二、扁鵲鍼方明堂
早期の扁鵲医籍の多くは単篇として伝えられていたが,書名はもちろん篇名すらないものもあった。対して,扁鵲の「鍼灸明堂」類の医籍は比較的晩出で,『隋書』経籍志には「扁鵲偃側鍼灸図」三巻が著録されている。伝世文献にはっきりと引用されている書名は二つあって,一つは「扁鵲鍼灸経」,もう一つは「扁鵲明堂経」という。伝世の「鍼灸経」または「明堂経」と題される鍼灸古籍を見ると,いずれも鍼灸の腧穴を専門に論じた書であり,鍼灸の処方を掲載しているものは少ない。
『医心方』には「扁鵲鍼灸経」という正式名称が3箇所引用されている。その巻二〔諸家取背輸法第二と灸例法第六〕と巻十八〔治灸瘡不瘥方第二〕にあるものは同一で,出典も完全に同じであることから,「扁鵲鍼灸経」という書名は原書にもとからあったもので,後人が定めたものではないことを物語っている。ただ,この書が三巻本の『扁鵲偃側鍼灸図』とどのような関係にあるかは不明である。「扁鵲明堂経」として引用されているものは宋代の『太平聖恵方』巻一百に見られるが,筆者が調査したところ,宋代の人々は鍼灸書を「明堂経」と総称する習慣があったため,この一条の引用だけで宋代に『扁鵲鍼灸経』とは異なる題名の扁鵲の鍼灸明堂書が残され伝わっていたと断定することはできない。
早期の鍼灸処方は「経方」類には入れられず,「医経」類に分類されていた。伝世本の『霊枢』『素問』には方薬の論述は少ないが,多くの鍼灸処方が見られ,そのうち少なくとも一部は扁鵲の医籍を出自とすることが確認できる。陳延之の『小品方』自序には,彼が撰用した書目の中に『華佗方』十巻があり,『隋書』経籍志には「扁鵲肘後方」三巻が著録されている。後世の医書には晋代の『肘後方』以降,扁鵲の鍼灸処方を引用しているものは少なくないが,いずれも出典を明記していないため,歴史上に扁鵲の鍼灸処方の専門書が存在したかどうかは断定できない。成都市金牛区天回鎮漢墓から出土した漢簡の扁鵲医籍で暫定的に「経脈数」★と名づけられたもののいくつかの条文を見ると,筆者はこれが現在知られている最も古い扁鵲の鍼灸処方の専門書であり,書名は(全篇が鍼刺法のみであれば)「扁鵲鍼方」,あるいは(文中に灸法の内容が含まれていれば)「扁鵲鍼灸方」とすべきであると確信している。
★文物出版社から出版された天回医簡整理組編著『天回医簡』(2022年)では,「刺数」と命名されたものに該当すると思われる。
この書の出土は,筆者が15年前に伝世本『素問』『霊枢』中の扁鵲の鍼灸処方について識別し解読したことが完全に正しかったことを証明している*。実のところ,筆者はもっと早くから「出土した鍼灸書や非鍼灸書中の鍼灸処方の状況を見ると,基本的に伝世医書の中に,同じかあるいは類似の文字を見つけることができる。我々はこれらの伝世鍼灸文献,特に鍼灸名著の研究に主要な精力を注ぐべきであり,大量の鍼灸の貴重書がまだ地下に埋蔵されているとか,すっかりなくなって残っていないという誤った考えをするべきではない」と明確に提唱していた**。確実な伝世文献に基づいて扁鵲医学の「指紋」を正確に抽出しなければ,今回出土した扁鵲医籍の書名(または篇名)を確定することはできないし,これらの文献が本当に扁鵲医籍に属するかどうかも確定できない。
* 黄龙祥.中国针灸学术史大纲[M]. 北京:华夏出版社,2001:223-226.
** 黄龙祥.针灸名著集成 [M]. 北京:华夏出版社,1996:3. /黄龍祥『鍼灸古典の解説-『鍼灸名著集成』の解説部分の翻訳(改訂新版)』. 東京:日本内経医学会,2022:4.を参照。
漢代の倉公以降,確実に扁鵲医学の継承者として確認できるのは,後漢の華佗と六朝時代の謝士泰である。華佗の医書は早くに失われたが,『医心方』には『華佗鍼灸経』の文が引用されている。謝士泰の『刪繁方』も失われたが,隋代の『諸病源候論』と,特に唐代の孫思邈の『千金要方』にその内容が多数引用されていて,その中には鍼灸に関する内容が多数含まれている。
そこで,『扁鵲鍼灸経』の佚文を考察する際の主な拠り所となる文献は,『扁鵲鍼灸経』を直接引用している『医心方』と,『刪繁方』から孫引きしている『新雕孫真人千金方』であり,その次は宋代の改変が比較的少ない『千金翼方』である。『新雕孫真人千金方』に残っていない箇所★については,まず宋校本『備急千金要方』から引用文を探し,その後『千金翼方』から対応する文を探す。疑問のあって解決が難しい場合は,さらに『諸病源候論』『外治秘要』で該当する文を探し,総合的に比較して取捨選択する。
★現存する宋版『新雕孫真人千金方』(静嘉堂文庫所蔵)は,巻6~10,巻16~20を欠く。
『扁鵲鍼灸経』の識別に関する一つの確固たる座標は『医心方』が完全な出所を明確に示す三つの『扁鵲鍼灸経』の佚文である。その中で巻二〔・諸家取背輸法第二〕は『扁鵲鍼灸経』の背輸穴を引用する時に多くの伝本を採用し,あわせて異なる版本の異同を記している。収録された背輸穴は全部で19穴であるが,穴名と位置が『黄帝明堂経』と同じ5穴は省略されて収録されていない。いま一括して以下のように補い,補った文には角括弧をつけた。
『扁鵲鍼灸經』曰:
第二椎名大抒(各一寸半,又名風府)。
第四椎名閞〔「關」の異体字〕輸[また「闕輸」「巨闕輸」にも作る]。
按ずるに,原名は「闕輸」「巨闕輸」とすべきで,「閞〔關・関〕輸」は形が似ているための誤りである。『千金翼方』には「厥陰兪」とも書かれているが,これは経脈理論が変遷した産物である。「巨闕」は心の募穴であるが,心に関連する経脈には歴史上二つの異なる見解がある。一つは手心主脈に関連し,もう一つは手少陰脈に関連するものである。唐以前,「巨闕」に関連する経脈の五輸穴は手心主脈であったが,この脈の名称が「手厥陰脈」に改められて流行するようになると,それに伴い「巨闕」に対応する「厥陰兪」という名称が出現した。もし『扁鵲鍼灸経』が晋以降の書でないのであれば,「巨闕」に対応する背輸は「闕輸」または「巨闕輸」であって,「厥陰輸」ではない。
第五椎名督脈輸
第六椎名心輸(與佗同)
[第七椎名鬲輸]
第八椎名肺輸
[第九椎名肝輸]
第十椎名脾輸(與佗同)
[第十二椎名胃輸]
第十三椎名懸極輸(不可灸,殺人)
[第十四椎名腎輸]
第十五椎名下極輸
[第十六椎名大腸輸]
第十七椎名小腸輸(與佗同)
第十八椎名三膲輸(或名小童腸輸)
按ずるに,「小童腸」の意味は未詳であるが,『外台秘要』が『刪繁方』から孫引きした扁鵲鍼灸の条文には「扁鵲曰:第十八椎名小腸兪,主小便不利,少腹脹滿虛乏,兩邊各一寸五分,隨年壯灸之,主骨極」とある。「十八椎」が誤りか,穴名が誤りかは不明である。この条文を調べたところ,宋人による校改を経ていない『新雕孫真人千金方』では欠巻にあたり,宋人が校改した『備急千金要方』と『千金翼方』は,どちらも「小腸兪」として引用されているため,この疑問はいまのところ解決されていない。
第十九椎名腰輸
第二十椎(主重下)
按ずるに,『華佗鍼灸経』はこの穴の主治に基づき穴名を補って「重下兪」としている。
第二十一椎(不治)
按ずるに,『華佗鍼灸経』はこの穴を「解脊兪」と名づけている。
第二十二椎(主腰背筋攣痹)
凡十九椎應治其病灸之,諸輸俠脊左右各一寸半或一寸二分。但肝輸一椎灸其節。其第十三幷二十一椎,此二椎不治,殺人。
『扁鵲鍼灸經』云:凡灸,因火生瘡,長潤,久久不差〔=瘥〕。變成火疽,取穀樹*東邊皮一寸已上煮熟去滓,煎令如糖,和散付〔=敷〕,驗(『醫心方』卷二〔・灸例法第六〕)。
『扁鵲鍼灸經』云:凡灸,因火生瘡,長潤,久久不差,變成火疽方:取穀樹東邊皮,煮熟去滓,煎令如糖,和散付(『醫心方』卷十八〔・治灸瘡不差方第二〕)。
*穀樹とは,カジノキ(paper mulberry)のことで,落葉喬木。新生枝は灰色の太い毛で密に覆われ,乳汁がある。/★『医心方』には,「カチ」と添え仮名あり。
以上の確定された疑いのない「座標」に基づいて,さらに『外台秘要』や『医心方』の注の引用出典を参照することで,孫思邈の書の中にさらに多くの『扁鵲鍼灸経』の佚文を発見することができる。
第一椎名大抒,無所不主,夾左右一寸半或一寸二分,主頭項痛,不得顧,胸中煩急,灸隨年壯(『千金翼方』卷二十七)。
第四椎名巨闕俞,主胸膈中氣。灸隨年壯(『千金翼方』卷二十七)。
第四椎名厥陰俞,主胸中膈氣,積聚好吐,隨年壯灸之(『千金翼方』卷二十七)。
第九椎名肝俞,主腹內兩脇脅下脹滿,食不消,喉痹,目眩,眉頭痛,骨急嘔吐,當椎灸五十壯,老小以意斟酌之。灸二百壯,主目不明,神驗(『新雕孫真人千金方』卷十一)。
肝俞,主肝風[又第九椎名肝俞主] 腹脹,食不消化,吐血,酸削,四肢羸露,不欲食,鼻衄,目䀮䀮,眉頭脅下痛,少腹急,灸百壯(『千金翼方』卷二十六)。
第十一椎名脾俞,主四肢寒熱,腰疼不得俯仰,身黃腹滿,食嘔,舌根直,灸十一椎及左右各一寸三處各七壯(『新雕孫真人千金方』卷十五)。
[第十一椎名]脾俞,主四肢寒熱,腰疼不得俯仰,身黃腹滿,食嘔,舌根直,並灸椎上三穴各七壯(『千金翼方』卷二十七)。
第十五椎名下極俞,主腹中疾,腰痛,膀胱寒,澼飲注下,隨年壯灸之(『千金翼方』卷二十七)。
灸第十七椎七壯,是小腸俞,及左右兩邊各一寸,主三焦也(『新雕孫真人千金方』卷十四)。
小腸俞,主三焦寒熱,一如灸腎法(『千金翼方』卷二十七)。
『刪繁』骨極虛寒:又灸法,扁鵲曰第十八椎名小腸俞,主小便不利,少腹脹 滿虛乏,兩邊各一寸五分,隨年壯灸之,主骨極。並出第八卷中(『外台秘要』卷十六)。
第二十椎主便血,灸隨年壯(『新雕孫真人千金方』卷十五)。
灸第二十二椎隨年壯,主腰背不便,轉筋,急痹筋攣(『千金翼方』卷二十七)。
第二十一(二)椎,主腰背不便,筋轉痹,灸隨年壯(『千金翼方』卷二十七)。
第二十二椎,主腰背不便,筋攣痹縮,虛熱閉塞,灸隨年壯,兩旁各一寸五分(『千金翼方』卷二十七)。
以上の〔諸書に〕引用された背輸穴は,第一椎から第二十二椎までの計9穴であり,「大杼」穴の部位および「十八椎」の穴名を除いて*,その他の穴の部位と名称は,みな『医心方』に引用された『扁鵲鍼灸経』と完全に一致し,主治内容さえもかなり一致している。謝士泰が編纂した『刪繁方』は引用時に「扁鵲曰」とだけ表記し,書名を明記していない(孫思邈が孫引きした時は,引用書名を補って記すことはなおさらできなかった)が,『医心方』に引用された『扁鵲鍼灸経』と一致度がこれほど高い文は,同じ書物――『扁鵲鍼灸経』を出自とするとしか考えられない。これからも,この書の編纂年代の下限は『刪繁方』が成書した六朝時代であると確定できる。
*この二つ〔大杼穴と十八椎穴〕の条文は,『新雕孫真人千金方』の欠落した巻にあるため,孫思邈が引用した際の原文がこの通りであったかどうかは判断できない。
謝士泰が収録した文は一層整っているので,『扁鵲鍼灸経』の内容をより具体的に理解する手助けとなるだけでなく,この書物の記述形式の特徴が明瞭に見て取れる。すなわち,腧穴について,部位・穴名・主治・刺灸法*の順序で記述されていることである。
*『千金要方』と『千金翼方』で確認された『扁鵲鍼灸経』の佚文には刺法の記述は見られないが,これは『扁鵲鍼灸経』の原書が灸法のみを収録していたことを意味するものではない。晋から唐にかけての「備急」類の方書が鍼灸文献を引用する際には,『備急肘後方』〔『肘後備急方』〕の著者葛洪が「使人用鍼,自非究習醫方,素識明堂流注者,則身中榮衛尚不知其所在,安能用鍼以治之哉〔人をして鍼を用いしむるに,自(も)し醫方を究習し,素より明堂流注を識(し)るに非ざる者は,則ち身中の榮衛 尚お其の在る所を知らず,安(いず)くんぞ能く鍼を用いて以て之を治せんや〕」〔葛洪『肘後備急方』序〕と言っているのと多くは同様の考え方をしている。孫思邈もこの例に倣って,鍼灸の腧穴文献や鍼灸処方を引用する際に,多くは灸法のみを収録し,鍼法は収録しなかったのである。
この腧穴内容を記すスタイルは,既知の唐以前の鍼灸文献には他に見られないものであるので,この特徴を『扁鵲鍼灸経』の佚文を識別するもう一つ別の「指紋」として,孫思邈の書においてさらに多くの『扁鵲鍼灸経』の佚文を発見することができた。
兩乳間,名身堂,主上氣厥逆,百壯(『新雕孫真人千金方』卷十五〔・治脾虛實方第三〕)。
當心下一寸,名巨闕,主心悶痛,上氣,引少腹呤,灸二七壯(『千金翼方』卷二十七〔・心病第三〕)。
俠巨闕兩邊相去各一寸,名曰幽門,主胸中痛引腰背,心下嘔逆,面無滋潤,灸之各隨年壯(『新雕孫真人千金方』卷十三〔・脈極第四〕)。
俠巨闕兩邊相去各半寸,名曰上門,主胸中痛引腰背,心下嘔逆,面無滋潤,各灸隨年壯(『千金翼方』卷二十七〔・心病第三〕)。
俠巨闕相去五寸,名承滿,主腸中雷鳴相逐,痢下,兩邊一處,各灸五十壯(『千金翼方』卷二十七〔・大腸病第八〕)。
灸夾丹田兩邊相去各一寸,名四滿,主月水不利,賁血上下幷無子。灸三十壯,丹田在臍下二寸(『千金翼方』卷二十六〔・婦人第二〕)。
俠臍旁相去兩邊各二寸半,名大橫,主四肢不可舉動,多汗洞痢,灸之隨年壯(『千金翼方』卷二十七〔・膀胱病第十〕)。
俠屈骨相去五寸,名水道,主三焦、膀胱、腎中熱氣,隨年壯。屈骨在臍下五寸,屈骨端水道俠兩旁各二寸半(『千金翼方』卷二十七〔・膀胱病第十〕)。
俠膽俞旁行相去五寸,名濁浴,主胸中膽病,灸隨年壯(『新雕孫真人千金方』卷十二〔・膽虛實第二〕)。
俠膽俞旁行相去五寸名濁浴,主胸中膽病,隨年壯(『千金翼方』卷二十七〔・膽病第二〕)。
手無名指甲後一韭葉,名關衝,主喉痹,不得下食飲,心熱噏噏,常以繆刺之,患左刺右,患右刺左也,都患刺兩畔(『千金翼方』卷二十六〔・舌病第五〕)。
〔一部,「名」字の前に読点(,)を加えた。〕
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