2018年11月8日木曜日

『甫菴叢書』淺田宗伯序

    一
甫菴叢書序
神皇產靈邈矣、大貴少彥二命尚矣、上古
醫道雖不可得而稽、然覩其遺方一二存者、
槩單劑草藥、或採禽獸之骨肉肝膽、或
用同類之腦髓血滓、而湯液之道未闢、迨
新羅百濟貢醫藥、彼方法稍布於海内、厥
後通好李唐、使命來徃、醫道大典、療病有
四診之法、成方有君臣佐使之別、遂至設典
藥之署、立御醫之官、嗚呼亦盛矣哉、當斯
    二
時和氣丹波二氏接踵而起、良工哲匠不乏其
人、晉唐之醫方網羅莫遺、可謂官有世功者矣、
降及戰國之世、斯道有名無實、文墨醫卜之事、
皆歸緇流、或混以四大五體之梵說、碎殘極矣、
然亦有月湖三喜道三之徒、起於浮屠之中、用力於
方術、卓然奉金元之醫流、風靡一世、又至元禄享保
之間、學皆主復古、吾技亦趣晉唐遡于秦漢、人才
之盛後世莫及焉、然昇平日久、其道終萎苶不振、
近來西洋醫學浸滛于我邦、蔑正規廢古方、於
    三
是先聖法度淪喪無餘、赫〻神明之邦、變爲腥
羶之俗、嗟乎上古神聖之道、復何時而興哉、盖古
昔醫學、盛于弘仁天曆、陵夷于延久寛治、衰微于
保元平治、其後浮屠雖弄醫柄、徃〃航海遊宋明、
參禪之暇、從事杏壇、各有師承、元和以來名醫輩
出、至於享元之間、再極其盛、而今舉千有餘載之
方術、將歸泯滅、抑天乎人乎、余嘗通觀天下、不
復古者三、一曰、神世之遺方不復存、二曰、漢土醫道將
墜地、三曰、洋臭薫天下、世降俗澆、人才不及古、斯
道日衰、如下峻阪、豈非浩歎之至哉、吾友服部
    四
君煉霞、家世事方技、藏歷代醫籍若干、皆係
五百年以上之物、乃編集名曰甫菴叢書、徵序
於余、〻讀之有深感于古今隆替之際、故書以
爲叙、
明治十四年辛巳春三月
明宮尚藥奉御 淺田惟常識此撰


    【訓み下し】
    一
甫菴叢書序
神皇產靈邈(はる)かなり。大貴・少彥の二命尚(ひさ)し。上古の醫道、得て稽(かんが)うる可からずと雖も、然れども其の遺方一二の存する者を覩(み)れば、槩(おおむ)ね單劑・草藥、或るいは禽獸の骨肉・肝膽を採り、或るいは同類の腦髓・血滓を用いて、湯液の道 未だ闢(ひら)かれず。新羅・百濟の醫藥を貢ぐに迨(およ)んで、彼の方法稍(ようや)く海内に布(し)く。厥(そ)の後 好(よしみ)を李唐に通じ、使命 來徃す。醫道の大典、病を療するに四診の法有り、方を成すに君臣佐使の別有り。遂に典藥の署を設け、御醫の官を立つるに至る。嗚(あ)呼(あ)、亦た盛んなるかな。斯の
    二
時に當たって和氣・丹波の二氏 踵を接して起こる。良工・哲匠、其の人に乏しからず。晉・唐の醫方 網羅して遺(のこ)すこと莫し。官に世功有る者と謂つ可し。降って戰國の世に及んでは、斯道 名有って實無く、文墨醫卜の事、皆な緇流に歸し、或るいは混ずるに四大・五體の梵說を以てし、碎殘極まれり。然れども亦た月湖・三喜・道三の徒有り、浮屠の中に起こる。力を方術に用い、卓然として金元の醫流を奉じて、一世を風靡す。又た元禄・享保の間に至って、學 皆な復古を主とす。吾が技も亦た晉・唐に趣き、秦・漢に遡る。人才の盛、後世 焉(これ)に及ぶこと莫し。然れども昇平 日に久しく、其の道終(つい)に萎苶して振わず。近來西洋の醫學 我が邦に浸滛し、正規を蔑(あなど)り古方を廢す。
    三
是(ここ)に於いて先聖の法度 淪喪して餘り無し。赫々たる神明の邦、變じて腥羶の俗と爲る。嗟(あ)乎(あ)、上古神聖の道、復た何(いず)れの時にして興(おこ)るや。盖(けだ)し古昔の醫學、弘仁・天曆に盛んに、延久・寛治に陵夷し、保元・平治に衰微す。其の後浮屠 醫柄を弄(もてあそ) ぶと雖も、徃々にして航海して宋・明に遊び、參禪の暇(いとま)、杏壇に從事す。各々師承有り、元和以來名醫輩出す。享元の間に至って、再び其の盛を極む。而(じ)今(こん)舉げて千有餘載の方術、將に泯滅に歸せんとす。抑(そも)々(そも)天か人か。余嘗て天下を通觀するに、古(いにしえ)に復せざる者三あり。一に曰く、神世の遺方復た存せず。二曰、漢土の醫道將に地に墜ちんとす。三に曰く、洋臭 天下に薫じ、世降り俗澆(うす)し。人才 古に及ばず、斯道 日々に衰うること、峻阪を下るが如し。豈に浩歎の至りに非ずや。吾が友 服部
    四
君煉霞、家世 方技を事とし、歷代の醫籍を藏すること若干、皆な五百年以上の物に係る。乃ち編集して名づけて甫菴叢書と曰う。序を余に徵(もと)む。余 之を讀みて、古今隆替の際に深き感有り。故に書して以て叙と爲す。
明治十四年辛巳春三月
明宮尚藥奉御 淺田惟常 此の撰を識(しる)す。

    【注釋】
    一
甫菴叢書序
○神皇産靈:デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説:神皇産霊尊 かみむすびのみこと。記・紀にみえる神。天(あめの)御(み)中(なか)主(ぬしの)尊(みこと)・高(たか)皇(み)産(むす)霊(びの)尊(みこと)とともに天地のはじめになった造化三神の一神。高皇産霊尊とならんで生成をつかさどり、高皇産霊尊が高天原系神話にかかわるのに対し、出雲系神話に登場する。「古事記」では神産巣日神。 ○邈:久遠。遙遠。 ○矣、 ○大貴:大(おお)己(な)貴(むち)神。大国主神の前身ないし別名。多くの場合、少彦名命と組をなす。 ○少彦:スクナビコナ。『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子、『日本書紀』では高(たか)皇(み)産霊神(むすびのかみ)の子。医薬の神。 ○二 ○命:みこと。神や貴人の名前の下につける尊称。 ○尚:古い。久遠。 ○矣、上古醫道雖不可得而稽、然 ○覩:「睹」の異体字。 ○其遺方一二存者、 ○槩:「概」の異体字。 ○單劑:単一の薬品。 ○草藥、或採禽獸之骨肉肝膽、或用同類之腦髓血 ○滓:かす。澱(おり)。 ○而湯液之道未闢、 ○迨:及ぶ。いたる。 ○新羅百濟貢醫藥、彼方法稍 ○布:伝わり広まる。 ○於 ○海内:全国。 ○厥後:以後。 ○通好:往来して友好関係をもつ。 ○李唐:唐代の皇室は「李」姓のため、「李唐」という。帝堯の「唐」と区別する。 ○使命:使者。つかいのもの。 ○來 ○徃:「往」の異体字。「來往」は、交際して往復する。 ○醫道 ○大典:大いなる典籍。 ○療病有四診之法、 ○成方:処方。方剤をつくる。 ○有 ○君臣佐使:製薬の方法。主治に用いる薬物を「君」といい、主薬の作用の発揮を助ける薬物を「臣」といい、兼症を治療したり、主薬の副作用をのぞく薬物を「佐」といい、病所に導いたり、諸薬の作用を調和させる薬物を「使」という。 ○之別、遂至設 ○典藥之署:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説:典(てん)薬(やく)寮(りよう) 天武天皇五 (六七六) 年に設置された外薬寮が大宝元 (七〇一) 年、『大宝令』により組織を整えたもの。宮内省に属する役所。官人の医療を担当し、医生から薬園生にいたるまでの医療関係者の養成、医薬品の管理を司り、医師・医博士・按摩博士らの職員を管轄した。/くすりのつかさ。 ○立御醫之官:新村拓『日本医療史』等を参照。 ○嗚呼亦盛矣哉、當斯
    二
時 ○和氣:日本大百科全書(ニッポニカ)の解説:和(わ)気(け)氏(うじ) 古代豪族の氏の一つ。備前の和気氏 垂(すい)仁(にん)天皇皇子鐸(ぬで)石(し)別(わけの)命(みこと)の子孫と伝える皇別氏。……代々宇(う)佐(さ)使(し)を拝命したが、官位は父祖に及ばず、子孫はついに丹(たん)波(ば)氏と並んで医を業とするに至り、近世には半(なから)井(い)氏を称した。 ○丹波:日本大百科全書(ニッポニカ)の解説:丹(たん)波(ば)氏(うじ) 平安朝以来の朝廷の医家。蕃(ばん)別(べつ)(中国からの渡来の家)である坂(さかの)上(うえ)氏から出た丹(たん)波(ばの)康(やす)頼(より)が丹波宿(すく)禰(ね)の氏姓を賜り、初めて鍼(しん)博(はか)士(せ)として朝廷に仕えた。その後、子孫相次いで典(てん)薬(やくの)頭(かみ)、施(せ)薬(やく)院(いん)使(し)などに任ぜられて、朝廷、貴族の医療の仕事にあたった。 ○二氏 ○接踵:前後の人のかかとが接するほど、次から次へと人が続く。 ○而起、良工 ○哲匠:優れた技術を持った職人。 ○不乏其人、 ○晉:西晉(二六五~三一六年)、東晉(三一七~四二〇年)。 ○唐:六一八~九〇六年。 ○之醫方 ○網羅莫遺:『医心方』を念頭に置いて書いているのであろう。 ○可謂:~ということができる。 ○官有 ○世功:累代の功績。『左傳』隱公八年「官有世功、則有官族」。 ○者矣、降及戰國之世、 ○斯道:医道。 ○有名無實、 ○文墨:著述。文化知識。 ○醫卜:医学と占い。 ○之事、皆歸 ○緇流:僧侶。 ○或混以 ○四大:仏教用語。地・水・火・風を指す。宇宙・人体を構成する基本元素。 ○五體:おそらく「五大」のこと。仏教用語。地・水・火・風・空を指す。四大に「空大」を加えて「五大」、さらに「識大」を加えて「六大」という。『正法眼蔵』山水經「四大五大六大の行處によりて、しばらく方隅法界を建立するのみなり」。 ○之 ○梵説:仏教の説。 ○碎 ○殘:そこなう。こわす。 ○極矣、然亦有 ○月湖・三喜:真柳誠『龍谷大学大宮図書館和漢古典籍貴重書解題(自然科学之部)』月湖は明監寺と称し、また潤徳斎と号し、渡明した日本僧だったという。銭塘で医を業とし、本書(『〔類証弁異〕全九集』)ののち景泰六年に『(大徳)済陰方』四巻、別に『産科秘録』二冊を著しているが、ともに日本刊本しかない。それらが日本にのみ伝わったのには、田村三喜と曲直瀬道三の存在がある。/三喜(一四六五~一五三七)も僧侶で、長享元年(一四八七)に渡明し、月湖について医を学び、明応七年(一四九八)に医書を携えて帰朝したとされる。のち関東の古河に住し、そこで弟子となった僧侶の曲直瀬道三(一五〇七~九四)は帰洛して医を業とし、数多くの書を著して門人を育成し、当時の医学を一変させた。したがって月湖の著は、三喜―道三の手を経て伝えられたのだろう。ただし三喜は渡明していないという記録があり、明医学の影響がみえない仏教医書も著しているなど、三喜の伝には疑問が多い。 ○道三:曲(ま)直(な)瀬(せ)道三。小曽戸洋『日本漢方典籍辞典』:道三の名は正(しよう)盛(せい)また正(しよう)慶(けい)、字は一(いつ)渓(けい)、号は雖(すい)知(ち)苦(く)斎(さい)のち翠(すい)竹(ちく)斎(さい)。別号、盍(こう)静(せい)翁(おう)・寧(ねい)固(こ)。京都柳原に生まれ、幼くして僧籍に入り、相(しよう)国(こく)寺(じ)に居したが、享禄元(一五二八)年関東足利学校に入り、正文伯に師事して漢学を修めた。同四年、田(た)代(しろ)三(さん)喜(き)に会って医学に転じ、李朱医学を学んだ。天文十四(一五四六)年京に帰り、医学舎啓(けい)迪(てき)院(いん)を創建し、門人を育成。時の権力者、足(あし)利(かが)義(よし)輝(てる)・毛(もう)利(り)元(もと)就(なり)・織(お)田(だ)信(のぶ)長(なが)・豊(とよ)臣(とみ)秀(ひで)吉(よし)や天皇家の信任を得、厚遇された。天正十一(一五八三)年後(ご)陽(よう)成(ぜい)天皇より橘の姓と今(いま)大(おお)路(じ)の家号を賜り、晩年号を亨(こう)徳(とく)院(いん)と改めた。 ○之徒、起於 ○浮屠:ブッダの音写。佛陀におなじ。転じて、寺・和尚・僧。 ○之中、用力於 ○方術:広くは医学・卜筮・占星術等の術を指す。ここでは医学。 ○卓然:高くそびえるさま。 ○奉:尊重する。遵守する。 ○金元之醫流、 ○風靡:草木が風になびくように、大勢の者が傾倒・服従・流行する。 ○一世、又至 ○元禄:一六八八~一七〇四年。 ○享保:一七一六~一七三六年。 ○之間、學皆 ○主:主張する。重要視する。 ○復古、吾技亦趣晉唐遡于秦漢、人才之 ○盛:豊富さ。 ○後世莫及焉、然 ○昇平:太平、治平。 ○日久、其道終 ○萎苶:萎靡。なえしぼむ。羸弱。やせよわる。 ○不振、 ○近來:ちかごろ。このごろ。 ○西洋醫學 ○浸滛:「滛」は、「淫」の異体字。滲入する。しだいにしみこむ。 ○于我邦、 ○蔑:軽視する。さげすむ。 ○正規廢古方、於
    三
是 ○先聖:古代の聖人。 ○法度:法式。方法。 ○淪喪:淪没。うしなわれる。 ○無餘:あますところなし。 ○赫〻:光り輝き盛大な。 ○神明:かみ。 ○之邦、變爲 ○腥羶:牛や羊の肉の鼻を刺すにおい。北方から侵入した遊牧民族の比喩。 ○之俗、嗟乎上古神聖之道、復何時而興哉、 ○盖:「蓋」の異体字。およそ。そもそも。 ○古昔醫學、盛于 ○弘仁:八一〇~八二四年。 ○天曆:九四七~九五七年。 ○陵夷:しだいに衰微する。 ○于 ○延久:一〇六九~一〇七四年。 ○寛治:一〇八七~一〇九五年。 ○衰微于 ○保元:一一五六~一一五九年。 ○平治:一一五九~一一六〇年。 ○其後浮屠 ○雖弄:ひとまず「雖」と翻字する。 ○醫柄:医学の権力。 ○徃:「往」の異体字。 ○〃航海 ○遊:遊学する。故郷を離れて学ぶ。 ○宋:北宋(九六〇~一一二七年)。南宋(一一二七~一二七九年)。 ○明:一三六八~一六四四年。 ○參禪之暇、 ○從事:したがいつかえる。 ○杏壇:孔子が授業した場所。『莊子』漁父「孔子遊乎緇帷之林、休坐乎杏壇之上」。後人は山東省曲阜の孔子廟大成殿の前に壇を築き、杏を植樹した。その後、ひろく教育界を杏壇という。ここでは、「杏林」と同義で、医学界をいう。 ○各有 ○師承:師から生徒へ伝えられた学術や技芸の系統。 ○元和:一六一五年~一六二四年。 ○以來:このかた。 ○名醫輩出、至於 ○享元之間: 享保(一七一六~一七三六年)と元文(一七三六~一七四一年)の間か。 ○再:ひとまず「再」と翻字する。 ○極其盛、 ○而今:現在。 ○舉:副詞。すべて。みな。ことごとく。 ○千有餘載之:千年余りの ○方術、將歸 ○泯滅:跡形もなく消滅する。 ○抑:接続詞。選択の疑問をあらわす。感嘆詞であれば「ああ」。 ○天乎人乎:『莊子』大宗師「父邪母邪。天乎人乎」。庚桑楚「全人惡天、惡人之天、而況吾天乎人乎」。非常に悲痛なさけびをあらわす。いったい、天が原因なのか、それとも人なのか。 ○余嘗通觀天下、不復古者三、一曰、 ○神世:神代。 ○之遺方不復存、二曰、漢土醫道將墜地、三曰、洋臭 ○薫:においがしみこむ。感化される。影響を受ける。 ○天下、 ○世降俗澆:『續文獻通考』經籍考・卷一百五十九などに用例あり。「澆」は、浅はか、卑俗。世の中の程度が下がって卑俗となる。澆風薄俗。 ○人才不及古、斯道日衰、如下 ○峻阪:けわしいさか。急な坂。 ○豈非:反語。 ○浩歎:感慨が深く長く大きい声の嘆息。 ○之至哉、吾友
    四
○服部君煉霞:詳しくは、『煉霞翁年譜』(国立国会図書館デジタルコレクション)を参照。服部氏。はじめ甫菴と号し、のちに煉霞とあらためた。一八〇四~一八九二年。 ○家世:家柄。 ○事:従事する。 ○方技、藏歷代醫籍若干、皆係五百年以上之物、乃編集名曰甫菴叢書、 ○徵:要求する。 ○序於余、〻讀之有 ○深感:深い感慨。 ○于古今 ○隆替:盛衰。 ○之際、故書以爲叙、 ○明治十四年辛巳:一八八一年。 ○春三月 ○明宮:大正天皇の幼名。 ○尚藥奉御:典(てん)薬(やくの)頭(かみ)の漢語表現。 ○淺田惟常:小曽戸洋『日本漢方典籍辞典』:一八一五~一八九四年。宗伯(通称)の名は直(なお)民(たみ)のち惟(これ)常(つね)、字は識(しき)此(し)。号は栗(りつ)園(えん)。信濃筑摩郡出身。中(なか)村(むら)中(ちゆう)悰(そう)・中(なか)西(にし)深(しん)斎(さい)に医を、猪(い)飼(かい)敬(けい)所(しよ)・頼(より)山(さん)陽(よう)に文を学んだ。江戸で名医・名儒と交わり、臨床医として名声を博し、幕末にはコレラや麻疹の治療に腕をふるい、幕府の御(ご)目(め)見(みえ)医師に抜躍、慶応元(一八六五)年幕命を受け、横浜駐在中のフランス公使レオン・ロッシュの治療に成功。法眼に進んだ。維新後は皇室の待医として漢方をもって診療にあたり、漢方界の巨頭として西洋医勢力と対峙した。 ○識此撰

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