に目にした扁鵲の鍼灸処方の構成は,「経脈」穴で構成されるもの,専用の穴名のない鍼灸部位で構成されるもの,「経脈」穴と名を持たない鍼灸部位で構成されるものがある。しかし上に挙げた倉公の灸処方には「頭太陽」という「部位名+経脈名」という新たな腧穴命名方式が現れている。伝世医籍でまさにこの命名方式を採用しているのは,扁鵲医学の癰疽病診療において,その理論と実践を継承する『劉涓子鬼遺方』である。この書は現存する版本の質がよくないことを考慮して,ここでは『千金翼方』巻二十三が引用する『劉涓子鬼遺方』の原文を主とし,あわせて『医心方』と『諸病源候論』の二書の引用文を参照して以下のように校正した。

    手心主脈有腫,癰在股脛。

    手陽明脈有腫,癰在腋淵。

    脇少陽脈有腫,癰在頸。

    足少陽脈有腫,癰在脅。

    腰太陽脈有腫,交脈屬於陽明,癰在頸。

    尻太陽脈有腫,癰在足心、少陽脈。

    股太陽脈有腫,癰在足太陽。

    肩太陽、太陰脈有腫,癰在脛。

    頭陽明脈有腫,癰在尻。

 以上のように,これらの異なる部位の「脈」は,脈を診る場所であり,刺灸する場所でもある。現在知られている扁鵲医籍の佚文にはこれらの「脈」の具体的な部位はまだ見つかっていないが,扁鵲医学での診脈する場所の一般的な規則に基づいて基本的な判断は可能である。つまり,同時期の扁鵲の経脈循行に描写されている「出」る場所,および経脈の起こるところと終わるところに位置するものである。過去には扁鵲医学について理解が浅く,『劉涓子鬼遺方』が伝承する明らかな扁鵲鍼灸学に特徴的な文言をまったく読解することができなかったため,宋代に孫思邈の『備急千金要方』を校改した際に,倉公の灸処方にあったこの「頭太陽」穴も削除された。

 扁鵲の鍼灸処方には,灸療の壮数が多いというはっきりとした特徴がある。まさに孫思邈が「依扁鵲灸法有至千壯〔扁鵲の灸法に依れば千壯に至る有り〕」(『新雕孫真人千金方』巻二十九)と述べているとおりである。これについては,特に癰疽の灸治において顕著である。

  『醫門方』云:扁鵲曰:㿈腫癤疽風腫惡毒腫等,當其頭上灸之數千壯,無不差者;四畔亦灸三二百壯。此是醫家秘法。小者灸五六處,大者灸七八處(『醫心方』卷十五〔治癰疽未膿方第二〕)。

 また『刪繁方』に収載された扁鵲の鍼灸処方をみると,数百壮や随年壮とするものが多い。

 ここで特に指摘しなければならないことがある。孫思邈が当時『備急千金要方』を編纂した際に病症治療の下に多くの灸処方を付け加えたが,その多くは『刪繁方』から孫引きした『扁鵲鍼灸経』の腧穴主治であることが少なくない。しかし,宋人がこの部分を校正した時には,『千金要方』全体のスタイルに合わせるために,これらの腧穴主治条文をみな鍼灸処方の形式に改編した。そのため,扁鵲医籍の佚文を考察する際には,宋校本『備急千金要方』を決してそのまま利用してはならない。

 

2024年10月28日月曜日

  扁鵲医籍考 06.1

   二、扁鵲鍼方明堂 


 早期の扁鵲医籍の多くは単篇として伝えられていたが,書名はもちろん篇名すらないものもあった。対して,扁鵲の「鍼灸明堂」類の医籍は比較的晩出で,『隋書』経籍志には「扁鵲偃側鍼灸図」三巻が著録されている。伝世文献にはっきりと引用されている書名は二つあって,一つは「扁鵲鍼灸経」,もう一つは「扁鵲明堂経」という。伝世の「鍼灸経」または「明堂経」と題される鍼灸古籍を見ると,いずれも鍼灸の腧穴を専門に論じた書であり,鍼灸の処方を掲載しているものは少ない。

 『医心方』には「扁鵲鍼灸経」という正式名称が3箇所引用されている。その巻二〔諸家取背輸法第二と灸例法第六〕と巻十八〔治灸瘡不瘥方第二〕にあるものは同一で,出典も完全に同じであることから,「扁鵲鍼灸経」という書名は原書にもとからあったもので,後人が定めたものではないことを物語っている。ただ,この書が三巻本の『扁鵲偃側鍼灸図』とどのような関係にあるかは不明である。「扁鵲明堂経」として引用されているものは宋代の『太平聖恵方』巻一百に見られるが,筆者が調査したところ,宋代の人々は鍼灸書を「明堂経」と総称する習慣があったため,この一条の引用だけで宋代に『扁鵲鍼灸経』とは異なる題名の扁鵲の鍼灸明堂書が残され伝わっていたと断定することはできない。

 早期の鍼灸処方は「経方」類には入れられず,「医経」類に分類されていた。伝世本の『霊枢』『素問』には方薬の論述は少ないが,多くの鍼灸処方が見られ,そのうち少なくとも一部は扁鵲の医籍を出自とすることが確認できる。陳延之の『小品方』自序には,彼が撰用した書目の中に『華佗方』十巻があり,『隋書』経籍志には「扁鵲肘後方」三巻が著録されている。後世の医書には晋代の『肘後方』以降,扁鵲の鍼灸処方を引用しているものは少なくないが,いずれも出典を明記していないため,歴史上に扁鵲の鍼灸処方の専門書が存在したかどうかは断定できない。成都市金牛区天回鎮漢墓から出土した漢簡の扁鵲医籍で暫定的に「経脈数」★と名づけられたもののいくつかの条文を見ると,筆者はこれが現在知られている最も古い扁鵲の鍼灸処方の専門書であり,書名は(全篇が鍼刺法のみであれば)「扁鵲鍼方」,あるいは(文中に灸法の内容が含まれていれば)「扁鵲鍼灸方」とすべきであると確信している。

    ★文物出版社から出版された天回医簡整理組編著『天回医簡』(2022年)では,「刺数」と命名されたものに該当すると思われる。

 この書の出土は,筆者が15年前に伝世本『素問』『霊枢』中の扁鵲の鍼灸処方について識別し解読したことが完全に正しかったことを証明している*。実のところ,筆者はもっと早くから「出土した鍼灸書や非鍼灸書中の鍼灸処方の状況を見ると,基本的に伝世医書の中に,同じかあるいは類似の文字を見つけることができる。我々はこれらの伝世鍼灸文献,特に鍼灸名著の研究に主要な精力を注ぐべきであり,大量の鍼灸の貴重書がまだ地下に埋蔵されているとか,すっかりなくなって残っていないという誤った考えをするべきではない」と明確に提唱していた**。確実な伝世文献に基づいて扁鵲医学の「指紋」を正確に抽出しなければ,今回出土した扁鵲医籍の書名(または篇名)を確定することはできないし,これらの文献が本当に扁鵲医籍に属するかどうかも確定できない。

    * 黄龙祥.中国针灸学术史大纲[M]. 北京:华夏出版社,2001:223-226.

    ** 黄龙祥.针灸名著集成 [M]. 北京:华夏出版社,1996:3. /黄龍祥『鍼灸古典の解説-『鍼灸名著集成』の解説部分の翻訳(改訂新版)』. 東京:日本内経医学会,2022:4.を参照。

 漢代の倉公以降,確実に扁鵲医学の継承者として確認できるのは,後漢の華佗と六朝時代の謝士泰である。華佗の医書は早くに失われたが,『医心方』には『華佗鍼灸経』の文が引用されている。謝士泰の『刪繁方』も失われたが,隋代の『諸病源候論』と,特に唐代の孫思邈の『千金要方』にその内容が多数引用されていて,その中には鍼灸に関する内容が多数含まれている。

 そこで,『扁鵲鍼灸経』の佚文を考察する際の主な拠り所となる文献は,『扁鵲鍼灸経』を直接引用している『医心方』と,『刪繁方』から孫引きしている『新雕孫真人千金方』であり,その次は宋代の改変が比較的少ない『千金翼方』である。『新雕孫真人千金方』に残っていない箇所★については,まず宋校本『備急千金要方』から引用文を探し,その後『千金翼方』から対応する文を探す。疑問のあって解決が難しい場合は,さらに『諸病源候論』『外治秘要』で該当する文を探し,総合的に比較して取捨選択する。

    ★現存する宋版『新雕孫真人千金方』(静嘉堂文庫所蔵)は,巻6~10,巻16~20を欠く。

 『扁鵲鍼灸経』の識別に関する一つの確固たる座標は『医心方』が完全な出所を明確に示す三つの『扁鵲鍼灸経』の佚文である。その中で巻二〔・諸家取背輸法第二〕は『扁鵲鍼灸経』の背輸穴を引用する時に多くの伝本を採用し,あわせて異なる版本の異同を記している。収録された背輸穴は全部で19穴であるが,穴名と位置が『黄帝明堂経』と同じ5穴は省略されて収録されていない。いま一括して以下のように補い,補った文には角括弧をつけた。


    『扁鵲鍼灸經』曰:

    第二椎名大抒(各一寸半,又名風府)。

    第四椎名閞〔「關」の異体字〕輸[また「闕輸」「巨闕輸」にも作る]。


 按ずるに,原名は「闕輸」「巨闕輸」とすべきで,「閞〔關・関〕輸」は形が似ているための誤りである。『千金翼方』には「厥陰兪」とも書かれているが,これは経脈理論が変遷した産物である。「巨闕」は心の募穴であるが,心に関連する経脈には歴史上二つの異なる見解がある。一つは手心主脈に関連し,もう一つは手少陰脈に関連するものである。唐以前,「巨闕」に関連する経脈の五輸穴は手心主脈であったが,この脈の名称が「手厥陰脈」に改められて流行するようになると,それに伴い「巨闕」に対応する「厥陰兪」という名称が出現した。もし『扁鵲鍼灸経』が晋以降の書でないのであれば,「巨闕」に対応する背輸は「闕輸」または「巨闕輸」であって,「厥陰輸」ではない。


    第五椎名督脈輸

    第六椎名心輸(與佗同)

    [第七椎名鬲輸] 

    第八椎名肺輸

    [第九椎名肝輸]

    第十椎名脾輸(與佗同)

    [第十二椎名胃輸]

    第十三椎名懸極輸(不可灸,殺人)

    [第十四椎名腎輸] 

    第十五椎名下極輸

    [第十六椎名大腸輸] 

    第十七椎名小腸輸(與佗同)

    第十八椎名三膲輸(或名小童腸輸)


 按ずるに,「小童腸」の意味は未詳であるが,『外台秘要』が『刪繁方』から孫引きした扁鵲鍼灸の条文には「扁鵲曰:第十八椎名小腸兪,主小便不利,少腹脹滿虛乏,兩邊各一寸五分,隨年壯灸之,主骨極」とある。「十八椎」が誤りか,穴名が誤りかは不明である。この条文を調べたところ,宋人による校改を経ていない『新雕孫真人千金方』では欠巻にあたり,宋人が校改した『備急千金要方』と『千金翼方』は,どちらも「小腸兪」として引用されているため,この疑問はいまのところ解決されていない。

    

    第十九椎名腰輸    

    第二十椎(主重下)


 按ずるに,『華佗鍼灸経』はこの穴の主治に基づき穴名を補って「重下兪」としている。


    第二十一椎(不治)


 按ずるに,『華佗鍼灸経』はこの穴を「解脊兪」と名づけている。


    第二十二椎(主腰背筋攣痹)

    凡十九椎應治其病灸之,諸輸俠脊左右各一寸半或一寸二分。但肝輸一椎灸其節。其第十三幷二十一椎,此二椎不治,殺人。

    『扁鵲鍼灸經』云:凡灸,因火生瘡,長潤,久久不差〔=瘥〕。變成火疽,取穀樹*東邊皮一寸已上煮熟去滓,煎令如糖,和散付〔=敷〕,驗(『醫心方』卷二〔・灸例法第六〕)。

    『扁鵲鍼灸經』云:凡灸,因火生瘡,長潤,久久不差,變成火疽方:取穀樹東邊皮,煮熟去滓,煎令如糖,和散付(『醫心方』卷十八〔・治灸瘡不差方第二〕)。

    

    *穀樹とは,カジノキ(paper mulberry)のことで,落葉喬木。新生枝は灰色の太い毛で密に覆われ,乳汁がある。/★『医心方』には,「カチ」と添え仮名あり。


 以上の確定された疑いのない「座標」に基づいて,さらに『外台秘要』や『医心方』の注の引用出典を参照することで,孫思邈の書の中にさらに多くの『扁鵲鍼灸経』の佚文を発見することができる。


    第一椎名大抒,無所不主,夾左右一寸半或一寸二分,主頭項痛,不得顧,胸中煩急,灸隨年壯(『千金翼方』卷二十七)。

    第四椎名巨闕俞,主胸膈中氣。灸隨年壯(『千金翼方』卷二十七)。

    第四椎名厥陰俞,主胸中膈氣,積聚好吐,隨年壯灸之(『千金翼方』卷二十七)。

    第九椎名肝俞,主腹內兩脇脅下脹滿,食不消,喉痹,目眩,眉頭痛,骨急嘔吐,當椎灸五十壯,老小以意斟酌之。灸二百壯,主目不明,神驗(『新雕孫真人千金方』卷十一)。

    肝俞,主肝風[又第九椎名肝俞主] 腹脹,食不消化,吐血,酸削,四肢羸露,不欲食,鼻衄,目䀮䀮,眉頭脅下痛,少腹急,灸百壯(『千金翼方』卷二十六)。

    第十一椎名脾俞,主四肢寒熱,腰疼不得俯仰,身黃腹滿,食嘔,舌根直,灸十一椎及左右各一寸三處各七壯(『新雕孫真人千金方』卷十五)。

    [第十一椎名]脾俞,主四肢寒熱,腰疼不得俯仰,身黃腹滿,食嘔,舌根直,並灸椎上三穴各七壯(『千金翼方』卷二十七)。

    第十五椎名下極俞,主腹中疾,腰痛,膀胱寒,澼飲注下,隨年壯灸之(『千金翼方』卷二十七)。

    灸第十七椎七壯,是小腸俞,及左右兩邊各一寸,主三焦也(『新雕孫真人千金方』卷十四)。

    小腸俞,主三焦寒熱,一如灸腎法(『千金翼方』卷二十七)。

    『刪繁』骨極虛寒:又灸法,扁鵲曰第十八椎名小腸俞,主小便不利,少腹脹 滿虛乏,兩邊各一寸五分,隨年壯灸之,主骨極。並出第八卷中(『外台秘要』卷十六)。

    第二十椎主便血,灸隨年壯(『新雕孫真人千金方』卷十五)。

    灸第二十二椎隨年壯,主腰背不便,轉筋,急痹筋攣(『千金翼方』卷二十七)。

    第二十一(二)椎,主腰背不便,筋轉痹,灸隨年壯(『千金翼方』卷二十七)。

    第二十二椎,主腰背不便,筋攣痹縮,虛熱閉塞,灸隨年壯,兩旁各一寸五分(『千金翼方』卷二十七)。


 以上の〔諸書に〕引用された背輸穴は,第一椎から第二十二椎までの計9穴であり,「大杼」穴の部位および「十八椎」の穴名を除いて*,その他の穴の部位と名称は,みな『医心方』に引用された『扁鵲鍼灸経』と完全に一致し,主治内容さえもかなり一致している。謝士泰が編纂した『刪繁方』は引用時に「扁鵲曰」とだけ表記し,書名を明記していない(孫思邈が孫引きした時は,引用書名を補って記すことはなおさらできなかった)が,『医心方』に引用された『扁鵲鍼灸経』と一致度がこれほど高い文は,同じ書物――『扁鵲鍼灸経』を出自とするとしか考えられない。これからも,この書の編纂年代の下限は『刪繁方』が成書した六朝時代であると確定できる。

    *この二つ〔大杼穴と十八椎穴〕の条文は,『新雕孫真人千金方』の欠落した巻にあるため,孫思邈が引用した際の原文がこの通りであったかどうかは判断できない。

 謝士泰が収録した文は一層整っているので,『扁鵲鍼灸経』の内容をより具体的に理解する手助けとなるだけでなく,この書物の記述形式の特徴が明瞭に見て取れる。すなわち,腧穴について,部位・穴名・主治・刺灸法*の順序で記述されていることである。

    *『千金要方』と『千金翼方』で確認された『扁鵲鍼灸経』の佚文には刺法の記述は見られないが,これは『扁鵲鍼灸経』の原書が灸法のみを収録していたことを意味するものではない。晋から唐にかけての「備急」類の方書が鍼灸文献を引用する際には,『備急肘後方』〔『肘後備急方』〕の著者葛洪が「使人用鍼,自非究習醫方,素識明堂流注者,則身中榮衛尚不知其所在,安能用鍼以治之哉〔人をして鍼を用いしむるに,自(も)し醫方を究習し,素より明堂流注を識(し)るに非ざる者は,則ち身中の榮衛 尚お其の在る所を知らず,安(いず)くんぞ能く鍼を用いて以て之を治せんや〕」〔葛洪『肘後備急方』序〕と言っているのと多くは同様の考え方をしている。孫思邈もこの例に倣って,鍼灸の腧穴文献や鍼灸処方を引用する際に,多くは灸法のみを収録し,鍼法は収録しなかったのである。


 この腧穴内容を記すスタイルは,既知の唐以前の鍼灸文献には他に見られないものであるので,この特徴を『扁鵲鍼灸経』の佚文を識別するもう一つ別の「指紋」として,孫思邈の書においてさらに多くの『扁鵲鍼灸経』の佚文を発見することができた。


     兩乳間,名身堂,主上氣厥逆,百壯(『新雕孫真人千金方』卷十五〔・治脾虛實方第三〕)。

     當心下一寸,名巨闕,主心悶痛,上氣,引少腹呤,灸二七壯(『千金翼方』卷二十七〔・心病第三〕)。

     俠巨闕兩邊相去各一寸,名曰幽門,主胸中痛引腰背,心下嘔逆,面無滋潤,灸之各隨年壯(『新雕孫真人千金方』卷十三〔・脈極第四〕)。

     俠巨闕兩邊相去各半寸,名曰上門,主胸中痛引腰背,心下嘔逆,面無滋潤,各灸隨年壯(『千金翼方』卷二十七〔・心病第三〕)。

     俠巨闕相去五寸,名承滿,主腸中雷鳴相逐,痢下,兩邊一處,各灸五十壯(『千金翼方』卷二十七〔・大腸病第八〕)。

     灸夾丹田兩邊相去各一寸,名四滿,主月水不利,賁血上下幷無子。灸三十壯,丹田在臍下二寸(『千金翼方』卷二十六〔・婦人第二〕)。

     俠臍旁相去兩邊各二寸半,名大橫,主四肢不可舉動,多汗洞痢,灸之隨年壯(『千金翼方』卷二十七〔・膀胱病第十〕)。

     俠屈骨相去五寸,名水道,主三焦、膀胱、腎中熱氣,隨年壯。屈骨在臍下五寸,屈骨端水道俠兩旁各二寸半(『千金翼方』卷二十七〔・膀胱病第十〕)。

     俠膽俞旁行相去五寸,名濁浴,主胸中膽病,灸隨年壯(『新雕孫真人千金方』卷十二〔・膽虛實第二〕)。

    俠膽俞旁行相去五寸名濁浴,主胸中膽病,隨年壯(『千金翼方』卷二十七〔・膽病第二〕)。

     手無名指甲後一韭葉,名關衝,主喉痹,不得下食飲,心熱噏噏,常以繆刺之,患左刺右,患右刺左也,都患刺兩畔(『千金翼方』卷二十六〔・舌病第五〕)。

    〔一部,「名」字の前に読点(,)を加えた。〕


電脳医学古典資料 その1

 電脳医学古典資料 その1


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なお,公開資料は,まだまだ続きます。


こばやし


2024年10月27日日曜日

  扁鵲医籍考 05

   (五)『難経』


 『難経』でひもとかれた「経論」の多くは,『脈経』に引用されている扁鵲医籍に見られる。しかし,『難経』の編者が引用した経文の一部の意味を明確に理解できていなかったことから判断すると,編者は扁鵲や倉公の時代からかなり後の人か,あるいは扁鵲医学の直系の伝承者ではないと考えられる。例を挙げる。


      七難曰:經言少陽之至,乍小乍大,乍短乍長;陽明之至,浮大而短;太陽之至,洪大而長;太陰之至,緊大而長;少陰之至,緊細而微;厥陰之至,沈短而敦。此六者,是平脈耶?將病脈耶?然:皆王脈也。其氣以何月,各王幾日?然:冬至之後,得甲子少陽王,復得甲子陽明王,復得甲子太陽王,復得甲子太陰王,復得甲子少陰王,復得甲子厥陰王。王各六十日,六六三百六十日,以成一歲。此三陽三陰之王時日大要也。


 この文章は『脈経』巻五・扁鵲陰陽脈法第二に見られるもので,三陰三陽の平脈,すなわち正常な脈象について述べている。しかし,『難経』の編者は明らかにこれを理解できていない。また,扁鵲脈法では,太陽の脈は三月・四月の甲子に旺盛となり,陽明の脈は五月・六月の甲子に旺盛となるが,『難経』の編者はこの二つの脈の順序を逆にしている。三陰三陽と四時陰陽が異なって配当されている背景には,実際上,三陰三陽の本義に対する異なる理解が反映されている。扁鵲医学の枠組みでは,「陽明」は「重陽」と見なされ,陽の盛である。つまり,『霊枢』陰陽系日月における「兩火幷合,故為陽明〔兩火幷合す,故と陽明と為(い)う〕」という意味であり,陽気が最も盛んな夏季と対応している。〔『脈経』卷5〕「扁鵲陰陽脈法」〔第2〕で「脈,平旦曰太陽,日中曰陽明〔脈,平旦を太陽と曰い,日中を陽明と曰う〕」と述べているのは,この観念の表われである。


 経文を解釈する書物として,私的に経文を改変する可能性は低く,『難経』が採用した扁鵲医書は後期の伝本で,その学術思想は早期・中期の扁鵲医学とはかなり異なっていた,という可能性の方が高い。

 伝世医籍に遺された扁鵲医籍の佚文をその問答にある名に基づいてまとめと,以下の四種類の異なる伝本がある。

  (1) 「襄公問扁鵲」伝本――『刪繁方』所伝。

 (2) 「黄帝問扁鵲」伝本――倉公が伝授されたものと『千金翼方』所伝。

 (3) 「雷公問黄帝」伝本――伝世本『素問』『霊枢』所伝。

 (4) 「扁鵲曰」という伝本――『脈経』所伝。

 直接に上述した異なる版本の扁鵲医書を引用した文献には,『脈経』『刪繁方』『千金翼方』『内経』『難経』がある。その中で最も原書を忠実に引用しているのは『脈経』である*。一方で一般に最も知られていないのは『刪繁方』である。この書が六朝時代の方書と最も異なるところは,論説と処方があることである。『黄帝内経』がすでに絶対的な正統的地位を得ていた当時,『刪繁方』の編者は扁鵲医学に特別な愛着を持ち,大量にその文を引用するだけでなく,扁鵲の「六虚」「六極」「六絶」理論を発揚している。扁鵲医学の伝承者と見なしてよい。

    *残念ながら,宋代の林億らが校注をおこなった時に多くの改編がなされたので,引用する際には宋人の校改を経ていない『新雕孫真人千金方』『太平聖恵方』を参照して判断する必要がある。

2024年10月26日土曜日

  扁鵲医籍考 04.3

   2. 扁鵲医学の特徴に基づく判定


 たとえば,扁鵲医学の蔵象学説の特徴に基づいて,伝世本『内経』中には胃を蔵とし,胃を太陰に属させるものや,「陽明」は三陽であって心に属させるものがあるが,これは扁鵲医籍に由来するのみならず,その初期の伝本の旧態を保存している,と我々は判定を下すことができる。

 言い換えれば,伝世本『内経』中のある篇や段落が現わしている理論と実践の特徴が,扁鵲医学の特徴とよく一致したり,そのものずばりであるなら,たとえ他に確定的な傍証がなかろうと,その源が扁鵲医学にあると認定できる。逆に,伝世文献に一文あるいは一段落に「扁鵲曰」とあったとしても,扁鵲医学の全体的な特徴と合わず,さらには矛盾するならば,他の確実な証拠が見つからない限り,それを扁鵲医書の佚文と確定することはできない。

 以上の種々の方法を巧妙に総合的に応用することによって識別された伝世本『内経』の基本構成の中にある扁鵲医学の成分はかなり見るべきものがあるし,異なる時期,異なる伝本間の扁鵲学術の変遷の軌跡も見ることができる。

 しかしながら,特に注意すべきことは,伝世本『内経』が採用した扁鵲医学は,量的には『脈経』を上回っているものの,質的には『脈経』には遠く及ばないことであり,程度の異なる改編が多くある。特にこのような改編は,時に計画的であり,目的があって,新しい理論的な枠組みの中に扁鵲医学という素材を盛り込んでいるような印象を与える。言い換えれば,伝世本『内経』の編者が「扁鵲医籍」という古い酒を扱う際に,単にラベルを変えたり,包装を変えたりするだけでなく,時には瓶自体さえも変えてしまっている。以下に伝世本の『霊枢』五十営篇を例に具体的に分析する。


     黃帝曰:余願聞五十營奈何?岐伯答曰……故人一呼,脈再動,氣行三寸,一吸,脈亦再動,氣行三寸,呼吸定息,氣行六寸。十息氣行六尺,日行二分。二百七十息,氣行十六丈二尺,氣行交通于中,一周于身,下水二刻,日行二十五分。五百四十息,氣行再周于身,下水四刻,日行四十分。二千七百息,氣行十周于身,下水二十刻,日行五宿二十分。一萬三千五百息,氣行五十營于身,水下百刻,日行二十八宿,漏水皆盡,脈終矣。所謂交通者,並行一數也,故五十營備,得盡天地之壽矣,凡行八百一十丈也(『靈樞』五十營)。


 廖育群氏が指摘したように,この篇はすべて扁鵲医籍に由来する(原文は『脈経』巻四診損至脈第五に見られる)が,篇の冒頭には「黄帝」と「岐伯」の問答が冠されている。

 しかし特に注意すべきは,この文章には二つの意味深長な改変があることである。一つは,扁鵲の原文「十二辰」を「二十八宿」に改めたことである――この改変には全く正当な理由がなく,むりやりにこのあとに「二十八脈」を登場させための道を開くためのものである。もう一つは、「五十度」を「五十営」に改めたことである――これは,このあとに「営気」を登場させるために張られた伏線である。この二つの改変は,血脈理論という大変革の合図を示しており,この変革を経て生まれた,環の端無きが如き〔終わることなく循環する〕血脈運行学説やそれから派生した「営衛学説」が,当時の新しい理論の規範となり,絶対的主導的地位を獲得した。

 五十営篇のこの文章には,二つの意味深長な改変以外に,「二百七十息,氣行十六丈二尺」という実質のある追加された文もある。これも重要な情報を示している。『霊枢』脈度にある「脈度」は測定により出されたものではなく,計算づくで出されたものである。計算の基礎は二つの規定された「数」である。一つは脈が一周する長さ「十六丈二尺」であり,もう一つは脈の総数「二十八」であり,天道の「二十八宿」に応じている。要するに,脈の全体数と脈の全体の長さがこの二つの数に合うように工夫されている。つまり,不足するものは補われ,余分なものは取り除かれている。

 このほか,『霊枢』根結が論じている「五十営」の文も同様に扁鵲の脈書から改編されたものである――扁鵲の原文「五十投」★を「五十営」に改めた。

    ★五十投:『脈經』卷4・診脈動止投數疏數死期年月第6および『備急千金要方』卷28・診脈動止投數疏數死期年月第13:「脈來五十投而不止者,五臟皆受氣,即無病也」。

 ここで問わざるを得ないのは,なぜ『霊枢』の編者が「営」という字にこれほどまでに執着し,原文の本来の意味を破壊することさえ厭わなかったのかということであるが,『霊枢』第十六篇「営気」の全文がこの問題に対する答えである。つまり,このような終始循環する血脈運行理論を構築するためには「営気」という重要な概念が必要である。そして,この時になってはじめて営気篇の前の五十営篇,営気篇の後の脈度・営衛生会などの篇が,すべて営気篇のための布石であると理解できる。

 この点を見破ることができないと,これらの数篇を真に理解することはできず,営気が一周循環するのになぜ「二十八脈」が必要なのか,この二十八脈の長さ「十六丈二尺」がどこから来たのかを理解することはできない。

 したがって,伝世本『内経』という新しい理論枠組みを構築するために「裁断」された扁鵲医籍の例には十分な警戒が必要で,特に慎重に他の伝世文献に引用された関連文を参照して,比較判別する必要がある。

 正確に言えば,伝世本『内経』は少数の専門篇以外,多くの篇章は「合編」の方式で編纂されている。――扁鵲の説を主体として,他の学派の説で補充したものもあれば,他の学派の理論を主体として,扁鵲の説で補充したものもある。つまり,後に王叔和が編纂した『脈経』の例と同様に,一つの篇に収められた素材は異なる時期や異なる学派から取られたものである。ただし,王叔和は原文により忠実であり,故意に文字を改変することはなかった。これが両者の最大の違いである。

2024年10月25日金曜日

  扁鵲医籍考 04.2

   1. 確定した扁鵲佚文による判定


     黃帝問扁鵲曰……虛者實之,補虛瀉實,神歸其室,補實瀉虛,神捨其墟,衆邪並進,大命不居(『千金翼方』卷二十五 色脈〔・診氣色法第一〕)。

     瀉虛補實,神去其室,致邪失正,真不可定,粗之所敗,謂之夭命。補虛瀉實,神歸其室,久塞其空,謂之良工(『靈樞』脹論)。

    

 『千金翼方』という確かな証拠を利用して,『霊枢』脹論のこの文章も扁鵲医籍に由来することが確認できる。また,上記の二つの文の内容は同じでも表現が異なることから,両者は扁鵲医書の異なる伝本から引用されたか,または一方が原書の原文を直接引用し,もう一方が原書の原文を改編したのかもしれない。


     夫癰疽之生,膿血之成也,不從天下,不從地出,積微之所生也。故聖人自治於未有形也;愚者遭其已成也(『靈樞』玉版)。

     扁鵲攻於腠理,絕邪氣故癰疽不得成形。聖人從事於未然,故亂原無由生。是以砭石藏而不施,法令設而不用。斷已然,鑿己發者,凡人也。治末〔一本は「未」に作る〕形,睹未萌者,君子也(『鹽鐵論』大論)。


 『塩鉄論』の確かな標識〔=扁鵲〕を利用すれば,玉版篇のこの文章がたとえ扁鵲医書の原文を直接収録したものではないとしても,扁鵲医学の学術思想を伝承していることは間違いと判断できる。さらに他の証拠が参照できれば,より確かな判断を下すことができる。


     其腹大脹,四末清,脫形,泄甚,是一逆也;腹脹便血,其脈大,時絕,是二逆也;咳溲血,形肉脫,脈搏,是三逆也;嘔血,胸滿引背,脈小而疾,是四逆也;咳嘔腹脹,且飧泄,其脈絕,是五逆也。如是者,不及一時而死矣。工不察此者而刺之,是謂逆治(『靈樞』玉版)。

     診人心腹積聚……其脈大,腹大脹,四肢逆冷,其人脈形長者,死。腹脹滿,便血,脈大時絕,極下血,脈小疾者,死……咳而嘔,腹脹且泄,其脈弦急欲絕者,死(『脈經』卷四·診百病死生訣第七)。


 『脈経』に引用された扁鵲の死生を決する診法という確かな証拠を加えると,玉版篇の主体となる部分が扁鵲医書から採られたものであると安心して判定できる。

 確定した扁鵲の佚文に基づくことにより,『内経』が伝承した扁鵲医籍を判定できるだけでなく,それと同時にその引用方法についても考察できる。前述したように,『素問』五蔵生成篇の主体となる部分は扁鵲医籍から採られたものである。以下に五蔵生成篇の最後の二段の文章を引用してみる。


     赤脈之至也,喘而堅,診曰有積氣在中,時害於食,名曰心痹,得之外疾,思慮而心虛,故邪從之。白脈之至也,喘而浮,上虛下實,驚,有積氣在胸中,喘而虛,名曰肺痹,寒熱,得之醉而使內也。青脈之至也,長而左右彈,有積氣在心下支胠,名曰肝痹,得之寒濕,與疝同法,腰痛足清頭痛。黃脈之至也,大而虛,有積氣在腹中,有厥氣,名曰厥疝,女子同法,得之疾使四肢汗出當風。黑脈之至也,上堅而大,有積氣在小腹與陰,名曰腎痹,得之沐浴清水而臥。

     凡相五色之奇脈,面黃目青,面黃目赤,面黃目白,面黃目黑者,皆不死也。面青目赤,面赤目白,面青目黑,面黑目白,面赤目青,皆死也。

                           ――『素問』五藏生成


 ここでの脈診と色診はみな五色と関連しており,倉公が伝授された「五色診病」とすこぶる合致している。また,第一段の文章の形式構造と内容の大意は,みな『史記』扁鵲倉公列伝に引用されている「脈法曰」や『脈経』巻六の五蔵脈とよく対応しているが,文字にはかなりの改変が見られ,扁鵲の脈書の原文を直接録したものではないか,少なくとも初期の伝本から録したものではないようである。しかし,第二段の文章は『脈経』に収録されている「扁鵲華佗察声色要訣」と完全に一致しており,同一伝本から収録され,かつ原文を直接収録したものである。関連する文は,『千金要方』『千金翼方』に引用されている異なる伝本の扁鵲医籍にも見られる。


2024年10月24日木曜日

  扁鵲医籍考 04.1

   (四)『素問』『霊枢』

  

 伝世本『黄帝内経』は扁鵲の医学論文を大量に採用している。『史記』扁鵲倉公列伝という確定された「座標」をもととして,それに『脈経』や『千金要方』『千金翼方』の引用文に関する最新の発見を加えることで,伝世本『内経』の基本構成に含まれる扁鵲医学という構成要素について,より正確な判断が可能となる。以下,『素問』刺瘧から説き起こす。


     足太陽之瘧,令人腰痛頭重,寒從背起,先寒後熱,熇熇暍暍然。熱止汗出,難已,刺郄中出血。足少陽之瘧,令人身體解㑊,寒不甚,熱不甚,惡見人,見人心惕惕然,熱多汗出甚,刺足少陽。足陽明之瘧,令人先寒,洒淅洒淅,寒甚久乃熱,熱去汗出,喜見日月光火氣乃快然,刺足陽明跗上。足太陰之瘧,令人不樂,好大息,不嗜食,多寒熱汗出,病至則善嘔,嘔已乃衰,即取之。足少陰之瘧,令人嘔吐甚,多寒熱,熱多寒少,欲閉戶牖而處,其病難已。足厥陰之瘧,令人腰痛少腹滿,小便不利如癃狀,非癃也,數便,意恐懼氣不足,腹中悒悒,刺足厥陰。

     肺瘧者,令人心寒,寒甚熱,熱間善驚,如有所見者,刺手太陰陽明。心瘧者,令人煩心甚,欲得清水,反寒多,不甚熱,刺手少陰。肝瘧者,令人色蒼蒼然,太息,其狀若死者,刺足厥陰見血。脾瘧者,令人寒,腹中痛,熱則腸中鳴,鳴已汗出,刺足太陰。腎瘧者,令人洒洒然,腰脊痛宛轉,大便難,目眴眴然,手足寒,刺足太陽少陰。胃瘧者,令人且病也,善飢而不能食,食而支滿腹大,刺足陽明太陰橫脈出血。

     瘧發身方熱,刺跗上動脈,開其空,出其血,立寒。瘧方欲寒,刺手陽明太陰、足陽明太陰。瘧脈滿大,急刺背俞,用中鍼旁伍膚俞各一,適肥瘦出其血也。瘧脈小實,急灸脛少陰,刺指井。瘧脈滿大,急刺背俞,用五俞背俞各一,適行至於血也。瘧脈緩大虛,便宜用藥,不宜用鍼…… 

                      ――『素問』刺瘧


 以上の『素問』刺瘧篇における五蔵および胃の瘧病の症状に関する記述は,『千金要方』の五蔵の脈論と,巻十の対応する方薬の主治症にそれぞれ見られる。紙幅を節約するため,以下では「肝瘧」のみを例として取り上げ,『千金要方』の異なる伝本の異なる巻からの引用文を抄録する。


     襄公問扁鵲曰……肝病為瘧者,其人色蒼蒼然,氣息喘悶,戰掉然狀如死人(方在傷寒下卷中)(『新雕孫真人千金方』卷十一)。

     與梅丸治肝邪熱為瘧,令人顏色蒼蒼,氣息喘悶,戰掉狀如死者(『千金要方』卷十・傷寒下)。

     肝病為瘧者,令人色蒼蒼然,太息,其狀若死者,烏梅丸主之(方在第十卷中)(『千金要方』卷十一〔・肝臟〕)。

     肝病為瘧者,令人色蒼蒼然,氣息喘悶,戰掉,狀如死者(『諸病源候論』卷十一・瘧病候》)。


 説明しなければならない点が二つある。第一に,上記の『千金要方』に引用された扁鵲の文は『刪繁方』から孫引きされたものである。『刪繁方』には論説と処方がある。そのため,孫思邈はそれぞれ巻十一の「肝臓脈論」と巻十の「傷寒方の下」に分けて重複して収録している。一方,『諸病源候論』には方薬が一切収録されていないため,病候の下にのみこの条文を収録し,出典を示していない。

 第二に,宋臣が『千金要方』を校訂した際,巻十一の「肝瘧」の病候については『素問』刺瘧に基づいて改編された。そのため,宋人が校勘した医籍に由来する扁鵲医籍の佚文を考察する際には,宋人による改編の可能性に注意し,このような後人による改編によってもたらされた歪みを取り除く方法を模索する必要がある。

 上記の扁鵲が五臓および胃瘧を論じた佚文を見つけたことで,我々は『素問』刺瘧の著作権が扁鵲学派に帰属すると推断できる。さらに調査を進めると,この篇に反映されている診療の特徴,たとえば鍼刺の道具や鍼刺の部位とその命名・刺法・蔵象学説などが,みな扁鵲医学の典型的な特徴と逐一合致していることが確認され,これによってこの判断が裏づけられた。

 この発見の重要な意義は,単に『素問』刺瘧篇の校訂に貴重な他校文献を提供するだけでなく,さらに重要なことは,経脈の「是動」病,特に足陽明脈の「是動」病に対する全く新しい理解をもたらすことであり,また,経脈学説と扁鵲医学の「血縁」関係に対する重要な傍証を提供したことである。

 『霊枢』の「五十営」*や『素問』の「大奇論」が扁鵲医書を丸ごと採用したものである**との説を唱えた学者がすでにいたが,筆者の最近の研究によって,『霊枢』五色と,『素問』の玉版〔論〕要篇と刺瘧篇,および全元起本『素問』巻六の「四時刺逆従論」(王冰注本『素問』四時刺逆従論の第一節「厥陰有余」から「筋急目痛」までの一段の文字に相当する)も全て扁鵲に由来することが明らかになった。

    *廖育群. 重构秦汉医学图像 [M]. 上海:上海交通大学出版社,2012:176. 

    **廖育群. 岐黄医道 [M]. 沈阳:辽宁教育出版社,1991:66. 


 このほか,『霊枢』の根結・癲狂・寒熱病・論疾診尺,『素問』の金匱真言論・五蔵生成・移精変気論・湯液醪醴論・脈要精微論・玉機真蔵論・三部九候論・厥論,および三篇の別論――陰陽別論・五蔵別論・経脈別論――は,いずれも非常にはっきりとした扁鵲医学の特徴を帯びていて,しかも全段の文が『史記』扁鵲倉公列伝と『脈経』『千金翼方』が引用した扁鵲の文にすでに見られる。このことから,伝世本『素問』『霊枢』のこれらの十五篇は,すべてではないとしても,少なくとも主体となる部分は,扁鵲医書から収録したことがわかる。

 特に指摘しなければならないのは,『素問』*の「著至教論」「示従容論」「疏五過論」「徴四失論」「陰陽類論」「方盛衰論」「解精微論」の七篇が『史記』扁鵲倉公列伝に頻出する脈診の用語と関連書名があり,これが扁鵲医学と密接な関係があることをみな示していることである。

    * 正確に言えば,ここでは〔王冰・宋臣による〕改編を経ていない六朝時代の全元起本『素問』を基準とすべきである。


     雷公曰:臣請誦『脈經』上下篇甚衆多矣,別異比類,猶未能以十全,又安足以明之(『素問』示從容論)。

     診病不審,是謂失常,謹守此治,專經相明,『上經』・『下經』,『揆度』『陰陽』,『奇恒』五中,決以明堂,審於終始,可以橫行(『素問』疏五過論)。

     聖人之術,為萬民式,論裁志意,必有法則,循經守數,按循醫事……守數據治,無失俞理,能行此術,終身不殆(『素問』疏五過論)。


 『史記』の太史公自序では,扁鵲医学の特徴を「守數精明〔數を守ること精明〕」と表現している。今日でもなお『史記』扁鵲倉公列伝と『脈経』に引用されている扁鵲方脈から,その「定量化診療」の鮮明な特徴を感じ取ることができる。そして『疏五過論』に用いられている「循經守數〔經に循い數を守る〕」「守數據治〔數を守り治に據(よ)る〕」は,太史公の表現と軌を一にしていながら,さらに明確な言葉が使われており,これが「聖人の術」であると強調されている。これも倉公の表現と合致して,扁鵲医学に精通していなければこのような本質に触れるまとめをすることは不可能である。

 この七篇が『素問』において特別なところはまだある。それは「黄帝と雷公の問答」の形式で記述されている点である。さらに『霊枢』における「黄帝と雷公の問答」の形式で記述された経脈・禁服・五色篇と関連付けると,後の二篇が隣接していて,第十篇である経脈篇が禁服篇の文を明確に引用していることから,三者間の内在的な関連性が現われている。特に五色篇は,学術思想や望色の術が『千金要方』『千金翼方』に引用されている扁鵲の色診と伝承関係にあるだけでなく,五色篇の「黄帝と雷公の問答」の文は,『千金要方』に引用されている「襄公と扁鵲の問答」の伝本をほとんど複製したものである。


     雷公曰:病小愈而卒死者,何以知之?黃帝曰:赤色出兩,大如拇指者,病雖小愈必卒死。黑色出于庭,大如拇指,必不病而卒死(『靈樞』五色)。

     問曰:心病少愈而卒死,何以知之?答曰:赤黑色黯點如博棋,見顏度、年上(在鼻上當兩眼是其分部位也),此必卒死……若年上無應,三年之中病必死矣。(『千金要方』卷十三引「襄公・扁鵲問答」) 

     雷公問曰:病少愈而卒死者,何以知之?黃帝曰:赤色出於兩顴上,大如拇指者,病雖少愈必卒死矣。黑色出於顏貌,大如拇指者,必卒死。顏貌者,面之首也。(顏當兩目下也,貌當兩目上、眉下也。)

     凡天中發黑色,兩顴上發赤色應之者,不出六十日兵死。若年上發赤色應之者,不出三十日死……黑色如拇指在眉上,不出一年暴死。一云三年(『千金翼方』卷二十五・色脈)。

     病人耳目及顴頰赤者,死在五日中。病人黑色出於額,上髮際,下直鼻脊,兩顴上者,亦死在五日中。病人黑氣出天中,下至年上顴上者,死(『脈經』卷五・扁鵲華佗察聲色要訣第四)。

    

 『霊枢』五色篇の「雷公と黄帝の問答」文は,『千金要方』が孫引きした「襄公問扁鵲」伝本の構造と正確に対応しており,かつ後者から改編された痕跡が以上から明らかに見てとれる。

 まず語句からみると,扁鵲の原書の一文を二文に分割し,「赤黑」を「赤」と「黑」に分け,「年上」を「庭」に改めている。――五色篇の冒頭では「庭者,顏也〔庭とは,顏(ひたい)なり〕」と解釈されている。『甲乙経』巻一第十五を調べてみると「黑色出于顏」に作り,『千金翼方』が引用する五色篇の文では「顏貌」に作る。その注によれば,「年上」「庭」「顏貌」の三語の指しているところは近いので,このように文字を変えても原書の本来の意味は失われない。しかし,原書の一文を単純に二文に分割しながらそれに応ずる処置をしなければ,原書の本来の意味から逸脱してしまう。

 『千金要方』が孫引きした「襄公問扁鵲」伝本が示す本来の意味は,赤と黒が顔面と眉間に同時に現われる者は必ず卒死〔急死〕し,一方にのみ現われ,もう一方には応〔反応〕がない場合は,死ぬとはいえ,「三年」の期がある,ということである。――『千金翼方』が基づいた「黄帝問扁鵲」伝本では「一年」に作り,『千金翼方』『脈経』が引用した異なる伝本の扁鵲医籍には継承関係があるが,五色篇の編者による改編を経た後の文は,この意味が全く反映されていない。

 孫思邈は『千金翼方』巻二十五「診気色法第一」を編纂する際に,五色篇のこの条文が扁鵲の文と形は似ているが意味が異なることに気づいたため,両方の文章を掲出したのである。

 五色篇の改編例から,我々はもう一つの別の結論が得られる。『千金要方』が引用した「襄公問扁鵲」伝本は,遅くとも『霊枢』五色篇が編纂された時にはすでに広く伝わっていたということである。

 五色篇に引用された扁鵲の文のもう一つの明らかな改編例は,「以五色命藏,青為肝,赤為心,白為肺,黃為脾,黑為腎」である。扁鵲医学の五臓系統は,肝・心・肺・胃・腎である。学術史研究によれば,蔵象学説において「脾」が「胃」の位置に取って代わるまでには,「脾胃」が共存する過渡期*があった。これには二つの可能性がある。

 第一に,五色篇の編者が当時の新しい理論の枠組みに基づいて引用した扁鵲の脈書の文に調整を加え,当時の主流であった医学理論と矛盾しないようにしたこと。第二に,五色篇の編者が扁鵲医籍の後期の伝本を採用し,その時期には扁鵲医学の蔵象学説がすでに変化していたことである。


  * 黄龙祥.中国针灸学术史大纲 [M]. 北京:华夏出版社,2001:398.

 

 さらに他のさまざまな証拠を総合することによって,深く隠された重大な謎を明らかにすることができた。たとえば,伝世本『内経』に見られる「雷公と黄帝の問答」篇の「雷公」を「襄公」に,「黄帝」を「扁鵲」に改めると,その奥に潜んでいる扁鵲医籍の輪郭の大筋が浮かび上がる。

 また,以下の方法によって伝世本『内経』からさらに多くの扁鵲医籍のテキストや学術思想を識別することができる。


2024年10月23日水曜日

  扁鵲医籍考 03

   (三)孫思邈『千金翼方』


 『千金翼方』〔巻25〕色脈には大量に扁鵲の脈書の文が収録されており,その大部分は『脈経』からの孫引きである。しかし,第一篇の「診気色法第一」に引用された「扁鵲曰」の長い文章は,『脈経』の引用とは同一の伝本を出自とするものではなく,『刪繁方』からの孫引きとも思えないので,扁鵲医学の研究において非常に高い文献としての価値があり,『脈経』と『内経』に引用された扁鵲医籍の佚文と相互に証拠とし合い、解釈し合うことで,いくつかの難問を解決する上で重要な役割を果たすことができる。


       扁鵲云:病人本色青,欲如青玉之澤,有光潤者佳,面色不欲如青藍之色。若面白目青是謂亂常,以飲酒過多當風,邪風入肺絡於膽,膽氣妄洩,故令目青。雖云天救,不可復生矣。

      病人本色赤,欲如雞冠之澤,有光潤者佳,面色不欲赤如赭土。若面赤目白,憂恚思慮,心氣內索,面色反好,急求棺槨,不過十日死。

      病人本色黃,欲如牛黃之澤,有光潤者佳,面色不欲黃如竈中黃土。若面青目黃者,五日死。病人著床,心痛氣短,脾竭內傷,百日復愈,欲起徬徨,因坐於地,其亡倚床。能治此者,是謂神良。

      病人本色白,欲如璧玉之澤,有光潤者佳,面色不欲白如堊。若面白目黑無復生理也。此謂酣飲過度,榮華已去,血脈已盡。雖遇歧伯,無如之何。

      病人本色黑,欲如重漆之澤,有光潤者佳,面色不欲黑如炭。若面黑目白,八日死,腎氣內傷也。

      病人色青如翠羽者生,青如草滋者死。

      赤如雞冠者生,赤如壞血者死。

      黃如蟹腹者生,黃如枳實者死。

     白如豕膏者生,白如枯骨者死。

      黑如烏羽者生,黑如炲煤者死。

      凡相五色,面黃目青,面黃目赤,面黃目白,面黃目黑,皆不死。

      病人目無精光及齒黑者,不治。  

      病人面失精光,如土色,不飲食者,四日死。

      病人及健人面色忽如馬肝,望之如青,近之如黑,必卒死。

      扁鵲曰:察病氣色,有赤白青黑四氣,不問大小,在人年上者,病也,惟黃氣得愈。年上在鼻上兩目間。如下黑氣細如繩在四墓發及兩顴骨上者,死。或冬三月遠期至壬癸日,逢年衰者不可理,病者死。四墓當兩眉坐直上至髮際,左為父墓,右為母墓,從口吻下極頤名為下墓,於此四墓上觀四時氣。

      春見青氣節盡,死。

      夏見赤氣節盡,死。

      夏秋見白氣節盡,死。

      春見白氣至秋,死。

      夏見白氣,暴死,黑氣至冬,死。

      秋見赤氣節盡,死,冬至後甲子日,死。

      冬見赤氣,暴死,見黃氣至長夏,死。

      ……

      黃帝問扁鵲曰:人久有病,何以別生死,願聞其要。對曰:按明堂察色,有十部之氣,知在何部,察四時五行王相,觀其勝負之變色,入門戶為兇,不入為吉。白色見衝眉上者,肺有病,入闕庭者,夏死。黃色見鼻上者,脾有病,入口者,春夏死。青色見人中者,肝有病,入目者,秋死。黑色見顴上者,腎有病,入耳者,六月死。赤色見頤者,心有病,入口者冬死。所謂門戶者:闕庭,肺門戶;目,肝門戶;耳,腎門戶;口,心脾門戶。若有色氣入者,皆死。黃帝曰:善。

      問曰:病而輒死,甚可傷也,寧可拯乎?對曰:藏實則府虛,府實則藏虛。以明堂視面色,以針寫調之,百病即愈。鼻孔呼吸,氣有出入,出為陽,入為陰;陽為府,陰為藏;陽為衛,陰為榮。故曰:人一日一夜一萬三千五百息,脈行五十周於其身,漏下二刻,榮衛之氣行度亦周身也。

      夫面青者虛,虛者實之,補虛寫實,神歸其室,補實寫虛,神舍〔元版作「捨」〕其墟,衆邪並進,大命不居。黃帝日:善。

      五實(未見)

      六虛者,皮虛則熱,脈虛則驚,肉虛則重,骨虛則痛,腸虛則洩溏,髓虛則墯。

                      ――『千金翼方』卷二十五・色脈

 以上に引用した「扁鵲曰わく」の文の多くは,『脈経』と『霊枢』五色に対応する条文を見つけることができるが,明らかに出自を異にする伝本によるものである。たとえば,最初の引用文は,『脈経』『千金要方』に引用された扁鵲医籍に三つの対応文を見つけることができる:


 病人面黃目青者,九日必死,是謂亂經。飲酒當風,邪入胃經,膽氣妄洩,目則為青,雖有天救,不可復生(『脈經』卷五・扁鵲華佗察聲色要訣第四と『千金要方』卷二十八・扁鵲華佗察聲色要訣第十)。

(扁鵲曰:)面白目青,是謂亂經。飲酒當風,風入肺經,膽氣妄洩,目則為青,雖有天救,不可復生(『千金要方』卷十七・肺藏脈論)。


  これから『脈経』巻五と『千金要方』巻二十八は同一の伝本から引用されているが,『千金翼方』と『千金要方』巻十七は異なる伝本から引用されていることが,明らかに見てとれる。この条文に関して言えば,後者の伝本の方が扁鵲の原書の旧態に近い。調べたところ,以上の三書はすべて扁鵲の文「病人面黃目青者,不死」を引用しているが,『脈経』と『千金要方』巻二十八ではこの条文を引用しながら,「病人面黃目青者,九日必死」ともあり,明らかに誤りがある。


 特に注意すべきは,上記の『千金翼方』に引用された扁鵲医籍には「黃帝問扁鵲曰」という文が明確に記されていて,前にみた『千金要方』が『刪繁方』から孫引きした扁鵲の五色診における「襄公問扁鵲曰」とは明らかに異なることである。古い書籍が伝承される過程で変遷するパターンからすると,問答にあらわれる姓名が異なることは,伝本を鑑別する重要な情報の一つとなることがしばしばである。さらに,『史記』扁鵲倉公列伝にある「黃帝扁鵲之脈書」という文言に関連づけると,倉公が伝授された書も「黃帝問扁鵲曰」という問答方式であった可能性が高い。ここまで来れば,扁鵲医籍には少なくとも二つの異なる伝本があったことがわかる。

 次に,異なる伝本の変遷と年代の前後についてもさらに検討する。

 『千金翼方』に引用された扁鵲医籍について,特筆すべきは以下の二点である。

 第一に,扁鵲医学には「六絶」「六極」*の学説があることが知られているが,『千金翼方』の引用文には「六虚」**も現われる。これにより六体の「虚」「極」「絶」という三つの深さが異なる発展段階が完全に揃ったことになる。そのうえ,「六虚」に含まれる「皮」「脈」「肉」「骨」「腸」「髄」は,『史記』扁鵲倉公列伝で扁鵲が言及した疾病が伝変する順序***と正確に対応している。異なる点は,「六虚」説では「骨髄」を二つに分けていることで,これは「六」という数を意図的に合わせようとしたように見える。

    *『備急千金要方』卷十九・補腎第八:「六極者,一曰氣極,二曰血極,三曰筋極,四曰骨極,五曰髓極,六曰精極」。

    **『千金翼方』卷第二十五 色脈・診氣色法第一:「六虛者,皮虛則熱,脈虛則驚,肉虛則重,骨虛則痛,腸虛則泄溏,髓虛則惰」。

    ***『史記』扁鵲倉公列傳:「疾之居腠理也,湯熨之所及也;在血脈,鍼石之所及也;其在腸胃,酒醪之所及也;其在骨髓,雖司命無柰之何」。

    

 第二に,「虛を補い實を瀉す」という治療原則が明確に言及されている。この治療原則については,早くは張家山から出土した漢簡『脈書』に関連する記述が見られるが,『霊枢』経脈から伝承された「盛則瀉之,虛則補之,不盛不虛,以經取之」という名言の著作権が扁鵲学派に帰属することは,これまで認識されてこなかった。

 『千金翼方』巻二十五の第一篇「診気色法」の構成を見ると,『霊枢』五色や仲景書から引用された数条を除き,すべて扁鵲医籍から収録されている。さらに,下文においてこの篇に引用された『五色』の文も確実に扁鵲医籍に由来することを論証するが,これによって,五色診は扁鵲医学の「特許」であるという基本的な判断が得られる。


2024年10月22日火曜日

  扁鵲医籍考 02

   (二)謝士泰『刪繁方』

    

  図15 范行準輯本『刪繁方』

〔「巻1 序例・薬品・傷寒」の部分。略す。/南北朝・謝士泰 撰『刪繁方』,范行準輯佚,全漢三國六朝唐宋方書輯稿,中醫古籍出版社,2019年〕

    

 扁鵲の脈書の佚文を研究する上でかけがえのない価値を持つもう一つの文献は,六朝時代の謝士泰による『刪繁方』(図15を参照)である。この書は失われたが,唐代の『千金要方』『外台秘要方』,特に前者がこの書の内容を大量に引用している。初歩的調査によれば,『千金要方』に引用されている大量の扁鵲医書の佚文は,『脈経』からの孫引きを除き,その他は『刪繁方』から孫引きしたものである。後者は扁鵲の脈学を理解するための重要な情報を提供しており,これらの情報を利用することで,これまで我々が扁鵲の脈学を研究する中で遭遇した困惑の多くが容易に解決されるようになった。たとえば,扁鵲の診断の特技である「望色」「聴声」「写形」については,『史記』扁鵲倉公列伝に見られるが,『脈経』巻五に収められた「扁鵲脈法」にも「相病之法,視色聽聲,觀病之所在〔病を相(み)るの法は,色を視て聲を聽き,病の在る所を觀る〕」と明言されている。しかしながら,その診断方法がどのように操作され,どのように応用されるかは誰も知らず,伝説となってしまった。一方,『千金要方』は扁鵲医学における五臓の「色を望み」「声を聴き」「形を写す」ことに関するきわめて詳細な記述を『刪繁方』から引用している。引用された五篇の文章構造は同じであり,引用文の注記には詳細・簡略という違いが見られるが,一篇全体の文章から直接抜粋したものであることがわかる(図16を参照)。


図16 『千金要方』が孫引きした『刪繁方』〔図,省略。正しくは,「『新彫孫真人千金方』が孫引きした『刪繁方』」,である〕


 以下は,宋人の校改を経ていない『新彫孫真人千金方』巻十一「肝蔵脈論」が引用する第一篇〔『備急千金要方』巻11・肝蔵脈論第一〕の関連文である。


襄公問扁鵲曰:吾欲不脈,察其音,觀其聲,知其病生死,可得聞乎?答曰:乃道大要,師所不傳,黃帝貴之,過於金玉。入門見病,觀其色、聞其聲呼吸,則知往來出入,吉兇之相。角音人者,肝聲也,其聲呼,其音琴,其志怒,其經足厥陰。逆足少陽則榮衛不通,陰陽反祚,陰氣外傷,陽氣內擊,擊則瘧,瘧則卒然喑啞不聲,此為厲風入肝,踞坐不得,面目青黑,四肢緩弱,遺矢便利,甚則不可治,大者旬月之內(方在治風毒方下卷)。又呼而哭,哭而反吟,此為金克木,陰擊陽,陰氣起而陽氣伏,伏則實,實則熱,熱則喘,喘則逆,逆則悶,悶則恐畏,目視不明,語聲切急,謬說有人,此為邪熱傷肝,甚則不可治。〔襄公 扁鵲に問うて曰わく:吾れ脈せずして,其の音を察し,其の聲を觀て,其の病の生死を知らんと欲す,聞く得可きか?答えて曰わく:乃ち大要を道(おさ)め,師の傳えざる所,黃帝 之を貴ぶこと,金玉に過ぎたり。門に入って病を見,其の色を觀、其の聲呼吸を聞かば,則ち往來出入,吉兇の相を知る。角音の人は,肝の聲なり,其の聲は呼,其の音は琴,其の志は怒,其の經は足厥陰。足少陽を逆すれば則ち榮衛通ぜず,陰陽反祚し,陰氣 外に傷(やぶ)れ,陽氣 內に擊(せ)む,擊むれば則ち瘧す,瘧すれば則ち卒然として喑啞して聲せず,此れを厲風 肝に入ると為す,踞坐すること得ず,面目青黑く,四肢緩弱し,遺矢便利し,甚だしければ則ち治す可からず,大なる者は旬月の內なり(方は治風毒方下卷に在り)。又た呼して哭し,哭して反して吟す,此れを金 木に克つと為す,陰 陽を擊(せ)む,陰氣起って陽氣伏す,伏せば則ち實す,實すれば則ち熱す,熱すれば則ち喘ぐ,喘げば則ち逆す,逆すれば則ち悶ゆ,悶えれば則ち恐畏し,目視 明らかならず,語聲 切急し,謬說 人に有り,此れを邪熱 肝を傷(やぶ)ると為す,甚だしければ則ち治す可からず。〕

    

 又云:若脣色雖青,面(而)眼不應可治。肝病為瘧者,其人面色蒼蒼然,氣息喘悶,戰掉然狀如死人(方在傷寒下卷中)。若人本來少作悲恚,忽爾嗔怒者,反常、乍寬乍急,言未竟以手向眼,如有所思,若不即病,禍即至矣,此肝聲之證也。其人若虛,則為寒風所傷;若實,則為熱氣所損。陽則瀉之,陰則補之。〔又た云う:若(も)し脣色 青しと雖も,(而れども)眼應ぜざれば治す可し。肝病んで瘧を為す者は,其の人面色 蒼蒼然として,氣息喘悶し,戰掉然として狀(すがた) 死人の如し(方は傷寒下卷中に在り)。若し人本來少(わか)くして悲恚を作(な)し,忽爾として嗔怒する者は,常に反し、乍(たちま)ち寬乍ち急し,言未だ竟(お)えずして手を以て眼に向け,思う所有るが如し,若し即(ただ)ちに病ざれば,禍即ちに至る,此れ肝聲の證なり。其の人若し虛せば,則ち寒風の傷る所と為る。若し實せば,則ち熱氣の損する所と為る。陽は則ち之を瀉し,陰は則ち之を補う。〕

    

凡人分部陷起者,必有病生。膽少陽為肝之部,而藏氣通於內外,部亦隨而應之。沈濁為內,浮清為外,若色從外走內者,病從外生,部處起;若色從內出外者,病從內生,部處陷。內病前治陰後治陽,外病前治陽後治陰。陽主外,陰主內,凡人死生休否,則臟神前變形於外,人肝前病,目則為之無色,若肝前死,目則為之脫精,若天中等分,墓色應之,必死不治。看應增損斟酌賒促,賒則不出四百日內,促則不延旬月之間,肝病少愈而卒死。何以知之?曰:青白色如拇指大黡點見顏頰上,此必卒死。肝絕八日死,何以知之?面青目赤,但欲伏眠,視而不見人,汗出如水不止(一曰二日死)。面黑目青者不死,青如草滋死,吉兇之色在於分部。順順而見,青白入目必病,不出其年,若年上不應,三年之中,禍必應也〔凡そ人の分部 陷起する者は,必ず病の生ずること有り。膽少陽は肝の部為(た)り,而して藏氣は內外に通ず,部も亦た隨って之に應ず。沈濁を內と為し,浮清を外と為す,若(も)し色 外從(よ)り內に走る者は,病 外從(よ)り生じ,部處 起こる。若し色 內從(よ)り外に出づる者は,病 內從(よ)り生じ,部處 陷る。內の病は前(さき)に陰を治し後に陽を治す,外の病は前に陽を治し後に陰を治す。陽は外を主り,陰は內を主る,凡そ人の死生休否は,則ち臟神前(さき)に變じて外に形(あら)わる,人の肝前(さき)に病めば,目は則ち之が為に色無し,若し肝前(さき)に死せば,目は則ち之が為に精を脫す,若し天中等分なれば,墓色 之に應ず,必ず死せば治せず。看て應(まさ)に增損して賒促を斟酌すべし,賒(とお)ければ則ち四百日の內を出でず,促(ちか)ければ則ち旬月の間に延びず,肝病んで少しく愈えて卒(にわ)かに死す。何を以て之を知る?曰わく:青白き色の拇指大の如き黡〔=黶(ほくろ・あざ)〕點 顏頰の上に見(あら)わるれば,此れ必ず卒かに死す。肝絕ゆれば八日にして死するは,何を以て之を知る?面(おもて)青く目赤し,但だ伏して眠(ねむ)り,視れども人に見(あ)わざらんと欲し,汗出づること水の如く止まらざるは(一曰二日にて死す)。面黑く目青き者は死せず,青きこと草滋の如きは死す,吉兇の色は分部に在り。順順として見(あら)われ,青白 目に入れば必ず病み,其の年を出でず,若し年上って應ぜざれば,三年の中,禍い必ず應ずるなり〕*。

 

  * この段落のテキストは,『新雕孫真人千金方』では欠けているので,宋校本『千金要方』から補録した。

 上述した三つ段落と形式構造が完全に同じテキストは,『千金要方』の巻十一「肝蔵脈論」篇,巻十三「心蔵脈論」篇,巻十五「脾蔵脈論」篇,巻十七「肺蔵脈論」篇,巻十九「腎蔵脈論」篇にも現われるが,「襄公問扁鵲曰」は最初の引用時にのみ現われ,他の四つの蔵脈論の引用文には「問曰」「答曰」または「扁鵲曰」とだけ記されている。これは,この五篇の文が扁鵲の脈書の中で一つのまとまったものであり,「襄公問扁鵲曰」は篇の冒頭にのみ現われ,他の各段落では繰り返されてないことを示している。孫思邈が各篇に切り取って引用したときも元のままで切り貼りしたので,引用した姓名は繰り返されて出されなかったのである。

 以下,この一連の引用文だけで扁鵲の脈書の佚文研究において,どのような難題が解決できるかを見てみよう。

 第一に,『脈経』〔巻4〕診五臓六腑気絶証候第三と相互に証拠とし校勘する。

 第二に,『脈経』〔巻5〕扁鵲華佗察声色要訣第四と相互に証拠とし校勘し,両者がそれぞれ異なる伝本の扁鵲の脈書から引用されていることが確定できる。

 第三に,『霊枢』五色と相互に証拠として解釈する。たとえば「五色之見也,各出其色部。部骨陷者,必不免於病矣〔五色の見(あら)わるるや,各々其の色部に出づ。部骨の陷る者は,必ず病を免れず〕」、「沈濁為內,浮澤為外〔沈濁を內と為し,浮澤を外と為す〕」などの珍しい言い方と用語は,いずれも上述の扁鵲医学書の佚文を利用して正しい理解を得ることができる。それと同時に判断できるのは,少なくとも『霊枢』五色篇の一部の内容が『千金要方』に引用された「襄公問扁鵲曰」と同じ伝本の扁鵲医書を基に改編されたものであるということである。例は下文で詳しく述べる。

 第四に,伝世本『内経』中に異なる形式で伝承された扁鵲医籍を判定するための重要な傍証を提供する。

 第五に,『千金翼方』巻二十五・診気色法第一と相互に啓発するところがある。

 このように,時には一つの重要な証拠を発見し,それを他の証拠とつなぎ合わせることで,明確な方向性と完全な意味を持つ証拠の連鎖を形成することができる。それによって,これまでに収集された扁鵲医書の佚文の断片を正しく繋ぎ合わせて,比較的完全な画面を形成することができる。これによって,以前『霊枢』五色を読んで抱いていた様々な疑問がみな氷解するだけでなく,同時に『霊枢』五色がたとえ倉公が当時伝授された『五色』の全文を収録したものではないとしても,少なくともこの篇を主体として改編されたものであるとさらに確信するようになった。考証は下文を参照。


2024年10月21日月曜日

  扁鵲医籍考 01

  黄龍祥『鍼灸典籍考』北京科学技術出版社,2017年より

  若干,改行を増やした。*は原注。〔〕内と★は訳者による。


 「扁鵲医籍」とは,時代を異にする扁鵲医学の伝承者が編纂した医学書のまとまりを指す。すなわち一つの流派の書ではあるが,一人が著わした書ではなく,ましてや扁鵲本人が自ら編纂した医学書ではない。

  筆者の現在の研究によれば,扁鵲学派の宗師は秦越人――扁鵲である。その影響を受けた伝承者には,漢代の淳于意と華佗,六朝の謝士泰がいるが,扁鵲の医籍を伝え広めるのに顕著な貢献をした人物は晋代の王叔和である。

 「扁鵲医籍」には脈書・方書・薬論・明堂の四種類が含まれる。その中で「明堂」類医籍の出現は比較的遅い。以上の四種類の扁鵲医籍の原書はみな後代に伝わらなかった。しかし分量にばらつきがあるが,それぞれ佚文が残っている。倉公が当時伝授された扁鵲の『脈書』上下経 (篇) の主要な内容は王叔和の『脈経』に輯録され,また伝世本『黄帝内経』に異なる形式で伝承された。その晩期の伝本の内容の一部は『難経』に伝存する。『五色診』は『脈経』と六朝の謝士泰『刪繁方』に「襄公問扁鵲」として,『千金翼方』では「黄帝問扁鵲」として引用されており,また『霊枢」五色に伝承されている。「薬論」の一部は『素問』湯液醪醴論と『刪繁方』に伝承されている。やや晩出の「明堂」の佚文の主なものは,『刪繁方』と『医心方』に見られる。

 本篇では重点的に鍼灸と密接な関係にある「脈書」と「明堂」類の佚文を考察する。


    一 扁鵲の脈書

    

 扁鵲の脈書には,脈診(脈論・脈診法・五色診・脈症・脈死候・病症の鍼灸治療)と経脈(循行と病候)が含まれ,『漢書」芸文志・方技略の「医経」類の内容に相当する。言い換えれば,劉向による「医経」に関する定義は,まさに漢以前に伝えられた扁鵲の脈書の基本的な内容を概括したものある。

   筆者が調査したところ,扁鵲の脈書を直接引用した医籍には『脈経』『刪繁方』『千金翼方』『霊枢』『素問』『難経』がある。


  (一)扁鵲の『脈法』から王叔和の『脈経』へ


 陽慶が倉公に伝え与えた扁鵲の医籍については,『史記」扁鵲倉公列伝の多くの箇所に言及がある。〔以下のアラビア数字は便宜上訳者が補った。〕


    1. 慶年七十餘,無子,使意盡去其故方,更悉以禁方予之,傳黃帝扁鵲之脈書,五色診病,知人死生,決嫌疑,定可治,及藥論,甚精。受之三年,為人治病,決死生多驗〔慶 年七十餘,子無し,意をして盡く其の故(ふる)き方を去らしめ,更に悉く禁方を以て之に予(あた)う,黃帝扁鵲之脈書を傳え,五色もて病を診,人の死生を知り,嫌疑を決し,治す可きを定む,及び藥論も,甚だ精(くわ)し。之を受くること三年,人の為に病を治し,死生を決するに驗多し〕。

    2. 慶有古先道遺傳黃帝扁鵲之脈書,五色診病,知人生死,決嫌疑,定可治,及藥論書,甚精。……臣意即避席再拜謁,受其脈書上下經、五色診、奇咳術、揆度、陰陽外變、藥論、石神、接陰陽禁書,受讀解驗之,可一年所。明歲即驗之,有驗,然尚未精也。要事之三年所,即嘗已為人治,診病決死生,有驗,精良。〔慶に古先の道有り,黃帝扁鵲の脈書を遺(のこ)し傳う,五色もて病を診,人の生死を知り,嫌疑を決し,治す可きを定む,及び藥論の書,甚だ精(くわ)し。……臣意 即ち席を避けて再拜して謁し,其の脈書上下經・五色診・奇咳術・揆度・陰陽外變・藥論・石神・接陰陽禁書を受く,之を受讀解驗すること,可(ほぼ)一年所(ばかり)。明歲即ち之を驗するに,驗有り,然れども尚お未だ精ならざるなり。要(おおむ)ね之に事うること三年所(ばかり),即ち嘗みに已(もっ)て人の為に治し,病を診て死生を決するに,驗有って,精良なり。〕

    3. 臨菑召里唐安來學,臣意教以五診、上下經脈,奇咳,四時應陰陽重,未成,除為齊王侍醫〔臨菑の召里の唐安來たり學ぶに,臣意 教うるに五診、上下經脈を以てし,奇咳,四時の陰陽の重するに應ずるも,未だ成らざるに,除せられて齊王の侍醫と為る〕。

   4. 菑川王時遣太倉馬長馮信正方,臣意教以案法逆順,論藥法,定五味及和齊湯法。高永侯家丞杜信,喜脈,來學,臣意教以上下經脈、五診,二歲餘〔菑川王 時に太倉馬長馮信をして方を正さしむるに,臣意 教うるに法の逆順を案じ,藥法を論ずるを以て,五味及び和齊の湯法を定む。高永侯の家丞の杜信,脈を喜(この)み,來たりて學ぶに,臣意 教うるに上下經脈、五診を以てすること,二歲餘〕。

    

  読んでみてすぐ気がつくが,以上の各条の扁鵲医籍の書について,二箇所で言及された陽慶が伝えた書は統一されていて,いずれも「黄帝扁鵲脈書」「五色診病」「薬論」の三種類であり,かつ原文による前の二種類の書物の内容の簡単な記述から,それが診法の書であることがわかる。第2条にある倉公が伝授されたものは,師である陽慶が伝えた書とは明らかに異なるし,「奇咳術」「揆度」「陰陽」「外変」「石神」「接陰陽禁書」の六つが多い。

 同じ文章の中で,同じ書の記述にこれほど大きな相違があるのは,文章の前後に詳細と簡略という違いがあるのかもしれない。もう一つのより大きな可能性は,この扁鵲医籍にはもともと書名がないか,あるいはその多くに書名がないことである。ここに列挙された名前はみなその内容に基づいて臨時に作成されたもので,暫定的な題名の中には,「大題」,つまり書名もあれば,「小題」,つまり篇名もあり,あるいは「大題」のみを挙げて「小題」を挙げないので,同じ書であるのに異なる名前となったり,前後で詳細だったり簡略だったりしてかなり差が大きくなっている。以上の各条で言及されている二種類の本――「脈書(上下経)」と「五色診」は,書名を指している可能性が高いが,「奇咳術」「揆度」などの多くの部分は篇名である可能性がある。倉公が引き合いに出して多く使用しているのは「脈法曰」であるが,一箇所「脈法奇咳曰」というところもある。この「奇咳」は「脈法(書)」のある篇の篇名である可能性が高いことを示している。

 以上のすべての書名の異なる表現の中で,最も誤解されやすいのは、「脈書」「脈書上下経」「上下経脈」である。今の人が持っている中国医学辞典には,「経脈」という言葉は一つの意味区分,つまり「十二本の循行する脈」があるだけである(実は,倉公の時代には,「経脈」=十二本の脈という意味区分はまだ誕生していなかった)。そこで人々は以上の三つの異なる表現を見て,つぎのように反応する。第一の反応,というか唯一かもしれない反応は,「上下経脈」と「脈書上下経」が同じ書ではありえない,というものである。しかし,以上の第3条の倉公がいう「上下経脈」の前は「五診」であり,後ろは「奇咳」であり,それが前の〔第2〕条で挙げた三書のうち二書は同じで,隣り合う一書が異なるというのは,明らかに話が通じない。これにはより多く,より強力な証拠がある。『史記』扁鵲倉公列伝におけるこれらの扁鵲医籍に関する異なる表現は,伝世本『素問』第75〜81の「雷公問黄帝」七篇にも見える。この七篇は扁鵲医籍と密接に関連している。以下で具体的に検討する。


雷公曰:臣請誦「脈脛上下篇」甚衆多矣,別異比類,猶未能以十全,又安足以明之……吾問子窈冥,子言「上下篇」以對,何也?夫脾虛浮似肺,腎小浮似脾,肝急沈散似腎,此皆工之所時亂也〔雷公曰わく:臣請う「脈脛上下篇」を誦すること甚だ衆多なり,異を別かち類を比ぶるは,猶お未だ以て十全なること能わず,又た安(いず)くんぞ以て之を明らかにするに足らん……吾れ子に窈冥を問う,子の「上下篇」を言いて以て對(こた)うるは,何ぞや?夫れ脾の虛浮は肺に似,腎の小浮は脾に似,肝の急沈散は腎に似る,此れ皆な工の時に亂るる所なり〕。(『素問』示從容論)

    

診病不審,是謂失常,謹守此治,與經相明,「上經」「下經」,揆度陰陽,奇恒五中,決以明堂,審於終始,可以橫行〔病を診るに審らかならず,是れを失常と謂う,謹んで此の治を守れば,經と與(とも)に相い明らかなり,「上經」「下經」,揆度陰陽,奇恒五中,決するに明堂を以てし,終始を審らかにして,以て橫行す可し〕。(『素問』疏五過論)

    

黃帝……而問雷公曰:陰陽之類,經脈之道,五中所主,何藏最貴?雷公對曰:春甲乙青,中主肝,治七十二日,是脈之主時,臣以其藏最貴。帝曰:却念「上下經」陰陽、從容,子所言貴,最其下也……雷公曰:臣悉盡意,受傳「經脈」,頌得從容之道,以合「從容」,不知陰陽,不知雌雄。帝曰:三陽為父,二陽為衛,一陽為紀。三陰為母,二陰為雌,一陰為獨使〔黃帝……而して雷公に問いて曰わく:陰陽の類,經脈の道,五中の主る所,何れの藏か最も貴き?雷公對えて曰わく:春は甲乙にして青,中は肝を主り,七十二日を治す,是れ脈の主る時,臣 其の藏を以て最も貴しとす,と。帝曰わく:却(かえ)って「上下經」陰陽・從容を念(おも)うに,子の貴しと言う所は,最も其の下なり,と。……雷公曰わく:臣悉く意を盡くし,「經脈」を受け傳え,從容の道を頌し得て,以て「從容」に合するも,陰陽を知らず,雌雄を知らず,と。帝曰わく:三陽は父為(た)り,二陽は衛為り,一陽は紀為り。三陰は母為り,二陰は雌為り,一陰は獨使為り,と〕。(『素問』陰陽類論)

    

是以少氣之厥,令人妄夢,其極至迷。三陽絕,三陰微,是為少氣。是以肺氣虛則使人夢見白物,見人斬血藉藉,得其時則夢見兵戰。腎氣虛則使人夢見舟船溺人,得其時則夢伏水中,若有畏恐。肝氣虛則夢見菌香生草,得其時則夢伏樹下不敢起。心氣虛則夢救火陽物,得其時則夢燔灼。脾氣虛則夢飲食不足,得其時則夢築垣蓋屋。此皆五藏氣虛,陽氣有餘,陰氣不足,合之五診,調之陰陽,以在「經脈」〔是こを以て少氣の厥は,人をして妄りに夢みしめ,其の極みは迷いに至る。三陽絕し,三陰微,是れを少氣と為す。是こを以て肺氣虛すれば則ち人をして夢に白物を見しめ,人をして斬血藉藉たるを見しめ,其の時を得れば則ち夢に兵戰を見る。腎氣虛すれば則ち人をして夢に舟船の溺人を見しめ,其の時を得れば則ち夢に水中に伏して,畏恐有るが若(ごと)し。肝氣虛すれば則ち夢に菌香生草を見しめ,其の時を得れば則ち夢に樹下に伏して敢えて起たず。心氣虛すれば則ち救火陽物を夢み,其の時を得れば則ち燔灼を夢む。脾氣虛すれば則ち飲食不足を夢み,其の時を得れば則ち垣を築き屋を蓋うを夢む。此れ皆な五藏の氣虛し,陽氣有餘し,陰氣不足す,之を五診に合わせ,之を陰陽に調うるは,以て「經脈」に在り〕。(『素問』方盛衰論)

    

 倉公が受けとった書の中の「五色診」「奇咳術」「揆度」「陰陽」は,すでに『疏五過論』『方盛衰論』に見られ,その「脈書上下経」は「脈経上下篇」に対応することは間違いない。しかし後者は『素問』では,「上下篇」「上下経」「上経」「下経」にいう「経脈」(特に第3条の「経脈」)はまた「上下経」と同じ意味として互いに置き換えることができ,明らかに同じ書名である。つまり倉公の「上下経脈」「脈書上下経」に対応し,それが論じているのはみな脈診であり,十二経脈ではなく,『史記』扁鵲倉公列伝で述べられている「知人死生,決嫌疑,定可治〔人の死生を知り,嫌疑を決し,定めて治す可し〕」と完全に対応する*。


      *たとえば,『素問』示従容論は,『脈経』の上下篇によって脈法の「別異比類」のことをいい,あわせて「脾虛浮似肺,腎小浮似脾,肝急沈散似腎」を例として挙げている。これに対して倉公は文帝からの問いに「別異比類」の手順を具体的に解釈している。最後の方盛衰論の条文では,『経脈』によって三陰三陽脈の「絶」と「微」を夢によって診断している。この文は『千金要方』では「扁鵲曰」として引用されている。この条文中の「腎気虚」の文については,『脈経』〔巻2〕平三関陰陽二十四気脈第一にも見られるので,これが扁鵲の脈法を出典としていることは,さらに疑いない。


 扁鵲医籍を集録した伝世本『素問』の七篇に引用された書名と引用された内容の概略から,以下のことを証明することができる。すなわち,『史記』扁鵲倉公列伝で言及されている「脈書」「脈書上下経」「上下経脈」は同一書についての異なる呼び名である。三者が同一書を指しているからこそ,倉公もその「診籍」において,概括して「脈法曰」としてその文章を引き合いに出しているのである。

 「黄帝扁鵲之脈書」について,これは扁鵲の脈書であって,黄帝の脈書と扁鵲の脈書の二種類ではないことは,李伯聡氏によってすでに論証されている*。「黄帝扁鵲之脈書」と題されているのは,この伝本にはもともと書名がなく,書中に「黄帝・扁鵲」の問答のことばがあることに基づいて書名を擬して,それによって引用しやすくしたためである。筆者は下文においてこの伝本について具体的に検討する。

    * 李伯聪. 扁鹊和扁鹊学派研究 [M]. 西安:陕西科学技术出版社,1990:186.


 倉公の臨証での脈診であれ,その弟子への教育であれ,いずれもこの扁鵲の「脈書」を極めて重視しており,その行方を探ることも筆者の主要な務めとなる。初期の手がかりは依然として信頼度の高い倉公の「診籍」から探る。


風癉客脬,難於大小溲,溺赤……病得之流汗出㵌。㵌者,去衣而汗晞也……脈法曰「沈之而大堅,浮之而大緊者,病主在腎」〔風癉 脬に客し,大小溲に難く,溺(にょう)赤し……病は之を流汗出㵌に得たり。㵌なる者は,衣を去って汗晞(かわ)くなり……脈法に曰わく「之を沈めて大堅,之を浮べて大緊なる者は,病 主として腎に在り」〕(『史記』扁鵲倉公列傳)。

    

 倉公が述べた片言隻句だけでは,この「扁鵲の脈書」の内容についてかなり確定的な認識を持つことは難しいが,綿密な調査と比較を通じて,筆者は倉公が引用した「脈法」の文と絶妙に一致する条文を王叔和の『脈経』の中に見つけた。


腎脈沈之大而堅,浮之大而緊,苦手足骨腫,厥,而陰不興,腰脊痛,少腹腫,心下有水氣,時脹閉,時泄。得之浴水中,身未乾而合房內,及勞倦發之〔腎脈 之を沈めて大にして堅,之を浮べて大にして緊なるは,手足の骨腫に苦しみ,厥し,而して陰 興らず,腰脊痛み,少腹腫れ,心下に水氣有り,時に脹閉し,時に泄らす。之を水中に浴し,身未だ乾かずして房內に合して得,及び勞倦もて之を發す〕(『脈經』卷六・腎足少陰經病證第九)。


 以上の倉公が引いた「脈法曰」の文は,すべて『脈経』の引用文の中に見られる。すなわち『脈経』のこれらの文の源は,倉公が伝授された『脈法』という書にある。

 筆者は丁寧に比較をおこなったところ,さらに多くの倉公「診籍」中の脈論と極めて一致度の高い対応文を,思いもかけず『脈経』で見つけることができた。


 脈法曰「脈來數疾去難而不一者,病主在心」。周身熱,脈盛者,為重陽。重陽者,逿心主。故煩懣食不下則絡脈有過,絡脈有過則血上出,血上出者死。此悲心所生也,病得之憂也〔脈法に曰わく「脈來たること數疾にして去ること難くして一ならざる者は,病 主として心に在り」。周身熱し,脈盛んなる者は,重陽と為す。重陽なる者は,心主を逿(うご)かす。故に煩懣して食下らざれば則ち絡脈に過有り,絡脈に過有れば則ち血上り出で,血上り出づる者は死す。此れ悲心の生ずる所なり,病 之を憂いに得るなり〕(『史記』扁鵲倉公列傳)。

    

 心脈沈之小而緊,浮之不喘,苦心下聚氣而痛,食不下,喜咽睡,時手足熱,煩滿,時忘不樂,喜太息,得之憂思〔心脈 之を沈めて小にして緊,之を浮べて喘ならざるは,心下に氣を聚めて痛むを苦しみ,食下らず,喜(しば)しば咽睡し,時に手足熱し,煩滿し,時に忘れて樂しまず,喜(しば)しば太息す,之を憂思に得たり〕(『脈經』卷六・心手少陰經病證第三)。

    

心病,煩悶,少氣,大熱,熱上盪心,嘔吐,咳逆,狂語,汗出如珠,身體厥冷。其脈當浮,今反沈濡而滑。其色當赤,而反黑者,此是水之克火,為大逆,十死不治〔心の病は,煩悶し,少氣し,大熱し,熱上って心を盪(うご)かし,嘔吐し,咳逆し,狂語し,汗出づること珠の如く,身體 厥冷す。其の脈 當に浮ぶべきに,今反って沈濡にして滑。其の色 當に赤かるべきに,而も反って黑き者は,此れは是れ水の火を克し,大逆と為す,十死して治せず〕(『脈經』卷六・心手少陰經病證第三)。

    

 第一条の文は,まず脈象と脈症を述べ,さらに「得之」の二字で病因を導き出すのは,まさに『脈法』の典型的な形式である。第二条の文は内容が一致するだけでなく,「逿心主」という特徴的な語句にもぴったりと対応している。ちなみに,ここにある「心主」は心を指していて,決して「心包」と誤解してはならない。かつまた,この条文にある陽明脈候中の「黒」の意味――逆証であって順証ではないこと――を明らかにしている。同時に陽明脈症の典型的な顔色が「赤」であることも指摘している。

  扁鵲の脈書の佚文では,陽明脈象と脈象に関する解釈が,みな心と関係があることもわかった。


 心,南方火也。萬物之所盛,垂枝布葉,皆下曲如鉤,故其脈之來疾去遲〔心は,南方火なり。萬物の盛んなる所,枝を垂れ葉を布き,皆な下って曲がること鉤の如し,故に其の脈の來たること疾く去ること遲し〕(『難經』十五難)〔『難経集注』による〕。

    

陽明之脈,浮大以短,動搖三分。大前小後,狀如科斗,其至跳〔陽明の脈,浮大以て短,動搖すること三分。大なる前 小なる後にして,狀(かたち) 科斗(オタマジャクシ)の如し,其の至ること跳〕(『脈經』卷五・扁鵲陰陽脈法第二)。


  この時我々は初めて倉公の脈法にいう「脈來數疾去難而不一者,病主在心〔脈來たること數疾にして去ること難くして一ならざる者は,病 主として心に在り〕」の意味を理解することができる。

 この考えに沿ってたぐっていくと,また一連のものが引き出せた。


    肝脈沈之而急,浮之亦然,苦脇下痛,有氣支滿,引少腹而痛,時小便難,苦目眩頭痛,腰背痛,足為逆寒,時癃,女人月使不來,時無時有,得之少時,有所墜墮〔肝脈 之を沈めて急,之を浮べても亦た然り,脇下痛を苦しみ,氣の支滿すること有って,少腹に引きつれて痛み,時に小便難く,目眩(めまい)頭痛を苦しみ,腰背痛み,足は逆寒を為し,時に癃し,女人は月使來たらず,時に無く時に有るは,之を少(わか)き時に得,墜墮する所有り〕(『脈經』卷六・肝足厥陰經病證第一)。

    

    脾脈沈之而濡,浮之而虛,苦腹脹,煩滿,胃中有熱,不嗜食,食而不化,大便難,四肢苦痹,時不仁,得之房內。月使不來,來而頻併〔脾脈 之を沈めて濡,之を浮べて虛,腹脹るるを苦しみ,煩滿し,胃中に熱有り,食を嗜まず,食すれば化(こな)れず,大便難く,四肢 痹を苦しみ,時に不仁するは,之を房內に得たり。月使來たらず,來たれば頻りに併す〕(『脈經』卷六・脾足太陰經病證第五)。

    

    肺脈沈之而數,浮之而喘,苦洗洗寒熱,腹滿,腸中熱,小便赤,肩背痛,從腰以上汗出。得之房內,汗出當風〔肺脈 之を沈めて數,之を浮べて喘,洗洗として寒熱を苦しみ,腹滿ち,腸中熱し,小便赤く,肩背痛み,腰從り以上汗出づ。之を房內し,汗出でて風に當たるに得たり〕(『脈經』卷六・肺手太陰經病證第七)。〔「以」一作「已」。〕


 「肝脈」「脾脈」「肺脈」の条文は前述の倉公が引用した「脈法曰」の文の構造様式と完全に一致している。『脈経』の三条の文はすべて同じ本――扁鵲「脈法」から収録されたものである。

 特筆すべきことは,『脈経』のこの条文がみな先ず脈を診て,後に症を述べ,さらに「待之」の二字で病因を導き出す表現形式は,まさに倉公診籍の典型的な「筆法」である。ここから推測することができることは,倉公の『診籍』は扁鵲「脈法」を拠り所とするだけでなく,記述形式も「脈法」の筆法を借用したということである。

 『史記』扁鵲倉公列伝に引用される「脈法」という確定的な手がかりを利用すると,『脈経』にある扁鵲医籍にかかわる多くの遺文を識別することができる。例えば:〔以下,『脈経』の句読点を増やして,不揃いを統一した。〕


    所以知成開方病者,診之,其『脈法』奇咳言曰「藏氣相反者死」。切之,得腎反肺,法曰「三歲死」也〔成開方(人名)の病を知る所以の者は,之を診るに,其の『脈法』奇咳の言に曰わく「藏氣相い反する者は死す」と。之を切して,腎の肺に反するを得たり,法に曰わく「三歲にして死す」と〕(『史記』扁鵲倉公列傳)。

    

    春三月木王,肝脈治當先至;心脈次之;肺脈次之;腎脈次之;此為四時王相順脈也。到六月土王,脾脈當先至,而反不至,反得腎脈,此為腎反脾也,七十日死。何為腎反脾?夏火王,心脈當先至,肺脈次之,而反得腎脈,是謂腎反〔原文「反腎」。影宋本により改む〕脾。期五月・六月,忌丙丁。〔春の三月 木王し,肝脈の治 當に先ず至るべし。心脈 之に次ぐ。肺脈 之に次ぐ。腎脈 之に次ぐ。此れを四時王相の順脈と為すなり。六月に到って土王し,脾脈 當に先ず至るべきに,而れども反って至らず,反って腎脈を得るは,此れを腎 脾に反すると為すなり,七十日にして死す。何を腎 脾に反すと為す?夏は火王して,心脈 當に先ず至り,肺脈 之に次ぐべきに,而れども反って腎脈を得るは,是れを腎の脾に反すと謂う。五月・六月を期して,丙丁を忌む。〕

    

    脾反肝,三十日死。何謂脾反肝?春肝脈當先至,而反不至,脾脈先至,是謂脾反肝。期正月、二月,忌甲乙。〔脾 肝に反すれば,三十日にして死す。何を脾 肝に反すと謂う?春は肝脈 當に先ず至るべきに,反って至らずして,脾脈 先に至る,是れを脾 肝に反すと謂う。正月・二月を期して,甲乙を忌む。〕

    

    腎反肝,三歲死。何為腎反肝?春肝脈當先至,而反不至,腎脈先至,是謂腎反肝也。期七月、八月,忌庚辛。〔腎 肝に反すれば,三歲にして死す。何を腎 肝に反すと為す?春は肝脈 當に先ず至るべきに,反って至らず,腎脈 先ず至る,是れを腎 肝に反すと謂うなり。七月・八月を期し,庚辛を忌む。〕

    

    腎反心,二歲死。何為腎反心?夏心脈當先至,而反不至,腎脈先至,是謂腎反心也。期六月,忌戊己。〔腎 心に反すれば,二歲にして死す。何を腎 心に反すと為す?夏は心脈 當に先ず至るべきに,反って至らず,腎脈 先ず至る,是れを腎 心に反すと謂うなり。六月を期し,戊己を忌む。〕

                                                ――『脈經』卷四・診四時相反脈證第四


 注意を要することは,倉公が引用する『脈法』奇咳は「腎反肺,法曰三歲死」で,『脈経』で対応する文が「腎反肝」となっていて,宋人の校改を経ていない『新雕孫真人千金方』巻二十七・診四時相反脈は「肝反肺」になっていることである。伝写の過程で出てきた異文であろうから,唐代の孫思邈が文末に次のように注記している。「此中不論肺金之氣,疏略未預指南,又推五行亦頗顛倒,待垂〔宋版は「求」に作る〕別錄上〔此の中 肺金の氣を論ぜず,疏略にして未だ指南に預らず,又た五行を推すに亦た頗る顛倒すれども,待垂〔「求」〕別錄上〕」。テキストに乱れがあるとはいえ,『脈経』診四時逆脈証第四は扁鵲の脈書に由来することは疑いなく,かつその原文の篇名は「奇咳」であった可能性が高い。

 つまり,『脈経』に保存されている扁鵲の脈書の内容は,これまで我々が以前考えていたような第五巻の四篇の扁鵲脈法に関する専門篇や,書中に「扁鵲曰」と冠された少量の文に限られるものではない。「扁鵲」の名が記されていない篇章にも,実際には扁鵲の脈書の文章が大量に引用されている。倉公が陽慶から伝えられた扁鵲の医籍は魏晋時代にも伝存していたと断言できる。伝本が異なる可能性はあるものの,王叔和は職務上の便宜からそれを閲覧することができて,その中の色脈診の部分をそのまま『脈経』に収録した。さらには「脈経」という書名さえも,倉公が言及した書名――「脈書上下経」をそのまま借用した可能性が高い。筆者は扁鵲の医籍に関する多くの難題を研究する中で,『脈経』という重要な証拠を十分に活用して,新たな発見と突破口を次々と得た。

 『脈経』の基本構成を繰り返し研究した結果,筆者は以下のような大胆な判断を下した。すなわち,『脈経』の診法部分は扁鵲の脈書を主体とし,他の諸家の関連文を補足として編纂されたものである。以上の具体的な証拠以外に,マクロレベルの証拠もある。『脈経』の自序に,「其の王・阮・傅・戴・呉・葛・呂・張,傳うる所の異同,咸(み)な悉く載錄す」という。脈診を特技としない各家の諸説についてはすべて記載されているのに対して,脈法の宗祖たる「扁鵲」には一言も触れていない。こんなことがまかり通るだろうか。あらためて本文に引用された各家の言葉を見直してみると,新たに編纂された文でさえすべて注がある。これに対して大量に一段まるごと引用されている扁鵲の医書の文にはかえって注がきわめて少ない。一層論理に合わない。これらはみな王叔和が『脈経』の引用出典を注記する規則について強く示唆している。その規則とは,第一に,篇全体が扁鵲の脈書を主体とし,他の諸家の説で補足する場合は,主体部分には注をつけず,補足する文の出典のみを標記する。第二に,篇全体がその他の文献を主体とし,扁鵲の脈書で補足する場合は,「扁鵲曰」という字句を標記する。第三に,その篇の全文が扁鵲の脈書から収録された場合は,篇題に明記される。このような専門篇――たとえば巻五の「扁鵲脈法第三」に,「扁鵲曰」という字句が現われる場合は,引用された扁鵲医籍の原書にもとからあったものであり,王叔和が加えた標注ではない。