2026年10月25日日曜日

17-3 江戸時代鍼灸文献序跋集 經穴祕授

 17-3 經穴祕授  鹿島忠敬撰 

    京大富士川文庫所蔵(ケ/一九)

    https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00002161

     

經穴祕授序

經穴之失傳也尚矣古者

先經穴而後藥石今也專

藥石而遺經穴於是鍼

  一ウラ

灸之術陵夷而墜於瞽者

之手與蹻摩導引為儔夫 

甲乙立經上哲之所存心子

午標幽名醫之所用力鍼

  二オモテ

灸豈易言哉勢州松坂鹿

洲君以醫為業好古而有興

廢之志研究經穴而有所

見稽諸古説驗乎今人遂

  二ウラ

以國字觧之以圖象明之

著為一小冊名曰經穴祕授

寄送示余〃受覽之經穴

之事詳審明白無可間者

  三オモテ

宜傳之於今學醫者論治

搜兪有所按據不亦可乎盖

亦鹿洲君之志也云

享和辛酉冬十月

  三ウラ

    尾張 山碕克撰

          〔印形白字「山碕/克印」「士/敏」〕

          源 達書

           〔印形白字「源」「達」〕


  【訓み下し】

經穴秘授の序 

經穴の傳を失するや尚(ひさ)し。古者(いにしえ)經穴を先にして藥石を後にす。今や藥石を專らにして經穴を遺(わす)る。是に於いて、鍼

  一ウラ

灸の術陵夷して、瞽者の手に墜ち、蹻摩・導引と儔(ともがら)と為る。夫れ甲乙の經を立つるは、上哲の心に存する所、子午、標幽は、名醫の力を用いる所、鍼

  二オモテ

灸、豈に言うこと易きかな。勢州松坂の鹿洲君、醫を以て業と為(し)、古を好み、而して廢を興すの志有り。經穴を研究して、而して見る所有りて、諸(これ)を古説に稽(かんが)え、今人に驗す。遂に

  二ウラ

國字を以て之を解し、圖象を以て之を明らかにし、著して一小册と為(し)、名づけて經穴秘授と曰う。寄送して余に示す。余受けて之を覽るに、經穴の事、詳審明白にして、間(まじ)う可き者無く、

  三オモテ

宜しく之を今に傳うべし。醫を學ぶ者は、治を論じ兪を搜して、按據する所有らば、亦た可ならずや。蓋し亦た鹿洲君の志なりと云う。

享和辛酉 冬十月

  三ウラ

    尾張 山碕克撰す

          源 達書す

  

 【注釋】

 ○祕‥「秘」の異体。 一ウラ ○陵夷‥衰微。 ○瞽者‥盲人。 ○甲乙‥『鍼灸甲乙經』。 ○上哲‥並外れた道徳、才智の人。 ○子午‥金・何若愚『子午流注鍼經』。元・竇桂芳編輯『鍼灸四書』中の一書。 ○標幽‥「標幽賦」。鍼灸歌賦の一つ。元・竇漢卿『鍼經指南』(竇桂芳編輯『鍼灸四書』中の一書)に見える。 二オモテ ○勢州‥伊勢。 ○鹿洲‥『国書総目録』によれば、鹿島忠敬。本書扉に「尾張九皐先生閲」とならんで「齊南鹿洲先生著」とある。鹿洲は松坂のひとであるから、「齊南」は伊勢のこと。「齊」は「齋」で、伊勢神宮のことか。 ○好古‥『論語』述而「我非生而知之者、好古、敏以求之者也/我れ生まれながらにして之を知る者に非ず、古を好み、敏(と)く以て之を求めたる者なり」。 ○興廢‥衰頽したものを復興する。『文選』班固『兩都賦』序「以興廢繼絶、潤色鴻業」。『論語』堯曰「興滅國、繼絶世」。 ○稽諸古説驗乎今人‥『漢書』董仲舒傳「善言天者、必有徴於人、善言古者、必有驗於今」。 ○二ウラ ○國字‥仮名交じり文。和文。 ○間‥間にはさむ。 三ウラ ○尾張 山碕克‥西尾市岩瀬文庫古典籍書誌データベース『尾藩禁方集成』によれば、山崎克は山崎克明(九皐)であろう。山崎九皐(克明)は名古屋の町医。〔淺井〕貞庵の祖父圖南と父茅渟の門人。寛政三年名古屋藩寄合医師に抜擢される。文化七年没七十六歳。 


經穴秘授の序 

經穴の傳を失するや尚(ひさ)し。

 【意訳】経穴の(正しい)伝承が失われてから,長い時がたってしまった。

古者(いにしえ)經穴を先にして藥石を後にす。

 【意訳】古くは,経穴による治療が最優先で,薬物はその次であった。

今や藥石を專らにして經穴を遺(わす)る。

 【意訳】現代においては,もっぱら薬物治療がおこなわれて,経穴による治療は忘れ去られている。

是に於いて、鍼灸の術陵夷して、瞽者の手に墜ち、蹻摩・導引と儔(ともがら)と為る。

 【意訳】そのため鍼灸の技術は衰退して,盲人の仕事に堕し,按摩や健康体操と同列のものとされてしまった。

夫れ甲乙の經を立つるは、上哲の心に存する所、子午、標幽は、名醫の力を用いる所、鍼灸、豈に言うこと易きかな。

 【意訳】そもそも『鍼灸甲乙経』が経典として確立したのは,並外れた才智の人が心を注いだ結果であり,『子午流注』や『標幽賦』は名医が力を尽くした結果である。鍼灸はどうして安易に語ることができようか。

勢州松坂の鹿洲君、醫を以て業と為(し)、古を好み、而して廢を興すの志有り。

 【意訳】伊勢の国,松坂の鹿洲君は,医学を家業としていて,古い書籍を熱心に学び,衰頽したものを復興する志望を持っている。

經穴を研究して、而して見る所有りて、諸(これ)を古説に稽(かんが)え、今人に驗す。

 【意訳】経穴の研究を重ねて,独自の見解を得,これを古い説と考え合わせ,現代の人の体でその効果を確かめた。

遂に國字を以て之を解し、圖象を以て之を明らかにし、著して一小册と為(し)、名づけて經穴秘授と曰う。

 【意訳】その結果として,仮名交じり文を用いて解説し,図解を使ってわかりやすくし,一部の書籍としてこれを著わし,『経穴秘授』と名づけた。

寄送して余に示す。

 【意訳】鹿洲君がわたくしに送ってきて,見せてくれた。

余受けて之を覽るに、經穴の事、詳審明白にして、間(まじ)う可き者無く、宜しく之を今に傳うべし。

 【意訳】わたくしはこれを拝受して閲覧してみると,経穴に関することが詳細で行き届き,明瞭に説明されていて,異議を差し挟む余地もないもので,まさに現代に伝えるべき書籍である。

醫を學ぶ者は、治を論じ兪を搜して、按據する所有らば、亦た可ならずや。

 【意訳】医術を学ぶ者にとって,治療法を論じて,経穴を探す上で根拠となるものがあることは,素晴らしいことではないか。

蓋し亦た鹿洲君の志なりと云う。

 【意訳】思うにこれもまた鹿洲君の志望するものである。

享和辛酉 冬十月

 【意訳】享和元年(1801)冬十月

  三ウラ

    尾張 山碕克撰す

     【意訳】尾張の山崎克 著わす

          源 達書す

 【意訳】源 達 この序文の文字を書く

     ★伊藤墨海(いとう ぼっかい) ~文化6年(1809)

    江戸中・後期の医師・書家。名は茂達。字は子聞。通称は山崎龍眠。号は墨海、秋江。医師定斎(伊藤玄沢)の次子、兄春沢がはやくに没したため家を嗣ぎ医を業とした。もっとも書法に心を傾け、ことに八分に巧みで四方に名を知られた。源達の名で金石に刻した遺跡を多く存している。法名は墨海彼岸。享年五十八歳、名古屋花車町浄信寺に葬る。現在は平和公園に移されている。

     https://masudashobo.com/posts/kinsenosho32.html

     https://masudashobo.com/posts/kinsenosho_archive.html

     ★医師伊藤玄沢は、美濃の生まれで、享保九年(一七二四)名古屋に来て医を学び、この地に開業した。宝暦五年(一七五五)八代尾張藩主宗勝より薬種料を賜り、ここで広く貧困者に施療を行った。名古屋市教育委員会

     https://840.gnpp.jp/nagoyashibori/

     ★愛知県図書館デジタルアーカイブ 細井平洲先生旧里碑

     細井平洲は米沢藩主上杉治憲(鷹山)の師にして、尾張藩明倫堂督学の儒者。碑陰に刻まれた建碑の経緯を記した文に拠れば、平洲が江戸在勤中に没して7年目の文化4年(1807年)12月に、在藩の弟子の神野世猷・秦滄浪らによって、平洲の故郷知多郡平嶋村(現・愛知県東海市)の浅間山に碑が建立された。/銘文の書は平洲の弟子で医師・書家の伊藤墨海の手になる

    

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  (跋)

南山之竹弗揉自直斬而射

之通於犀革然括之羽之鏃

之其人誰鹿洲子於毉也最

精選此書原歸淺氏今也削

繁正圖而有撰於乎羽之鏃

  ウラ

之實濟生之助砥礪之功亦

唯不少焉同郷間埼元晏云

爾享和辛酉秋八月

  〔印形黒字「間崎/之印」「元/晏」〕


  【訓み下し】

南山の竹は、揉(た)めずして自ら直(なお)く、斬りて之を射れば、犀の革を通す。然(しか)も之に括して、之に羽し、之に鏃す。其の人誰ぞ。鹿洲子、醫に於けるや、最も精選なり。此の書は、原(もと)、淺氏に歸す。今や繁を削り圖を正して、撰有り。於乎(ああ)、之に羽し

  ウラ

之に鏃す。實(まこと)に濟生の助け、砥礪の功も、亦た唯だ少なからざるのみ。同郷の間埼元晏云(しか)爾(いう)。享和辛酉 秋八月


 【注釋】

 ○劉向『説苑』建本「子路曰、南山有竹、弗揉自直、斬而射之、通於犀革、又何學為乎。孔子曰、括而羽之、鏃而礪之、其入之不亦深乎。子路再拜曰、敬而受教/子路曰く、南山に竹があり、矯正しなくともひとりでに真っ直ぐで、これを切って矢として射れば、犀の革をも貫き通します。どうして学ぶ必要がありましょうか、と。孔子曰く、矢筈をつけ、矢羽をつけ、矢尻をつけてよく磨けば、より深くまで達するではないか、と。子路再拜して曰く、謹んで教えを受けたいと存じます、と」。『孔子家語』子路は「揉」を「柔」に、「通」を「達」に作る。 ○揉‥曲げたわめる。矯正する。 ○括‥矢筈の溝をつける。 ○羽‥羽をつける。 ○鏃‥矢尻をつける。鏃礪括羽‥苦労して鍛錬精進することのたとえ。 ○淺氏‥尾張の淺井氏。 ○濟生‥衆生を救済する。 ○砥礪‥ともに刀を磨く石。砥石でみがく。励み務める。 ○間埼元妟‥未詳。伊勢の英虞湾に間崎島あり。 ○享和辛酉‥享和元(一八〇一)年。


南山の竹は、揉(た)めずして自ら直(なお)く、斬りて之を射れば、犀の革を通す。

 【意訳】南山の竹は,矯正しなくとも自然とまっすぐであり,これを切って矢として射れば,堅いサイの皮でも突き通す。

然(しか)も之に括して、之に羽し、之に鏃す。其の人誰ぞ。

 【意訳】しかし,矢筈の溝をつけ,羽をつけ,鏃(やじり)をつけて,はじめて弓矢として使えるのである。では,その仕上げをする人は誰か。

鹿洲子、醫に於けるや、最も精選なり。

 【意訳】鹿洲先生は,医者として最高のえりすぐりである。

此の書は、原(もと)、淺氏に歸す。今や繁を削り圖を正して、撰有り。

 【意訳】この書物は,もともと淺井氏に由来するものだが,今その内容の繁雑な部分を削除し,図に修正を加えて編纂された。

於乎(ああ)、之に羽し之に鏃す。實(まこと)に濟生の助け、砥礪の功も、亦た唯だ少なからざるのみ。

 【意訳】ああ,鹿洲先生はこの書に羽をつけ,鏃をつけた。まことに人々の命を救う助けとなり,原書を磨き上げた功績も,決して小さなものではない。

同郷の間埼元晏云(しか)爾(いう)。

 【意訳】同じ土地の出身である間埼元晏,かくのごとく言う。

享和辛酉 秋八月

 【意訳】享和元年(1801)秋八月

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