2024年10月21日月曜日

  扁鵲医籍考 01

  黄龍祥『鍼灸典籍考』北京科学技術出版社,2017年より

  若干,改行を増やした。*は原注。〔〕内と★は訳者による。


 「扁鵲医籍」とは,時代を異にする扁鵲医学の伝承者が編纂した医学書のまとまりを指す。すなわち一つの流派の書ではあるが,一人が著わした書ではなく,ましてや扁鵲本人が自ら編纂した医学書ではない。

  筆者の現在の研究によれば,扁鵲学派の宗師は秦越人――扁鵲である。その影響を受けた伝承者には,漢代の淳于意と華佗,六朝の謝士泰がいるが,扁鵲の医籍を伝え広めるのに顕著な貢献をした人物は晋代の王叔和である。

 「扁鵲医籍」には脈書・方書・薬論・明堂の四種類が含まれる。その中で「明堂」類医籍の出現は比較的遅い。以上の四種類の扁鵲医籍の原書はみな後代に伝わらなかった。しかし分量にばらつきがあるが,それぞれ佚文が残っている。倉公が当時伝授された扁鵲の『脈書』上下経 (篇) の主要な内容は王叔和の『脈経』に輯録され,また伝世本『黄帝内経』に異なる形式で伝承された。その晩期の伝本の内容の一部は『難経』に伝存する。『五色診』は『脈経』と六朝の謝士泰『刪繁方』に「襄公問扁鵲」として,『千金翼方』では「黄帝問扁鵲」として引用されており,また『霊枢」五色に伝承されている。「薬論」の一部は『素問』湯液醪醴論と『刪繁方』に伝承されている。やや晩出の「明堂」の佚文の主なものは,『刪繁方』と『医心方』に見られる。

 本篇では重点的に鍼灸と密接な関係にある「脈書」と「明堂」類の佚文を考察する。


    一 扁鵲の脈書

    

 扁鵲の脈書には,脈診(脈論・脈診法・五色診・脈症・脈死候・病症の鍼灸治療)と経脈(循行と病候)が含まれ,『漢書」芸文志・方技略の「医経」類の内容に相当する。言い換えれば,劉向による「医経」に関する定義は,まさに漢以前に伝えられた扁鵲の脈書の基本的な内容を概括したものある。

   筆者が調査したところ,扁鵲の脈書を直接引用した医籍には『脈経』『刪繁方』『千金翼方』『霊枢』『素問』『難経』がある。


  (一)扁鵲の『脈法』から王叔和の『脈経』へ


 陽慶が倉公に伝え与えた扁鵲の医籍については,『史記」扁鵲倉公列伝の多くの箇所に言及がある。〔以下のアラビア数字は便宜上訳者が補った。〕


    1. 慶年七十餘,無子,使意盡去其故方,更悉以禁方予之,傳黃帝扁鵲之脈書,五色診病,知人死生,決嫌疑,定可治,及藥論,甚精。受之三年,為人治病,決死生多驗〔慶 年七十餘,子無し,意をして盡く其の故(ふる)き方を去らしめ,更に悉く禁方を以て之に予(あた)う,黃帝扁鵲之脈書を傳え,五色もて病を診,人の死生を知り,嫌疑を決し,治す可きを定む,及び藥論も,甚だ精(くわ)し。之を受くること三年,人の為に病を治し,死生を決するに驗多し〕。

    2. 慶有古先道遺傳黃帝扁鵲之脈書,五色診病,知人生死,決嫌疑,定可治,及藥論書,甚精。……臣意即避席再拜謁,受其脈書上下經、五色診、奇咳術、揆度、陰陽外變、藥論、石神、接陰陽禁書,受讀解驗之,可一年所。明歲即驗之,有驗,然尚未精也。要事之三年所,即嘗已為人治,診病決死生,有驗,精良。〔慶に古先の道有り,黃帝扁鵲の脈書を遺(のこ)し傳う,五色もて病を診,人の生死を知り,嫌疑を決し,治す可きを定む,及び藥論の書,甚だ精(くわ)し。……臣意 即ち席を避けて再拜して謁し,其の脈書上下經・五色診・奇咳術・揆度・陰陽外變・藥論・石神・接陰陽禁書を受く,之を受讀解驗すること,可(ほぼ)一年所(ばかり)。明歲即ち之を驗するに,驗有り,然れども尚お未だ精ならざるなり。要(おおむ)ね之に事うること三年所(ばかり),即ち嘗みに已(もっ)て人の為に治し,病を診て死生を決するに,驗有って,精良なり。〕

    3. 臨菑召里唐安來學,臣意教以五診、上下經脈,奇咳,四時應陰陽重,未成,除為齊王侍醫〔臨菑の召里の唐安來たり學ぶに,臣意 教うるに五診、上下經脈を以てし,奇咳,四時の陰陽の重するに應ずるも,未だ成らざるに,除せられて齊王の侍醫と為る〕。

   4. 菑川王時遣太倉馬長馮信正方,臣意教以案法逆順,論藥法,定五味及和齊湯法。高永侯家丞杜信,喜脈,來學,臣意教以上下經脈、五診,二歲餘〔菑川王 時に太倉馬長馮信をして方を正さしむるに,臣意 教うるに法の逆順を案じ,藥法を論ずるを以て,五味及び和齊の湯法を定む。高永侯の家丞の杜信,脈を喜(この)み,來たりて學ぶに,臣意 教うるに上下經脈、五診を以てすること,二歲餘〕。

    

  読んでみてすぐ気がつくが,以上の各条の扁鵲医籍の書について,二箇所で言及された陽慶が伝えた書は統一されていて,いずれも「黄帝扁鵲脈書」「五色診病」「薬論」の三種類であり,かつ原文による前の二種類の書物の内容の簡単な記述から,それが診法の書であることがわかる。第2条にある倉公が伝授されたものは,師である陽慶が伝えた書とは明らかに異なるし,「奇咳術」「揆度」「陰陽」「外変」「石神」「接陰陽禁書」の六つが多い。

 同じ文章の中で,同じ書の記述にこれほど大きな相違があるのは,文章の前後に詳細と簡略という違いがあるのかもしれない。もう一つのより大きな可能性は,この扁鵲医籍にはもともと書名がないか,あるいはその多くに書名がないことである。ここに列挙された名前はみなその内容に基づいて臨時に作成されたもので,暫定的な題名の中には,「大題」,つまり書名もあれば,「小題」,つまり篇名もあり,あるいは「大題」のみを挙げて「小題」を挙げないので,同じ書であるのに異なる名前となったり,前後で詳細だったり簡略だったりしてかなり差が大きくなっている。以上の各条で言及されている二種類の本――「脈書(上下経)」と「五色診」は,書名を指している可能性が高いが,「奇咳術」「揆度」などの多くの部分は篇名である可能性がある。倉公が引き合いに出して多く使用しているのは「脈法曰」であるが,一箇所「脈法奇咳曰」というところもある。この「奇咳」は「脈法(書)」のある篇の篇名である可能性が高いことを示している。

 以上のすべての書名の異なる表現の中で,最も誤解されやすいのは、「脈書」「脈書上下経」「上下経脈」である。今の人が持っている中国医学辞典には,「経脈」という言葉は一つの意味区分,つまり「十二本の循行する脈」があるだけである(実は,倉公の時代には,「経脈」=十二本の脈という意味区分はまだ誕生していなかった)。そこで人々は以上の三つの異なる表現を見て,つぎのように反応する。第一の反応,というか唯一かもしれない反応は,「上下経脈」と「脈書上下経」が同じ書ではありえない,というものである。しかし,以上の第3条の倉公がいう「上下経脈」の前は「五診」であり,後ろは「奇咳」であり,それが前の〔第2〕条で挙げた三書のうち二書は同じで,隣り合う一書が異なるというのは,明らかに話が通じない。これにはより多く,より強力な証拠がある。『史記』扁鵲倉公列伝におけるこれらの扁鵲医籍に関する異なる表現は,伝世本『素問』第75〜81の「雷公問黄帝」七篇にも見える。この七篇は扁鵲医籍と密接に関連している。以下で具体的に検討する。


雷公曰:臣請誦「脈脛上下篇」甚衆多矣,別異比類,猶未能以十全,又安足以明之……吾問子窈冥,子言「上下篇」以對,何也?夫脾虛浮似肺,腎小浮似脾,肝急沈散似腎,此皆工之所時亂也〔雷公曰わく:臣請う「脈脛上下篇」を誦すること甚だ衆多なり,異を別かち類を比ぶるは,猶お未だ以て十全なること能わず,又た安(いず)くんぞ以て之を明らかにするに足らん……吾れ子に窈冥を問う,子の「上下篇」を言いて以て對(こた)うるは,何ぞや?夫れ脾の虛浮は肺に似,腎の小浮は脾に似,肝の急沈散は腎に似る,此れ皆な工の時に亂るる所なり〕。(『素問』示從容論)

    

診病不審,是謂失常,謹守此治,與經相明,「上經」「下經」,揆度陰陽,奇恒五中,決以明堂,審於終始,可以橫行〔病を診るに審らかならず,是れを失常と謂う,謹んで此の治を守れば,經と與(とも)に相い明らかなり,「上經」「下經」,揆度陰陽,奇恒五中,決するに明堂を以てし,終始を審らかにして,以て橫行す可し〕。(『素問』疏五過論)

    

黃帝……而問雷公曰:陰陽之類,經脈之道,五中所主,何藏最貴?雷公對曰:春甲乙青,中主肝,治七十二日,是脈之主時,臣以其藏最貴。帝曰:却念「上下經」陰陽、從容,子所言貴,最其下也……雷公曰:臣悉盡意,受傳「經脈」,頌得從容之道,以合「從容」,不知陰陽,不知雌雄。帝曰:三陽為父,二陽為衛,一陽為紀。三陰為母,二陰為雌,一陰為獨使〔黃帝……而して雷公に問いて曰わく:陰陽の類,經脈の道,五中の主る所,何れの藏か最も貴き?雷公對えて曰わく:春は甲乙にして青,中は肝を主り,七十二日を治す,是れ脈の主る時,臣 其の藏を以て最も貴しとす,と。帝曰わく:却(かえ)って「上下經」陰陽・從容を念(おも)うに,子の貴しと言う所は,最も其の下なり,と。……雷公曰わく:臣悉く意を盡くし,「經脈」を受け傳え,從容の道を頌し得て,以て「從容」に合するも,陰陽を知らず,雌雄を知らず,と。帝曰わく:三陽は父為(た)り,二陽は衛為り,一陽は紀為り。三陰は母為り,二陰は雌為り,一陰は獨使為り,と〕。(『素問』陰陽類論)

    

是以少氣之厥,令人妄夢,其極至迷。三陽絕,三陰微,是為少氣。是以肺氣虛則使人夢見白物,見人斬血藉藉,得其時則夢見兵戰。腎氣虛則使人夢見舟船溺人,得其時則夢伏水中,若有畏恐。肝氣虛則夢見菌香生草,得其時則夢伏樹下不敢起。心氣虛則夢救火陽物,得其時則夢燔灼。脾氣虛則夢飲食不足,得其時則夢築垣蓋屋。此皆五藏氣虛,陽氣有餘,陰氣不足,合之五診,調之陰陽,以在「經脈」〔是こを以て少氣の厥は,人をして妄りに夢みしめ,其の極みは迷いに至る。三陽絕し,三陰微,是れを少氣と為す。是こを以て肺氣虛すれば則ち人をして夢に白物を見しめ,人をして斬血藉藉たるを見しめ,其の時を得れば則ち夢に兵戰を見る。腎氣虛すれば則ち人をして夢に舟船の溺人を見しめ,其の時を得れば則ち夢に水中に伏して,畏恐有るが若(ごと)し。肝氣虛すれば則ち夢に菌香生草を見しめ,其の時を得れば則ち夢に樹下に伏して敢えて起たず。心氣虛すれば則ち救火陽物を夢み,其の時を得れば則ち燔灼を夢む。脾氣虛すれば則ち飲食不足を夢み,其の時を得れば則ち垣を築き屋を蓋うを夢む。此れ皆な五藏の氣虛し,陽氣有餘し,陰氣不足す,之を五診に合わせ,之を陰陽に調うるは,以て「經脈」に在り〕。(『素問』方盛衰論)

    

 倉公が受けとった書の中の「五色診」「奇咳術」「揆度」「陰陽」は,すでに『疏五過論』『方盛衰論』に見られ,その「脈書上下経」は「脈経上下篇」に対応することは間違いない。しかし後者は『素問』では,「上下篇」「上下経」「上経」「下経」にいう「経脈」(特に第3条の「経脈」)はまた「上下経」と同じ意味として互いに置き換えることができ,明らかに同じ書名である。つまり倉公の「上下経脈」「脈書上下経」に対応し,それが論じているのはみな脈診であり,十二経脈ではなく,『史記』扁鵲倉公列伝で述べられている「知人死生,決嫌疑,定可治〔人の死生を知り,嫌疑を決し,定めて治す可し〕」と完全に対応する*。


      *たとえば,『素問』示従容論は,『脈経』の上下篇によって脈法の「別異比類」のことをいい,あわせて「脾虛浮似肺,腎小浮似脾,肝急沈散似腎」を例として挙げている。これに対して倉公は文帝からの問いに「別異比類」の手順を具体的に解釈している。最後の方盛衰論の条文では,『経脈』によって三陰三陽脈の「絶」と「微」を夢によって診断している。この文は『千金要方』では「扁鵲曰」として引用されている。この条文中の「腎気虚」の文については,『脈経』〔巻2〕平三関陰陽二十四気脈第一にも見られるので,これが扁鵲の脈法を出典としていることは,さらに疑いない。


 扁鵲医籍を集録した伝世本『素問』の七篇に引用された書名と引用された内容の概略から,以下のことを証明することができる。すなわち,『史記』扁鵲倉公列伝で言及されている「脈書」「脈書上下経」「上下経脈」は同一書についての異なる呼び名である。三者が同一書を指しているからこそ,倉公もその「診籍」において,概括して「脈法曰」としてその文章を引き合いに出しているのである。

 「黄帝扁鵲之脈書」について,これは扁鵲の脈書であって,黄帝の脈書と扁鵲の脈書の二種類ではないことは,李伯聡氏によってすでに論証されている*。「黄帝扁鵲之脈書」と題されているのは,この伝本にはもともと書名がなく,書中に「黄帝・扁鵲」の問答のことばがあることに基づいて書名を擬して,それによって引用しやすくしたためである。筆者は下文においてこの伝本について具体的に検討する。

    * 李伯聪. 扁鹊和扁鹊学派研究 [M]. 西安:陕西科学技术出版社,1990:186.


 倉公の臨証での脈診であれ,その弟子への教育であれ,いずれもこの扁鵲の「脈書」を極めて重視しており,その行方を探ることも筆者の主要な務めとなる。初期の手がかりは依然として信頼度の高い倉公の「診籍」から探る。


風癉客脬,難於大小溲,溺赤……病得之流汗出㵌。㵌者,去衣而汗晞也……脈法曰「沈之而大堅,浮之而大緊者,病主在腎」〔風癉 脬に客し,大小溲に難く,溺(にょう)赤し……病は之を流汗出㵌に得たり。㵌なる者は,衣を去って汗晞(かわ)くなり……脈法に曰わく「之を沈めて大堅,之を浮べて大緊なる者は,病 主として腎に在り」〕(『史記』扁鵲倉公列傳)。

    

 倉公が述べた片言隻句だけでは,この「扁鵲の脈書」の内容についてかなり確定的な認識を持つことは難しいが,綿密な調査と比較を通じて,筆者は倉公が引用した「脈法」の文と絶妙に一致する条文を王叔和の『脈経』の中に見つけた。


腎脈沈之大而堅,浮之大而緊,苦手足骨腫,厥,而陰不興,腰脊痛,少腹腫,心下有水氣,時脹閉,時泄。得之浴水中,身未乾而合房內,及勞倦發之〔腎脈 之を沈めて大にして堅,之を浮べて大にして緊なるは,手足の骨腫に苦しみ,厥し,而して陰 興らず,腰脊痛み,少腹腫れ,心下に水氣有り,時に脹閉し,時に泄らす。之を水中に浴し,身未だ乾かずして房內に合して得,及び勞倦もて之を發す〕(『脈經』卷六・腎足少陰經病證第九)。


 以上の倉公が引いた「脈法曰」の文は,すべて『脈経』の引用文の中に見られる。すなわち『脈経』のこれらの文の源は,倉公が伝授された『脈法』という書にある。

 筆者は丁寧に比較をおこなったところ,さらに多くの倉公「診籍」中の脈論と極めて一致度の高い対応文を,思いもかけず『脈経』で見つけることができた。


 脈法曰「脈來數疾去難而不一者,病主在心」。周身熱,脈盛者,為重陽。重陽者,逿心主。故煩懣食不下則絡脈有過,絡脈有過則血上出,血上出者死。此悲心所生也,病得之憂也〔脈法に曰わく「脈來たること數疾にして去ること難くして一ならざる者は,病 主として心に在り」。周身熱し,脈盛んなる者は,重陽と為す。重陽なる者は,心主を逿(うご)かす。故に煩懣して食下らざれば則ち絡脈に過有り,絡脈に過有れば則ち血上り出で,血上り出づる者は死す。此れ悲心の生ずる所なり,病 之を憂いに得るなり〕(『史記』扁鵲倉公列傳)。

    

 心脈沈之小而緊,浮之不喘,苦心下聚氣而痛,食不下,喜咽睡,時手足熱,煩滿,時忘不樂,喜太息,得之憂思〔心脈 之を沈めて小にして緊,之を浮べて喘ならざるは,心下に氣を聚めて痛むを苦しみ,食下らず,喜(しば)しば咽睡し,時に手足熱し,煩滿し,時に忘れて樂しまず,喜(しば)しば太息す,之を憂思に得たり〕(『脈經』卷六・心手少陰經病證第三)。

    

心病,煩悶,少氣,大熱,熱上盪心,嘔吐,咳逆,狂語,汗出如珠,身體厥冷。其脈當浮,今反沈濡而滑。其色當赤,而反黑者,此是水之克火,為大逆,十死不治〔心の病は,煩悶し,少氣し,大熱し,熱上って心を盪(うご)かし,嘔吐し,咳逆し,狂語し,汗出づること珠の如く,身體 厥冷す。其の脈 當に浮ぶべきに,今反って沈濡にして滑。其の色 當に赤かるべきに,而も反って黑き者は,此れは是れ水の火を克し,大逆と為す,十死して治せず〕(『脈經』卷六・心手少陰經病證第三)。

    

 第一条の文は,まず脈象と脈症を述べ,さらに「得之」の二字で病因を導き出すのは,まさに『脈法』の典型的な形式である。第二条の文は内容が一致するだけでなく,「逿心主」という特徴的な語句にもぴったりと対応している。ちなみに,ここにある「心主」は心を指していて,決して「心包」と誤解してはならない。かつまた,この条文にある陽明脈候中の「黒」の意味――逆証であって順証ではないこと――を明らかにしている。同時に陽明脈症の典型的な顔色が「赤」であることも指摘している。

  扁鵲の脈書の佚文では,陽明脈象と脈象に関する解釈が,みな心と関係があることもわかった。


 心,南方火也。萬物之所盛,垂枝布葉,皆下曲如鉤,故其脈之來疾去遲〔心は,南方火なり。萬物の盛んなる所,枝を垂れ葉を布き,皆な下って曲がること鉤の如し,故に其の脈の來たること疾く去ること遲し〕(『難經』十五難)〔『難経集注』による〕。

    

陽明之脈,浮大以短,動搖三分。大前小後,狀如科斗,其至跳〔陽明の脈,浮大以て短,動搖すること三分。大なる前 小なる後にして,狀(かたち) 科斗(オタマジャクシ)の如し,其の至ること跳〕(『脈經』卷五・扁鵲陰陽脈法第二)。


  この時我々は初めて倉公の脈法にいう「脈來數疾去難而不一者,病主在心〔脈來たること數疾にして去ること難くして一ならざる者は,病 主として心に在り〕」の意味を理解することができる。

 この考えに沿ってたぐっていくと,また一連のものが引き出せた。


    肝脈沈之而急,浮之亦然,苦脇下痛,有氣支滿,引少腹而痛,時小便難,苦目眩頭痛,腰背痛,足為逆寒,時癃,女人月使不來,時無時有,得之少時,有所墜墮〔肝脈 之を沈めて急,之を浮べても亦た然り,脇下痛を苦しみ,氣の支滿すること有って,少腹に引きつれて痛み,時に小便難く,目眩(めまい)頭痛を苦しみ,腰背痛み,足は逆寒を為し,時に癃し,女人は月使來たらず,時に無く時に有るは,之を少(わか)き時に得,墜墮する所有り〕(『脈經』卷六・肝足厥陰經病證第一)。

    

    脾脈沈之而濡,浮之而虛,苦腹脹,煩滿,胃中有熱,不嗜食,食而不化,大便難,四肢苦痹,時不仁,得之房內。月使不來,來而頻併〔脾脈 之を沈めて濡,之を浮べて虛,腹脹るるを苦しみ,煩滿し,胃中に熱有り,食を嗜まず,食すれば化(こな)れず,大便難く,四肢 痹を苦しみ,時に不仁するは,之を房內に得たり。月使來たらず,來たれば頻りに併す〕(『脈經』卷六・脾足太陰經病證第五)。

    

    肺脈沈之而數,浮之而喘,苦洗洗寒熱,腹滿,腸中熱,小便赤,肩背痛,從腰以上汗出。得之房內,汗出當風〔肺脈 之を沈めて數,之を浮べて喘,洗洗として寒熱を苦しみ,腹滿ち,腸中熱し,小便赤く,肩背痛み,腰從り以上汗出づ。之を房內し,汗出でて風に當たるに得たり〕(『脈經』卷六・肺手太陰經病證第七)。〔「以」一作「已」。〕


 「肝脈」「脾脈」「肺脈」の条文は前述の倉公が引用した「脈法曰」の文の構造様式と完全に一致している。『脈経』の三条の文はすべて同じ本――扁鵲「脈法」から収録されたものである。

 特筆すべきことは,『脈経』のこの条文がみな先ず脈を診て,後に症を述べ,さらに「待之」の二字で病因を導き出す表現形式は,まさに倉公診籍の典型的な「筆法」である。ここから推測することができることは,倉公の『診籍』は扁鵲「脈法」を拠り所とするだけでなく,記述形式も「脈法」の筆法を借用したということである。

 『史記』扁鵲倉公列伝に引用される「脈法」という確定的な手がかりを利用すると,『脈経』にある扁鵲医籍にかかわる多くの遺文を識別することができる。例えば:〔以下,『脈経』の句読点を増やして,不揃いを統一した。〕


    所以知成開方病者,診之,其『脈法』奇咳言曰「藏氣相反者死」。切之,得腎反肺,法曰「三歲死」也〔成開方(人名)の病を知る所以の者は,之を診るに,其の『脈法』奇咳の言に曰わく「藏氣相い反する者は死す」と。之を切して,腎の肺に反するを得たり,法に曰わく「三歲にして死す」と〕(『史記』扁鵲倉公列傳)。

    

    春三月木王,肝脈治當先至;心脈次之;肺脈次之;腎脈次之;此為四時王相順脈也。到六月土王,脾脈當先至,而反不至,反得腎脈,此為腎反脾也,七十日死。何為腎反脾?夏火王,心脈當先至,肺脈次之,而反得腎脈,是謂腎反〔原文「反腎」。影宋本により改む〕脾。期五月・六月,忌丙丁。〔春の三月 木王し,肝脈の治 當に先ず至るべし。心脈 之に次ぐ。肺脈 之に次ぐ。腎脈 之に次ぐ。此れを四時王相の順脈と為すなり。六月に到って土王し,脾脈 當に先ず至るべきに,而れども反って至らず,反って腎脈を得るは,此れを腎 脾に反すると為すなり,七十日にして死す。何を腎 脾に反すと為す?夏は火王して,心脈 當に先ず至り,肺脈 之に次ぐべきに,而れども反って腎脈を得るは,是れを腎の脾に反すと謂う。五月・六月を期して,丙丁を忌む。〕

    

    脾反肝,三十日死。何謂脾反肝?春肝脈當先至,而反不至,脾脈先至,是謂脾反肝。期正月、二月,忌甲乙。〔脾 肝に反すれば,三十日にして死す。何を脾 肝に反すと謂う?春は肝脈 當に先ず至るべきに,反って至らずして,脾脈 先に至る,是れを脾 肝に反すと謂う。正月・二月を期して,甲乙を忌む。〕

    

    腎反肝,三歲死。何為腎反肝?春肝脈當先至,而反不至,腎脈先至,是謂腎反肝也。期七月、八月,忌庚辛。〔腎 肝に反すれば,三歲にして死す。何を腎 肝に反すと為す?春は肝脈 當に先ず至るべきに,反って至らず,腎脈 先ず至る,是れを腎 肝に反すと謂うなり。七月・八月を期し,庚辛を忌む。〕

    

    腎反心,二歲死。何為腎反心?夏心脈當先至,而反不至,腎脈先至,是謂腎反心也。期六月,忌戊己。〔腎 心に反すれば,二歲にして死す。何を腎 心に反すと為す?夏は心脈 當に先ず至るべきに,反って至らず,腎脈 先ず至る,是れを腎 心に反すと謂うなり。六月を期し,戊己を忌む。〕

                                                ――『脈經』卷四・診四時相反脈證第四


 注意を要することは,倉公が引用する『脈法』奇咳は「腎反肺,法曰三歲死」で,『脈経』で対応する文が「腎反肝」となっていて,宋人の校改を経ていない『新雕孫真人千金方』巻二十七・診四時相反脈は「肝反肺」になっていることである。伝写の過程で出てきた異文であろうから,唐代の孫思邈が文末に次のように注記している。「此中不論肺金之氣,疏略未預指南,又推五行亦頗顛倒,待垂〔宋版は「求」に作る〕別錄上〔此の中 肺金の氣を論ぜず,疏略にして未だ指南に預らず,又た五行を推すに亦た頗る顛倒すれども,待垂〔「求」〕別錄上〕」。テキストに乱れがあるとはいえ,『脈経』診四時逆脈証第四は扁鵲の脈書に由来することは疑いなく,かつその原文の篇名は「奇咳」であった可能性が高い。

 つまり,『脈経』に保存されている扁鵲の脈書の内容は,これまで我々が以前考えていたような第五巻の四篇の扁鵲脈法に関する専門篇や,書中に「扁鵲曰」と冠された少量の文に限られるものではない。「扁鵲」の名が記されていない篇章にも,実際には扁鵲の脈書の文章が大量に引用されている。倉公が陽慶から伝えられた扁鵲の医籍は魏晋時代にも伝存していたと断言できる。伝本が異なる可能性はあるものの,王叔和は職務上の便宜からそれを閲覧することができて,その中の色脈診の部分をそのまま『脈経』に収録した。さらには「脈経」という書名さえも,倉公が言及した書名――「脈書上下経」をそのまま借用した可能性が高い。筆者は扁鵲の医籍に関する多くの難題を研究する中で,『脈経』という重要な証拠を十分に活用して,新たな発見と突破口を次々と得た。

 『脈経』の基本構成を繰り返し研究した結果,筆者は以下のような大胆な判断を下した。すなわち,『脈経』の診法部分は扁鵲の脈書を主体とし,他の諸家の関連文を補足として編纂されたものである。以上の具体的な証拠以外に,マクロレベルの証拠もある。『脈経』の自序に,「其の王・阮・傅・戴・呉・葛・呂・張,傳うる所の異同,咸(み)な悉く載錄す」という。脈診を特技としない各家の諸説についてはすべて記載されているのに対して,脈法の宗祖たる「扁鵲」には一言も触れていない。こんなことがまかり通るだろうか。あらためて本文に引用された各家の言葉を見直してみると,新たに編纂された文でさえすべて注がある。これに対して大量に一段まるごと引用されている扁鵲の医書の文にはかえって注がきわめて少ない。一層論理に合わない。これらはみな王叔和が『脈経』の引用出典を注記する規則について強く示唆している。その規則とは,第一に,篇全体が扁鵲の脈書を主体とし,他の諸家の説で補足する場合は,主体部分には注をつけず,補足する文の出典のみを標記する。第二に,篇全体がその他の文献を主体とし,扁鵲の脈書で補足する場合は,「扁鵲曰」という字句を標記する。第三に,その篇の全文が扁鵲の脈書から収録された場合は,篇題に明記される。このような専門篇――たとえば巻五の「扁鵲脈法第三」に,「扁鵲曰」という字句が現われる場合は,引用された扁鵲医籍の原書にもとからあったものであり,王叔和が加えた標注ではない。


 

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