著者 磯ケ谷紫江 編輯
出版者 後苑荘
出版年月日 1941.5-1942.1
国会図書館の近代デジタルライブラリー
森枳園その他の墓
多紀崇徳氏所蔵記録の中に「森氏系略」と題した巻物がある。
巻物の全文がここの記されている。
参考:
著者の磯ケ谷紫江は、『紫香録』上巻(1941年)の序詞に〈墓碑史跡研究〉の主旨説明をしている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885466/4
『墓碑史蹟研究』磯ケ谷紫江、大正13年(1924)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387755
内経研究の先駆者の墓などが紹介されていて興味深い本である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387755/25
●多紀元簡(たきもとやす)(1755~1810)
元簡の通称は安清(あんせい)、のち安長(あんちょう)、字は廉夫(れんぷ)、号は桂山(けいざん)。
井上金峨(いのうえきんが)に儒を、父の多紀元悳(もとのり)に医を学んだ。
松平定信(まつだいらさだのぶ)の信任を得て寛政2(1790)年、奥医師・法眼に進んだ。
翌年、躋寿館(せいじゅかん)が幕府直轄の医学館となるにともない、助教として幕府医官の子弟を教育。
同11年には御匙(おさじ)(将軍侍医)となったが、享和元年寄合医師におとされ、文化7(1810)年奥医師に復したが、この年没した。
(日本漢方典籍辞典、小曽戸洋)より
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387755/63
堀杏庵は『註証発微』の研究者
●堀杏庵と『註証発微』
秦宗巴より遅れるが、『註証発微』を熱心に考究した儒医に堀杏庵{ほりきょうあん}(正意。1585~1642)がいる。杏庵は、近江の出身で、大儒・藤原惺窩(1561~1619)に就いて儒を学び、那波活所{なわかつしょ}・林羅山・松永尺五とともに、惺窩門の四天王と謳われた学者であった。医学の師は曲直瀬正純である。同門に後述する林市之進がいる。紀州藩医となったが、のち徳川義直に請われて尾張藩に属し、晩年は幕命を奉じて弘文院に入った。杏庵が『註証発微』を考究したのは、年代から考えて、おそらく慶長の後期頃だろう。浅田宗伯『皇国名医伝』には「業を曲直瀬正純に受け、内経註証発微を攻研す。是れより前、素問を読む者は皆、王氏に拠る。正意始めて馬氏を主とす」とあるが、『註証発微』に先鞭をつけたのは杏庵より秦宗巴がはるかに早いことはいうまでもない。あるいは杏庵は宗巴の講義を受けたのではあるまいか。杏庵は京都嵯峨に古林見宜(1579~1657)とともに学舎を創設し、門人3000人を集めたとされるから、宗巴の後を承けて、馬玄台の説は大いに広まったことだろう。ちなみに、序章第6節でも触れたごとく、江戸初期、明から帰化した馬栄宇(北山友松子の父)が馬玄台の四世の孫と称されたのは、馬玄台の著名さに託されたものと思われる。
(「日本における『内経』受容の経緯」 小曽戸洋)より
著者の磯ケ谷紫江は、『紫香録』上巻(1941年)の序詞に〈墓碑史跡研究〉の主旨説明をしている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885466/4
『墓碑史蹟研究』磯ケ谷紫江、大正13年(1924)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387755
内経研究の先駆者の墓などが紹介されていて興味深い本である。
井上金峨(きんが)墓
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387755/6http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387755/25
●多紀元簡(たきもとやす)(1755~1810)
元簡の通称は安清(あんせい)、のち安長(あんちょう)、字は廉夫(れんぷ)、号は桂山(けいざん)。
井上金峨(いのうえきんが)に儒を、父の多紀元悳(もとのり)に医を学んだ。
松平定信(まつだいらさだのぶ)の信任を得て寛政2(1790)年、奥医師・法眼に進んだ。
翌年、躋寿館(せいじゅかん)が幕府直轄の医学館となるにともない、助教として幕府医官の子弟を教育。
同11年には御匙(おさじ)(将軍侍医)となったが、享和元年寄合医師におとされ、文化7(1810)年奥医師に復したが、この年没した。
(日本漢方典籍辞典、小曽戸洋)より
堀杏庵墓
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387755/9http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387755/63
堀杏庵は『註証発微』の研究者
●堀杏庵と『註証発微』
秦宗巴より遅れるが、『註証発微』を熱心に考究した儒医に堀杏庵{ほりきょうあん}(正意。1585~1642)がいる。杏庵は、近江の出身で、大儒・藤原惺窩(1561~1619)に就いて儒を学び、那波活所{なわかつしょ}・林羅山・松永尺五とともに、惺窩門の四天王と謳われた学者であった。医学の師は曲直瀬正純である。同門に後述する林市之進がいる。紀州藩医となったが、のち徳川義直に請われて尾張藩に属し、晩年は幕命を奉じて弘文院に入った。杏庵が『註証発微』を考究したのは、年代から考えて、おそらく慶長の後期頃だろう。浅田宗伯『皇国名医伝』には「業を曲直瀬正純に受け、内経註証発微を攻研す。是れより前、素問を読む者は皆、王氏に拠る。正意始めて馬氏を主とす」とあるが、『註証発微』に先鞭をつけたのは杏庵より秦宗巴がはるかに早いことはいうまでもない。あるいは杏庵は宗巴の講義を受けたのではあるまいか。杏庵は京都嵯峨に古林見宜(1579~1657)とともに学舎を創設し、門人3000人を集めたとされるから、宗巴の後を承けて、馬玄台の説は大いに広まったことだろう。ちなみに、序章第6節でも触れたごとく、江戸初期、明から帰化した馬栄宇(北山友松子の父)が馬玄台の四世の孫と称されたのは、馬玄台の著名さに託されたものと思われる。
(「日本における『内経』受容の経緯」 小曽戸洋)より
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