『元史』卷二百三 列傳第九十/ 工藝/ 阿尼哥
阿尼哥,尼波羅國人也,其國人稱之曰八魯布。幼敏悟異凡兒,稍長,誦習佛書,期年 能曉其義。同學有為繪畫粧塑業者,讀尺寸經,阿尼哥一聞,即能記。長善畫塑,及鑄金 為像。
中統元年,命帝師八合斯巴建黃金塔于吐蕃,尼波羅國選匠百人往成之,得八十人,求 部送之人未得。阿尼哥年十七,請行,眾以其幼,難之。對曰:「年幼心不幼也。」乃遣之。 帝師一見奇之,命監其役。明年,塔成,請歸,帝師勉以入朝,乃祝髮受具為弟子,從帝師入 見。帝視之久,問曰:「汝來大國,得無懼乎?」對曰:「聖人子育萬方,子至父前,何懼之有。」 又問:「汝來何為?」對曰:「臣家西域,奉命造塔吐蕃,二載而成。見彼土兵難,民不堪命,願 陛下安輯之,不遠萬里,為生靈而來耳。」又問:「汝何所能?」對曰:「臣以心為師,頗知畫塑
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鑄金之藝。」帝命取明堂針灸銅像示之曰:「此(安)〔宣〕撫王(ネ+戢)〔檝※〕使宋時所進,歲久闕壞,無能修完之者,汝能新之乎?」對曰:「臣雖未嘗為此,請試之。」至元二年,新像成,關鬲脈絡皆備,金工歎其天巧,莫不愧服。凡南京寺觀之像,多出其手。為七寶鑌鐵法輪,車駕行幸,用以前導。原廟列聖御容,織錦為之,圖畫弗及也。
※校:[八](安)〔宣〕撫王(ネ+戢)〔檝〕 「安撫」,本書卷一五三王檝傳、卷八一選舉志及秋澗集卷四四國朝奉使、元文類卷四八楊奐祭國信使王宣撫文俱作「宣撫」,據改。又「示+戢」字誤,據本書卷一五三王檝傳改。類編已改。
世祖は明堂針灸銅像を取り出し,示して言った。「これは宣撫の王檝が南宋に使いしたとき,進呈されたものだ。古くなって欠けてしまったところがあるが,修繕できるものがいない。お前は新しい物をつくれるか?」阿尼哥はお答えして言った。「いままでこのようなものを作ったことはございませんが,どうかやらせてください。」至元二年に,新しい銅像が鋳造された。関節・膈膜・経脈・絡脈はみな完備し,金属加工の職人は,みな彼のこの上ない技倆に讃歎し,みずからを恥じ,彼に心服しないものはいなかった。
○尼波羅國:ネパーラ国。『大唐西域記』に見える。以下に引用する造像量度經引の注に「儞波羅國。在印土之北。吐番之西」とある。いまのネパールあたりであろう。
○宣撫:職官名。宋代逢軍旅大事時,派遣前往鎮撫的軍政長官。或稱為「宣撫使」。朝廷派遣大臣赴某一地区传达皇帝命令并安抚军民、处置事宜,称为“宣抚”。
参考資料:大正大藏經 T1419_.21.
造像量度經引
元世祖混一海宇之初。儞波羅國匠人阿尼哥。善為西域梵像。從帝師巴思八來。奉敕修明堂針炙銅像。以工巧稱。而其門人劉正奉。以塑藝馳名天下。因特設梵像提舉司。專董繪畫佛像。及土木刻削之工。故其藝絕於古今。遂稱為梵像。此則所謂梵式者也〔注:儞波羅國。在印土之北。吐番之西。其風俗出巧工。蓋阿尼哥更超群者也。故帝師特引來薦於帝也。巴思八者。華云聖。亦是號而非名也。名洛追建燦。華云慧幢。西番貴族。敏悟非凡。五明俱通。世祖中統元年。封國師。授以玉印。主統天下釋門。後即封法號曰。皇天之下。一人之上。開教。宣文。輔治。大聖。至德。普覺。真知。佑國如意。大寶法主。西天佛子。大元帝師。因叔侄傳繫為吐番國總主。按本傳。世祖初。命取明堂針炙銅像。示之於阿尼哥曰。此安撫王[衤+戢]使宋時所進。歲久闕壞。無能修完者。汝能新之乎。對曰。請試之。至元二年新像成。關鬲脈洛皆備。金工歎其天巧。莫不愧服。劉正奉者。姓劉名元。字秉元。薊之寶坻人。其精藝非一。而獨長於塑。又從阿尼哥國公學西天梵相。神思妙合。遂為絕藝。凡兩都名剎。有塑土範金。摶換佛相。皆出元之手。天下無與比。官至昭文館大學士。正奉大夫。祕書監卿。〕然迄今歷代。竟未譯出其經傳。……
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