資料:国会図書館の近代デジタルライブラリー
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3359225/6
タイトル 日本医史学雑誌 = Journal of the Japanese Society for the History of Medicine. 6(2)(1340)
出版者 日本医史学会
出版年月日 1956-03
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3359227/5
タイトル 日本医史学雑誌 = Journal of the Japanese Society for the History of Medicine. 6(4)(1342)
出版者 日本医史学会
出版年月日 1956-08
または日本医史学会ホームページからもみることができる。
梶原性全の生涯とその著書(1)
1956年(昭和31) 日本医史学雑誌 第6巻 第2号
http://jsmh.umin.jp/journal/06-2/06-2.pdf
梶原性全の生涯とその著書(2)
1956年(昭和31) 日本医史学雑誌 第6巻 第4号
http://jsmh.umin.jp/journal/06-4/06-4.pdf
梶原性全の生涯とその著書
石原明
日本医史学会雑誌
1956年(昭和31)第06巻第2号057-68頁
第06巻第4号139-160頁より
p.1-------------------
梶原性全の生涯とその著書(一)
一 緒言
鎌倉時代の代表的医家の一人である梶原性全について
は、従来その生涯が詳かにされず種々の誤伝を伴っており、
また彼の大著「頓医抄」と「万安方」は鎌倉時代の代表医
書として、平安時代の「医心方」にも比せられるものであ
りながら、数百年もの間かつて刊行されたこともなく(但
し「頓医抄」の婦人門のみ江戸初期に抽印されたことがあ
る)、数十巻の巨冊であるため伝写本も少く、従ってその
内容の一斑が「日本医学史」その他に部分的に紹介された
に過ぎない。
私は十年来、金沢文庫の古書古文書の調査に従った折、
これらを明かにしたいと思い、少しばかり得た新史料を以
てほぼその全貌を把握し得たので、その概略を昭和二十二
年四月、大阪で開かれた第十二回日本医学会総会の第一分
科医史学会に於て報告した(「第十二回日本医学会会誌」
に抄録掲栽)。その後これら二書の性質については、東洋
医学の立場から内容を述べた高橋真太郎氏の報告(「日本
東洋医学会誌」第四巻第三号)を見るのみである。その間
私は他の仕事に追われ、旧稿を筐底に秘めたまま徹底的研
究を行わなかったのであるが、最近、東洋中世の解剖図を
調べる必要に迫られ、未見であった内閣文庫の本を見る機
会に恵まれ、これによって伝本の系統を知ることが出来た
ので旧稿を補訂し、従来の通説に追加訂正を試みたいと思
う。
【参考】https://www.jstage.jst.go.jp/browse/kampomed1950/4/3/_contents/-char/ja
「万安方と頓医抄の薬方」 高橋 真太郎 日本東洋医学会雑誌4巻(1953)3号 p.58-59
二 梶原性全の伝記
性全の伝記は古く黒川道祐の「本朝医考」(寛文三年刊)
上巻に、
梶原性全、不詳何処人也、曽仕鹿苑院義満公施医術、自著方安
p.2-------------------
方又撰頓医方十巻、
とあるのが初出で、浅川宗伯の「皇国名医伝」前編(明
治六年刊)には、
僧性全、号浄観、柁原氏、自云和気氏之族、学医於丹波氏極其
底蘊、嘉元中拠病源候論之目、取捨衆説抄録単方、著頓医抄五
十巻、正和中又輯録唐宋医方、著万安方六十二巻、子道全亦有
医名、道全三世孫為長淳、善承業、門人中川氏伝其術、著捧心
方、万安方筴尾有授源三冬景之語、冬景蓋道全初名、
近代の成書ではまず富士川游先生の「日本医学史」に、
梶原性全は何人なるやを詳にせず。伝へ言ふ和気氏の族、浄
観と号す。名医の称あり。性全博覧強記自ら言ふ、見るところ
の方書凡そ二百有余部二千有余巻、是皆漢・魏・唐・宋経験の
方にして、これに加ふるに試効するところを以てして万安方・
頓医抄の二書を成すと言ふ。
藤井尚久氏は「皇国名医伝」の記載によって「医学文化
年表」附録、我国医人録の後二条天皇の条下に、
梶原性全(カヂハラシヤウゼン)(梶は一に柁に作らる)浄観、医僧、嘉元二年「頓医抄(トンイセウ)」
五十巻(仮名交り文)を撰す。
性全(浄観と号す 和気氏の族と云ふ)―道全―長淳(三世の孫)
とあり、のちに同氏が未定稿として発表された「日本著
名医略伝」には、
梶(カヂ)(柁)原性全(ハラシヤウゼン)、鎌倉時代の僧医、何処の人か詳かならず、浄
観と号す。和気氏の族と云ふ。医を丹波氏に学び名医の称あ
り、博覧強記にして嘉元年(1303)「病源候諭」の目に拠つ
て衆説を収捨し単方を抄録して「頓医抄」五○巻(仮名交り文)
を著はす。正和四年(1315)又唐宋医方を輯録し、自家の経験
を加へて「万安方」六二巻(漢文)を著はす。又「五臓六腑図」
を撰す。子道全及び道全三世の孫長淳善く其業を承け、門人中
川氏其術を伝へ「捧心方」を撰す。
と記載されている、その他の記載としては、
梶原性全ト云人何レノ人カ詳ニセズ。本朝医考ニモ不詳何処
人也嘗仕鹿苑院義満公ト云ヘリ。或説ニ花園院後醍醐院ノ間ノ
人、和気氏ノ末孫也。或ハ京都ニ在、或ハ鎌倉ニ在テ博ク医籍
ヲ極メ覆載万安方六十二巻目録一巻集テ子冬景ニ授クト云へ
リ、是何ノ書ニ出シヤ。万安方第十四上巻ニ和気末孫性全撰卜
記セリ、故ニ和気ノ末裔タリト也。又万安方巻奥書、正和四年
九月九日書之、子孫励稽古莫失墜此術、性全六十一ト記セリト
ゾ。(中川壺山著「本朝医家古籍考」写本)
其後、平性全万安方僅存世、余嘗見万安方、有鹿苑相公花押、
于世副本窂(林道春著「羅山文集」)
梶原性全、万安方五十冊作る。鹿苑院義満の袖判あり。建仁
寺の大統庵にあり、此医書あるとき医玄治法印銀十枚に買取
る。性全また頓医抄をつくる、官庫にあり。煩の字の訓ほとを
るとつくるもこの人なり。(人見ト幽著「東見記」)
以上が今までに記載された梶原性全の伝記のほとんどす
べてである。これらは何れも「万安方」副本を幕府に献じ
p.3-------------------
た時、岡本玄治(壽品)の記した『献万安方序』と中川子
公の「捧心方」にある翫月叟の序によったものである。
通説の根本となった『献万安方序』には
性全者不知何人、相伝云、以医仕足利氏鹿苑公、恒懸薬嚢、
時称名医、嘉暦之間著此書、鹿苑公嘉其志為記花押二、今見在
此書中、性全博覧強識、自言所見方書凡二百有余部二千有余巻、
亦皆漢魏唐宋経験之方及自所試功莫不集載、
とあるが、これに対して多紀元簡はその転写本(宮内庁
書陵部現蔵)の跋に於て、年代の矛盾を次のように指摘し
ている。
性全不詳何許人、自言和気末孫、而跋語中間及建長円覚寺等
事、則知其居鎌倉也、或以鹿苑相公押字、為任鹿苑相公、今推
之年代性全若在鹿苑時、則年当百十余歳、此恐不爾也、
ところがこの疑問は私の調査によって解決した。それは
「常薬記」(「群書類従」券五一三所収)中に於て左の記載
を検出し得たからである。
建武四年丁丑
正月廿二日 梶原浄観他界
「常薬記」は中世の記録として信憑するに足る確実な史
料であるから、この記載はまず信用出来るものと考える。
そこで性全の生年であるが、「本朝医家古籍考」に「万
安方」の奥書によって正和四年(一三一五)に性全は六一
才であったと記してあることから誤りをひき起し、「頓医
抄」の一伝本(享禄本系統)の奥書(第五○巻)に、
于時嘉元第二暦南呂上旬天書之 性全
とある右傍に『五十一才』と書入れたものがある。これ
は誤りであって、そのもとは「万安方」第二巻に、
正和四年十一月二日丑刻抄之 性全(花押)五十歳
嘉暦元年六月弐四日以清書本亦加朱墨点了
性全(花押)六十一歳
とあるのを誤認又は誤聞した結果である。従って正和四
年(一三一五)五○才、嘉暦元年(一三二六)六一才であ
ることは確かであるから、これから逆算すると性全の生れ
たのは文永二年(一二六五)、死んだのは七二才で建武四
年(一三三七、南朝の延元二年)ということになり、古来
伝えられた如く足利義満に仕え、「万安方」を献じて自筆
の花押を首尾に賜わったなどということは、全くの虚構で
あることが判る。
次に通説では和気氏の族で出身地は不明とされている
が、これも誤りで、結論をさきに記すと、性全は平氏の出
である梶原平三景時(有名な源太景季はその長子)の子孫
p.4-------------------
で相模国鎌倉郡梶原郷の出身、姓氏の上では桓武平氏鎌倉
氏流の末裔である。その理由は、
和気氏という根拠は「本朝医家古籍考」にもある通り
「万安方」第一四巻の内題の下に『和家末孫 性全撰』
とあるによったものであるが、当時の用語例を調べてみる
と末孫必ずしも血縁関係を意味しない。何となれば中世の
仏書などの奥書には『金剛末資 何某』『野流末子 何某』
『弘法大師何世之孫 某』『華厳末学 何某』『丹波末流
何某』などとあって、師資相承の意味に用いられる方が多
いのである。ことに性全の場合、林道春は『平性全』と記
し、また「捧心方」序(後述)には『師承丹家而居其右』
とあることから、本姓は平氏で和気氏の学をもうけついだ
というように解すべきが妥当であろう。性全の俗名は不詳
であるが後述するように一子は源三冬景と称したことから
も『景』は梶原氏の名乗り字であり、『源三』というのも
あてはまるので桓武平氏鎌倉氏流と断定したわけである。
従って生岡は相模である。
三 「頓医抄」の撰述
性全の大著「頓医抄」五○巻は、すでに成書に記載ある
通り、現存する和文の医書の最古のものであり、鎌倉時代
の医学の特色をよくあらわしている医学全書である。本書
はすでに高橋真太郎氏が指摘しているように、「諸病源候
論」(随・巣元方等奉勅撰)の目によって部門を立ててい
るが主たる処方の引用書は「太平聖恵方」である。
「太平聖恵方」は宋の太宗が自ら妙効ある処方一千有余
首を集め、さらに太平興国三年(九七八)に医官院に令し
て天下の効験ある家伝の秘方一万余首を献ぜしめ、尚薬奉
御王懐隠等四人に命じて分類編次せしめた方書である。淳
化三年(九九二)に至って成り、太宗自ら序を附し「太平
聖恵方」と題して刊行の上頒賜した。凡そ一百巻一六七○
門一六八三四首の処方を有する大部の宋の国定処方集であ
る。淳化三年の国子監刊本はさらに南宋の紹興一七年(一
一四七)、福建路転運司で重刊されている。わが国には紹
興重刊本が当時少くとも二部以上輸入されていた(金沢文
庫旧蔵本)。性全が「頓医抄」撰述に当って最も新しくしか
も権威ある本書に拠ること多かったのは時代の尖端を行く
もので、形式になずみ伝統を墨守する平安朝以来の宮廷医
家に対する医界の革新を意識したものと思われる。
しかし性全はただ「太平聖恵方」を以て伝家の宝刀とな
p.5-------------------
し、新を追い奇をてらって宮廷医家に反抗を示したのでは
ない。在来の医学の上に新しい知識を加え、自ら見聞した
あらゆる系統の医学、時には民間に伝わる俗方や僧侶・陰
陽師などの行う呪術的療法までも普くとり入れ、自らの意
見を加えて折衷し新しい体系を作ろうと企図していたので
ある。流布本の「頓医抄」の巻尾に
為救倉卒之病、聊抄単方之要、云病源之篇目、云療養之旨趣
頗雖近俗、亦広尋古賢之訓、兼加今案之詞、是則欲令見者易諭
而己、
と識しているように、恐らくは仏教的医療精神が動機と
なって、普く一切の人の病苦を救済する目的から、漢学の
素養なくとも医学が習得出来るように和文で綴ったもので
あろう。
「頓医抄」の伝本については後に詳しく述べるが、流布
本の奥書は僅か二個所のみであって第四三巻に『嘉元二年
甲辰六月一日書之畢 性全(花押)』とあるのと、前掲第五○
巻の末にあるだけで、これによって一般に「頓医抄」は嘉
元二年(一三○四)に撰述されたと考えられている(「日本
医学史」ほか)。即ち性全三九才の時である。
しかし、私がこの度、内閣文庫で発見した異本(後述)
には上掲の奥書はなく、内容にも異同があり第五○巻の末
に左の奥書があるのを検出した。
正安四年十月十六日奉授畢 性全在判
正安四年(一三○二)に性全は誰か自分より目上又は高
貴の人に「頓医抄」を授与したことになる。性全三七才に
当る。これにより考えると「頓医抄」には少くとも二種の
本があることを知るのである。私は「頓医抄」は性全が年
来の見聞と諸書を渉猟して抄録しておいたものを整理し、
三七、八才頃には一応のかたちが出来上っていたと推定す
る。これ即ち初稿本で、これになおいくらか手を加えて清
書し正安四年にはすでに誰かに授与したものであろう。さ
らに校訂を加え内容の排列や字句を改めて清書し跋を加え
たのが嘉元二年で、これが「頓医抄」の定本となっている
ものと考える。
正安四年に性全が『授け奉り畢んぬ』と記した相手は誰
であろうか。私は種々の事情を金沢文庫古文書から推察し
て、恐らくはこれが金沢貞顕であって、その本はのちに金
沢文庫に納められたと言えるものである。その典拠と考察
は後に記すが、ともかく、「頓医抄」はただ一種でなく、
性全が壮年の気力満々たる頃、多年の識見を結集して成っ
p.6-------------------
たものであり、折にふれ改訂を加えた五○巻の和文の医学
全書である、ということは疑う余地がない。
五 「万安方」の成立
性全が最も精力を傾注した大著「覆載万安方」六二巻は、
もと五○巻の形で作られた。奥書によるとその編纂は正和
三年(一三一三)に始まる。しかし大部分は正和四年(一
三一五)に出来上ったらしい。これが初稿で当時性全は五
○才であった。この当時の事情は判然としないが、今ここ
に述べようとするのは、初稿を清書してこれを校訂して朱
墨の点を加え家学の定本となした間の事情である。
現存の「万安方」には多くの巻末に奥書があり、感想そ
の他を折にふれて記してあるからこれによって「万安方」
の定本がどのようにして出来たか、性全の日常はどうであ
ったかが推察出来る。
「万安方」の伝本については後述するが、現在最も確か
な定本としての「万安方」の成立は嘉暦元年(一三二六)
六月二三日に始まり、七月一五日まで第一六巻に至る部分
を一応完成し、同年十月二日から第一九巻より始めて(第
一七巻は奥書なきため不明、第一八巻は散逸)第四八巻ま
でを十二月七日に清書し終り、第一九・二○・二一の三巻
は清書後直ちに朱墨の点を加えたが、その他の巻は嘉暦二
年になってから五月までかかって加点している。第四九巻
の末に、
嘉暦二年四月十四日朱点了 性全(花押)
同年四月廿一日黒点了、凡万安方一部五十巻拾採簡要卓約神術
子孫深秘如至宝 性全(花押)六十二歳
とあることから五○巻のかたちで一応成立したものと思
われる。
彼の初稿は定本の浄書に際し、帰化宋人の手によって行
われた部分がある。全五○巻のうち明かに知られるのは第
一・三・六・一○の四巻で、筆者は宋人道広と記されてい
る。第二・一一の二巻も道広の清書らしく思われる。清書
はまた自身でも行っている(第二五・三九――四八の十ー
巻)。例えば
(第四○巻)嘉暦二年正月一日丑刻、於燭下拭老眼清書訖
性全(花押)六十二歳
次に知られることは「万安方」は「頓医抄」と異って、
秘伝書として他見を禁じ家学の定本として一子冬景に伝え
るため撰述されたことである。冬景のために書いた奥書の
あるのは第一・五・六・九・一○・一三・一五・一六・一
p.7-------------------
九・二二・二三・二五・二六・二七・二九――三四・三九・
四○・四二・四五・四六・四八の二六巻で、実に子を思う
親の愛情が行間に溢れ、訓戒までも記してある。そのうち
二、三を例示すると、
(第六巻)冬景令看察於此一部、可救人扶身
(第一五巻)嘉暦元年七月十四日未刻、朱墨両点同終功了、冬
景着眼記心得此理趣、大可救人[ ]是老懐所励也 性全(花
押)
(第三九巻)(前略)冬景可秘之、莫令麁学之兄弟看之、
性全が「万安方」の校訂に全力を傾注していたことは、
ほとんど徹夜で加点を行っていたことから察せられるであ
ろう。自分では年のせいといっているものの過度の勉強が
たたってか視力を害し、羞明・視力減退・流涙があったに
も屈せず夜を日についで筆をとり、好調の時には一夜に一
巻脱稿し翌日直ちに朱墨の点を加えている例もある。即ち
(第一九巻)嘉暦元年十月二日於燭下朱点了 性全(花押)
同四日於燈下墨点了、老眼之間点画不分明、冬景感老情而弥可
励学 性全(花押)
(第二四巻)嘉暦二年正月十九日失点了 性全(花押)
同日哺時墨点了、可秘之々々々 性全(花押)六十二歳
(第四四巻)嘉暦元年十一月十三日子刻、於燭下清書之畢、子
孫感於老懐、勿倦於医学 性全六十一歳(花押)
また性全は元旦にも仏事にも超然として一意校訂に恵念
した。前掲第四○巻の奥書では、大晦日から徹夜して元旦
の午前二時に清書が終ったのである。僧でありながら仏事
に参加しなかったことは第三九巻に、
嘉暦元年十二月廿四日重渭書之 性全(花押)六十一歳
同二年二月廿日朱点了 今日万寿寺塔婆供養、建長寺長老(清拙和尚)
導師、千僧供云々僕為点此書、不拝彼会、得其時而不結其縁悲
哉々々 性全(花押)
とあって万壽寺の塔供養のため千僧供を村うに際し、前年
請により元より来朝した禅僧正澄清拙(大鑑禅師)が北条
高時の命により建長寺に長老として居ったのを導師とし
て、盛大な法要をなしたことが知られる。性全もこのよう
な世紀の大会に千僧の一人として参加するつもりでいたら
しいが、「万安方」の校訂のため果せなかった心情がこの
奥書中によくあらわれている。
現存の「万安方」は諸本すべて六二巻、その他に十巻の
ものもある。しかし十巻本は古く中川壺山が看破している
ように「頓医抄」を抄出した偽本である。「本朝医家古籍
考」に、
又世上ニ十巻ノ方安方卜云物アリ、全ク頓医抄ニテ偽撰セシ
モノ也。是万安方ノ乏キヲ以テノ故也。
p.8-------------------
とあって、問題外である。
ところで、『東見記』には「梶原性全、万安方五十冊作る」とあり、尾崎
雅嘉の『群書一覧』にも「万安方五十巻」とあって、現行本と巻数が異る。
これはどちらが正しいのであろうか。
『万安方』の奥書(第四九巻、前掲)によれば、五〇巻がもとのかたち
であることが創造されるが、さらに検討してみると、現行本の第五〇巻以
後の奥書は頗る不統一である。即ち、
第五〇 ―― 五六巻奥書なし、
*欠ページ2枚あり
→(16)と(17)
以下、単行本『万安方』にて補う
第五七巻 正和二年抄之了 性全(花押)
第五八・五九巻 奥書なし
第六〇巻 元徳三年四月一九日加点了 性全(花押)
第六一・六二巻(嘉歴元年清書、全文後出)
また内容と目録をみるに、第四九巻までは小児門であって、第五〇巻以降
は総目録では、
第五〇巻 五臓六腑病候形、五運六気
第五一巻 一切諸痛門(二〇条)
第五二巻 瀉薬門類(一五九方)
第五三巻 血疾門(七条)
第五四巻 医人大綱(二〇条)
第五五巻 医論(二二条)
第五六巻 諸丹石煉薬法
第五七巻 諸灸穴
第五八巻 万通暦、避人神法
第五九巻 薬名類聚 上
第六〇巻 薬名類聚 下
第六一巻 照味鏡 上
第六二巻 照味鏡 下
右の如く記してあるが、現行本の第五〇巻は後半の五運六気のみであり、
第五四巻は脈診法や医家道義など一条もなく、「五臓六腑形幷一二経脈図」
と内題ある仮名書きの着彩解剖図があててある。
第五九・六〇巻は内題に「薬名類聚」とあり、唐の『新修本草』によっ
て抄出し諸書を引いて本草の名義を論じたもので、奥書も他と異って元徳
三年(一三三一)の加点であるから、現在知り得る性全最晩年のものであ
る。これはもともと上下二巻の単行であったものを、第五九・六〇巻に充
当したのであろうと考えられる。これに続く最後の二巻は「照味鏡」とい
う内題があり、内容は食品の性効を説いたもので、その奥書は不明の部分
もあるが、
(第六一巻)照味鏡 上巻
嘉暦元年七月九日子刻於燈下令清書訖、
草本則去年正中二年秋所抄撮也、性全六十一歳(花押)
同二年五月八日朱点了 性全(花押)
同 六月十七日墨点了 性全(花押)
寤寐之間可看
記尤力急務 勿
(第六二巻)照味鏡 下巻
書之訖 性全六十一歳(花押)
性全(花押)
即ち、「照味鏡」も二巻で完結した単行のもので、正中二年(一三一五)
の著であることが判る。
以上の点から推察するに、性全が自ら『万安方』を編集した時は五〇巻
で、それがのちに他に存する単行の著書を合して、遂に現行の六二巻にな
ったのであろう。この推定を支持するもう一つの証拠は、第五九巻の「薬
名類聚」の木香の条下に「可見万安方」とあることにより、「薬名類聚」が
『万安方』初稿成立後の著作で、単行されていたことが判るのである。故
に現行本の第五〇巻に「五臓六腑病候形」が欠失していても、別に怪しむ
に足らず、第五一~五八巻の七巻は他巻と性質を異にしているので、後の
増補又は補遺と考えられる。従って、現行本第五四巻に異例の仮名書きの
解剖図一巻があることは、この部分が『頓医抄』第四四巻と重複しており、
---------------------
総目では「医人大綱」であるのにかかわらず、この巻にあててあることに
ついて、早く小島宝素によって疑いをもたれていた。宝素が天保八年(一
八三七)に写した『万安方』(金沢文庫新収本)のこの巻首には、左の識語
が加えられている。
案照目録第五四医人大綱、 始于詳脈口訣第一終于戒医人用好心勧病
家用好医第廿、而斯冊載五蔵図、未審何以相錯録、俟後考。
この解剖図については次章で考証するが、これもやはりもとは単行のも
のであったと推定される。
結局『万安方』は五〇巻で成立したが、補遺や特殊な薬方(瀉薬・丹石)
が加わり、さらに性全の別の著作たる「五蔵六府病候形」「薬名類聚」「照
味鏡」が附属して、六二巻となったものである。現存の本はこのうち第八
巻下(傷寒下)、第一八巻(積聚・痃癖・黄疸)、第五〇巻前半(五臓六腑
病候形)、第五四巻(医人大綱)の以上四巻が散佚していることになる。
高橋真太郎氏は前記の論文に於て、やはり五〇巻説をと
り、これは初稿の出来上った正和四年(一三一五)が性全
五○才であったから、年令と巻数の間に何かの関係があっ
たかも知れないと想像されているが、一応尤もな意見であ
る。また氏は「頓医抄」が「太平聖恵方」を主としたもの
であるに対し、「万安方」は「聖済総録」によったもので
あることを東洋医学の立場から記されている。いまこれを
再検討してみるに、その通りであって、新しく輸入された
「聖済総録」を性全が知るに及び、家学の根抵をこの書に
求めたであろうことが考えられる。
「聖済総録」は全二百巻目録一巻、収載処方約二万とい
う尨大な方書である。この書は宋の徽宗が政和年四(一一
一一―三八)に曹孝忠らの医官に命じて、秘閣所蔵の古今
の医書と天下に行われる効験ある方剤を抜萃編次した国定
処方集であって、「政和聖済総録」が原名である。「宋史」
や洪遇の「容斉随筆」によると徽宗の次に立った欽宗の
靖康三年(一一二六)に北方から興った金のため宋は圧迫
されて南遷の止むなきに至った。この時金人は宋の宮廷の
秘庫を開き、歴代の宝物と共に、宣和殿・大清楼・竜図閣
の三庫所蔵の図書と国子監で刊刻した多くの版木を掠奪し
た。ちょうど「聖済総録」の版木も完成して印刷するばか
りになっていたのも持去られてしまったので、南宋の人た
ちはついにこれを失って見ることが出来なくなってしまっ
たのである。故に宋の多くの書誌には「聖済総録」につい
ての記載は少しもない。
金はのちに世宗の大定年間(一一六―一一九○)これ
を印刷して頒布した。この際書名の上の政和の二字を削り
とってしまった。「聖済総録」はここに於て始めて陽の目
をみたわけである。しかしこの金版がわが国に輸入された
か否かは明かでない。当時の事情から恐らくは輸入されな
かったのではないかとも思われる。
さらに金は一二三四年、元のために滅亡されるに及び、
「聖済総録」の版木は三転して元の手に帰した。成宗の大
徳四年(一三○○)に重刊の序や校刊姓氏を附し「大徳重
校聖済総録」と題し、新たに元で校刊した如くにみせかけ
たものが現存する。しかしこれはすでに多紀元胤が「医籍
考」で指摘しているように「大徳東校」の四字の字様は拙
劣であり、「聖済総録」の四字がいくらか傾いている部分
もある。また本文をみると八行十七字の大字で宋版の字様
である処から、大徳四年に新しく刊刻したものではなく、
金から得た版木に改刪を加え新刻の如く装ったものである
p.9-------------------
ことはすでに定評のある処である。わが国に伝えられた
「聖済総録」はこの大徳版が多い。完備はしていないがそ
の零本が三部ほど現存するのをみても中世には広く流布し
ていたことが察せられる。
性全が「頓医抄」を完成したのは嘉元二年(一三○四)
であるが、その後、いち早く大徳版の「聖済総録」を見た
らしい。そしてこの書が「太平聖恵方」よりすぐれ収載処
方数も多いのを感じて、「頓医抄」より一段と高級な家学
の定本を編纂しこれを子の冬景のために残そうと考えたの
であろう。印刷後僅か数年にして「聖済総録」を披見し得
た性全は、高橋氏がすでに記しているようによほど恵まれ
た地位にあったことを証するに足るのである。後述するよ
うに彼には何人かの有力な後援者と友人があった。彼に
「聖済総録」を斡旋したのは誰か不明であるが、これらの
後援者の力によって鎌倉時代医学の最高峰に到達し得たの
は彼の絶倫の才を雄弁に語っている。
五 性全校訂の解剖図説
「頓医抄」第四四巻と現行本「万安方」第五四巻に同じ
仮名書きの着彩解剖図説がある。伝本の系統によって図に
精粗があり、着彩のないのもあるが、かなり精巧な着彩図
がもとのかたちであろうと思われる。
「頓医抄」の享禄本(後述)系統のものには第四四巻に
後人が書写に際して書いた次の識語がある。
万安抄巻第四十四
五蔵六腑形
十二経脈図
右両図見覆載万安方五十四巻略之
また現存の「万安方」の祖本たる岡本玄治献上本では第
五四巻は他巻と体裁を異にし、仮名書きの本文は墨罫が施
され巻首に巻数なく(巻数は表紙見返しにあって字体が異
る)いきなり『五蔵六腑形幷十二経脈図』とあり、十二経
脈図の終りには『万安抄巻第五十四終』とありその後に『五
蔵六府』と首題ある八葉の要約があって巻末には『覆載万
安方五十四終』としてある。この部分に熊宗立の腎蔵歌が
引いてある処をみれば、この八葉の部分は後世の書写に際
し後人の附加したものと考えられる。熊宗立は明人である
から、性全の原著に引用のある筈がない。
右のことから私は「万安方」の第五四巻は「頓医抄」の
第四四巻であって、原目録と異っているため室町末期に誰
かが倉卒に四四と五四をとり違えて編入したのがついに
p.10-------------------
「万安方」第五四巻とされてしまったものと推定したい。
この解剖図一巻はまた単行で書写されており、現在二種
の伝本(後述)を知ることが出来る。また「頓医抄」第四
三巻は『五蔵六府形候』と題され、五蔵六府の形態と機能
のあらましを、内経の説に基き「千金方」を参酌して記し
てあり、末尾に『已上五蔵六府ノスガタ荒々是ヲ明ス、委
キ事ハ本書ニアリ。是モ肝要ニ非スト云トモ、大方アル者
卜知リヌレバ不審ヲ散ズル計也。治方ノ次第ハ余ノ巻ニ明
セリ。故ニ此一巻ハアナガチノ至要ニアラザル歟』と結ん
でその後『嘉元二年甲辰六月一日書之畢 性全在判』とあ
る。これらによって第四四巻は図として第四三巻に附属し
て二巻で単行の著述であったと考えられる。書名は「五蔵六
府形候」と題されたであろう。その著作年代は「頓医抄」
の成立から考えて正安四年(一三○二)以前と推定される。
さて、蔵府の図であるが、これが何によって画かれたも
のであるかということについては、本文中に「欧希範五蔵
図」を引いているので明かであるが、その他、図から推し
て「華陀内照図」によったものの多いことも知られてい
た。しかし正面図が二つあり、第一図は喉に孔が三個ある
ので「欧希範五蔵図」であることは確かに判るが、第二図
の『前向図』と題した正面図は肝が右に脾が左に位置し、
次の第三図の背面図も肝と脾が逆になっていて「内照図」
と異るので何によったものか不明であり、性全の誤写か後
人の転写の誤りかとも考えられて来たが、私は最近、道蔵
籍字号太玄部第六六八冊所収の「黄帝八十一難経注義図序
論」の内境図を見るに及んで、これが性全の引用したもの
であることを発見した。
この書は宋の咸淳五年(一二六九)に臨川の李子桂が著
わした医書である。のちに道蔵に編入されるに及んで道教
書として扱われ、現代に伝えられているものであるが、内
容は立派な医書である。咸淳五年といえばわが国の文永六
年に当り、性全がこれを引用した年代を「頓医抄」初稿成
立の正安四年(一三○二)としても、原書著作後三三年で
ある。「万安方」の依拠した「聖済総録」の披見といい、
この「難経注義図」の内境図の引用といい性全がいかに新
渡の医書に大きな関心をもち、またこれを利用し得る恵ま
れた地位にあったかを想像することが出来る。
なお、解剖図については近日、渡辺幸三氏が詳細な文献
学的研究を公表される筈であるから、本稿では以上の簡単
な記述に止める。(以下次号)
p.11-------------------
【梶原性全の生涯とその著書(二)】
六 性全をめぐる人々
梶原性全に関係ある人々を「頓医抄」と「万安方」の中
から拾い出し、また金沢文庫古文書にあらわれた性全関係
の記事をとりまとめてみると、性全の学統や肉親、後世へ
の影響、師承関係などもかなり明かになり、上洛して医を
学び鎌倉に来てどんな支援者を得て何処で活躍したかとい
うこともほぼ推定できる。以下項目を分けてそのあらまし
を述べる。
1 肉身と門流
前にも記した如く、性全は梶原氏の一族で武門の家柄で
あるのにどうして性全が僧になり医を志したか、また父や
俗名は何か、これらのことは目下のところ一切不明であ
る。ただ中年に一時還俗したと見えて子がいたことは「万
安方」の奥書から立証される。全体の奥書を綜合するに性
全六一歳ごろにはまだ幼くて医を学ぶに至らなかったであ
ろうと思われる。その子は源三冬景とよび、のちに道全と
号したらしい。冬景は蒲柳の質で喘息か気管支炎か慢性の
咳に悩んでいたらしい。そのため「万安方」第一六巻の喘
咳の部門は特に留意して書いている。別に喘咳の妙薬三百
余方を集録して「保気論」という三巻の書を著わしたこと
もその奥書から察せられるが、現存しない(奥書本文は後
掲)。年まだ幼くしてしかも蒲柳の一子に、漸く老境に至
った性全が多年の学識と経験を整理して「万安方」を編し、
これを家学の定本として残す意図の下に努力したことは多
くの奥書に記されている。
冬景は性全の示教の結果であろうか、のちに成人して道
全と称し海を渡って江南の地に航し元の医学を学んだらし
いことは、「捧心方」序文から察せられる。それによると、
p.12-------------------
我邦以済生、世厥業者、唯和丹二家而己矣。近世旁支横派、
争道而出。和家久少聞其伝、丹家一派亦落如暁星矣。爰有梶原
浄観公、師承丹家而居其右。夫我邦秦越人乎。有万安頓医両方
万安秘而弗伝、頓医今行于世矣。厥後曰道全亦英特士也。猶嫌
我邦之群書、附舶南遊、其業益大而其観改焉。自全四伝而有人
曰長淳。淳浮屠氏也。蹈海婆娑於世、然而才徳之所薫、莫以加
其臭焉。雖医術集成于茲、而論於之才徳、則蓋其緒余苞苴焉耳
(家蔵古写本による)
とあって立派に父の跡をついだ。またこの記事によって
性全の門流が室町中期まで続いたことが知られる。「捧心
方」の著者中川子公はこの序にみえる長淳の門人で、序は
翫月叟が宝徳三年(一四五一)に作るところである。さら
にこの著は天文七年(一五三八)になって南禅寺の潤甫和
尚が増訂し、十二巻として世に伝えた。これで室町末期ま
で性全の系統が明かになる。
従来、浅田宗伯・藤井尚久両氏ともこの序の『全より四
伝して人あり』というのを、性全四世の子孫と解し、長淳
は性全の子孫としているがこれは前後の関係から考えて、
全というのは道全をさしていること明かであり、また前述
した如く、単に四伝とあるだけで血縁関係にあるとも思え
ず、ここでは長淳は性全から数えて四人目の門流継承者と
解すべきが妥当であると信ずる。これらを表示すれば
(第一表) 梶原性全の門流
(元人) (竹翁)
浄観性全 道全 ○ ○ 古道長惇 中川子公 潤甫
2 学統と師承
性全はどんな系統の医学を誰について学んだであろう
か。すでに記したように和気氏の流れを汲み、丹波氏の学
をもついでいたことは知られているが誰について何時頃学
んだのであろうか。「万安方」第八巻上『傷寒後驚悸』の
項に注書して『和気種成入道仏種、自初云腎気、今世諸人
同云也』とあるので、あるいは和気氏の家学を種成につい
て学んだかとも考えられる。和気氏のことについては、な
お「万安方」第一三・三○巻にも記されている。種成は
「和気氏系図」によると、
種成、侍医正四位下、兵庫頭、昇殿、典薬権助、母――、出
家法名仏種、正応元年九月三十日卒、六十八才、
とあり、後嵯峨上皇の寵を蒙り医博士となり、上皇の崩
御によって入道した当時高名の医家で、和歌にも秀で勅撰
集にも佳什がいくつか入っており後人の編ではあるが「種
p.13-------------------
成朝仮集」一巻が伝わっている。彼の死んだ年は性全二四
才に当るから、教えをうけたとすればそれ以前であろう。
丹波氏については「万安方」第二五巻の木香丸の条下に
康頼の「医心方」を精検した由が記されており、「頓医抄」
第二○巻『舌諸病』の重舌の条に、
ヨノツネニハ小舌トイフ。此ニハマジナフコトアリ、キハメ
テ秘事也。別ニ口伝アリ、丹家嫡流ニツタフルモノナリ。
と前おきして刺絡の方法を述べているので、丹波氏の正
統の家学を相伝したことは碓かであるが、誰についたかは
不明である。
以上は平安朝以来の伝統を保持する宮廷医家の隋唐医学
の学統であるが、新しい宋医学は新渡の刊本医書を読破し
て得たほかに入宋の僧によって伝えられた学統が明かにな
った。このことは従来全く知られなかったことで、「万安
方」第二二巻の長生薬の注記に
此方即宋人秘説、人人雖知此方、不弁由来、日本僧導生上人
在唐九年相伝之、
とあり、また第五二巻の兪家遇仙丹の注に、
私云、此薬参州実相院導生比丘、在唐九年只為習伝於医術也。
仍黒錫丹・養正丹・霊砂丹等諸方、及脉道針灸口決、幷此遇仙
丹相伝之。自導生比丘一円禅師(尾州長母寺長老)以法眷之好伝受之、従
一円禅師以兄弟之胞実照相伝之、自実照亦性全受之。此方於宋
朝只兪家秘之。不令余家而伝矣、禁防不軽。於本朝即導生禅師
一流伝来、以至予掌握、子孫可秘之々々々。
と血脉が明記されている。宋の兪氏の医学とはどんなも
のであろうか、いま「宋史」その他を調べても見出せない
が、兪家の秘方として導生らの相伝した方名から察するに
栄の国定処方集「和剤肋方」収載のものに類似しているか
ら、京師の名医であったと考えてもよかろう。「頓医抄」
第一○巻に『京師兪山人降気湯』の名あり、また第一五巻
には、
交感丹、此薬ハ則チ兪居易一ノ祖 通奉、甲先生卜云フ人ニ
アヒテサヅケラル。
とあることからほぼ系統が察せられる。導生という僧の
伝は明かでない。その止住した参州実相院というのは、今
の幡豆郡西野村にある関山派の禅刹、瑞境山実相寺であ
る。この寺は文永八年(一二七一)に吉良満氏によって創
建され、開山は円爾辨円(聖一国師)である。
一円は無住と号し、鎌倉の人、俗姓梶原、一九才で出家
し諸寺を訪ねて八宗兼学を成就し、最後に円爾に謁してつ
p.14-------------------
いに会下に入って嗣法となり、文永の初年、尾張木賀崎に
長母寺を開いて第一祖となった高僧である。多くの著述の
うち「沙石集」一○巻・「妻鏡」一巻・「雑談集」五巻は説
話文学の代表作品として今に至るまで重んじられている。
その実弟が実照で、性全は実照の伝とうけたというから三
人とも梶原一族ということになる。この学統を表示すると
(第二表) 導生流の学統
(在宋九年)
甲先生 兪通奉 兪居易 導生 一円無住 実照 浄観性全
(入宋)
円爾辨円
これから察するに、無住は円爾について学んだことは確
実であり、導生は実相寺にいたというから初祖の円爾の教
えをうけたこともほぼ確かであろう。これは禅の教えであ
るが円爾は入宋して医をも学び、多くの宋版医書を請来し
たことは現存する「普門院経論章疏語録儒書等目録」(東
福寺蔵、重要文化財)に明記されているところである。故
に円爾の医学も禅の系統を通じて導生流に影響しているこ
とは否定できず、性全も禅にかなり関心あったことが奥書
からも察せられるから、文献上のみでなく実際の宋医学を
継承しておりこれが性全の家学形成の上に大きな役割を演
じたことと思われる。
次に性全が継承した医学に武家の間に伝えられた一系統
がある。
「頓医抄」第四五巻は『交接等治』と題され、房中術を
記した巻であるが、この中に、
料木ヲ取テ黒ミヲ刀ニテ指切テ、汁ノ出ルヲ茶碗ニ入テ、二
三日置テ堅マリタルヲ乳ニテ芥子程ニ丸也。一丸ヲツカハント
思フ時、神門ニ押入レテ仕フベシ。男女トモニ歓喜スルコト甚
シ。此薬ヲツカヒテ後二三日ハ女人ノ開門摺合フ度ゴトニヨク
ナル也。此薬ヲツカヒテ強クセムレバタエズシテ死スル也。心
得テスベシ。彼ノ料木ノ事深秘ノ口伝也、雖千金万金、易ク人
ニ不可伝。此薬ハ河津入道弟子六人ヨリ外ハ知レル人更ニ無也
傾薬丸卜云フ。
と秘伝を公開している。河津入道といえば一般には「東
鑑」第一二巻の記載によって、河津三郎祐泰が裕親法師男
とあるところから、例の曾我兄弟の祖父、伊東入道河津二
郎祐親をさすことになる。鎌倉幕府譜代の名家たる梶原と
河津がどんな関係にあったかということにはここでは触れ
ないが、特殊な経験医術が河津氏に伝えられていたとみえ
る。その秘伝は六人の弟子よりほかには伝えなかった。こ
p.15-------------------
の一派を性全は梶原氏の故を以て相伝し得たものと思う。
以上明かに認め得た四流の学統によっても判るように、
性全は流派の別なくあらゆる医学を研究し、多くの医書を
読破し、これに自らの経験を加えて彼一流の医学を作り上
げたのである。性全の仏教上の学統もかなり明かになった
が、ここでは医学のみに限って、仏教の血脈は割愛した。
3 性全の支援者
「万安方」の奥書から知ることのできる性全の支援者は、
明かな者のみでも四人を数えることができる。
第一は宋人道広である。すでに記したように「万安方」
の初稿は定本の浄書に際し、約一○巻ほど道広をして写さ
せている。この道広という人は全く不明であるが、恐らく
は禅僧の能書家であったのではなかろうか。そして『宋人』
と性全が記していることに対し、古くから嘉暦頃にいた人
であれば宋の滅亡後約五○年も経過しているので元人であ
るべきだ、と時代考証をしている人もあるが(「万安方」の
第六巻の後跋書入)、これは宋の滅亡前に来朝していた人
とすれば宋人と称しても差支えなく、あるいは性全に関係
ある導生か無住かが帰朝の時伴い帰った人であるかも知ら
ない。
第二に鎌倉幕府の要人がいる。「万安方」第一六巻の奥
書に記されていることから、二人の名が明かである。
嘉暦元年七月十五日巳尅、朱墨両点同時加訖。此一巻治冬景
宿病尤可委之。保気論三巻治喘咳有神薬三百余道、自筆草本在
長井洒掃文庫、一本在于二階堂出羽入道行藤書庫歟、可尋看之
性 全(花押)六十一才
との二つの武家の文庫については、前金沢文庫長、関靖
氏の報告(「鎌倉時代における図書館に就いて」日本古書
通信第一一九号、昭和一四年)以来、中世の異色ある図書
館としてその方面では重視されている記載である。
長井洒掃は宗秀であって、大江氏の一族、掃部頭から宮
内大輔に進み、和歌の道にも堪能で「新後撰集」・「続千
載集」にも入撰している。宗秀が性全の有力な支援者であ
ったろうことは、金沢文庫古文書第一四七八号に次のよう
に記されていることから想像できる。
(前略)それもかさ(瘡)をかき候て、はたらき(働)へ(経)す候をりふ
しにて、御つかひ(使)にもまいらせぬへき物もいまは候はて、
いよ(伊豫)と申候物をまいらせ候。かもん(掃部)殿の御うち(内)に、しや(OO)
うくわん(OOOO)と申候ほうしくすし(僧医)の、かさかうやく(瘡膏薬)をめしよ(召寄)
せて、つけさせまいらせさせをはしまし候へ。たなか(田中)殿
p.16-------------------
第1図 浄観の記事ある仮名消息(金沢文庫蔵)
に御さた(沙汰)候て、つけまいらせさせをはしまし候へと申て
候へは、御さた候はんすらん、けんてう(顕著)にやがていゑ(癒)候
かうやく(膏薬)にて候(後略)
この文書は私が昭和一九年に検出したものであるが、こ
こに『しやうくわんと申候ほうしくすし』とはまさに『浄
観と申候僧医』ではなかろうか。しかも『掃部殿の御内に』
いたとあるからには性全は一時長井宗秀の支援をうけてい
たことになる。「万安方」の奥書では自筆稿本の「保気論」
三巻をその文庫に納めたと明記しているので、親密の度も
察せられる。
宗秀の子貞秀も性全と特別な間柄にあったであろうこと
は、金沢文庫古文書第八一九・八三五号に「頓医抄」貸借
の記事があることから察せられる。この文書二通は関靖氏
の検出したものである。
蒙仰候頓医抄十五帖借進候、如法重宝候也。又薬種、任御注
文可尋進候。抑御契約候し護身法事、未注給候歎入候。自此種
々(後闕)
筆者宛名を欠いているがこれは次の文書と一連の関係が
ある。
御帰之時、定可有御立寄歟之由存候之処、無其儀候条遺恨候
抑先日御約束候し北斗祭文可給之由候しに、未給候之条、巳御
p.17-------------------
破戒候哉、無物体候。早々可給候。又、唐船無為帰朝之由、自
六波羅注進候、付惣別□□□。又、頓医抄御借用候し、可返給
候。或人一見望候之由申候。事々期面拝候。恐々謹言
四月十四日 貞秀
明忍御房
後の文書に唐船帰朝六波羅より注進とあるので、こ
れは乾元二年(一三○三)のものと推定される。明忍
というのは北条実時の開いた金沢山称名寺第二世長老
の明忍房劔阿のことで、劔阿は医学にも明るい学僧で
ある(その著にわが国現存最古の産科専書「産生類聚
抄」二巻がある)。
前年七月、北条実時の孫、金沢貞顕は六波羅南方探
題として上洛していた。家人の長井貞秀もむろん在洛
しており、これを機会に劔阿も所用をかいて京都にい
た。医僧の劔阿が性全の新苓「頓医抄」のことを伝え
聞きこれを何とか見たいものと考えて、貞秀に斡旋を依頼
したのであろう。貞秀は父宗秀と性全との間柄から、性全
とも親しかったことと思われる。この二通の文書は「頓医
抄」に関する唯一にして敢古の記載であり、貞秀は金沢文
庫の蔵書の管理にも関係していたことが金沢文庫古文書の
多くの記載から明かであるので、ここに記されている「頓
医抄」は性全自筆のもので金沢文庫に納めるべく、性全か
ら得たものではなかろうか。
第2図 正安本「頓医抄」の奥書と識語(内閣文庫蔵)
これについて想起されるのは「頓医抄」の一本(内閣文
庫現蔵、渋江抽斉旧蔵)の奥に前述の如く正安四年(一三
○二に性全が授与した旨の識語があることである。「頓医
抄」の撰述について記した折に、私は性全が授与した相手
を金沢貞顕らしいと推定を下しておいたが、その根拠はこ
p.18-------------------
の二通の文書によったものである。長井貞秀が上洛して、
当時京都にいて「頓医抄」撰述に余念のなかった性全を訪
れ、これが完成の暁には貞秀が管理に関係している金沢文
庫に一本を納めるようにすすめたのではなかろうか。そし
て性全は正安四年にともかくも脱稿した一部の「頓医抄」
を約の如く金沢文庫の主貞顕に献じたと思われる。それは
六波羅の貞秀の手許に保管していたのであろう。劔阿がこ
れを借出して披見しているうちに、また他から一見を希望
する者があったので事のついでに貞秀は返却の催促をした
ものと思う。なお、この文書の記載によって、その「頓医
抄」は粘葉装で一五帖になっていたらしい。内閣文庫蔵の
正安本は勿論後世の転写であるが、もとは一四冊に製本さ
れていた跡が歴然としている。現在欠巻があるので、その
分を一帖として全一五帖であったと考えられるから、ここ
に記してある一五帖というのと符合している。
なお、現在金沢文庫には「頓医抄」第五○巻の目録の断
簡と思われる鎌倉末期の写木一紙が伝えられている。内容
は現存の「頓医抄」と多少相違があるが、以上のいきさつ
からあるいはこれが正安本の原本の一部ではないかとも考
えられる(後述)。
第3図 「頓医抄」目録断簡、左半面は右の紙背を示す
(金沢文庫蔵)
次に第一六巻奥書の二階堂出羽入道行藤とはいかなる人
p.19-------------------
物であろうか。「鎌倉九代記」によると
弘安五年十一月五日蒙使宣旨左衛門尉卅五、同十一年四月十
五日叙留、十三日申畏。正応元年七月廿四日任出羽守。永仁五
年三月十五日叙従五位上、同六年二月廿八日為越訴奉行。正安
元年四月一日為五番引付頭、同三年八月出家、道暁改道我、同
四年八月廿二日卒五十七。
と履歴が記されている。二階堂家はその祖行政以来、幕
府の評定衆を家職とした武家における文学の家柄である。
行藤の子、貞藤入道道蘊は正中以後(一三二四以後)特に
幕政の主要な地位にあり、歌人としても著名である。行藤
の創立した文庫が子の貞藤に至っても大いに活躍していた
であろうことは疑いのないところであって、性全も他に傍
証がないので長井家ほど関係ははっきりしないが、これら
の父子と交際のあったことは想像に難くない。
第三に極楽寺、とくにその開山忍性との関係である。
忍性は大和の人、俗姓伴氏、少にして出家し特に西大寺
の思円房叡尊(興正菩薩)について律の秘奥を極め、救療
事業に挺身。弘長元年(一二六一)北条長時(義時の孫)
の請により鎌倉に下向、霊山極楽寺の開山となり、中世最
大の病院を経営、死後菩薩号を追贈された名僧である。そ
の死は嘉元元年(一三○三)七月で年八七であった。
性全との関係は「万安方」では第四三巻に
(嘉暦二年三月)昨日十日大守禅閤、自二所以下向、於極楽寺
門前見物、驚目了。
とあるだけであるが、私は金沢文庫古文書中に性全自筆
の書状を発見し、その宛名が極楽寺塔頭の勧学院になって
いることから、性全は一時極楽寺にいたことを知った。
また、間接に性全の法名が忍性と相似していることか
ら、性全と忍性とは法弟の関係にあり、恐らくは叡尊の法
眷であったと思われることを発見したので、性全が晩年は
極楽寺にあって衆生済度のため大いに活躍していたものと
考えるに至った。
「万安方」第四三巻の奥書と、金沢文庫古文書第六七○
号の金沢貞顕の書状とを考え合せると、この月に北条高時
の寵妾が御産の予定であった。その安産祈願のため高時は
行列を整えて嘉暦二年(一三二七)三月七日に鎌倉を出立
し、伊豆走湯山と箱根権現に詣り、十日に極楽寺門前を通
って帰着したのである。性全は折よくこの行列を見物しそ
の美々しさに目をみはり、よほど印象的だったとみえて奥
書に記したのであろう。日夜「万安方」に朱墨の加点を行
p.20-------------------
勧学院侍者宛(金沢文庫蔵)
っていた多忙な彼が、いくら美しかったとはいえ、前掲、
塔供養の大会まで参加しなかったのにわざわざ鎌倉のはず
れの極楽寺の辺まで見物に出かけたとは絶対に考えられな
い。やはり極楽寺内にいたので折よく門前まで行って見物
したと解すべきではないか。
さらに私の発見した性全自筆の書状は、極楽寺塔頭の勧
学院侍者にあててあるばかりでなく、真言の伝法に関する
事相目録を便を得て送達しており、また律三大部をも托送
していること、六波羅騒動の動静を報じていることなどか
ら、性全は単なる極楽寺の旦過ではなかったことを証する
に足る(後述)。
法名の相似とは、忍性は良観房忍性と称し、性全は浄観
房性全とよばれていることである。房号では観の字が共通
しており法号では性の字が同じである。これは偶然の一致
とは思えない。恐らくは同じ師家の下に求法した証であろ
うか。私は叡尊の法眷と目し、年令と伝法から推して忍性
が師兄であったものと思う。この故にこそ壮年の折は長井
宗秀の加護をうけていたのに、のち極楽寺に投じ、忍性を
扶掖して今生の瑠璃光浄土の顕現に尽力したのもまた故な
しとしない。性全は当時の風習に従い八宗を兼学したので
p.21-------------------
第4図 梶原性全自筆書状極楽寺
真言にも律にも、また天台・禅にも明かつたのであろう。
七 性全自筆の書状
金沢文庫古文書第三五一○号は二葉の楮紙から成る書状
で、『沙門性全』と署名あり、私はこれを浄観房性全自筆
の書状と断定した。その内容は左のごときものである。
山倉便宜に、中野院事相
目六を上進候し、
自然粮米杯にて可有
御奔走候。
先立、山倉便宜に令申候へとも、
未参著候哉と存候。申候御物詣伴物
事、何様御計候哉、草壁了嚴房
召仕候し物、入道に成候て応悲阿弥と
申候仁、したたか物器量にて候、内々
妙寂房申合候。令申候処に御具足等も
可持之由申候。如何候へきやらん、さも候はは
今度治定と承候て、正月何比に可
上之由可申定候。鎌倉まての路の
粮物等可沙汰候哉、委細に可承候、又
山本殿も正月末は不可宜之由、被申候。
p.22-------------------
但山辺以外騒動にて候つるか、もし
明年まても不静候はは如何と存候。去月
大称宜内々当国一撲をかたらひ候て、」
中村殿にたちあい候て、宮中に引籠、
軍勢を語候て神輿を出申候て、以外
物忩候つるが、合力勢共退散候了。公方
沙汰に成候て、政所を可改易之由聞候。
如何成行候はすらんと、心苦覚候。馬事も
一日入道殿に令申候へとも、今明作法にてはと
不定けに申され候、さりなから、重も
承候て、不可叶候はは、余所侍も承候はん
やもと、殿にもあつけ候て、かい候へく候。
御立の内に不可有御下候はは、此人に何比
可上候由、治定承へく候。歳内には便宜
重難有覚候。
一、三大部事、以権門使者、道行候ぬと存候、
可廻御方便宜給候。御上之内忩々可有御計候。
恐々謹言。
十一月二日 沙門性全
謹上 勧学院御侍者
(本文書は写真との対照上、原本通りの字詰で釈文をつけた)。
この内容より察するに、まず、『山倉の関東下向のつい
でに「中院流事相目録」をもたせてやったので、用米など
について心配して欲しい』と前書きし次に『山倉の便のつ
いでに申上げておいたが、まだ到着しないと思うので重ね
て知らせる。熊野参詣のお伴はどのように取計ったであろ
うか。草壁了厳房の召使っていた者が僧になって応悲阿弥
といっている。この者は極めて才能があると内々妙寂房と
も話したことである』。と推挙し、第二に道中が物騒であ
るから具足を用意したいがどうか、鎌倉までの食料はもっ
ていった方がよいか知らせてほしい、と記して日程や道中
の騒乱の状を報じ、六波雑政所の政変の噂に及び、第三に
道中の馬のことに触れ、第四にこの書状持参の者に上洛の
日を決定して伝えて欲しい。年内にはもう連絡がとれなか
ろう。といい、第五に「律三大部」は六波雑の幕府の使者
に托して持って行って貰ったから受取ったら何分の配慮を
上洛までにして欲しい。と結んでいる。
宛名の勧学院御侍者とは誰であるか判らないが、勧学院
はこの文から鎌倉にある寺ということが知られる。しから
ばこれは一体何処にあった寺であろうか。いま伝わってい
る極楽寺の結界図をみると、二王門を入って四王門に行く
p.23-------------------
第5図 極楽寺結界図に描かれた勧学院
(部分)(鎌倉・極楽寺蔵)
築地の中に東
側に鐘楼と僧
食堂が並んで
おり、これに
対して西側に
皷楼と勧学院
が示されてい
る。茅葺切妻
造、四間二面
恐らくは妻入
のさして広からぬ建物ではあるが、極楽寺四十九院中の塔
頭の一つである。
もっとも勧学院という名は上方の諸大寺、例えば興福
寺・東大寺・園城寺などの子院にもあるが、鎌倉ならば極
楽寺以外には見当らない。それで私は他の性全の史料を傍
証として極楽寺勧学院と断定したわけである。
この書状から察するに嘉元三年(一三○五)四月二三
日、北条時村が殺され、翌月二日には殺害の徒党十一人を
誅し、また四日には六波羅北方勤務の北条宗方を誅し、こ
れらのことによりこの年は騒乱があちこちにあった。この
状況を記したものと思われるから、多分嘉元三年の書状と
察せられる。金沢貞顕はこの時、六波羅南方に在勤であっ
た。
性全は「頓医抄」著作後鎌倉に下り、忍性との縁によっ
て極楽寺に関係し、時折、所用のたびに寺務をも托されて
上洛したものと思われる。書状中の『中野院事相目六』と
は、真言宗の一派、中院流の事相伝授目録をさしているこ
とは明かで、真言についてもまた律についても見識があっ
たと思われる。なおこの書状に関連して金沢文庫古文書中
(千葉・武本為訓氏の所蔵であったが焼失した)に左のも
のが見出される。
(前欠)申候とて性全御房、彼人はかなふましきよし承候間、
重不及申候次第候。性全御房坐香取候之間、委細不申承候。又
これほとに不落居物を口入申候ける事、返々所存之外存候。将
又、自熊野御下向申候て愚身無子細候はは、面拝之時子細可申
承候。毎事期其時候。 恐々謹言。
二月二日 沙門妙寂(花押)
謹上 勧学院御侍者
前文が存しないのでよく判らないが、性全の名の出てく
る唯一の文書で、しかも前掲の性全の書状中にある妙寂房
p.24-------------------
が極楽寺勧学院にあてた書状で、日附から察するに性全の
書状の翌年二月に書いたものである。これによると性全の
書状にある勧学院侍者の上洛は熊野参詣が目的であったこ
とが判り、性全が推挙した応悲阿弥なる下人は期待に反し
て不都合が多かったことを、妙寂房が性全に問詰しようと
したらしいが、性全は坐って香を焚き想いに耽っていたの
で何もいわず、その鬱憤を勧学院に洩らし、細かいことは
自分が出向いて話をする、ということである。性全の折角
の推挙が水泡に帰した模様と察せられる。
なお、金沢文庫には道全と書名ある書状の断簡を伝えて
いる(第二九○七号文書)。宛名を欠いており、本文も不
明の簡所が多く、これだけでは果して性全の子の道全自筆
の書状であるかどうか明かではないが、日附が後二月十四
日とあるので、閨二月のある年を性全の生存期間中に求め
てみると、元弘三年(一三三三)即ち北朝の正慶二年に当
るのであるいはこれも道全(冬景)かと察せられる。全文
は左のとおりである。
]令 [
]拝可 [
仰之旨可有御披露候
第6図 道全書状(金沢文庫蔵)
恐惶謹言
後二月十四日 道全状(花押)
内容は披露状の末尾と覚しく、何か道全が光栄と感じた
ことを披露して貰いたいとの意であって、幸いにも日附に
前記のごとく『後』とあることからはっきりした年代がわ
かる。
この書状の筆蹟と筆勢をみるに、老年の人の手ではない
ようであるから「万安方」校訂の頃、性全が深く心配して
p.25-------------------
いた蒲柳の質の少年源三冬景は、まもなく仏門に入って得
度し道全と称したのではなかろうか。これは全くの想定で
あるが、一応の疑いを存しておく。
八 「頓医抄」と「万安方」の伝本
前述のごとく、「頓医抄」と「万安方」とは大部の巨冊
であり、且つ刊行されたこともないので現在世上に存する
伝本はさして多くない。
そしてその伝本の系統はかなり明かで、あまり異本と目
すべきものがないことは、原本の面影を知るため有難いこ
とであるが、性全自筆の真本はすでになく、「万安方」に
至っては秘本とされていたため、延享二年(一七四五)以
前の写本を見ることができないのは遺憾とするところであ
る。
次に「頓医抄」・「万安方」の伝本の系統を略記し、終り
に単行で伝来したと思われる「五蔵六府形候」の系統につ
いて知り得た限りを発表する。この伝本の系統はなお後日
の補訂を期すものである。
1.「頓医抄」伝本の系統
性全が「頓医抄」をはじめてまとめた、いわゆる初稿本
の一写本断簡が金沢文庫に現存する。これは僅かな断簡で
あるが第五○巻の目録で鎌倉時代末期の特長ある筆蹟で、
あるいは性全自筆かとも想像されるけれども、いまにわか
に断定し難い。「頓医抄」の現存最古の本でこれを便宜
上、初稿本系統と考え、『金沢本』と名ずける。
初稿本をいくらか整理し訂正を施したと思われる再訂本
の系統の写本が内閣文庫に現存する。これは現在二五冊に
なっており、室町末期の写と江戸初期の写とで取合されて
おり、市野迷庵が入手したもの。迷庵は医書をあまり好ま
なかったので狩谷棭斉に譲った。棭斉はこの時改装して自
ら題箋を加えた。私がこの本を昨冬内閣文庫で閲覧した
時、表紙裏に巻数を記してない棭斉自筆の題箋が数枚紙包
みにされて挿入してあるのを発見し、未貼の分に補い、余
は司書の手によって巻末見返しにこの顛末を記して貼りこ
まれた。前述の正安四年(一三○二の)奥書ある本である。
この本は棭斉歿後、渋江抽斎の有となり、多紀元堅が借
り受けた時左の識語が巻末に書き加えられた。嘉永三年(一
八五○)のことである。(第2図参照)
此為市野迷庵旧蔵、迷庵不甚
好医書、何以青帰書屋中能有
p.26-------------------
是書、其題籤乃棭翁手筆、亦
可珍也、庚戊小春廿四日 堅識
これよりさき元堅の祖父、広寿院元徳もこの本を見たと
みえて、現在東京国立博物館蔵の多紀家旧蔵「頓医抄」
(享禄本系統、後述)は巻四四を全くこの本によって補っ
ている。
私は便宜上、右の再訂本の系統と覚しきものを『渋江本』
又は『正安本』と称したいと思う。
次に流布本の祖となった定本は、性全自筆のものがいか
なる経路を辿ったか不明であるが、室町末期に尼子伊予守
の手に入った。伊予守はこれを主君の雲州大守(毛利元就
?)に献じた。これを『雲州本』と名ずける。『雲州本』は
現存不明であるが、これに基いて忠実な写本が出来た。
流布本の「仮名万安方」として享禄二年(一五二九)の
奥書あるものによると、雲州本を曹源院全公が一筆書写し
たものがあったことが知られる。これは雲州大守毛利氏が
京都から五山衆を招き寄せて写させたものである。その本
がいかなる経路をたどってか宗鎭庵玉岡の手に入った。そ
の一族(恐らくは子)の宗慶という者がこれに竹田月海所
伝の秘方と安芸大膳介の家方を附加し、これを宗寿(恐ら
くは宗慶の弟)に伝え、宗寿はこれを校合し享禄二年六月
に跋を加えた。この本は後に藤原祐盛の手で再写され、さ
らに校訂が加えられ、竜室なる者の所蔵を経て幕府の昌平
坂学問所に入り、明治になって浅草文庫を経て現に内閣文
庫に蔵せられている。これを『享禄本』または『仮名万安
方』と名ずける。『仮名万安方』と称するのは享禄の跋文
に、
此万安方者、梶原性全公所編之頓医抄全五十巻也。某秘名号
万安方。
とあるによったもので、真本の「万安方」と区別する必
要からかく名付けたのである。この系統の本が世上に最も
多いそして宗寿の署名の右に『竹田末流』と書いてあるこ
とから、本文に月海秘方を附加したことに関連して竹田月
海の末裔と解したり、第三二巻の尾に、
謹按、宗寿者我先大夫光禄府君、晩歳一号、而花押則異于家
譜所載恐是由伝写訛者、是書跋云、附安芸大膳亮家方、蓋此等
之謂也。寛政六年甲寅暮二十二日、裔孫正六位女医待詔大和介
源一謹識(花押)
と安芸源一の考証があって、安芸宗寿に擬したりする向
もあるが、何れも臆測で、実は宗寿は五山衆の医僧であ
p.27-------------------
ることを明かにすることができた。
第7図 享禄本「頓医抄」跋文(内閣文庫蔵)
享禄本は昌平坂学問所にあった頃、宝暦五年(一七五五)
に度会常芬によって伝写され、また寛政年間多紀元徳によ
って校訂転写されて広く流布するに至った。
度会本系統のものには、杏雨書屋蔵及び家蔵の一本など
があり、原南陽が度会本を写した時にはさらに荻野台州所
蔵本と曲直瀬東井旧蔵本(何れも享禄本系統)を参照して
文字の異同を正している。これはのちに水戸彰考館に献納
され現存する。またさらに彰考館本は新写されて笠間文庫
にも蔵せられ、今は上野図書館に存する。
多紀本は享禄本を主とし、第四四巻は再訂本系統の正安
本を以て写し、現在は東京国立博物館に存する。近年、こ
の本は井上書店の手で二部新写され、一は杏雨書屋に、一
は藤波氏乾々斉文庫に納められたが、現在何れも武田薬工
所蔵となっている。
多紀本は恐らくその門人によってかなく多く伝写された
であろう。一例を挙げれば、奈須恒徳の写したものは、富
士川游先生の架蔵を経て現に赤松金芳氏が所蔵している。
※ 参考
頓医鈔 梶原/性全
嘉元二
書誌URL:http://dbrec.nijl.ac.jp/KTG_B_100243676
書誌ID 100243676
巻数 50巻目録1巻
刊写の別 写
書写事項 玄盅子/(那須/恒徳), 文政4年(1821)
形態 20cm, 5冊
書誌注記 〈伝〉(印記)「久昌舘蔵書」。
所蔵者 慶大富士川, F-ト-55, マイクロ
目録分類・データソース情報 10014, 000000370
デジタル請求記号DIG-KEIO-367, 899コマ, Y
以上記したところは管見に入った系統の確認し得る伝本
であるが、このほかに宝町時代の書写に係る二本(福井崇
蘭館旧蔵本・前田氏尊経閣文庫本)があるが、何れも享禄
p.28-------------------
本系統とみなし得る。
2「万安方」伝本の系統
「万安方」は「頓医抄」と異って、秘本とされていたた
めか、性全が定本とした本の一系統あるのみである。
前述のごとく、「万安方」の初稿は正和四年(一三一五)
に一応脱稿し、その後清書して朱墨の点と加え五○巻本と
して嘉暦二年(一三二七)に完成した。その後、単行の別
本が附加されて子の道全に定本が伝えられた時には六二巻
となっていた。別本の附加はあるいは子の道全によって成
されたかも知れない。道全の手からどういう経路を辿った
か不明であるが、足利義満がある時この本を一見して首尾
の遊紙に、自署の花押を加えた。義満は応安元年(一三六八)
に一一才で将軍となり、応永一五年(一四○八)に五一才で
卒しているから、「万安方」を一見したのは応永一五年以
前ということになる。その後の事情もまた明かでないが永
正頃(一五一○頃)に宗鎭庵玉岡の入手するところとなり、
玉岡は「頓医抄」雲州本と共に天下唯一の「万安方」をも
所蔵することとなった。その由は享禄本「頓医抄」の宗寿
の跋によって知られる。即ち、
就中亡父宗鎮庵主、陰徳応天乎、其後得覆載万安方六十余巻。
是一部之外、天下ニ無類持、依為鹿苑院相公御秘蔵之本、在御
判両所。共以性全公之所編也。
とあって、本書を義満秘蔵本と解しているが、花押があ
ったからとて所蔵を意味するとは限らず、一覧に供えた折
に鑑証として花押や捺印する例は中世には屡々みられるか
ら、私は義満生前に一見したことがあると最少限に解して
おく。
玉岡の死後、子の宗寿に定本「万安方」は伝えられた。
性全自筆(但し約半数は宋人道広の清書)の定本として、
また家学の秘本として恐らくは他に写しもなくただ一本で
あったろうと思われる。宗寿の書入れが第六巻の尾に天文
四年(一五三五)の記事として記されているのを最後に、宗
寿の後、建仁寺大統庵で岡本宗什が見出すまでの経路も全
く判らない。しかし私はひそかに宗寿は建仁寺会下の信士
で、永緑頃(一五六○頃)に天下の秘本たる故を以て「万安
方」を大統庵に寄進したものではないかと想像している。
現存する最古にして伝来の正しい「万安方」は延享二年
(一七四五)に前述の定本を望月三英のすすめにより所蔵者
の岡本寿品(四代目玄冶)が複写して、幕府に進献した本
である。性全の定本をいかにして岡本氏が手に入れたかは
p.29-------------------
前掲、人見卜幽の「東見記」に記されてあるとおり慶長頃
(一六○○頃)に岡本宗什(初代玄冶、啓迪院法印)が白銀
十両を以て建仁寺大統庵から買取ったものである。岡本宗
什はこの書を得て深く喜び、その後伏見城にて家康に目通
りし、元和九年(一六二三)秀忠によって医官の列に加えら
れ隔年東下して医名一世に鳴ったという。その子孫玄琳・
寿仙・寿品ともに代々玄冶を襲名したが、四代目の寿品の
代にこの書の散佚を恐れ、複本一部を作って紅葉山文庫に
納めたいきさつは現に内閣文庫に存する献上本の首に記さ
れている『献万安方序』に評かである。その後、原本はい
かになったか明かでない。恐らくは現存しないと思われる
が、ともかく献上本によって幸いにもわれわれは性全の定
本の全貌を知ることができるのは寿品の功によるものであ
る。献上本複写の際、このことを勧めた望月三英も一本を
写し取ったらしいが、これは現存不明である。
現在、知られている「万安方」はすべてこの紅葉山献上
本の写しで、多紀元徳が借覧して写しとった本は寛政五年
(一七九三)に元簡が跋を附して家蔵としたものが宮内庁書
陵部に現存する。多紀氏はまた家蔵の他に一部を写して医
学館の蔵書となし(この方が写しが粗雑である)、現に東
京国立博物館にあり、近年これに基いて新写した二本は杏
第8図 岡本玄冶(四代目)の献辞(内閣文庫蔵)
p.30-----------------------
雨書屋と藤浪氏乾々斉文庫に納められたが、今は二部とも
武田薬工の所蔵となっている。
多紀氏門下の人たちも幾人かが写本を作ったらしいが、
大部であるため容易なことではなかったらしい。一例をあ
げると、小鳥宝素は多紀氏家蔵本によって自ら手写し、そ
の識語によっても天保三年(一八三二)から約五年を費やし
たことが知られる。宝素手写の本はのち改装され諸処を転
々としたが、今は金沢文庫に保管されている。
医学館本によった転写本の一つに、原南陽写本がある。
これは前章に記した「頓医抄」と同様に彰考館に一部、こ
れから出た笠間文庫本が上野図書館に現存する。
以上、「万安方」の伝本について管見に入ったもののみ
を列記したが、「頓医抄」と異って系統はただ一つ、しか
も近写のものと雖も現存数少く、恐らく全国を精査しても
十部前後であり、何れも多紀本か医学館本、即ち岡本寿品
献上複写本に源を発すると断言することができる。
3 内景図単行と抽印刊本について
「頓医抄」第四四巻の内景図のみの単行での伝本は現在
二種の別あることが判明した。前にも記したように、もと
もとこの解剖図説の分は解説と附図、即ち「頓医抄」の第
四三・四四巻の二巻にあたる部分より成るものであろう
が、今単行で伝わっているものの多くは第四四巻の図のみ
のものが多い。しかし、一方には図を略して本文のみを写
した伝本もある。これらのうち伝来の判明した一本には巻
末に左の識語がある。
此一冊者越州一乗谷従一伯斎相伝之本也
この本には表紙に後人の附した「内景五蔵図及十二経脈
図」の題箋があり、写しは寛政四年(一七九二)で新しい
が、何度か転写したもののごとく、もとは室町末期のもの
と想われる(乾々斉文庫旧蔵)。内容は享禄本よりすぐ
れ、誤写は少い。他の伝本は享禄本系統で「家蔵方」と題
する宝暦写本(巻尾欠、研医会図書館蔵)、無題名の江戸
中期写本(家蔵、本文なし)などが管見に入っている。
さて、前掲の識語によってその伝来を考うるに、越州一
乗谷とは越前国足羽郡の地名で小白山ともいい、白山権現
の初めて出現した霊地とされ、泰澄によって創められた一
乗寺の址である。その後、南北朝のころに朝倉高清八世の
孫、日下部広景が斯波氏の目代となってこの地を領し、そ
の六世の孫敏景ここに一乗城を築いた要害の地である。そ
れより織田信長のため圧迫され天正元年(一五七三)義景に
31-----------
至って朝倉氏は滅亡したが、一時この地は京都の公卿の疎
開あり、清原氏来って講説を行い朝倉氏の保護を得て北越
における文教の中心地となったことがある。「朝倉始末記」
によれば、
弘治五年八月、公卿たち京より一乗へぞ下向し給ひける。屋形
義景、悃篤して様々饗応給ひけるが、秋来旅泊の愁襟をも慰め
参せんがため、水石の勝地を求め遂に一乗の阿波賀河原にて曲
水の宴をぞ催されける。
と見え、また天文五年(一五三六)にこの地で朝倉孝景の
招きによって医学を講じた入明の名医谷野一柏によって
「勿聴子俗解八十一難経」が開版されている。その刊記は、
越前州一乗谷之艮位一里許有
山曰高尾其麓有寺人号曰高
尾寺寺有堂安以医王善逝尊像
太守日下氏宗淳公俾一柏老人
校正熊宗立所解八十一難経之
文字句読而募工鏤梓以置於
本堂盖医国救民之意歟
茲天文五年丙申九月九日 釈尊芸
とあって、その間の消息分明である。この本は明の熊宗
立が成化八年(一四七二)に刊行したものの覆刻であって、
わが国の医書出版史上重要な資料である(拙稿「日本中世
古版医書年表」本誌第五巻第三号参照)。
さて、前掲の識語に『一伯斉』とあるのは、まさに「俗
解難経」の校刊者たる谷野一柏をさすもので、伯は柏字に
作るべきである。谷野一柏の経歴は詳しく判らないが、当
時の名医で朝倉孝景(日下部宗淳)が一乗谷に招いて医を
講じさせたらしく、「頓医抄」の内景図も講義の材料に用
いられたものであろう。但し谷野一柏がいかにして性全の
著書を入手できたかは全く不明である。
ともかくも一乗谷本内景図を知ることができて、性全の
著書が意外なところで講じられたらしい事実に私たちは多
大の興味を覚える。
次に「頓医抄」の一部分を抽印した刊本について述べ
る。
この本は中川壺山の「本朝医家古籍考」に、
一種刊行ノ本アリ。是ハ五十巻ノ中ニテ巻二十七ヨリ三十七ニ
至ルマデ、凡七巻ヲ刊行ス。是婦人門也。コレハ女科ノ人其道
ノ為ニセシモノト見へタリ。
とあって早くより知られていた。私も多年その原物を求
32-----------
めていたが、幸いにも京都大学の富士川文庫中に存するも
のを見ることができた。「婦人頓医妙」と題され、七巻七
冊、縦六寸四分横四寸五分の青表紙の本で、一頁九行、校
正者の名も序跋もなく、刊記は、
天和三癸亥年林鐘吉日
洛陽寺町五条
中野宗左衛門 開板
とある。本文は流布写本とかなり出入あり、十巻を七巻
に冊略したため原本と比べると省略も少くない。しかし、
性全の著書のうち印刷に附せられた唯一の部分である。
以上、三項にわたって管見に入った「頓医抄」と「万安
方」の伝本全部について、その伝来と系統を詳説したが、
性全自筆の原本は存しないにしても、比較的忠実な写本の
存在によって偉大な業績を偲ぶことができ、またその伝本
の系統によって江戸末期に及ぶ永い間重要な地位を占めて
いたことが認められる。われわれはこれらの著書によって
鎌倉時代の医学の全貌を知ることが可能である。そしてま
た梶原性全のわが医学史上に占める地位を再認識すること
を得たのは大きな収穫といわざるを得ない。
終りに当り、貴重なる資料の閲覧と写真撮影を許された各図
書館当局の御厚情を謝するとともに、中世文化史の多くの隠れ
た史実について親しく教示をいただいた前金沢文庫長文学博士
関靖先生に心から御礼を申上げる。
なお、とくに内閣文庫本の調査については破格の好機を与え
られ、十分な調査を行うことのできたのは、前文庫長岩倉規夫
氏と司書の福井保氏の力によることが多い。末尾ながら衷心よ
り感謝する。
附記「頓医抄」の五蔵六府図については、今まで詳しく調
べられたことがなかった。私も「欧希範五蔵図」と「華陀
内照図」の引用という従来の通説のほかに、新しく李子桂
の「雌経注義図」の影響あることを追加したに過ぎなかっ
たが、渡辺幸三氏の教示によって、「華陀内照図」は楊介
の「作真環中図」を襲用したもので、桃源和尚の「史記標
注」に引かれた文章から「頓医抄」の記文は、その忠実な
訓訳に性全の私見が加えられたものであることを知った。
詳しくは同氏の論文について見られたい。附記して謝意を
表する。(1956年(昭和31).7.1 稿)
**************************
原著 梶原性全の生涯とその著書(一)石原明 1956年(昭和31)第06巻第2号 057-68頁
原著 梶原性全の生涯とその著書(二)石原明 1956年(昭和31)第06巻第4号 139-160頁
*************************
文字入力 小林健二 2018/06/05
欠ページ2枚あり
第06巻第2号 →(16)と(17)
*************************
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