孫思邈が『刪繁方』から孫引きした『扁鵲鍼灸経』の条文は以上のものだけにとどまらない。ただ現在は確定された「指紋」が少ないために,それらを正確に識別できないだけである。しかし,すでに識別された佚文によっても,扁鵲医学の鍼灸腧穴における成果と特徴について,より具体的な理解が得られた。特に,『扁鵲鍼灸経』の一部腧穴の名称・位置・主治の内容が漢代の腧穴の古典『黄帝明堂経』に反映されていることが見つかった。
① 『扁鵲鍼灸経』の穴名は,『黄帝明堂経』では別名として処理されている。たとえば,「幽門,一名上門。在巨闕兩旁各五分陷者中」,「氣穴,一名胞門,一名子戶。在四滿下一寸,衝脈、足少陰之會。刺入一寸,灸五壯。主腹中痛,月水不通,奔泄,氣上下引腰脊痛」となっていて,上述した『扁鵲鍼灸経』で関わりのある穴の位置と主治はみな一致しているが,『扁鵲鍼灸経』の穴名は『黄帝明堂経』では別名として扱われている。もしさらに多くの『扁鵲鍼灸経』の佚文やこの書よりさらに古い扁鵲の腧穴の佚文を識別できるならば,『黄帝明堂』が利用した「扁鵲明堂」の実例をより多く見つけることができるであろう。
② 『扁鵲鍼灸経』と扁鵲の鍼灸処方の佚文を『華佗鍼灸経』『黄帝明堂経』の背部兪穴の位置と詳細に比較した結果,三者ともに背部兪穴の横方向の距離は実際には同じであり,「脊傍一寸」または「夾脊三寸」*に位置している。人々の理解の違いや伝承過程での誤字によって,三者の背俞穴の横方向の距離の記述に大きな違いが生じた。現代では扁鵲医学を継承している『華佗鍼灸経』の背部兪穴を経外奇穴とみなして「華佗夾脊穴」と名づけ,『黄帝明堂経』の背部兪穴と区別している。
*たとえば,『医心方』が引用する『華佗鍼灸経』の背部兪穴は「諸椎俠脊相去一寸也」であるが,『備急肘後方〔肘後備急方〕』と『医心方』が引用する華佗の霍乱灸法は,ともに「去脊各一寸」としている。これにより,華佗の背部兪穴の文は「諸椎俠脊各相去一寸也」とすべきであることがわかる。『霊枢』背腧は背部兪穴を「皆挾脊相去三寸所」〔穴と穴との距離は脊椎を挟んで3寸ほど〕とし,『医心方』が引用する『黄帝明堂経』は「夾脊椎下間傍相去三寸」としている。文言は異なるが実質は同じであり,「去脊各一寸」〔脊椎の端からそれぞれ1寸〕と同じ表現である。これは古人は「脊」の幅を一寸と定めていたためである。後世の理解と表現の誤りによって,扁鵲と華佗の穴が「経外奇穴」となった。さらに『鍼灸甲乙経』の背部兪穴の記述の仕方に基づいて扁鵲と華佗の穴が改められたのである。
③ 『華佗鍼灸経』は『扁鵲鍼灸経』と相承関係にあり,扁鵲の鍼灸学を継承発展させたものである。たとえば,『扁鵲鍼灸経』に記載されている十九の背部兪穴のうち,最後の三穴には名称がなかったが,『華佗鍼灸経』ではこれらが補完されており,そのうちの第二十椎の名称は『扁鵲鍼灸経』の主治に直接基づいて「重下兪」と命名されている。この両書の関係が確定したことも,華佗が扁鵲医学の伝承者であることの有力な証拠となった。
このほか,筆者は早くも『中国鍼灸学術史大綱』において,扁鵲医学の早期の鍼灸処方の主治は,『黄帝明堂経』の関連する腧穴に取り入れられていることをすでに明確に指摘している。たとえば,扁鵲の尸厥を治療した処方の主治は,隠白・大敦・厲兌の三穴の主症にすでに見られる。このことから分かることは,『黄帝明堂経』は実際上,漢代以前の諸家の鍼灸用穴の経験を集大成したものであって,『扁鵲偃側明堂』『扁鵲鍼灸経』が一家〔一流派〕の書であるのとは異なる性質が異なる,ということである。
『扁鵲鍼灸経』の影響を受けたことが明確な鍼灸古籍には,敦煌巻子『佚名灸方』(詳細は敦煌巻子『佚名灸方』考を参照〔原書178頁~〕)や宋代の官修医書『太平聖恵方』鍼灸巻がある。たとえば『太平聖恵方』の「督兪」は『扁鵲鍼灸経』に見られ,その位置は『華佗鍼灸経』に基づくものである。また,厥陰兪は『扁鵲鍼灸経』に由来し,穴名は別名を採用しているが,扁鵲の原書では「関兪」(「闕兪」とも書かれている)を正式名称としている。気海兪は『華佗鍼灸経』に由来し,やはり別名が用いられていて,原書では「陽結兪」を正式名称としている。「関元兪」の位置と主治は『扁鵲鍼灸経』に由来する。
孫思邈が孫引きした「扁鵲曰」の文には,典型的な鍼灸処方の特徴を持つ文も見られ,引用数は上述した『扁鵲鍼灸経』に由来する佚文よりも多い。その中には,鍼灸処方の穴名と位置が上述した『扁鵲鍼灸経』から引用された文とよく一致しているものもある。例:
治眼暗灸方:灸大椎下數節第十,當脊中安灸二百壯,惟多為佳,至驗,不在方藥也(『新雕孫真人千金方』卷十一〔・肝勞第三〕)。
眼暗,灸大椎下第十節,正當脊中二百壯,唯多佳。可以明目,神良。灸滿千日,不假湯藥(『千金翼方』卷二十七〔・肝病第一〕)。
治眼暗灸方:灸大椎下數取第十節,正當脊中央二百壯,唯多為佳,至驗,不須方藥也(『醫心方』卷五〔・治目不明方第十三〕)。
肝俞,主目不明,灸二百壯,小兒寸數斟酌,灸可一二七壯(『千金翼方』卷二十七〔・肝病第一〕)。
治溫病後食五辛即不見物,遂成雀目,灸第九椎,名肝俞,二百壯,永差〔=瘥〕(『千金翼方』卷二十七〔・肝病第一〕)。
これらの灸処方の穴名とその位置は,前述した『扁鵲鍼灸経』の佚文中の肝兪穴と非常に高い一致を示しており,両者の比較可能な主治症状さえも一致して,両者の関係は唐代鍼灸大家の甄権の腧穴専門書『鍼経』とその鍼灸処方の専門書『鍼方』の関係と同じである。しかしながら,これらの証拠だけでは謝士泰が『刪繁方』を編纂した際に引用した扁鵲の鍼灸の文が,それぞれ『扁鵲鍼灸経』ともう一つの鍼灸処方書に由来するかどうかを判断することはできない。まず,現在確認されている『扁鵲鍼灸経』の佚文だけでは,判定するには十分ではない。この書の内容は腧穴だけで,鍼灸処方には言及がない。次に,隋以前の図書目録には扁鵲の名を冠した鍼灸処方の専門書は著録されていない。しかし,最近出土した扁鵲医書によれば,漢以前にはすでに扁鵲の鍼灸処方の専門書(現在の専門篇に相当)が流布しており,原書には書名がない。いまのところ公開された数条の文は以下の通り。
逆氣,兩辟(臂)、陽明各五及督;
疽病、多臥,兩陽明、少陽各五;
轉筋,足鉅陽落各五。
筆者のこれまでの研究成果により,早期の扁鵲の鍼灸処方を判定する「指紋」の特徴は確立されている。その特徴は,第一に,鍼灸処方が経脈と同名の「経脈穴」,または「経脈穴」と,部位は表記されているが名称のない穴から構成されていること,第二に,穴の下に鍼刺の数が記されていることである。
上に挙げた出土文献はこの二つの特徴を完全に満たしているので,この出土文献は早期の扁鵲の鍼灸処方の専門書と判定できる。特に注目すべきは,鍼灸処方に絡脈穴「足巨陽落」が現われたことである。これはきわめて価値のある発見である。全文が公開され,さらに多くの絡脈穴を用いる鍼灸処方が見つかれば,扁鵲の鍼灸処方の新たな発展を示すこととなる。かつまたとりわけ都合がいいことには,六朝時代の謝士泰が引用した扁鵲の鍼灸処方にも一致度がきわめて高い鍼灸処方の佚文が見つけられることである。
『刪繁方』……治轉筋,脛骨痛不可忍方:灸屈膝下廉橫筋上三炷(『醫心方』卷六〔・治筋病方第二十三〕)。
治轉筋,脛骨痛不可忍,灸屈膝下廉橫筋上三壯(『新雕孫真人千金方』卷十一〔・治筋極第四〕と『千金翼方』卷二十七〔・肝病第一〕)。
処方中の「屈膝下廉横筋上」とは,すなわち『霊枢』本輸にいう「太陽之絡」★である委陽脈であり,謝士泰が引用したこの扁鵲の鍼灸処方と老官山から出土した漢簡の扁鵲の鍼灸処方には継承関係があることを示している。『黄帝明堂経』には「委陽,三焦下輔俞也。在足太陽之前,少陽之後,出於膕中外廉兩筋間,扶承下六寸,此足太陽之絡也」とあり,同じ脈の同じ穴だと言える。特に主治の症状として「脚急兢兢然,筋急痛」★★もはっきりと挙げられている。これも『黄帝明堂経』が扁鵲の鍼灸経験を採用したもう一つの例証である。
★『靈樞』本輸:「三焦下腧在於足大趾之前,少陽之後,出于膕中外廉,名曰委陽,是太陽絡也」。
★★『鍼灸甲乙經』卷9・足厥陰脈動喜怒不時發㿗疝遺溺癃第11:「胸滿膨膨然,實則癃閉,腋下腫,虛則遺溺,脚急兢兢然,筋急痛,不得大小便,腰痛引腹不得俯仰,委陽主之」。
扁鵲の鍼灸処方の「指紋」の特徴に基づき,筆者は15年前に,出土した漢代の画像石「扁鵲鍼刺図」と『史記』扁鵲倉公列伝にみえる倉公の鍼刺処方をあらためて解読し,あわせて伝世本『素問』に収録されている早期の扁鵲の鍼処方を識別した。
*黄龙祥. 中国针灸学术史大纲 [M]. 北京:华夏出版社,2001:223-226.
孫思邈の書に保存された大量の扁鵲の鍼灸処方を見ると,多くは尸厥・卒中(五臓六腑の中風を含む)・癲狂・癰疽・瘧病に集中しており,これらはまさに早期の扁鵲医学の鍼灸治療でよく見られる病症であった。その中の多くの処方にも早期の扁鵲の鍼灸処方の「経脈穴」を用いるという特徴が反映されている。その例は,『孫真人千金方』巻十四・〔治〕風癲第五に収録されている倉公の鍼灸癲狂処方にも見られる。
狂癲風驚,厥逆心煩,灸巨陽五十壯。
狂癲鬼語,灸足太陽四十壯。
狂走驚恍惚,灸足陽明三十壯。
狂癲癇易疾,灸足少陽隨年壯。
狂癲驚走恍惚,嗔喜笑罵〔原書『孫真人千金方』は「瞋喜罵笑」に作る〕歌哭鬼語,悉灸頭太陽、腦戶、風池、手太陽、陽蹻、少陽、太陰、陰蹻、足跟,悉隨隨〔原書『孫真人千金方』は「隨」一字に作る〕年壯。
また,扁鵲鍼灸の診脈刺脈の特徴に基づいて,筆者は伝世本『霊枢』癲狂が扁鵲医学を源とすると判定した*。
* 黄龙祥. 扁鹊医籍辨佚与拼接 [J]. 中华医史杂志,2005,45(1):33-43. /『季刊内經』No.203 2016年夏号:岡田隆訳 黄龍祥「散佚扁鵲医籍の識別・収集・連結」
ここで特に注目すべきは「頭太陽」穴である。筆者が以前に目にした扁鵲の鍼灸処方の構成は,「経脈」穴で構成されるもの,専用の穴名のない鍼灸部位で構成されるもの,「経脈」穴と名を持たない鍼灸部位で構成されるものがある。しかし上に挙げた倉公の灸処方には「頭太陽」という「部位名+経脈名」という新たな腧穴命名方式が現れている。伝世医籍でまさにこの命名方式を採用しているのは,扁鵲医学の癰疽病診療において,その理論と実践を継承する『劉涓子鬼遺方』である。この書は現存する版本の質がよくないことを考慮して,ここでは『千金翼方』巻二十三が引用する『劉涓子鬼遺方』の原文を主とし,あわせて『医心方』と『諸病源候論』の二書の引用文を参照して以下のように校正した。
手心主脈有腫,癰在股脛。
手陽明脈有腫,癰在腋淵。
脇少陽脈有腫,癰在頸。
足少陽脈有腫,癰在脅。
腰太陽脈有腫,交脈屬於陽明,癰在頸。
尻太陽脈有腫,癰在足心、少陽脈。
股太陽脈有腫,癰在足太陽。
肩太陽、太陰脈有腫,癰在脛。
頭陽明脈有腫,癰在尻。
以上のように,これらの異なる部位の「脈」は,脈を診る場所であり,刺灸する場所でもある。現在知られている扁鵲医籍の佚文にはこれらの「脈」の具体的な部位はまだ見つかっていないが,扁鵲医学での診脈する場所の一般的な規則に基づいて基本的な判断は可能である。つまり,同時期の扁鵲の経脈循行に描写されている「出」る場所,および経脈の起こるところと終わるところに位置するものである。過去には扁鵲医学について理解が浅く,『劉涓子鬼遺方』が伝承する明らかな扁鵲鍼灸学に特徴的な文言をまったく読解することができなかったため,宋代に孫思邈の『備急千金要方』を校改した際に,倉公の灸処方にあったこの「頭太陽」穴も削除された。
扁鵲の鍼灸処方には,灸療の壮数が多いというはっきりとした特徴がある。まさに孫思邈が「依扁鵲灸法有至千壯〔扁鵲の灸法に依れば千壯に至る有り〕」(『新雕孫真人千金方』巻二十九)と述べているとおりである。これについては,特に癰疽の灸治において顕著である。
『醫門方』云:扁鵲曰:㿈腫癤疽風腫惡毒腫等,當其頭上灸之數千壯,無不差者;四畔亦灸三二百壯。此是醫家秘法。小者灸五六處,大者灸七八處(『醫心方』卷十五〔治癰疽未膿方第二〕)。
また『刪繁方』に収載された扁鵲の鍼灸処方をみると,数百壮や随年壮とするものが多い。
ここで特に指摘しなければならないことがある。孫思邈が当時『備急千金要方』を編纂した際に病症治療の下に多くの灸処方を付け加えたが,その多くは『刪繁方』から孫引きした『扁鵲鍼灸経』の腧穴主治であることが少なくない。しかし,宋人がこの部分を校正した時には,『千金要方』全体のスタイルに合わせるために,これらの腧穴主治条文をみな鍼灸処方の形式に改編した。そのため,扁鵲医籍の佚文を考察する際には,宋校本『備急千金要方』を決してそのまま利用してはならない。
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