2023年5月25日木曜日

成都老官山漢墓の漆塗り人形から見た足陽明経脈の変遷進化 03

   3 討論

 古代の異なる時期の鍼灸に関連する文物や文献の足陽明経脈の循行に関する記載と,文物が所属した年代や経脈循行の総体的な特徴を結びつけてわかることは,経絡の形成過程は単純から複雑へ、浅いものから深いものへ,あいまいなものから明晰なものへの複雑な過程である。それは一元化した単線的な発展変化ではなく,多元化した発展の総合的結果である。『内経』以前にもっと初期の経脈理論が存在したかもしれないし,地域性のある経絡理論の観点と認識が存在したかもしれない。老官山漢墓から出土した漆塗り人形にこの点が特に顕著にあらわれている。


  参考文献

[1] 梁繁荣,曾芳,周兴兰,等.成都老官山出土经穴髹漆人像初探[J]. 中国针灸,2015,35(1):91-93.

[2] 梁繁荣,谢克庆,和中浚,等,西汉人体漆雕经脉研究[J].上海中医药杂志,1998(5):36-39.

[3] 马继兴.针灸学通史[M].长沙:湖南科学技术出版社,2011:189.

[4] 赵树宏,张艳春,马淑然,从《帛书》到《黄帝内经》经脉名称发展之探究[J].中国中医药现代远程教育,2012,10(22):70-71.

[5] 马继兴.双包山汉墓出土的针灸经脉漆木人形[J].文物,1996(4):55-65,98.


2023年5月24日水曜日

成都老官山漢墓の漆塗り人形から見た足陽明経脈の変遷進化 02

   2 足陽明経の発展変化に関する認識


 2.1 経脈循行は単純から複雑へ

 老官山漆人を双包山漆彫,『足臂』『陰陽』および『霊枢』経脈の足陽明脈の循行と対比してみれば,その間に多くの類似点が存在することを発見することは容易なことである。たとえば,いずれもみな下腿・膝・大腿部・乳房および顔面頰部を循行している。もちろん,支脈があるかないか,循行して連係する臓腑器官があるかないか,交叉する経脈があるかないか,そして腧穴に言及しているかいないかなど,多くの相違がある。

 『足臂』『陰陽』における当該経は一本の主脈があるのみで,支脈および臓腑との属絡に言及していないが,老官山漆人と比較して,最大の相違点は連絡する器官にある。双包山漆彫では,この経は縦方向に分布する一本の主脈であり,他の経との交叉は少なく,経脈には腧穴は表示されていない。老官山漆人の体表では8本の経脈線と交叉し,経絡循行ルートとの合流に関する情報などは双包山漆彫より豊富で複雑である。そのうえ腧穴が経上にある。しかし,臓腑との属絡はまだ見られていない。もちろん,これは模型上で内臓との絡属関係を描写するのに不便であることと関係があるかもしれない。『霊枢』経脈になると,この経の循行の記述はさらに改善され,循行はより詳細で複雑なものになり,足陽明経には3本の支脈があり,さらにこの経は「胃に属し脾に絡し」,鼻・歯・口唇・乳内廉などの器官と連係することを明確に提示している。

 双包山漢墓が漢の武帝の前、老官山漢墓が西漢の景帝・武帝の時期であることから勘案すると,出土した漆人はその時期より遅くはないはずである。しかし,老官山漆人はより精緻に作られており,その経脈の数,循行ルート,交叉などはいずれも双包山漆人より豊富で複雑であるため,この時期の経絡学説研究に対してより重要な医学と文化財としての研究価値がある。老官山漆人に見える足陽明経に関する線刻は,馬王堆漢墓の先秦医書と『霊枢』の間にあり,三者の間には簡から繁へ,不十分な状態からから徐々に完備へと発展する傾向が明らかに現れている。そのため,足陽明経を含む経絡理論全体が発展形成される過程における異なる発展段階をあらわしている。


 2.2 循行して連係する臓腑と器官

 『黄帝内経』は「夫(そ)れ十二経脈なる者は,内は府蔵に属し,外は肢節に絡す」という。人体の五臟六腑,四肢百骸,五官九竅,皮肉筋骨などの組織器官は,すべて十二経脈に依存して有機的な全体を構成している。十二経脈もまたそれぞれ臓腑器官,体幹四肢と連絡することによって異なる機能を持っている。馬王堆帛書に記載された足陽明経の循行は,内在的な臓腑の連絡には言及がなく,わずかに乳・口・鼻・目などとの連係しか記載されていない。2つの漆彫人では,経脈の循行は体表に記されている。この経が乳内廉・口・鼻につながることはわかるが,体内の循行は描きようがない。したがって足陽明経は胸腹を循行するが,体内に入って臓腑に属絡するかどうかはまだ不明である。『霊枢』経脈では足陽明経の体内にある支脈は「膈を下り胃に属し脾に絡す」。脾・胃との連係,この経の体内での循行はその記載により十分に明らかになった。そのため、われわれは,人類が足陽明経脈が臓腑・器官と連係することに関する認識も絶えざる発見と改善の過程にいたことを見いだせた。


 2.3 命名の変遷 

 古今の経脈の名称を見渡すと,その陰陽の気の多少,循行する部位および属絡する臓腑との関係などによってその名が付けられていることが多い。『陰陽』は陰陽からのみ命名され,足陽明胃経を「陽明経」と命名し,『足臂』は『陰陽』を基礎として足臂を追加し,この経を「足陽明脈」と呼んだ。双包山漆人の経脈については,古代文献に基づいて漆人の経脈の名称を推論し,「足陽明脈」と命名した。老官山漆人ではこの経を主に老官山漢墓から出土した医簡にある経脈に関する記載に基づいて「足陽明脈」と命名した。以前の経脈の命名とくらべて最も際立っている『霊枢』経脈の命名の特徴は,足臂と陰陽を基礎として臓腑を補充し,「足陽明胃経」を考案したことである。


 2.4 流注方向の分析

 経脈流注の方向はずっと鍼灸領域の討論の重要な問題である。同一名称の経脈に対して,その開始部位と終止部位は文献によって記載が異なり,しかも求心性と遠心性という流注の方向の問題においては,完全に反対の主張すらある[5]。足陽明胃経の循経について,馬王堆帛書の流注の方向は下腿から顔面あるいは鼻へで,すなわち求心性である。双包山漆人の足陽明経の流注は,馬継興先生の考察によると、目から足に達する。即ち遠心性である。『霊枢』経脈では,足陽明胃経の流注は目下から足に至る。即ち遠心性である。老官山漢墓から一緒に出土した医簡には経脈に関する記載がある。それに基づけば,現在のところ,漆人の体表の足陽明経の流注は下腿から鼻へ,即ち求心性であると考えられる。経脈が流注する順序に関する文献間の記述の不一致は,足陽明胃経に既に存在していることがわかる。経脈循行の方向は,根本的には経気が運行する方向であり,それは経絡理論が形成された初期において,人類が経気が運行する方向の多様性に対する観察をあらわしており,求心性と遠心性が同時に出現していることは,経気の運行に関する双方向性の観点をあらわしている。即ちツボを刺激する時,経脈に循う感伝は,経脈の循行線に沿って遠心性と求心性の双方向性の伝導を呈する。もちろん更に重要なのは絶えず練り上げ改善される過程で,単一の経脈循行を主とし,『霊枢』経脈の「環の端無きが如く,……終わって復た始まる」全身の経気が環状に流注する移行が完成したことである。更に経絡の形成は循行方向が定まらず,経絡間の連絡が定まらず,臓腑の属絡関係が定まらない状態から発展し,循行方向が規則的になり,経絡間の連絡が相対的に固定し,臓腑の属絡関係が確定する過程が確認された。


2023年5月23日火曜日

成都老官山漢墓の漆塗り人形から見た足陽明経脈の変遷進化 01

  1 歴代の関連文献文物の足陽明経に対する異なる記載と特徴の比較


 1.1 成都老官山漢墓経穴漆塗り人形像

 老官山漆人の正面には,おおむね縦方向に走る線がある。この線は口鼻・胸腹・下肢の前部を通るが,明確な分枝はない。その具体的な循行部位は「足の小指次指―足背に上る―脛の外廉―膝蓋骨―大腿全部―気街―小腹――乳内廉―咽喉―唇を環る―鼻」である。帛書や綿陽双包山漆人などの文献文物中の経脈循行分布の特徴と比較勘案して,われわれはこの線を足陽明経と確定した。

 この漆人の足陽明経の左右循行分布は基本的に対称であり,左右とも循行線は一本だけで,主に頭・体幹・下肢の前面に分布し、起点・止点はそれぞれ足の小指次指と鼻であり,走行区域は乳内廉・咽喉・唇などの組織構造と連携している。この経には支脈はない。


 1.2  綿陽双包山漢墓人体経脈漆彫〔堆朱〕

 1993年に四川省綿陽市永興鎮双包山漢墓から人体経脈漆彫が出土し、この漆彫の体表には経脈10本が彫り描かれている。その中には足陽明経が含まれている。研究成果によれば,双包山漆人の足陽明は顔面部,目下の正中から起こり,頰部から口角へ下り,ここで手太陰脈の起始部と合流した後,まっすぐ下行し,前頸部の結喉外方を過ぎ,手少陰脈の起始部と合流した後,鎖骨を越えて下行し,胸部乳頭正中(前胸第二縦線)を経て,垂直に下って上腹部から下腹部へ過ぎ,鼠径溝の正中,大腿部(前面,正中線),膝蓋部(前面,正中線),下腿部(前面,正中線),足背部(正中線)をへて,足の中指端で止まる[2]。

 この漆人の体表にある足陽明経は一本しかなく,支脈はない。この経は顔面と体幹と下肢の前側に分布し,目下から起こり,足の中指端に止まる。走行する区域は頰骨部と口角と乳中に連係し,口角で手太陰と交叉し,頸部で手少陰と交叉する。


 1.3 『足臂十一脈灸経』『陰陽十一脈灸経』

 『足臂十一脈灸経』(『足臂』と略称する)と『陰陽十一脈灸経』(『陰陽』と略称する)で足陽明経の内容に関連するところは以下のとおり[3]:①『足臂』:「足陽明脈,循胻中,上貫膝中,出股,挾(夾)少腹,上出乳內兼(廉)出膉(嗌),挾(夾)口,以上之鼻」。②『陰陽』:「陽明脈,繫於骭骨外廉,循骭而上,穿髕,出魚股之外廉(「廉」字は原欠),上穿乳,穿頰,出目外廉,環顏」。

 『足臂』と『陰陽』に記載されている足陽明経にはいずれも支脈がなく,主となる一本の脈しかないが,実際に経過する箇所には違いがある。共通するところは,どちらも下腿から始まり,膝部・大腿前部・乳をへて,最後に顔面に至るが,顔面での循行については両者の差が大きい。『足臂』にはこの経が「膉(嗌)に出で,口を挟み,以て上って鼻に之く」と記載されているが,『陰陽』には「頰を穿ち,目の外廉に出で,顏を環る」と記載されており,顔面で関連する器官が全く異なり,前者は老官山漢墓漆人に似ているが,後者の「頰を穿ち,顏を環る」などは『霊枢』に記載されている内容と類似するところがある。


 1.4  『霊枢』経脈および後世の医書

 『霊枢』経脈は経絡理論の基礎を定めた書とみなされている。後世の多種の医書,たとえば『鍼灸甲乙経』『鍼灸大成』『医宗金鑑』などの経脈循行に関する内容は『霊枢』経脈の説を模範としていることが多いため,ここでは『霊枢』経脈に見える足陽明経の循行についてのみ論ずる。

 『霊枢』経脈には「胃足陽明之脈,起於鼻,交頞中,旁約太陽之脈,下循鼻外,入上齒中,還出挾口環唇,下交承漿,卻循頤後下廉,出大迎,循頰車,上耳前,過客主人,循發際,至額顱;其支者,從大迎前,下人迎,循喉嚨,入缺盆,下膈屬胃絡脾;其直者,從缺盆下乳內廉,下挾臍,人氣街中;其支者,起於胃口,下循腹里,下至氣街中而合,以下髀關,抵伏兔,下入膝臏中,下循脛外廉,下足跗,入中指內間;其支者,下膝三寸而別,下入中指外間;其支者,別跗上,入大指間,出其端」と記載されている。

 この経の循行は体内と体外の両部分に関連し,1本の主脈,3本の支脈があり,循行する間に脾臓・胃腑と連絡する。これは足陽明経が臓腑と連絡することを最も早く明確に提出した文献記載である。それと同時に鼻・歯・口唇・乳内廉などの器官と連絡する。


 1.5  足陽明経の循行特徴の比較

 老官山漆人,双包山漆人,『足臂』『陰陽』に示される足陽明経はいずれも主となる脈が1本あるだけで,支脈はないが,『霊枢』経脈にはこの経に3本の支脈があり,そのルートは他よりはるかに複雑である。この経の循行方向や連絡する臓腑器官の記載は,各本ごとに相違がある。具体的な内容を表1にまとめた。


  表1 足陽明経循行特徴の対比


出典       起点      止点    循行方向   連係臓腑   連絡器官     支脈

成都老官山漆人 小趾次趾  鼻      未知    未見   乳内廉・口・鼻   なし

綿陽双包山漆人 目下正中 足中趾端  由上至下    未見    口角・乳     なし

足臂十一脈灸経 胻(脛骨) 鼻    由下至上    未見    乳・口・鼻    なし

陰陽十一脈灸経 骭骨外廉  顏    由下至上    未見    乳・目外廉      なし

        (脛骨外) 

霊枢.経脈   鼻   中趾内間     由上至下    脾胃  鼻・歯・口唇・乳内廉 支脈3本

                                                                 (支脈:具体的には経脈の循行に関する記載を参照)


2023年5月22日月曜日

成都老官山漢墓の漆塗り人形から見た足陽明経脈の変遷進化 00

           『遼寧中医雑誌』2017年第44卷第1期

 印帥1,程施瑞1,曾芳1,謝濤2,3,周興蘭1,江章華2,3,梁繁榮1

(1. 成都中医药大学针灸推拿学院,四川 成都610075;2. 成都市文物考古研究所,四川 成都610075; 3. 成都市博物院,四川 成都610075)


 【要約】成都の老官山漢墓から出土した経穴漆塗り人形は我が国で今までに発見されたうちで最も早く,最も完全な経穴人体模型であり,古代における経絡理論の形成発展を理解するうえで重要な学術的価値がある。本文は老官山漢墓人形の経絡線が循行するルートと歴代の関連文献の記載を総合的に分析し,足陽明胃経の循行が変化した状況を検討し,経絡理論の発展の流れを整理するための根拠を提供する。


 【キーワード】足陽明胃経;成都老官山漢墓;漆塗り人形


 2012年7月,四川省成都市金牛区天回鎮で前漢時代の土坑木椁墓4基が考古学者によって発見された。地元ではこの地を俗に「老官山」と呼んでいることから,老官山漢墓という。その中の3号墓から木製で漆塗りの人物像が出土した。考古学者が調査したところ,現在のところ我が国で発見された最も早く,最も完全な経穴人体模型と認定された[1]。この木人像は木製漆塗りで,高さは約14 cm,五官〔鼻・眼・口唇・舌・耳など〕の位置造形は正確で,頭と四肢の構造の比率は調っている。その体表には陰刻の白い経脈をえがいた細い線が29本あり,『霊枢』経脈篇に記載されている十二経脈循行布置の特徴とほぼ類似しているが,具体的な循行にはなお多くの違いがある。同時に,帛書の十一脈の循行や綿陽双包山漆人の十脈循行と比較すると,その経脈循行路と交差に関する情報などはいずれもより豊富で複雑であることがわかる。そのため,この漆塗り人形の経脈循行システムを包括的かつ詳細に研究をおこなうことは,古代の経脈理論の源流をさかのぼり,より完備し,統合されたものにするために重要な学術的および臨床的意義がある。

 老官山漆塗り人形にある陰刻の29本の白線のうち,漆人の頭部・体幹・下肢の前に位置する1本の白線の循行ルートは古籍に記載されている足陽明胃経の循行とかなり類似度が高く,課題グループの研究によって足陽明胃経と認定された。本文は足陽明経脈から着手し,老官山漆人・綿陽双包山漆人・帛書および『霊枢』の文を画像化したものに対して総合的な比較分析をおこない,足陽明胃経の循行が変化した状況を深く検討し,経絡理論の発展過程を整理するための根拠を提供する予定である。


東洋文庫ミュージアム 企画展「東洋の医・健・美」

 会期:2023年5月31日(水)~9月18日(月・祝)

詳細は,

http://www.toyo-bunko.or.jp/museum/ikenbi-detail.pdf

http://www.toyo-bunko.or.jp/museum/ikenbi-pressrelease.pdf

2023年5月2日火曜日

天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 06

   参考文献

[1] 成都文物考古研究所,荆州文物保护中心.成都市天回镇老官山汉墓[J].考古,2014(7):59-70.

[2] 梁繁荣,王毅.揭秘敝昔遗书与漆人:老官山汉墓医学文物文献初识[M].成都:四川科学技术出版社,2016:257. 

[3] 黄龙祥.老官山出土汉简脉书简解读[J].中国针灸,2018,38(1):97-108.

[4] 中国中医科学院中国医史文献研究所,成都文物考古研究所,荆州文物保护中心.四川成都天回镇汉墓医简整理简报[J].文物,2017(12):48-57.

[5] 灵枢经(点校本)[M].北京:人民卫生出版社,1963.

[6] 张家山二四七号汉墓竹简整理小组.张家山汉墓竹简〔二四七号墓〕(释文修订本)[M].北京:文物出版社,2006.

[7] 裘锡圭.长沙马王堆汉墓简帛集成(六)[M].北京:中华书局,2014.

[8] 裘锡圭.长沙马王堆汉墓简帛集成(五)[M].北京:中华书局,2014.

[9] 李克光,郑孝昌.黄帝内经太素校注(上册)[M].北京:人民卫生出版社,2005:190.

[10] 黄帝内经素问(点校本)[M].北京:人民卫生出版社,1963.

[11] 山东中医学院.针灸甲乙经校释[M].北京:人民卫生出版社,2009.

[12] 王先慎.韩非子集解[M].北京:中华书局,2003.

[13] 何宁.淮南子集释(下册)[M].北京:中华书局,1998:1153.

[14] 裘锡圭.中国出土简帛古籍在文献学上的重要意义[M]//中国出土古文献十讲.上海:复旦大学出版社,2008:89.

[15] 张家山汉墓竹简整理小组.江陵张家山汉简概述[J].文物,1985(1):9-15.

[16] 韩健民.马王堆古脉书研究[M].北京:中国社会科学出版社,1999.

[17] 张灿岬.出土文物中的经络学说解析[J].山西中医学院学报,2006,7(2):2-3.

[18] 杜锋.新材料与新观点:出土涉医文献研究综论――第二届全国出土涉医文献研讨会纪要[J].中医药文化,2017,12(6):14-18.

[19] 赵争.古书成书与古书年代学问题探研――以出土古脉书《足臂十一脉灸经》和《阴阳十一脉灸经》为中心[J].中国典籍与文化,2016(1):7-12.

[20] 黄龙祥.针灸学术史大纲[M].北京:华夏出版社,2001:470-481.

[21] 裘锡圭.长沙马王堆汉墓简帛集成(一)[M].北京:中华书局,2014:1.


2023年4月30日日曜日

天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 05

   5 討論

 この半世紀,簡帛医学文献の出土が次第に増えてきたが,その中の大きな分野を経脈文献が占めていて,学者のそれに対する認識も日増しに明晰になっている。最初に注目されたのは,伝世医籍である『黄帝内経』,特に『霊枢』経脈との関係であった。例えば,裘錫圭先生は「簡帛古籍から分かることは,数術・方技の本には継承性が特に強いことである。伝承されたこのような著作は,かなり古い同類の著作を基礎として,徐々に修改増補をかさねて定本となったものが多い。張家山竹書と馬王堆帛書の『脈書』が,『霊枢』経脈篇の祖本であることは明らかである」[14]と指摘している。

 しかし,これらの出土した経脈文献を整理した当初は,学界ではこういった文献をどのように命名し,区分するか,意見が分かれることが多く,意見が統一されなかった。その後,張家山から『脈書』が出土し,竹簡の背面から「脈書」という題名が発見されたので,張家山漢簡整理小組は,張家山の竹簡『脈書』の内容は,帛書の『陰陽十一脈灸経』『脈法』『陰陽脈死候』の3種に相当すると考えた。帛書に欠けていた文字は,竹簡が発見されたことにより,基本的にほとんど補うことができる。〔竹簡の文字も〕帛書の釈文と対照すれば,一部を除いて,やはり誤りなく釈文できる。このように,帛書『五十二病方』の巻前にあって失われた部分は,実際は『足臂十一脈灸経』と『脈書』の二種類であると考えられる。このことは,いわゆる『足臂十一脈灸経』が『陰陽十一脈灸経』とは確実に異なる別の本であることを証明している[15]。韓健民[16]は,馬王堆帛書の経脈文献を研究した専門書を著わしたが,その題名を『馬王堆古脈書研究』とした。張燦岬[17]は文献の名称についても論じていて,張家山の『脈書』はもともとあった題目であり,これは『史記』倉公伝が称する『脈書』と同義であるはずであると主張した。「脈書」は経脈の書であり,脈診を言う書ではない。したがって馬王堆に二つの「灸経」本には,もともと題名はなかったが,この例に照らせば,これも「灸経」ではなく「脈書」ではないかと疑われる。『霊枢』経脈という篇は,『脈書』などの各本の基礎の上に発展して成立した可能性がきわめて高い。李海峰[18]は,出土した経脈類文献の主要な内容は近く,体例は類似していることを根拠に,いずれも経脈の脈名,循行ルート,主治病症を述べていて,いずれも生死を判断する診断学的内容を含んでおり,張家山漢簡『脈書』には明確な題名簡があるという。その上,『史記』扁鵲倉公列伝の記載された『脈書』の伝承体系が存在し,これに類する経脈文献は,『脈書』と統一して命名すべきであり,その後にその出土した土地と書写された書写材料〔帛書か竹簡かなど〕の違いにもとづき注を加えて区別すべきであると考えている。趙争[19]は,古脈書の『足臂十一脈灸経』と『陰陽十一脈灸経』の両者の内容と構造を分析することにより以下のように指摘している。すなわち,その形成はいずれもかなり複雑な過程をへていて,そのテキストの構造と成書過程は相対的な年代問題と密接に関連しているため,『足臂』と『陰陽』の相対的な年代関係をおおまかにまとめて論定するのは難しく,テキストの内部に深く入り込んで,古書そのもののテキストの階層に基づき,より小さな単位――段落ごと,さらには各文ごとに――を基礎として分析をおこなうべきである,と。

 上に述べてきたことをまとめると,秦漢時代には多くの地域に普遍的に「脈書」文献が流布しており,その内容と体例はすでに比較的固定的なパターンを形成している。とはいえ,各伝本にはそれぞれ違いがある。馬王堆からは『足臂』と『陰陽』が出土し,今回,天回医簡にも『脈書』下経と『経脈』があり,同じ墓から異なる伝本の経脈文献が出土したのは,当時のこのような文献の流布が複雑で,分離統合が定まっておらず,まさに発展変化の活発な時期にあたることを示している。伝世経典としての『霊枢』経脈篇は,まさにこのような「脈書」が集大成された後に定型化した産物で,体例と構造は,出土「脈書」の基本的な構造を継承していて,そこには経脈の名称・循行・主病・診治法・脈死候等の部分が含まれている。経脈循行の主体と経脈病候という核心となる内容からみると,天回『経脈』に類似する「直系」文献とすべきである。その改造され増加された部分は,おもに以下の面である[20]。第一に,「営衛学説」の成果を吸収し、経脈の循行方式を四肢末端から起こる「求心性」流注を,十二経脈が首尾相い貫く循環する流注に改造した。第二に,『霊枢』禁服の「人迎―寸口」脈法と「盛則瀉之,虛則補之,熱則疾之,寒則留之,陷下則灸之,不盛不虛,以經取之」という鍼灸治療の大法を移植し,次第に衰微していた「有過之脈」の診察法と砭・灸の治療法に取り替えた。第三に,「十五別絡」の内容を増やした。この部分は天回『経脈』と張家山・馬王堆諸脈書には見られないが,天回『脈書』下経の「間別脈」の一部の体例に近い。このことから,『霊枢』経脈の文献の由来が非常に複雑であることがわかる。

 天回医簡が埋葬されたのは,前漢の景帝と武帝の際のころである〔BC140年前後〕[4]。そこに保存されていた二つの経脈文献を見ると,『脈書』下経はこれ以前の『脈書』(BC186年)[6]および馬王堆『足臂』(BC168年)[21]を総合したものであるが,わずかに残っている『経脈』の方は伝世の経典『霊枢』経脈の原始的な様相に近い。江陵〔張家山〕・長沙〔馬王堆〕・成都〔天回〕の三箇所から出土した六つの経脈文献は,前漢初期の五六十年間に,すでに「分散から集合」の傾向を示していた。これに対して『霊枢』経脈が形成された時期は,学界での定説とみなされている成帝の侍医であった李柱国が天下の医書の校正を始めたとき(BC26年)とは限らず,後漢の和帝(88~105年)時代に,太医丞の郭玉が涪翁から伝えられた『鍼経』の時まで時代が下る可能性があるかも知れない。天回『経脈』が『霊枢』経脈に発展するにいたる二百年以上の間に,各種の「伝承された異本」の経脈文献がどれほど相互に浸透融合をへているか分からないが,最終的に「学は官府に在り」という影響の下に,次第に統一を見た。

 『霊枢』経脈篇に「經脈者,所以能決死生,處百病,調虛實,不可不通」[5]とある。この数十年来,陸続と出土した経脈文献は,われわれにこの経文についてより真意に近い理解をもたらし,それによって学者のまなざしは経脈の循行ルートという枝葉の部分から経脈の病候と診療という主要な項目に移った。注目点が移行した背景には,実はいわゆる「経絡の本質」という問題に対する新たな認知,すなわち経絡は「生理システム」であるという認識から「疾病分類システム」であるという認識へのパラダイムシフトがある。『霊枢』経脈の原始形態により近い天回医簡『経脈』の発見は,まさにこのタイミングである。これは間違いなくわれわれに秦漢時代の経脈文献が「百舸争流〔多数の船が流れに競いあう〕」から「百川匯海〔多数の川の水が海に集まる〕」までの伝承の流れというパノラマを見せていて,「鍵となる部分」の新史料を提供している。またわれわれに天回漆塗り経脈木人の体にある赤と白の経脈系統を解釈する新しいアイディアを思いつかせ,それによって必ず中国医学の経脈学説の幾重にも重なって形成された歴史的なプロセスを探索するための新たな弾みとなることもまた間違いない。


天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 04

   4 脈死候

 本篇の簡一四「人有病平臍,死」に似ている文は,『鍼灸甲乙経』巻八第四の「水腫大臍平,灸臍中,腹無理不治」[11]に見える。「唇反人盈,肉死」は,『脈書』51と馬王堆『陰陽脈死候』2に見え,「肉死」を「肉先死」に作る。『霊枢』経脈は「人中滿則唇反,唇反者肉先死」[5]に作る。『甲乙経』でも巻八第四に見えるが,並びの順序は上に挙げた文の前にあり,「水腫,人中盡滿,唇反者死」[11]に作る。この簡の内容は,「脈死候」に属する。この部分の内容は出土と伝世の経脈文献の中で,いずれも比較的安定した形式で存在する。上述した『脈書』『陰陽脈死候』以外でも,天回医簡『脈書』上下経の両方から見つかった。ただ『霊枢』経脈篇には説明的な言葉としてあらわれ,「伝注」の体例に近い。このことから,「脈死候」は文章としては長くはないが,秦漢時代の「脈書」類の文献にあっては,欠くべからざる重要な内容であり,伝世の経脈文献と対照して読むことで,経脈文献の伝承が変遷発展する流れを理解する上で有益であることがわかる。

 このほか,本篇の一五と一六には治療器具(鍼具か?)の形状のような内容が記載されているようだが,破損がひどく,ここでは論じない。

2023年4月29日土曜日

天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 03

   3 治法

 本篇で述べられている経脈病の治法は,簡の六・八・十に,「啟〔啓〕」と「灸」の治法が見られる。たとえば簡六には,「凡十一病,啟郄,灸骭上踝三寸,必廉大陰之際」とあり,簡十には「凡七病,啟肘,灸去腕三寸」とある。簡の一一と一二には,「除」の治法が述べられている。

 啟〔啓〕とは,砭石を使用して脈を刺して血を出すことを指す。『脈書』58に「氣壹上壹下,當郄與跗之脈而砭之。用砭啟脈者必如式」[6] とある。

 郄は,本篇では「【𠯌+卩⿰】」と書かれていて,意味は「隙」と同じで,ここでは膕窩〔膝裏のくぼみ〕を指す。『脈書』および『陰陽』『足臂』では,この字は字形が月と𠯌に従っていて,異体字に属す。「郄中」という語は,『素問』の蔵気法時論・刺瘧論〔「論」は原文のまま〕・刺腰痛篇・刺禁論などの篇にしばしば見られ,王冰の注にはなはだ詳しい。たとえば『素問』刺腰痛に「足太陽脈令人腰痛,引項脊尻背如重狀,刺其郄中太陽正經出血,春無見血」とあり,王注に「郄中,委中也,在膝後屈處膕中央約文中動脈,足太陽脈之所入也」[10]という。また,「解脈令人腰痛……刺解脈,在膝筋肉分間郄外廉之橫脈出血,血變而止」に,王注は「膝後兩傍,大筋雙上,股之後,兩筋之間,橫文之處,努肉高起,則郄中之分也。古『中誥』以膕中為太陽之郄,當取郄外廉有血絡橫見,迢然紫黑而盛滿者,乃刺之,當見黑血,必候其血色變赤乃止,血不變赤,極而寫之必行,血色變赤乃止。此太陽中經之為腰痛也」[10]という。『足臂』『陰陽』で「郄」字が用いられているところは,『霊枢』経脈ではみな「膕」字に作る。啟肘は馬王堆の『脈法』3にも「氣出郄與肘之脈而【砭之】」と見える。「肘」を『脈書』は「胕」に作るが,おそらくは誤りであろう。按ずるに,肘と膝は,みな『素問』にいうところの「四肢八谿」の部に属す。『素問』五蔵生成に「此四支八谿之朝夕也」といい,王冰の注に「谿者,肉之小會名也。八谿,謂肘・膝・腕也」[10]とある。

 久は,「灸」と読む。本篇には全部で四回見える。その法はまた『脈書』57-58:「治病者取有餘而益不足,故氣上而不下,則視有過之脈,當環而灸之。病甚而上于環二寸益為一灸」[6] にも見える。本篇で言及される施灸部位として,「骭上踝三寸」と「去腕三寸」がある。按ずるに,「骭上踝三寸」は三陰交穴の位置に当たる。『鍼灸甲乙経』巻三第三十に「三陰交,在內踝上三寸骨下陷者中,足太陰・厥陰・少陰之會。刺入三分,留七呼,灸三壯」[11]とある。足厥陰脈の循行が足太陰脈と交叉することは,各種の経脈文献に掲載されている。たとえば『陰陽乙』14には「厥陰脈……上踝五寸【而】出於太陰【之】後」[7](『霊枢』経脈は「上踝八寸」に作る)とある。按ずるにこの場所は,まさに『脈書』『脈法』の「診有過之脈」と『素問』三部九候論「知病之所在」の部位であり,この竹簡にいう「必廉大陰之際」に当たる。「去捾(腕)三寸」は,支溝穴の位置に当たる。『甲乙経』巻三第二十八には「支溝者,火也。在腕後三寸兩骨之間陷者中,手少陽脈之所行也,為經。刺入二分,留七呼,灸三壯」[11]とある。

 足少陰脈に灸して「強食生肉」する説は,多くの経脈文献中に見られ,「生きた化石」のように経脈文献に伝承されている。たとえば『脈書』43には「少陰之脈,灸則強食產肉,緩帶,被髮,大杖,重屨而步,灸幾息則病已矣」[6]とある。『霊枢』経脈はこの文を依然としてとどめていて,「腎足少陰之脈……灸則強食生肉,緩帶被髮,大杖重履而步」[5]に作り,わずかに最後の一文を省略しているにすぎない。

 除もまた,脈を刺して血を出す法を指す。『韓非子』説林下に,「巫咸雖善祝,不能自祓也;秦醫雖善除,不能自彈也」とある。「祝」と「祓」,「除」と「彈」は互文である。また『韓非子』外儲説右上には,「夫痤疽之痛也,非刺骨髓,則煩心不可支也;非如是,不能使人以半寸砥石彈之」[12]とある。『淮南子』説山訓には,「病者寢席,醫之用針石,巫之用糈藉,所救鈞也」とあり,高誘は,「石針所砥,彈人雍痤,出其惡血」と注する。鍼石と砥石は,ともに砭石の異名である。『霊枢』九針十二原にいう「宛陳則除之」とは,まさにこの法のことを言っている。宛陳も,悪血を指す。「啟」と「除」はともに砭刺の術ではあるが,名称を異にする。筆者はその治療器具や操作の術式に違いがあると推測しているが,証拠が足りないため,なお定論とはしがたい。

 簡の一二と一三は,「除法」の使用を記述していて,同じ病であるが,「咳」または「腹盈」という随伴症状の違いによって異なる経脈に治療をおこなっている。このような「分経論治」の治法は,『霊枢』の寒熱病・癲狂・厥病・雑病などの篇にも見られる。たとえば,『霊枢』雑病には,「齒痛,不惡清飲,取足陽明;惡清飲,取手陽明。聾而不痛者,取足少陽;聾而痛者,取手陽明」。「腰痛,痛上寒,取足太陽・陽明;痛上熱,取足厥陰;不可以俯仰,取足少陽。中熱而喘,取足少陰、膕中血絡」[5]とある。これが現在,古本『経脈』篇に見られるということは,由来するところがあるということである。

 以上に述べたことを,天回医簡『経脈』,『脈書』(とその異なる伝本である『陰陽』),『足臂』,『霊枢』経脈,および同墓から出土した『脈書』下経における主要な相違点として表1にまとめ,比較参照に資する。

                    表1 出土した六種類の経脈文献対照表

  張家山『脈書』/ 馬王堆『陰陽』

数  十一

命名

    足:三陰三陽(「足」字が冒頭にない)

    臂:鉅陰,少陰

    肩・耳・歯脈

経脈の順序

鉅陽之脈―少陽之脈―陽明之脈―肩脈―耳脈―歯脈―泰陰之脈―厥陰之脈―少陰之脈―臂鉅陰之脈―臂少陰之脈(陽脈が先にあり,陰脈が後にある)

循行の方向 

    足三陽:踝から頭足の三陰に走る:踝・足から腹に走る(泰陰脈は胃から踝に走る)

    耳・歯:手から頭に走る;肩:頭から手臂の二陰に走る:手・臂から心に走る

循行の起点 

    足三陽:踝部 

    足三陰:少陰,踝;泰陰,胃;厥陰,足大指

    耳、歯:手;肩:耳後

    臂二陰:鉅陰,手掌;少陰,臂

循行の止点 

    足三陽:目,耳 

    足三陰:少陰,腎、舌本;泰陰,踝;厥陰,陰器

    肩・耳・歯:手背,耳,歯 

    臂二陰:心

経脈の病候 

    「是動」「所産」に分かち,病候数の合計がある

病証の治法 

    啟,灸

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  馬王堆『足臂』

数  十一

命名 足:三陰三陽(「足」字が冒頭にある)臂:二陰三陽

経脈の順序

足太陽脈―足少陽脈―足陽明脈―足少陰脈―足泰陰脈―足厥陰脈―臂泰陰脈―臂少陰脈―臂太陽脈―臂少陽脈―臂陽明脈(足脈が先にあり,臂脈が後にある)

循行の方向 

    足三陽:踝から頭に走る 

    足三陰:踝と足から腹に走る

    臂三陽:手から頭に走る

    臂二陰:臂から心と脇に走る

循行の起点 

    足三陽:踝部

    足三陰:少陰,踝

    泰陰と厥陰:足大指

    臂三陽:手指

    臂二陰:臂

循行の止点 

    足三陽:目,鼻

    足三陰:少陰,舌本

     泰陰:股内;厥陰,陰器?

    臂三陽:目,耳,口

    臂二陰:心,脇

経脈の病候 

    「其病」で概括し,足脈の病候は循行の順序に排列する

病証の治法 

    灸

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  天回『脈書』下経

数  十二

命名

 足:三陰三陽(「足」字が冒頭にある)

 臂:二陰;手:三陽;別に「心主之脈」がある

経脈の順序

足大陽脈―足少陽脈―足陽明脈―足大陰脈―足少陰脈―足厥陰脈―手太陽脈―手少陽脈―手陽明脈―臂大陰脈―臂少陰脈―心主之脈(足が先で臂が後,陽が先で陰が後,陰陽内では「太と少が先にあり,厥陰と陽明が後にある」順序で排列)

循行の方向 

    足三陽:足から頭に走る

    足三陰:足から腹に走る

    手三陽:手から頭に走る

    臂二陰および心主:手から心に走る

循行の起点 

    足三陽:足指

    足三陰:少陰,足心;泰陰と厥陰,足大指

    手三陽:手指 

    臂二陰および心主:手掌

循行の止点 

    足三陽:目,耳,鼻

    足三陰:少陰,舌本;泰陰,腸胃,嗌;厥陰,陰器?

    手三陽:目,耳?,口

    臂二陰および心主:心

経脈の病候 

「其病」で概括するが,病候の排列にははっきりとした法則性は見られない

病証の治法 

    ――

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  天回『経脈』

数  十一

命名

 足:三陰三陽(「足」字が冒頭にない)

 臂:二陰三陽

経脈の順序

本来の順序は不明。暫定的に「大陽脈―少陽脈―陽明脈―太陰脈―厥陰脈―少陰脈―臂陰脈(大、少未詳)―臂太陽脈(闕)―臂少陽脈―臂陽明脈」とする。

 (足脈は『脈書』の順序に,臂脈は『足臂』の順序による)

循行の方向 

    足三陽:足から頭に走る

    足三陰:足から腹に走る

    臂三陽:手から頭に走る

    臂二陰:(未詳)

循行の起点 

    足三陽:足指

    足三陰:未詳,『下経』と同じか。

    手三陽:手指 

    臂二陰:(未詳)

循行の止点 

    陽明脈:鼻に属す(他はみな未詳)

経脈の病候 

    「是動」「所生」に分かち,病候数の合計がある

病証の治法 

    啟,灸,除

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  『霊枢』経脈

数  十二

命名

 足:三陰三陽(「足」字が冒頭にある)

 臂:三陰三陽(「心主手厥陰心包絡之脈」が多い)

経脈の順序

 肺手太陰之脈―大腸手陽明之脈―胃足陽明之脈―脾足太陰之脈―心手少陰之脈―小腸手太陽之脈―膀胱足太陽之脈―腎足少陰之脈―心主手厥陰心包絡之脈―三焦手少陽之脈―胆足少陽之脈―肝足厥陰之脈 (循環流注)

循行の方向 

    足三陽:頭から足に走る

    足三陰:足から腹に走る

    手三陽:手から頭に走る

    手三陰:胸から手に走る

  陰陽相貫,如環無端

経脈の病候 

    「是動」「所生」に分かち,病候数の合計はない

病証の治法 

 盛則瀉之,虛則補之,熱則疾之,寒則留之,陷下則灸之,不盛不虛,以經取之

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 表1から分かるように,天回医簡『経脈』は他の出土した「古脈書」と比べると,以下の特徴を持っている。第一に,経脈の数は,依然として「十―脈」系統に属し,まだ「心主之脈」がない。第二に,経脈の命名の原則は,いずれも「三陰三陽」で命名され,『足臂』と基本的に一致し,『陰陽』が部位によって命名された「肩」「耳」「歯」の脈は見えなくなった。しかし足脈はすべて「足」の字を冠しておらず,臂脈は「臂」で名付けられ,「手」では名付けられていないようだ。第三に,経脈の循行方向は,いずれも四肢の末端から始まり,下から上への求心性を呈し,『足臂』と『脈書』下経に一致しているが,『霊枢』経脈の「環の端無きが如き」経脈相貫の形式はいまだに形成されていない。第四に,経脈循行の起点は,『足臂』と『陰陽』の十一脈の多くが,四肢のくるぶし・手首の部位から起こり,四肢の指・趾端の下に移動するのと比べると,『脈書』下経および『霊枢』経脈とかなり一致する。第五に,経脈循行の止点は大部分未詳であるとはいえ,『霊枢』経脈のような十二経脈と五蔵六府の属絡関係はなお未形成であるとほぼ断定できよう。第六に,経脈の病候は,みな明確に「是動病」と「所生病」に分かたれ,病候の数が数えられているが,『足臂』と『脈書』下経が「其病」を混同している体例は採用されていない。特に病候の表わし方は,『霊枢』経脈と一致度が非常に高く,同じ墓から出土した『脈書』下経とは明らかな違いがある。『脈書』下経にある病候の内容は,『足臂』と『陰陽』両書の特徴を同時に参考して吸収している特徴があり,『霊枢』経脈篇の数よりも多くさえある。まさに黄龍祥は,「老官山『脈書』の中の〈十二脈〉のテキストがもとづく底本は張家山漢簡『脈書』本『陰陽十一脈』(『丙本』)と『足臂十一脈』であり,編纂方式は両書の合抄改編である」[3]と指摘している。これと比べて,天回医簡の『経脈』は『霊枢』経脈の早期の原型のようである。

2023年4月27日木曜日

天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 02

   2 主病

 大陽脈:簡二の残文に「腨皆痛」があり,『霊枢』経脈の「膀胱足太陽之脈……項背腰尻膕踹脚皆痛」[5]と文が近い。『陰陽乙』2の「鉅陽脈……其所產病:頭痛,耳聾,項痛,耳疆,瘧,背痛,腰〖痛〗,尻【痛】,痔,郄痛,腨痛,足小指【痹】」[7],『足臂』3-4の「其病:病足小指廢,腨痛,郄攣,𦞠痛,產痔,腰痛,挾脊痛,【頭】痛,項痛,手痛,顏寒,產聾,目痛,鼽衄,數癲疾」[8]とは,ともにこれとは対応しがたい。

 少陽脈:竹簡は主病の文を欠く。『霊枢』経脈は「膽足少陽之脈……胸脇肋髀膝外至脛絕骨外踝前及諸節皆痛」[5]であり,『足臂』8は「足少陽脈……其病……脇外腫」[8]である。ただ,その循行は「脇外廉」を通過するので,上述の病候とそれほどかけ離れてはいないと推測される。

 陽明脈:簡四の残文は「是動則病,洒洒」であり,『霊枢』経脈・足陽明脈の「是動則病洒洒振寒,善呻數欠顏黑……」[5]と前の六字が一致する。

 太陰脈:簡五の残文は「煩心,心痛,□□洩,水閉,黃癉,股……腫蹷,不臥,強欠,大指不用」であり,『霊枢』経脈の「脾足太陰之脈……煩心,心下急痛,溏瘕泄,水閉,黃疸,不能臥,強立股膝內腫厥,足大指不用」[5]と文が高い割合で一致する。しかし『脈書』『陰陽』『足臂』等とは内容から体例までいずれもかなり違いがある。『霊枢』経脈は「強立」に作るが,『太素』経脈連環は「強欠」[9]に作る。按ずるに『脈書』33-35は「泰陰之脈……不能食,耆臥,強吹(欠),此三者同則死」[6]に作り,『太素』が「強欠」に作るのが正しいことを証しているし,この簡ともまた符合する。

 厥陰脈:簡六の残文は「癃,遺溺。凡十一病」であり,『霊枢』経脈の「肝足厥陰之脈……狐疝遺溺閉癃」[5]と病証が一致する。『脈書』38は「熱中,癃,㿗,偏山(疝),為五病」[6]に作り,『足臂』20は「病脞瘦,多溺,嗜飲,足跗腫,疾痹」[8]に作り,どちらも一致しない。また「病有煩心,死,毋治」を,『陰陽乙』16は「五病有〖而〗煩心,死,勿治也」[7]に作り,『足臂』21は「偏有此五病者,又煩心,死」[8]に作る。本篇とは病候数の合計が異なるが,「病」の前の「五」を除けば,文の意味はほぼ同じである。

 少陰脈:簡七から簡八の残文は「上氣,嗌乾痛,煩心心痛,……內廉痛,厥痿,嗜臥,足下熱」であり,『霊枢』経脈の「腎足少陰之脈……口熱舌乾,咽腫上氣,嗌乾及痛,煩心心痛,黃疸腸澼,脊股內後廉痛,痿厥嗜臥,足下熱而痛」[5]と文が高い割合で一致する。しかし『脈書』『陰陽』『足臂』等とは,文の表現や列挙される順序の違いが大きい。

 臂少陽脈:簡一〇の残文は「……腫。所生病,目外顏腫,耳後、肩、後廉痛,汗出,中指不用,喉痹」であり,『霊枢』経脈の「三焦手少陽之脈……是動則病耳聾渾渾焞焞,嗌腫喉痹。是主氣所生病者,汗出,目銳眥痛,頰痛,耳後肩臑肘臂外皆痛,小指次指不用」[5]と文の多くが一致する。唯一,「中指不用」と「小指次指不用」は明らかに異文である。按ずるに,『霊枢』経脈の手少陽脈は「小指次指之端に起こる」ので,所生病には「小指次指不用」が見える。しかし『足臂』の臂少陽脈は「出中指,循臂上骨下廉,奏耳」(31)[8]であり,循行と主病はともにこの竹簡と一致する。この循行と主病の変化が生じた理由は,『霊枢』経脈では「中指」は「心主手厥陰心包絡之脈」の循行が経過する部位であるからである。しかし『足臂』にはまだこの脈はなかったので,中指は「臂少陽脈」の循行部位であった。『霊枢』経脈では「手厥陰脈」が増えて,「十一脈」が「十二脈」になると同時に,「手少陽脈」の循行にも調整がくわえられ,主病についてもこれに応じて変更がおこなわれた。このことから,われわれは本篇の経脈は依然として「十一脈」系統であり,「手厥陰脈」は収載されていなかったと推測できる。これは同じ墓から出土した『脈書』下経が「十二脈」系統であるのとは,大きな違いであり(『脈書』下経で増えたものは「手心主之脈」と称する),両者は異なる伝承系統に属するようである。

 このほか,用語の細部を見ると,足と手の指の病を表現する場合,『脈書』では「○○指痺」,『足臂』では「○○指廃」,本篇と『霊枢』経脈では「○指不用」がそれぞれよく使われ,本篇と『霊枢』経脈は「所生病」を,『脈書』『陰陽』は「所産病」を用いていて,特徴的な違いが見られる。記述の体例を見ると,本篇と『脈書』『陰陽』等はみな「所生(産)病」の病候を数に入れているが,『足臂』は「足帣(厥)陰脈」をのぞいて,みな数に入れていない。『足臂』では足脈の病候は循行の前後にしたがい順番に排列されているので,「○○指廃」はみな一番最初にある。これに対して本篇と『霊枢』経脈中の「○指不用」は一律に最後に並べられている。注目に値することは,『霊枢』経脈における経脈の循行順序は,この竹簡とくらべると大幅に変更されているが,病候の排列順序,特に「○指不用」を最後に並べる体例は,依然として本篇との一致を保っていることである。