2012年1月14日土曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 8 鍼愈風眩 その2

『舊唐書』本紀 凡二十卷/卷五 本紀第五/高宗 李治 下/永淳二(683)年(P.110)
十一月,皇太子來朝。癸亥,幸奉天宮。時天后自封岱之後,勸上封中岳。每下詔草 儀注,即歲饑,邊事警急而止。至是復行封中岳禮,上疾而止。上苦頭重不可忍,侍醫秦鳴鶴曰:「刺頭微出血,可愈。」天后帷中言曰:「此可斬,欲刺血於人主首耶!」上曰:「吾苦頭重,出血未必不佳。」即刺百會,上曰:「吾眼明矣。」

『新唐書』卷七十六 列傳第一/后妃上/高宗則天武皇后(P.3474)
儀鳳三年(678年),羣臣、蕃夷長朝后于光順門。即幷州建太原郡王廟。帝頭眩不能視,侍醫張文仲、秦鳴鶴曰:「風上逆,砭頭血可愈。」后內幸帝殆,得自專,怒曰:「是可斬,帝體寧刺血處邪?」醫頓首請命。帝曰:「醫議疾,烏可罪?且吾眩不可堪,聽為之!」醫一再刺,帝曰:「吾目明矣!」言未畢,后簾中再拜謝,曰:「天賜我師!」身負繒寶以賜。


宋 司馬光撰『資治通鑑』卷二百三 唐紀十九 髙宗天皇大聖大弘孝皇帝下
〔〕内は胡三省音註
(弘道元年/683年)十一月,丙戌,詔罷來年封嵩山,上疾甚故也。上苦頭重,不能視,召侍醫秦鳴鶴診之〔殿中省尚藥局有侍御醫四人,從六品上。診,止忍翻〕。鳴鶴請刺頭出血,可愈〔刺,七亦翻〕。天后在簾中,不欲上疾愈,怒曰:「此可斬也,乃欲於天子頭刺血!」鳴鶴叩頭請命。上曰:「但刺之,未必不佳。」乃刺百會、腦户二穴〔鍼炙(まま)經,百會,一名三陽五會,在前頂後寸半,頂中央旋毛中,可容豆。鍼二分,得氣即瀉。腦戶,一名合顱,在枕骨上強後寸半,禁鍼。鍼令人瘂。舊傳,鳴鶴鍼微出血,頭疼立止〕。上曰:「吾目似明矣!」后舉手加額曰:「天賜也!」自負綵百匹,以賜鳴鶴。
十一月、丙戌、来年の祟山での封禅を中止すると詔した。上の病気が重篤になった為である。上は頭重に苦しみ、ものを見ることもできない。侍医の秦鳴鶴を召し出してこれを診療させると、鳴鶴は、頭へ針を刺して血を出せば治癒すると言った。ところが、御簾の内に天后が居り、彼女は上に平癒してほしくなかったので、怒って言った。「この男を斬れ!天子の頭へ針を刺して血を流させようとした!」 鳴鶴は叩頭して治療の実行を請うた。上は言った。「とにかく刺してみよ。快癒しなくても構わないから。」 そこで鳴鶴は、百会と脳戸(共にツボの名)の二ヶ所へ穴を開けた。 上は言った。「吾の目が見えるようになった。」 后は手を挙げて額へ当て、言った。「天の賜です!」 そして自ら綏百匹を背負って鳴鶴へ賜った。
http://www24.atwiki.jp/tsugan/pages/50.html

宋 王執中撰『鍼灸資生經』卷一
百會,一名三陽五會。在前頂後寸半,頂中央旋毛中,可容豆。灸七壯,止七七。凡灸頭頂不得過七壮,縁頭頂皮薄,灸不宜多。鍼二分,得氣即瀉。唐秦鳴鶴刺微出血,頭痛立愈。『素注』云刺四分。
舊傳,秦鳴鶴鍼高宗頭風。武后曰:豈有至尊頭上出血之理。已而刺之,微出血,頭疼立止。后亟取金帛賜之。是知此穴能治頭風矣。『明堂經』治中風,言語蹇澁,半身不遂。凡灸七處,亦先於百會。北人始生子,則灸此穴。蓋防他日驚風也。予舊患心氣,偶覩隂陽書有云:人身有四穴,最急應,四百四病,皆能治之。百會,蓋其一也。因灸此穴,而心氣愈。後閲『灸經』,此穴果主心煩,驚悸,健忘,無心力。自是間或灸之,百病皆主,不特治此數疾而已也〔一名天滿〕。

明 周王朱橚撰『普濟方』卷四百十四 鍼灸門
「資生經云」として上文を引用する。:

明 江瓘撰『名醫類案』卷六 首風〔附頭暈頭痛〕
秦鳴鶴,侍醫也。髙宗苦風眩頭重,目不能視。召鳴鶴診之。鶴曰:風毒上攻,若刺頭出少血,即愈矣〔實〕。太后自簾中怒曰:此賊可斬,天子頭上,豈試出血處耶。上曰:醫之議病理也,不加罪。且吾頭重悶甚苦不堪。出血未必不佳。命刺之。鳴鶴刺百會及腦户出血〔腦戸禁刺,非明眼明手不能〕。上曰:吾眼明矣。言未竟,后自簾中稱謝曰:此天賜我師也。賜以繒寳。

明 徐應秋撰『玉芝堂談薈』卷九 醫士國手
髙宗苦風眩,目不能視。召醫秦鳴鶴刺百會及腦戸出血。而眼遂明。
ここ,「醫士國手」には,華佗、龎安時、許胤宗、錢乙、史載之、狄梁公、梁革、徐秋夫などのエピソードが集められている。以下にあげる類書の醫術の部には当然多くの名醫が登場し,そのひとりとして秦鳴鶴の話がみえる。

宋 李昉等撰『太平御覽』卷七百二十三 方術部四 醫三
唐書曰……又曰:秦鳴鶴為侍醫。髙宗苦風眩,頭重目不能視。武后亦幸災兾,行其志。至是疾甚,召鳴鶴張文仲診之。鳴鶴曰:風毒上攻,若刺頭出少血,即愈矣。天后自簾中怒曰:此可斬也,天子頭上,豈是刺出血處耶。上曰:醫之議病,理不加罪,且吾頭重悶,殆不能忍。出血,未必不佳。命刺之。鳴鶴刺百㑹及腦户出血。上曰:吾眼明也。言未畢,后自簾中頂禮拜謝之,曰:此天賜我師也。躬負繒寶,以遣鳴鶴。

宋 王欽若等撰『册府元龜』卷八百五十九 總録部 醫術第二
秦鳴鶴以善針醫為侍醫。永淳初,髙宗苦頭重,不能視。召鳴鶴診之。鳴鶴曰:風毒上攻,若刺頭出少血,即愈矣。太后自簾中怒曰:此可斬也,天子頭上,豈是出血處。鳴鶴叩頭請命。帝曰:醫之議病,理不加罪。且吾頭重悶,殆不能忍,出血,未必不佳也。即令鳴鶴刺之。刺百㑹及腦戸出血如碁。帝曰:吾眼似明矣。言未畢,簾中出綵百匹,以賜鳴鶴。

『太平御覽』(977年から983年(太平興国2-8年)頃の成立)以外,宋代の書に高宗の症状として「眩」字がないのは,始祖玄朗を避諱したためか。
道教を尊崇した真宗が宋朝の始祖として「玄朗」を定めたのは,大中祥符五年(1012)。
『册府元龜』(王欽若・楊億らが真宗の勅命により景徳2年(1005年)から大中祥符6年(1013年)の間に編纂したもの)は,以下によれば,北宋最初刊本は「玄」字を避諱するという。
http://culture.people.com.cn/BIG5/22226/124974/124986/7407971.html
本館(中國國家圖書館)現存此本避諱鏡、敬、弘、殷、玄、貞、禎,而讓、征、佶、桓皆不減筆,當是書成之后天聖明道年間監本,故《鐵琴銅劍樓》認為是北宋最初刊本。

1 件のコメント:

  1. 宋の『太平御覽』に引く『唐書』には「武后亦幸災異,逞其志」とあり,宋代になって編纂された『新唐書』には「后内幸帝殆,得自專」とあるが,『旧唐書』にはそれに相当する文字は無い,ということですよね。
    司馬光あたりが「天后在簾中,不欲上疾愈」と書くのは,似合っている。
    ほとんどの医者の伝記には,そんなことは言わない。

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