(五)『難経』
『難経』でひもとかれた「経論」の多くは,『脈経』に引用されている扁鵲医籍に見られる。しかし,『難経』の編者が引用した経文の一部の意味を明確に理解できていなかったことから判断すると,編者は扁鵲や倉公の時代からかなり後の人か,あるいは扁鵲医学の直系の伝承者ではないと考えられる。例を挙げる。
七難曰:經言少陽之至,乍小乍大,乍短乍長;陽明之至,浮大而短;太陽之至,洪大而長;太陰之至,緊大而長;少陰之至,緊細而微;厥陰之至,沈短而敦。此六者,是平脈耶?將病脈耶?然:皆王脈也。其氣以何月,各王幾日?然:冬至之後,得甲子少陽王,復得甲子陽明王,復得甲子太陽王,復得甲子太陰王,復得甲子少陰王,復得甲子厥陰王。王各六十日,六六三百六十日,以成一歲。此三陽三陰之王時日大要也。
この文章は『脈経』巻五・扁鵲陰陽脈法第二に見られるもので,三陰三陽の平脈,すなわち正常な脈象について述べている。しかし,『難経』の編者は明らかにこれを理解できていない。また,扁鵲脈法では,太陽の脈は三月・四月の甲子に旺盛となり,陽明の脈は五月・六月の甲子に旺盛となるが,『難経』の編者はこの二つの脈の順序を逆にしている。三陰三陽と四時陰陽が異なって配当されている背景には,実際上,三陰三陽の本義に対する異なる理解が反映されている。扁鵲医学の枠組みでは,「陽明」は「重陽」と見なされ,陽の盛である。つまり,『霊枢』陰陽系日月における「兩火幷合,故為陽明〔兩火幷合す,故と陽明と為(い)う〕」という意味であり,陽気が最も盛んな夏季と対応している。〔『脈経』卷5〕「扁鵲陰陽脈法」〔第2〕で「脈,平旦曰太陽,日中曰陽明〔脈,平旦を太陽と曰い,日中を陽明と曰う〕」と述べているのは,この観念の表われである。
経文を解釈する書物として,私的に経文を改変する可能性は低く,『難経』が採用した扁鵲医書は後期の伝本で,その学術思想は早期・中期の扁鵲医学とはかなり異なっていた,という可能性の方が高い。
伝世医籍に遺された扁鵲医籍の佚文をその問答にある名に基づいてまとめと,以下の四種類の異なる伝本がある。
(1) 「襄公問扁鵲」伝本――『刪繁方』所伝。
(2) 「黄帝問扁鵲」伝本――倉公が伝授されたものと『千金翼方』所伝。
(3) 「雷公問黄帝」伝本――伝世本『素問』『霊枢』所伝。
(4) 「扁鵲曰」という伝本――『脈経』所伝。
直接に上述した異なる版本の扁鵲医書を引用した文献には,『脈経』『刪繁方』『千金翼方』『内経』『難経』がある。その中で最も原書を忠実に引用しているのは『脈経』である*。一方で一般に最も知られていないのは『刪繁方』である。この書が六朝時代の方書と最も異なるところは,論説と処方があることである。『黄帝内経』がすでに絶対的な正統的地位を得ていた当時,『刪繁方』の編者は扁鵲医学に特別な愛着を持ち,大量にその文を引用するだけでなく,扁鵲の「六虚」「六極」「六絶」理論を発揚している。扁鵲医学の伝承者と見なしてよい。
*残念ながら,宋代の林億らが校注をおこなった時に多くの改編がなされたので,引用する際には宋人の校改を経ていない『新雕孫真人千金方』『太平聖恵方』を参照して判断する必要がある。
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