2024年12月29日日曜日

黄龍祥 老官山から出土した金傷死候簡からみた傷科と法医学・鍼灸学による人体の急所に対する認識 5

 結び 


    老官山から出土した金傷死候簡の「絲(系)骨」は,すなわち宋代の骨解剖を専門に論じた『聖濟總錄』骨度統論篇にいう「肺系骨」であり,気管を指す。「辨䐃」とは,肢体の大きな筋肉が横に断裂した傷を指す。「百節帶會」は,「百節總會」というのと同じであり,頂心を指し,百会穴があるところである。「三毛」は,すなわち伝存する金傷の源となった文献にいう「攢毛」であり,陰部の叢毛を指す。「嬰」「纓」の用法は,頸部を指すことに限定されず,頭・首・体幹の環状にアクセサリーをつけるのに適した部位はすべて「嬰」「纓」と呼ぶことができる。ただ頸部は最もよくつける部位なのでそのまま「嬰」「纓」と呼び,その他の部位の場合は「嬰」「纓」の前に具体的な部位名をつけなければならない。

    老官山から出土した11枚の金傷死候簡は,傷科の人体の急所に対する認識を反映しており,伝存する金傷文献の中では,『諸病源候論』巻36・金瘡初傷候に収録された金傷の致命傷部位がこれに最も近い。

    人体の急所に関する認識については,11枚の金傷簡は伝存する金傷文献と関連性が高いだけでなく,傷科・法医学・鍼灸学という異なる学科間の認識も非常に近い。この発見は,異なる学科理論の信頼性に有力な多重証拠を提供するだけでなく,同時に中国医学内部の異なる分野や中国医学と法医学,ひいては現代医学などの異なる学科との間で有効なコミュニケーションができることを示しているが,コミュニケーションの重要な前提の一つは関連用語と定義の規範化である。具体的には人体構造の表現は規範的な文章とともに,さらにそれとマッチングする図が必要であるが,この二つの面では中国医学はかなり多くの問題が存在し,有効な解決策が急務である。

    出土文献の価値を十分に発掘できるかどうかは,研究者の伝世文献(異なる時期に地下と地上で発見された文献を含む)研究の深さと広さ,および関連学科の学術史研究の基礎に大きく依存する。これに基づくことによって,我々ははじめて中国医学の学術発展全体の輪郭を描くことができる。出土した文献の断片は,この全体の画面上でその元々あった位置を正確に探しあてた時に,その意義と価値をはじめて真に明らかにすることができる。


  参考文献 〔譯文では,段落末に移動して表示した。〕

[1]王巍,黄秀纯.1981-1983年琉璃河西周燕国墓地发掘简报[J].考古,1984(5):405.

[2]郭璞注.尔雅[M].浙江古籍出版社,2011:35.

[3]吴谦.医宗金鉴 正骨心法要诀[M].赵燕宜整理.中国医药科技出版社,2017:21.

[4]王西平.道家养生功法集要[M].陕西科学技术出版社,1989:21.

[5]许叔微.普济本事方[M].中国中医药出版社,2007:29.

[6]丁继华.伤科集成 续集[M].中医古籍出版社,2006:1103,1108,1105.

[7]黄龙祥.出土医学文献的激活与利用--以敦煌卷子佚名灸方两组腧穴解读为例 [J].中医药历史与文化,2023, 2 (2):280-308.

[8]许洞.虎钤经[M]//季羡林.四库家藏·子部·兵家.山东画报出版社,2004:76.

[9]周绍良.全唐文新编[M].第1部.第2册.吉林文史出版社,2000:873.

[10]杨晓秋.明清刑事证据制度研究[M].中国政法大学出版社,2017:156.

[11]丁继华.古代中医伤科图书集成 导引伤科[M].中国中医药出版社,2021:178.

[12]文晟等.重刊补注洗冤录集证.验尸:卷一[M].道光甲辰(1844)刊本.

[13]黄龙祥.中国古典针灸学大纲[M].北京:人民卫生出版社, 2019:135.

[14]郎廷栋.洗冤汇编[M].保顺斋藏板,1718.

[15]陆拯.近代中医珍本集 医经分册[M].2版.浙江科学技术出版社,2003:467.

[16]钱斌作. 洗冤集录的世界[M].青少版.安徽科学技术出版社,2022:103.

[17]危亦林.世医得效方[M].中国中医药出版社,2009:730.

[18]王文谟.济世碎金方[M].中国中医药出版社,2016:236-237.

[19]丁继华.伤科集成 续集[M].中医古籍出版社,2006:1108,1105.

[20]黄龙祥.老官山出土汉简脉书简解读 [J]. 中国针灸,2018,38(1):97-108.

[21]黄启民.人体经纬定位法[M].沈阳:辽宁科学技术出版社,1991.

黄龍祥 老官山から出土した金傷死候簡からみた傷科と法医学・鍼灸学による人体の急所に対する認識 4.3

 4.3 異なる学科間の互恵的なコミュニケーションと統合研究の特殊な意義


    注目に値することは,老官山から出土した11枚の金傷医簡が『六十病方』の「金傷」治方の一部としてではなく,医経の『脈書』の中に現われたことである。このような例はほかにもあり,類似した文章は伝世医籍の中でも「金瘡論」という形式で金瘡方の冒頭に置かれている。このことは,これらの文章がすでに多くの実践に基づいてまとめられ,法則と理論のレベルに達したことを示している。

    老官山から出土した金傷死候簡を手がかりとすることで,伝世文献の「金創」理論の発生と進化を整理するための明確で信頼性のある座標点が得られたのみならず,傷科理論の新たな研究方向が切り開かれ,なおかつ,金創死候に反映されている人体の急所に関する認識を紐帯として,傷科・法医学・武術・鍼灸学を理論の基盤として有機的な関連を形成することができ,金傷・法医学・武術・鍼灸学という異なる学科の学術史の研究を同じプラットフォーム上で展開するための絶好の切り口が提供され,これによって異なる学科の視点から同じ理論問題を研究することが可能になった。それと同時に理論革新研究の新しい構想,新しい経路でもあり,縦断と横断の比較研究を通じて,人体構造に関連する異なる学科が異なる実践経験に基づいて構築された理論は極めて高い類似性を持っているので,この理論の信頼度は強力な確証を得ているだけでなく,この理論には高い普遍性があり,異なる学科の実践に有力な理論的支柱を提供できることを示している。

    孤立して単一学科の歴史背景からのみ考察すると,歴史の真相をはっきり見ることが難しい時もあるが,今回の老官山金傷死候簡の出土は,学術史に多学科が交流し,統合して研究する絶好の機会を提供し,同時に出土文献のかけがえのない価値も最大限にあらわれている。

    もし中国医学内部の関連分野でコミュニケーションや統合ができないのであれば,現代医学とのコミュニケーションや融合など,どうして議論できようか。実際,人体の急所に関する認識は現代医学の基盤である人体解剖学と直接関連している。もし中国医学内部の異なる分野が人体の急所の認識に関して共通の理解を持ち,さらにすすんで法医学の検査とも効果的にコミュニケーションを取ることができるならば,現代解剖学と直接対話するための道が開けるだろう。もし人体解剖学とコミュニケーションができれば,現代医学との交流は時期の熟した段階になる。これも老官山から出土した金傷死候簡によって誘引された多学科交流研究の最も深く,最も重大な意義であるが,紙幅に限りがあるので,ここでは論じられない。

    中国医学内の異なる学科の間であれ,中国医学と西洋医学の間であれ,効果的なコミュニケーションをおこなうには,その前提となるのはすべて基礎理論の用語と定義の規範化である。人体の急所という点から見ると,中国医学関連学科と中国古代の法医学鑑定には,用語の規範化に多くの問題が存在する。そのうえ,鍼灸学以外の学科の関連用語はほとんど定義がなされていないし,関連する図もないか,あっても時期が遅く,また精度が低い。これらの最も基礎的な問題の解決に力を入れてはじめて,中国医学の学術研究の全体的なレベルを高めることができ,中国医学と現代医学のコミュニケーションが効果的,効率的になり,互いに恩恵を受け,互いに参照しあう目的に到達することができる。


黄龍祥 老官山から出土した金傷死候簡からみた傷科と法医学・鍼灸学による人体の急所に対する認識 4.2

 4.2.1  人体の急所は生死に関わるところであり,鍼灸学の実践において最も顕著にあらわれている


    鍼灸学による人体の急所の研究には二重の目的がある。その一は安全な操作で,その二は大輸要穴の発見である。鍼灸師は人体の急所となる部位が常に大輸要穴がある場所であることに気づいた。よってこれは致命的な場所であると同時に救命の穴でもある。たとえば鍼を刺して臓・脳・髄・大脈に命中すれば,致命傷になる可能性があるが,五臓の募原・脳の輸・髄の空・脈の輸は,すべて病を治し人を救う大輸要穴が所在する場所であり,生と死はしばしば紙一重であり,鍼師の刺鍼には極めて高い技術が求められる。

    古人はまた,鍼灸の禁穴がまねいた損傷の症状が時にその穴の主治病症であることにも気づいた。たとえば,「風府」穴は音唖を主治する要穴である。『靈樞』と『黃帝明堂經』はともに明らかに使用しているが,鍼を深く刺しすぎると音唖をまねくことがある。宋の官修医書『聖濟總錄』巻194「誤傷禁穴救鍼法」篇において,風府穴には「鍼只可一寸以下,過度即令人啞〔鍼は只だ一寸以下を可とす,度を過ごせば即ち人をして啞せしむ〕」とある。まさに「水は能(よ)く舟を載せ,亦た舟を能(よ)く覆(くつがえ)す〔諸刃の剣〕」である。


4.2.2  鍼灸学は人体の急所についての認識が最も系統的で,論述が最も詳細である


    必要性から見ても,観察の利便性から見ても,人体の急所に対する探究は,従軍する医師が最も優位であると思われるのは,短時間で大量の負傷兵を見ることができるためである。負傷の程度は重いが生き残る場合もあるし,負傷の程度は重くないがすぐに死亡する場合もある。異なる部位の金傷致死率の統計を通じて,人体の致命的な部位,すなわち人体の急所を見つけることは難しくない。そうとはいえ,鍼灸学の禁刺と禁灸の論に反映されている人体の急所に関する認識は,出土文献を含む金傷文献よりさらに詳しく,よりいっそう系統立っている。

    鍼灸学の人体の急所に関する論述は,部位の記述もあれば,深度の探究もあり,具体的な定量判定の指標を提供している。たとえば頸部の大脈は,金傷・法医学・鍼灸学が共通して認める致命的な部位であるが,鍼灸文献の論述が最も詳しい。「人迎,一名天五會。在頸大脈動應手,俠結喉旁,以候五藏氣,足陽明脈氣所發。禁不可灸,刺入四分,過深不幸殺人〔人迎,一名は天五會。頸の大脈 動 手に應ずる,結喉を俠む旁(かたわ)らに在り,以て五藏の氣を候う,足陽明の脈氣 發する所。禁じて灸す可からず,刺入すること四分,過(あやま)って深くすれば/深さを過ごせば/不幸にして人を殺す〕」(『黃帝明堂經』)。これには位置が明確に記述されているだけでなく,安全に操作するための定量的指標と誤って刺した場合の予後も記載され,さらに,この穴が救命と致死の両方の効果を持つ理由についての理論的な説明があり,経験から法則,さらには理論の構築へと至る完全な発展段階を示している。


4.2.3  文があり,図があり,文は規範的に処理されており,図には多くの形式がある

  *ここでいう「図」とは,文章以外の表現法,つまり絵画(明堂図)と模型(銅人形)の総称。


    老官山金傷死候簡と伝存する金傷・法医学・鍼灸文献を比較研究する過程で,一つの際立った問題に気づいた。すなわち異なる時代の金傷と法医学の文献で,同じ人体の構造を表現するのに異なる用語が使用されることが多く,これが異なる分野間のコミュニケーションに大きな障害をもたらすだけでなく,同じ分野でも古代の文献と現代の文献を結び付けることを困難にしている。後世の人が前代の文献を誤解したため,人体の急所に対する認識の不一致をもたらした。

    しかし,この問題は鍼灸学では早くから注目され,精到な解決策を手に入れた。漢代の最初の鍼灸腧穴の経典『黃帝明堂經』は,早くも漢以前の鍼灸腧穴名に対して系統的な規範化処理をおこない,多くの名称がある穴は一つの規範となる穴名を確立し、その他の穴名は別名として規範とした名称の下に列挙した。たとえば,「鳩尾,一名尾翳,一名𩩲骬。在臆前蔽骨下五分」。この穴は骨にちなんで命名された。その骨には四つの名称*があり,鍼灸の経典では「鳩尾」を正式名称としている。しかしこの骨は,宋以降,法医学文献では「心骨」「心坎骨」「心坎」と名づけられている。傷科文献である『接骨入骱全書』ではまた,「心坎,一名人字骨」という。実は「人字骨」とは,鍼灸文献における「岐骨」に相当し,現代解剖学の用語では,「胸骨剣結合」といい,心坎骨は現代解剖学用語の「剣状突起」に相当する。また「鳩尾」は心を蔽(おお)う骨であるので,「心鳩尾」という名称もある。宋以後の傷科文献では由来が不明となって,傷科の源となった文献の一つである『外臺祕要方』が金傷の急所として論じている「心鳩尾」を,「心」と「鳩尾」という二つの部位と誤解したため,古今の文献で食い違いが生じた。

    同時に,鍼灸の専門家は早くから人体の体表上の位置を文字で記述することの限界を認識していた。いわゆる「將欲指取其穴,非圖莫可〔將に指もて其の穴を取らんと欲せば,圖非(あら)ずんば可なること莫(な)し〕」(『備急千金要方』巻29・明堂三人圖)である。そのため歴代の鍼灸の腧穴の部位を修訂する際には,ほとんど同時にそれとセットの腧穴定位図である「明堂図」を修訂した。また,人体は不規則な三次元体であり,二次元の平面図では体表上の位置を正確に反映しにくいため,鍼灸専門家は早くから異なる材質で立体人体経穴模型を製作した。老官山から出土した鍼灸木人には腧穴と人体部位の名称が刻まれている。北宋代になると等身大の人体経穴模型「天聖銅人」が登場し,あわせて当時の政府が公布した鍼灸経穴の位置が国家標準の一つとされた。この結果,この腧穴の位置を記述したテキストが後世の人の誤解をまねかない根拠となった。

  鍼灸の腧穴には明確な位置の記述と対応する図,あるいは立体の人形があり,実際に人体体表の位置の座標系を提供したので,後世の金傷と法医学文献はしばしば鍼灸の穴名を借用して人体の急所を標示した。現代人,黄啓民は鍼灸の腧穴の位置表記法に啓発されて,鍼灸・法医学・外科・解剖学および美術・体育・服飾デザインなどの異なる学科に適用できる「人体経緯定位法」[21]を創始した。

  [21]黄启民.人体经纬定位法[M].沈阳:辽宁科学技术出版社,1991.


4.2.4 後世の関連学科に対する影響は最も多く,最も大きい


    横断的比較法〔同種の異なる対象を統一的な基準で比較する方法。【要旨】の注を参照〕を通じて知り得たことは,鍼灸学の人体急所に対する認識は早くから傷科と法医学検死に直接的な影響を与えたことである。伝存する金傷の二つの源となる文献『諸病源候論』巻36と『外臺祕要方』巻29,および癰疽死候の初期文献は,いずれも鍼灸学に特有の用語を援用した。法医学検死の基礎を築いた経典である宋代の『洗冤集錄』の作者は自序において「脈絡表裏先已洞澈,一旦按此以施鍼砭,發無不中。則其洗冤澤物,當與起死回生同一功用矣〔脈絡表裏 先(ま)ず已に洞澈し,一旦 此れを按じて以て鍼砭を施さば,發して中(あ)たらざる無し。則ち其の冤(ぬれぎぬ)を洗い物を澤(うるお)すは,當に起死回生と功用を同一とすべし〕」*と明言している。つまり,法医学の鑑定には,病気を治療して命を救うための鍼灸と同様に,人体の内外の構造,特に急所についての洞察が必要である,ということである。

    *https://archive.org/details/02092495.cn/page/n3/mode/2up 

     https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=892868

     参考譯文:https://www.doc88.com/p-9935409712060.html


    急所に傷を負って一刻を争う状態に際し,鍼灸による急救は後世の金傷・法医・軍医・武医*など各分野に大きな影響を与えた。たとえば,宋代の『洗冤集錄』の第52条「救死方」**には、瀕死の状態から救うための鍼処方と灸処方が収録されている。

    *武医:武術による負傷を専門とする医者のことか。一説に,医学的知識だけでなく武術的な技能も身につけている医師。武術技能を用いて自己防護と攻撃をおこなうことができ,同時に医学知識を利用して診断と治療をおこなうことができる,という。

    **https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=551525

    ・又急解死人衣服,於臍上灸百壯。

    ・魘不省者……又灸兩足大拇指聚毛中三七壯,聚毛,乃腳指向上生茅處。

    ・中惡客忤卒死……視上唇內沿,有如粟米粒,以鍼挑破。……又灸臍中百壯……。


2024年12月28日土曜日

黄龍祥 老官山から出土した金傷死候簡からみた傷科と法医学・鍼灸学による人体の急所に対する認識 4.1

4 討論


4.1  金傷死候簡と伝存する金傷文献研究の特殊な意義


    老官山から出土した金傷死候簡と伝存する金傷文献を研究する特殊な意義は,おもに以下の面である。


4.1.1 早期の金傷診療経験は,中国医学医の人体形態理論を構築し検証するための堅固な実践的基礎と評価の指標を提供した


    中国医学の各分野の中で,金傷研究の特殊な意義は,その最高の国家としての必要性と豊富な経験の蓄積にある。パンデミックのような伝染病を除いて,その他の類の疾病は金傷のようには短時間内に大量に繰り返し出現しないので,医者には多くの観察と思考と探求の機会が十分に与えられ,経験を積み,法則をまとめて,理論を構築するのは難しく,しかも理論の有効性について短時間の内に十分に大きいサンプルを利用して直接かつ迅速に検証することも難しい。

    金瘡が最も多く発生するのは戦場であり,軍事活動は太古から今にいたるまで常に国家の最も重要な活動の一つであるので,軍事医学は歴代政府によって重んじられてきた。『漢書』藝文志に記載された金創の専門書『金創瘲瘛方』は30巻もあって,早くも漢以前に軍医が金瘡診療の豊富な経験を蓄積したことをものがたっている。後世の人に十大兵書の一つに数えられた北宋の『虎鈐經』巻10*には金傷方を専門に論じた「金瘡統論」第103と「治金瘡」第104が置かれていて,金瘡の理論と治療について論じられている。

    *https://archive.org/details/06081584.cn/page/n29/mode/2up


    戦傷の救急治療の主体が変化するのに伴い,今日の中国医学従事者は戦傷の救急治療に関与する機会が少なくなり,この方面の実践経験を蓄積しにくくなった。そのため,出土および伝世の傷科文献を整理し学習することは,我々が中国医学の診療理論を理解し検証するための不可欠で有効な方法の一つである。


4.1.2 老官山金傷死候が出土したことによって,伝世金傷文献の源にさかのぼる上での適切な座標が提供された 


    隋以前の金傷文献の多くは失われて伝わらず,伝存する金傷文献の起源とその発展過程は明らかではなく,関連する文献と学術史を研究する上で大きな障害となっていたが,今回,老官山から金傷死候簡が出土したことによって,金傷文献の起源と発展を考察するための信頼にたる座標が提供されたことになる。

    老官山から出土した11枚の金傷死候簡からわかることは,最も遅くても前漢初期には医者は金傷の診療について豊富な経験を蓄積して,金傷の診療を指導する理論を構築していたということである。これらの理論と治療経験は,『漢書』藝文志に著録された『金創瘲瘛方』30巻の重要な素材となったことは疑いない。金傷死候簡と『諸病源候論』巻36・金瘡初傷候に述べられている致命傷部位に高い関連性があるという新たな発見に基づいて,以下のように基本的な判断ができる。漢以前の金傷文献の原書はすべて亡佚したが,その内容の少なくとも一部の方論は唐以前の大型総合医書(『諸病源候論』『千金要方』『外台秘要方』など)に収録されているはずで,今後,より多くの早期の金傷文献が発掘され,出土文献と伝世医籍の比較研究が深まることによって,金傷の学術が発展をとげた筋道をよりはっきりと整理できる可能性がある。


4.1.3  正確に「二重証拠法」を適用して,出土文献と伝世文献の難問を成功裏に解決するための典型的な実例を提供した


    70年余り前に,王国維氏は『古史新証』の中で「二重証拠法」を提案した。その方法論の根本的な価値は史料の源を開拓することにあり,その実質は源を異にする文献で互いに証明しあうことにあり,古代を重視するものでも現代を軽視するものでもない。

    老官山金傷死候簡を深く掘り下げた典型的な事例を通じて特に強調したいのは,「二重証拠法」をうまく活用して出土文献と伝世文献の難問を解決するために,中国医学の専門家はまず二つの認識上の問題を明確にする必要がある。

    第一に,「二重証拠法」の新たな発展に基づけば,出土文献は他の過程で発見された亡佚文献や伝世文献と性質を同じくする,多くの出典文献の一つに過ぎない。たとえば,老官山から出土した医簡と日本の仁和寺で発見された医学の巻子本〔『太素』〕,老官山前漢鍼灸木人や新たに発見された明・正統時代の仿宋鍼灸銅人形〔エルミタージュ美術館蔵〕などもみなこれに相当する。ただし,研究の具体的な問題によって,異なる出典の文献や文物などの史料は異なる価値を持っている。たとえば,伝存する『銅人腧穴鍼灸圖經』の校勘については,出土した宋・天聖年間の『新鑄銅人腧穴鍼灸圖經』の石刻残碑や,新たに発見された明・正統年間の『銅人腧穴鍼灸圖經』の仿宋石刻拓本の価値は,老官山から出土した漢代竹簡の鍼灸文献をはるかに上回る。同様に,『銅人腧穴鍼灸圖經』のテキストに対する正確な解読については,新たに発見された明・正統仿宋鍼灸銅人形の価値の方が,老官山から出土した鍼灸木人より明らかに高い。

    第二に,出土文献の価値がどれほど高くても,それが伝世文献と結びつく要素を見つけ,中国医学文献全体の中でその位置を明確にすることができなければ,活性化し,その価値を発揮することはできない。このような結びつきをより確実に,より多く探し出せれば,出土した文献の断片が中国医学の歴史という絵巻物全体の中でより正確に位置づけられ,その固有の価値がより多く発掘されることになる。老官山から出土した医簡の『十二脈』と『間別脈』を例とすれば,これらが経絡学説のテキスト体系においてどの位置にあるかを評価できなければ,その価値を確定できないだけでなく,テキストの性質すら確定できないし,正しく利用することさえできない[20]。

    [20]黄龙祥.老官山出土汉简脉书简解读 [J]. 中国针灸,2018,38(1):97-108.

    今回,筆者は老官山金傷死候簡と伝世文献との接点を見つけることで,その背後に隠されたかけがえのない重大な学術価値を発掘した。11枚の金傷死候簡と伝存する金傷文献の間に緊密な連係を確立し,伝存する金傷理論の流れを明確にしただけでなく,「人体急所の認識」という「鎖」を通じて,金傷・鍼灸・法医学の文献を密接につなぎ合わせることで,中国医学の文献と学術史の研究全体を活性化させた。それと同時に,金傷死候簡の釈読の中に残った一つ一つの謎と疑問は,伝世文献との融合の中で明らかになり,出土文献のかけがえのない価値も最大限に発揮された。そして一層深い意義は,この典型的な事例研究を通じて,中国医学内の異なる分野間のコミュニケーション,中国医学と法医学,さらには中国医学と西洋医学という二つの医学体系間の互いに恩恵を受ける対話に,新たな道を切り開いたことにある。

    正確に「二重証拠法」を運用して伝世文献と出土文献の研究における困難な問題を解決するには,伝世文献を深く掘り下げながら,系統的に研究する堅固な基礎が必要である。実のところ,地下にあった文献はひとたび発掘されれば,伝世文献の一部となる。伝世文献が各種の出典文献の中で最大で最も研究に値することは疑いない。文献学と学術史研究の豊富な経験,過去の考古学的発見の経験や教訓についての真剣な総括――高水準の典型的な実例研究――がなければ,正確に「二重証拠法」を応用して高水準の出土文献と伝世文献を相互に証拠とし,相互に解釈する研究をおこなうことは難しく,一回どれほど貴重な文献が出土したとしても,過去の幾多の出土医学書の研究のように――表面をかじっただけで終わり,数年で熱がさめて,また次の考古学的発見を期待することになる。 

黄龍祥 老官山から出土した金傷死候簡からみた傷科と法医学・鍼灸学による人体の急所に対する認識 3

3 老官山金傷死候簡と関連伝世文献の互校互釈


     伝世文献の中で,叙述の仕方が老官山金傷死候簡に最も近いのは,『素問』刺禁論である。人体の急所で最も近いのは,『諸病源候論』巻36・金瘡初傷候である。


        簡一六二:金傷。傷百節,斬絲骨,死。

 

    「絲(系)骨」を,宋代の骨解剖学文献である『聖濟總錄』巻191・〔鍼灸門〕骨度統論は「肺系骨」「肺系」に作る。『黃帝內經太素』巻27・十二邪で,楊上善は,「肺系為喉通氣之道」と注している。用語の規範化から考えれば,老官山医簡の「系骨」と比べれば,伝世文献が「肺系骨」に作るのはより明確である。なぜなら「系」は,人体の構造名として特定の部位を指すのではないが,「肺系」は特定の構造だからである。

    気管断裂が致命傷であるという認識は,宋元明清,歴代の法医学の鑑識によって確認されている。『洗冤集錄』が論じている急所に「喉下」があり,明代の法医学を代表する著作『實政錄』はさらに「咽喉」を致命傷の部位に入れた。明代の王文謨は『濟世碎金方』に「秘傳繼周打傷方」を収録し,その第一条で「氣管斷即死,不治」と明言している。説明を要することは,救急処置術の進歩に伴い,金傷によって気管が断たれても救うことができるようになった。たとえば,「(清)南伯安輯」の題がある『穴道拳訣』は,金傷による気管断裂の麻酔と縫合および術後の看護の全過程を詳細に記述している[11]。

    [11]丁继华.古代中医伤科图书集成 导引伤科[M].中国中医药出版社,2021:178.


    簡一六三:金傷。傷青上跬四寸,跛。


    この簡にある「跬」は,老官山『十二脈』の足太陽脈の「出外踝後胿」にある「胿」と源を同じくしていて,「腨」字と同じで,『黃帝內經』では,「踹」とも書かれている。足太陽脈が循行する部位である「胿」は「陥凹」の意味で用いられていることはすでに知られており,特定の固定的な部位を指すものではない。しかし,簡一六三の「上跬四寸」は,明らかに一つの特定の部位である。その負傷の症状である「跛」から下腿部にあると大体判断できるが,具体的にどこにあるかは伝世文献と結びつけて判断する必要がある。この竹簡の文と関連する伝世文献は以下の通り。


    刺腨腸內陷,為腫。(『素問』刺禁論)

    承筋,一名腨腸,一名直腸。在腨腸中央陷者中,足太陽脈氣所發。禁不可刺。(『黃帝明堂經』)

    承筋不可傷,傷即令人手脚攣縮。(『聖濟總錄』卷194・誤傷禁穴救鍼法》)

    伏兔一;腓二,腓者腨也;背三;五臟之腧四;項五。此五部有癰疽者死。(『靈樞』寒熱病)

    腿肚,雖不致命,傷重亦可致命。(『重刊補註洗冤錄集證』卷1・驗屍[12])

    [12]文晟等.重刊补注洗冤录集证.验尸:卷一[M].道光甲辰(1844)刊本.


    以上の時期が異なり,分類が異なる文献は,みな下腿の腨腸〔腓腹筋〕を傷つけてはならないとする。特に,『素問』『聖濟總錄』に記載されている腨腸を刺傷することによる症状である「腫」「手脚痙縮」は,簡一六三に記載されているのとほとんど同じで,「上胿四寸」と「腨腸中央」の関連に,より有力な証拠を提供している。「上跬四寸」は下腿腨腸の中央(承筋穴に当たるところ)であるので,「胿」は腨腸下端の陥凹(承山穴に当たるところ),すなわち『黃帝明堂經』に述べられている「承山,一名魚腹,一名腸山,一名肉柱,在兌腨腸下分肉間陷者中」である。これから分かるように,この竹簡の「胿」字と『十二脈』の「胿」字には,いずれも「陥凹」の意味がある。しかしながら簡一六三の「胿」の字形は,「承山」「魚腹」「腸山」「肉柱」という名称とは,みな離れている。その他の伝世文献にも「腨腸下分肉間陷」を「胿」という例は見えないので,この簡に誤字や脱字がある可能性を排除できない。


    簡一六四:金傷。傷頭角嬰脈,旋。


    伝世の鍼灸・金傷・法医学の諸家の文献は,みな額の角・太陽穴は傷つけるべきではないとし,「頭角嬰脈」の具体的な解釈さえ見られる。


    頭維,在額角髮際,夾本神兩旁各一寸五分,足少陽、陽明之會。刺入五分,禁不可灸。(『黃帝明堂經』)

    眼小眥後一寸,太陽穴,不可傷,傷即令人目枯,不可治也。(『聖濟總錄』卷194・誤傷禁穴救鍼法)


    『醫心方』巻2に引用される曹氏の不可灸20穴に,「維角者,在眼後髮際上至角脈是也……不可妄灸」とある。この額の角の脈を「角脈」とし,老官山金傷死候簡は「頭角嬰脈」という。一方は詳細で,もう一方は省略されているが,かならずしも頸部の脈と無理に解釈しなくてよい。

    二つの金傷の源となった文献である『諸病源候論』と『外臺祕要方』に記載された金傷の致命傷部位には,ともに「眉角」があり,宋以下の法医学文献の致命傷部位にもみな「額角」「太陽」があって,金傷簡と一致している。


    簡一六六:金傷。斬纓脈,血出不止,死。


    この「纓脈」はまた『素問』*にも見え,頸部の大脈を指す。『黃帝明堂經』では「人迎」と名づけられている。『醫心方』は,曹氏の禁灸穴と『范汪方』が論じる癰が発する危険な場所を引用しているが,そこにはともに「胡脈」とある。これは人体の急所を言っていて,ここを傷つけると,出血が止まらなくなって死ぬ。

    *『素問』通評虛實論。


    人迎,一名天五會。在頸大脈動應手,俠結喉旁,以候五藏氣,足陽明脈氣所發。禁不可灸,刺入四分,過深不幸殺人。(『黃帝明堂經』)

    胡脈,在頸本邊主乳中脈上是也,一名榮聽,人五藏血氣之注處也。無病不可多灸,熟則血氣決泄不可止。(『醫心方』卷2引ける曹氏禁灸穴)

    其血瘤,瘤附左右胡脈,及上下懸癰・舌本諸險處,皆不可令消,消即血出不止,殺人,不可不詳之。(『外臺祕要方』卷29引ける『深師方』)


    老官山金傷死候簡は頸部の「纓脈」を例として大脈を傷つけて,血が出て止まらなくなると死ぬことを説明している。また簡一六九も,「血出不止,死」という。およそ「動が手に応」ずる大脈を傷つけると,血が止まらずに出続けて死に至る可能性があるのは,「纓脈」一箇所だけに留まらないのは,明らかである。そのため『諸病源候論』巻50・金瘡候は,総括して「若傷于經脈,則血出不止,乃至悶頓」という。すなわち金刃によって大脈が傷つけられれば,流血が止まらず,失神して死亡する可能性がある。

    以上の各家の人体の急所に対する認識を見ると,鍼師の認識はより深く,定性的な認識があるだけではなく,一歩進んだ数量化の指標もある。具体的には人迎脈は人体の急所であるが,生と死の間の尺度を精確に把握すれば,鍼し灸することができるだけではなく,その上しばしば起死回生の要穴でもある。


    簡一六七:金傷。傷孅嬰,青,陰不用。


    孅嬰とは,両側の下腹の鼠鼷部を指す。鍼灸の経験によって,ここが傷つけられると,青腫・陰不用の症が引き起こされる可能性があることが明らかになった。


    刺氣街中脈,血不出,為腫鼠僕。 新校正云:按別本「僕」一作「鼷」。(『素問』刺禁論)


    氣街を刺して脈に中(あ)たり,血が出ないと鼠蹊部が青く腫れるのは,簡一六七に述べられていることと一致する。鼠鼷とは,両側の下腹部で股〔大腿〕と接するところである。『醫心方』巻2の「陰廉」穴の下にある楊上善『黃帝內經明堂』の注に「羊矢亦曰鼠鼷,陰之兩廉,腹與股相接之處」とある。


    氣衝(一作「氣街」),在歸來下,鼠鼷上一寸,動脈應手,足陽明脈氣所發。刺入三分,留七呼,灸三壯,灸之不幸使人不得息。主……陰疝,痿,莖中痛,兩丸騫,痛不可仰臥。(『黃帝明堂經』)


    腧穴の作用には二面性があり,腧穴の主治病症は往々にして誤って傷つけたことによる病症でもある[13]。気衝穴の主治病症にはまさに「陰疝・痿〔インポテンツ〕」の症があり,簡一六七の金傷による病症と一致している。


    簡一六五:金傷:傷股,從辨䐃,死。

    簡一六八:金傷:傷臂臑,從辨䐃,死。


    この二つの簡は,人体の大きな筋肉が横に断裂すると致命的であることを指摘している。『諸病源候論』巻36が引用する初期の金傷文献も,金刃で傷つき「腓腸を横に断たれれば」,致命的であることを指摘している。このほか,『黃帝內經』と『黃帝明堂經』に明確な関連文がある。


    伏兔,在膝上六寸起肉,足陽明脈氣所發。禁不可灸。(『黃帝明堂經』)

    身有五部:伏兔一;腓二,腓者腨也;背三;五臟之腧四;項五。此五部有癰疽者死。(『靈樞』寒熱病)


    清代の刑部の官僚は,殴り合いによる殺人事件の中には,「膊・胯・腿等厚處被毆死者〔上肢・下肢の,ぶ厚いところを殴打されて死んだ者〕」が確かに何人かいることに気づいた[14]。しかし,これらの部位が傷ついて死亡する確率は「頂心」などの急所よりも低いため,『大清律例』や律例館が編纂した官修書『律例官校正洗冤錄』では「致命傷部位」としては名を連ねていない。

    [14]郎廷栋.洗冤汇编[M].保顺斋藏板,1718.


    簡一六九:金傷。折頭傷腦,血出不止,死。


    頭を骨折し脳を傷つければ,それだけで死ぬ可能性があるが,さらに大脈を傷つけて「血出不止〔出血が止まらない〕」と死亡するリスクは高まる。脳を傷つけて死亡することについては,金傷・鍼灸・法医学の各文献にみな明言されている。特に『諸病源候論』などの金傷文献は脳の損傷の症状に対してとりわけ詳しく述べている。


    自餘腹破腸出,頭碎腦露,並亦難治〔自餘(このほか)腹破れ腸出で,頭碎け腦露わるるも,並びに亦た治し難し〕。(『諸病源候論』卷50・金瘡候)


    夫被打,陷骨傷頭,腦眩不舉,戴眼直視,口不能語,咽中沸聲如㹠子喘,口急,手為妄取,即日不死,三日小愈〔夫れ打を被り,骨を陷(おちい)らせ頭を傷(そこな)い,腦眩(くら)んで舉がらず,戴眼直視し,口 語る能わず,咽の中 沸く聲 㹠子(いのこ)の喘ぐが如く,口急(ひきつ)り,手妄りに取るを為し,即日に死せざれば,三日にして小(すこ)しく愈ゆ〕。(『諸病源候論』卷36・被打頭破腦出候)

    又破腦出血而不能言語,戴眼直視,咽中沸聲,口急唾出,兩手妄舉,亦皆死候,不可療。若腦出而無諸候者可療〔又た腦を破り血を出だして言語する能わず,戴眼直視し,咽の中 沸く聲し,口急(ひきつ)り唾出で,兩手妄りに舉ぐるは,亦た皆な死候にして,療す可からず。若し腦出づるも諸候無き者は療す可し〕。(『外臺祕要方』卷29・金瘡禁忌序一首)


    『外臺祕要方』によれば,『諸病源候論』巻36の「即日不死」の前には「皆死候,不可治」といった類の脱文があるはずである。原文が描く症状をみると,頭部の外傷後の陥没骨折による脳損傷であり,頭蓋内血腫を合併すれば,負傷者の大部分は早期に死亡し,「三日」も延命しない。もし頭蓋内血腫を伴わない軽度の脳挫傷であれば,即死せず,「三日にして小しく愈ゆ」る可能性はある。


    簡一七〇:金傷:傷百節帶會,訊(迅)而死。


    この簡が述べる「傷百節帶會」も脳外傷であり,その予後「迅(すみや)かにして死す」から見ると,簡一六九の内容よりも致命的な脳の領域である。この簡は,伝存する法医学文献が人体の致命的な部位を「必死の場所」と「死を速(まね)く場所」に分けた認識の源と見なすことができる。


    「百節帶會」の具体的な位置について,関連する伝世文献から探究する。


     刺頭中腦戶,入腦立死〔頭を刺し腦戶に中(あ)たり,腦に入らば立ちどころに死す〕。(『素問』刺禁論)


    経文にいう「立ちどころに死す」と,竹簡に述べられた「迅かにして死す」はまさに一致しているが,「脳戸」の具体的な位置については,古今の注家の理解は一致してない。確実なことは,この部位では脳の実質であり,かつ脳の生命中枢に鍼を深く刺入できことである。このような部位は,『靈樞』海論に二箇所記載がある。その上輸は「其の蓋」にあり,下輸は「風府」にある*。その中の「風府」の位置は明確であり,宋以降の歴代法医学文献は「致命」の場所と定めている。上輸である「其の蓋」について,楊上善は「上輸腦蓋,百會之穴」(『太素』巻5・四海合)と注し,清代の沈彤『釋骨』は,「頭之骨曰顱,其上曰顛(亦作巔),曰腦蓋,曰腦頂,亦曰頂」[15]という。すなわち髄海の上輸である「其の蓋」は,法医学文献でいう「頂心」であり,百会穴があるところに当たる。

    [15]陆拯.近代中医珍本集 医经分册[M].2版.浙江科学技术出版社,2003:467.

    *『靈樞』海論:「腦為髓之海,其輸上在於其蓋,下在風府」。


    既存の史料から知られることは,遅くとも宋代には「頂心〔頭頂部〕から脳を刺せば死を速(まね)く」ことが,医家以外の人にすでに知られていたことである。たとえば,宋の真宗の時代,礼部尚書の張詠は益州の知府〔長官〕であったときに,妻が平らな頭の鉄釘を頂心に打ち込んで夫を殺す事件を二件,目の当たりにした[16]。法医学者の宋慈は先人と当時の人の経験を系統的に総括して,その検死の規準を作成した。「如男子,須看頂心,恐有平頭釘〔如(も)し男子ならば,須(すべか)らく頂心を看るべし,恐らくは平頭の釘有らん〕」*。

    [16]钱斌作. 洗冤集录的世界[M].青少版.安徽科学技术出版社,2022:103.

    *『洗冤集錄』卷1・四・疑難雜說上。

    https://archive.org/details/02092495.cn/page/n17/mode/2up


    宋以降,歴代の法医学文献はみな「頂心」を致命箇所とした。また清代の『律例館校正洗冤罪録』は更にすすんで,「頂心」の左右両側も一撃で死に至る絶対的な致命の場所と認定した。


    簡一七一:〼□血二斗,死。


    伝存する医籍でも「血出でて止まざれば,死す」「出血多ければ,立ちどころに死す」と多く言われるが,このように精確な定量指標によって予後を判定することはまれである。現代医学知識によれば,出血は人体の血液容量の60%を超えると治癒できない。通常,人体内の血液総量は体重に比例し,体重の約7%~ 8%を占めている。もし体重が60 kgの人であれば,血液総量は4200 ~ 4800mLであり,秦漢の時代の「二斗」は現在の4000mLに相当し,60 kg成人の全血液量に近いので,必ず死ぬ。

    簡一七二:金傷,傷三毛,從陰及陽脈,死。


    「三毛」とは,『諸病源候論』巻36の金傷致命部位である「攢毛」であり,陰部の叢毛である。「陰及陽脈」とは,男女の陰部を指す。宋代の法医学鑑定の専門書『洗冤集錄』に並べられている急所では,男子は「陰嚢」,女子は「陰門」であり,宋以降の法医学鑑定は,みなこれに従っている。

    傷科の文献,たとえば危亦林の『世醫得效方』正骨兼金鏃科の「十不治症」篇には「陰子を傷破する者」[17]が掲載されている。陰子は「腎子」とも表現され,睾丸を指す。明代の王文謨『濟世碎金方』秘傳繼周打傷方は「腎子受傷,入小腹者,立死不治;腎子受傷皮破者,腎子未上小腹,可治〔腎子 傷を受け,小腹に入る者は,立ちどころに死して治せず。腎子 傷を受け皮破るる者も,腎子未だ小腹に上らざれば,治す可し〕」[18]という。もし陰嚢〔睾丸〕が脱出しても破砕しなければ,まだ救える術がある。たとえば元代の王承業と顧東甫の『接骨入骱全書』は陰囊縫合術を掲載して次のように言っている。「如有捏碎陰囊陰戶,卵子拖出者,以指輕輕擎上,油綿線縫合,外將金瘡藥封固,若不發熱寒,竟將吉利散治之,次服托裡散;如發寒熱,急投疏風理氣湯。如卵子捏碎者,此凶癥,不治也〔陰囊陰戶を捏(こ)ね碎きて,卵子拖(ひ)き出づる者有るが如きは,指を以て輕輕に擎(も)ち上げ,油綿線もて縫い合わせ,外は金瘡藥を將(も)って封(と)じ固む。若(も)し熱寒を發せざれば,竟に吉利散を將(も)って之を治し,次に托裡散を服(の)ましむ。如(も)し寒熱を發すれば,急ぎ疏風理氣湯を投ず。卵子の捏(こ)ね碎くる者の如きは,此れ凶癥にして,治せざるなり〕」[19]1108。

    [17]危亦林.世医得效方[M].中国中医药出版社,2009:730.

    [18]王文谟.济世碎金方[M].中国中医药出版社,2016:236-237.

    [19]丁继华.伤科集成 续集[M].中医古籍出版社,2006:1108,1105.


    実際,陰嚢と陰戸〔女性生殖器の外陰部〕は直接的な致命箇所ではないが,ここには神経が多く分布しているため非常に敏感であり,損傷は疼痛によるショックをまねき,致命的である。これについては,『接骨入骱全書』もすでに認識していて,「陰囊・陰戶・肛門穀道傷極者,痛切難忍,毒血迷心,未有不死者也〔陰囊・陰戶・肛門穀道の傷 極まる者は,痛切 忍び難く,毒血 心を迷わせ,未だ死せざる者有らざるなり〕」[19]1105と述べている。しかし現代の医療条件の下では,ショックを防げれば,睾丸の摘出や陰嚢の修復術をおこなって命を救うことができる。

    以上の出土文献と伝世文献の対比を通じて,以下のことが分かった。分類の異なる文献の人体の急所に対する認識の多くは近いが,同じ人体構造に対する命名には大きく異なるところがあるし,同じ種類の文献の中でも同一構造組織に対する表現も前後で異なることさえある。このような「同じ構造組織でも名称が異なる」という現象が広範囲に存在することは,後世の人が正確に理解するうえで大きな困難となり,人体の急所の認定にも一定の混乱をもたらした。




 

2024年12月27日金曜日

黄龍祥 老官山から出土した金傷死候簡からみた傷科と法医学・鍼灸学による人体の急所に対する認識 2

 2 伝世文献が論じる身体の急所とその相互関係


    伝世文献で系統的に人体の急所を論述するものには,金傷文献以外には,主に鍼灸と法医学類の文献がある。

    金傷文献の源は『諸病源候論』と『外臺祕要方』であり,前者の引用文の出所は不詳であるが,後者は『肘後方』から引かれている。その他の後期の金傷文献では,引用がある場合も,みな出典が詳細に記載されている。また金傷は「瘍医」に属するため,癰瘍死候が人体の急所部位を論じる場合は,金傷の文献の下にまとめて添えられている。鍼灸の源となる文献は伝世本『黃帝內經』『黃帝明堂經』(輯校本)である。法医学の源となる文献は,宋代の宋慈の『洗冤集錄』である。他に明代の法医学の重要文献である呂坤の『實政錄』,および清代に国家の名義で全国に公布された公文書『律例館校正洗冤錄』を参照とする。


2.1 金傷文献


    『諸病源候論』巻36と『外臺祕要方』巻29で述べられている金傷が致命傷となる部位は非常に近く,いくつかの特有の専門用語も同じであることさえあるが,それでも無視できない相違がいくつか見られる。これらの相違は両書が採用した文献の出典が異なる可能性があることを示唆している。


      夫被金刃所傷……若中絡脈・髀內陰股・天聰(窗)・眉角,橫斷腓腸,乳上[乳下]及與鳩尾・攢毛・小腹,尿從瘡出,氣如賁豚,及腦出,諸瘡如是者,多凶少愈〔夫れ金刃を被り傷つく所……若し絡脈・髀內陰股・天聰(窗)・眉角に中(あ)たり,腓腸を橫に斷ち,乳上[乳下]及び鳩尾と攢毛・小腹,尿 瘡(きず)從(よ)り出で,氣 賁豚の如く,腦に及んで出づ,諸瘡 是(か)くの如き者は,凶多く愈ゆること少なし〕。(『諸病源候論』卷36・金瘡初傷候)


    この条文の「天窗〔窓〕」字の誤りと「乳下」の脱文は,いずれも『醫心方』巻18・治金瘡方〔第5〕に引用されている『諸病源候論』によって校補した。

    『諸病源候論』のこの文は,老官山金傷害死候簡に反映されている人体の急所の認識にかなり近いが,実質的に異なるのは,この条文が内臓,特に心の重要性を指摘している点である。「乳上乳下及與鳩尾」の内部は心であり,その左乳の上下で搏動するところは心尖であり,中国医学の鍼灸文献は,これによって宗気の盛衰を診察する「胃の大絡」(『素問』平人氣象論)とし,傷科文献の『接骨入骱全書』は,これを「氣門」と呼び,「氣門,左乳上脈動處,傷即塞氣,救遲不過三時〔氣門は,左の乳の上 脈動ずる處,傷つけば即(ただ)ちに氣を塞ぎ,救うこと遲ければ三時を過ぎず〕」という[6]。『黃帝明堂經』は鳩尾穴を載せ,「不可灸刺」といい,『素問』氣府論の王冰注は,「鳩尾,心前穴名也。其正當心蔽骨之端」という。


      小兒為金刃所傷,謂之金瘡。若傷於經脈,則血出不止,乃至悶頓;若傷於諸臟俞募,亦不可治;自餘腹破腸出,頭碎腦露,並亦難治;其傷於肌肉,淺則成瘡,終不慮死〔小兒 金刃の傷つく所と為る,之を金瘡と謂う。若し經脈を傷つければ,則ち血出でて止まず,乃ち悶え頓(たお)るるに至る。若し諸臟の俞募を傷つければ,亦た治す可からず。自(この)餘(ほか)腹破れ腸出で,頭碎き腦露わるるは,並びに亦た治し難し。其れ肌肉を傷つくるに,淺ければ則ち瘡と成り,終に死を慮らず〕。(『諸病源候論』卷50・〔小兒雜病諸候六〕金瘡候)


    この条文と巻36の最も明らかな違いは,ここに鍼灸学特有の概念「兪募」が現われていること,また「金瘡」を定義する文が現われていることである。両者には由来を異にする出典があるに違いない。


      凡金瘡傷天窗・眉角・腦戶・臂裏跳脈・髀內陰股・兩乳上下・心鳩尾・小腸(腹)及五藏六腑輸,此皆是死處,不可療也。並出第三卷中。(『外臺祕要方』卷29・金瘡禁忌序一首)


    これと『諸病源候論』巻36との実質的な相違は,「腦戶」「腕裏跳脈」「五臟六腑輸」の三箇所が多く、「攢毛」の一箇所が欠けていることである。これは,『諸病源候論』巻50にある小児の「金瘡候」を論じている文献の出典により近い。


    特に説明すべき用語が二つある。その一,「天窗〔天窓〕」。この文と上で引用した『諸病源候論』の原文に見える「天窗」は,前頭部の顖門(ひよめき)(督脈の顖会穴がある場所)を指すのであって,小腸経の頸部にある「天窗〔天窓〕」穴のことではない。後世の金傷文献が引用する際,この「天窗」を頸部にある同名穴「天窗」と誤解していることが多いが,大きな誤りである[7]。

 [7]黄龙祥.出土医学文献的激活与利用--以敦煌卷子佚名灸方两组腧穴解读为例 [J].中医药历史与文化,2023, 2 (2):280-308.


    その二,「心鳩尾」。これは骨の名称で,別名は「鳩尾」「𩩲骬」「心蔽骨」「蔽骨」である。その骨の下五分にある穴名も「鳩尾」という。早くも『黃帝明堂經』*に明確な注釈と応用例がある。

*黄龍祥『黃帝明堂經輯校』:鳩尾:「一名尾翳,一名𩩲骬。在臆前蔽骨下五分,任脉之別。不可灸刺(鳩尾蓋心上,人無蔽骨者,當從上岐骨度下行一寸半)。主〔心中寒,脹滿不得食,息賁唾血,血瘀,熱病,胸中痛不得臥,心腹痛不可按,善噦,心疝,太息,面赤,心背相引而痛,數噫喘息,胸滿咳嘔,腹皮痛,瘙癢〕。(ママ)喉痹,食不下」。


    しかし,鍼灸文献に不慣れなひとが古い傷科の文献を整理したものでは,いつも「心鳩尾」を「心・鳩尾」と誤って句読点が打たれる。このような誤解は現代人に多く見られるだけでなく,早くも宋代に誤読された例がある。後世に十大兵書の一つとされた北宋の許洞『虎琢經』巻10「金瘡總說」に引用された『外臺祕要方』には次のように記されている。「夫金瘡不可治之者有九焉:一曰傷腦戶,二曰傷天窗,三曰傷臂中跳脈,四曰傷髀中陰股,五曰傷心,六曰傷乳,七曰傷鳩尾,八曰傷小腸,九曰傷五臟。此九者,皆死處也」[8]。この原本,『諸病源候論』は,もともと一つの急所であった「乳上乳下及與鳩尾」が,「心」「乳」「鳩尾」の三箇所に変化した。

    [8]许洞.虎钤经[M]//季羡林.四库家藏·子部·兵家.山东画报出版社,2004:76.


    以上の二つの金傷の源になった文献に記述された人体の急所の共通原則は,大脈と重要臓器である。比較していえば,『諸病源候論』巻36で論じられた人体の急所は,老官山の金傷死候簡で論じられたものにより近く,比較的初期の金傷文献を源としている。対して,『諸病源候論』巻50と『外臺祕要方』巻29で引用された『肘後方』が金傷致死を論じた文は比較的晩期の文献から出たか,あるいは『諸病源候論』巻36と源を同じくする文献を引用したが,引用する際に当時の医学の新知識に基づいてやや改編したもので,原文を直接引用したものではない。


    【附】癰疽文献が論ずる人体の急所


      身有五部:伏兔一;腓二,腓者腨也;背三;五臟之腧四;項五。此五部有癰疽者死。(『靈樞』寒熱病)


    この五部のうち,一・二・四はすでに先に引用した二種類の金傷の源になった文献に見える。その五の「項」は,宋代の法医学の専門書『洗冤集錄』に見える。その三の「背」は多く五臓と連係し,急所でもあり,しかも遅くとも唐代にあっては医者以外の人にも知られていた。たとえば史書の記載によると,唐の太宗は明堂の孔穴図を閲覧し,五臓の系〔繫〕がみな背に附着することを見た。そこで貞観四年の背を鞭打つのを禁ずる詔*に次のようにいう。「決罪人不得鞭背。且人之有生,繫於臟腑,灸針失所,尚致夭傷。鞭撲苟施,能無枉橫〔罪人の背を鞭うつを得ざるを決す。且つ人の生有るは,臟腑に繫(か)かる,灸針 所を失すれば,尚お夭傷を致す。鞭撲苟(も)し施さば,能(なん)ぞ枉橫無からんや〕」[9]。

    [9]周绍良.全唐文新编[M].第1部.第2册.吉林文史出版社,2000:873.

*『舊唐書』卷三 太宗 李世民 下 紀第三/貞觀四年:「十一月……戊寅,制決罪人不得鞭背,以明堂孔穴針灸之所」。李昂(第17代皇帝・文宗)『禁鞭背詔』:「朕比屬暇日,周覽國史,伏讀太宗因閱『明堂孔穴經』,見五臟之繫,咸附於背,乃下制,決罪人不得鞭背。且人之有生,繫於臟腑,灸針失所,尚致夭傷,鞭扑苟施,能無枉橫?況五刑之內,笞最為輕,豈可以至輕之刑,傷至重之命」。


      經言:……癰之疾,所發緩地不殺人,所發若在險地,宜令即消,若至小膿,猶可治,至大膿者致禍矣。一為腦(乃道反)戶,在玉枕下一寸;二為舌本;三為懸壅;四為頸節;五為胡脈;六為五藏俞;七為五[藏]繫;八為兩乳;九為心鳩尾;十為兩手魚際;十一為腸屈之間;十二為小道之後;十三為九孔;十四為兩脇腹;十五為神主之舍。凡十五處不可傷,而況於癰乎?〔經に言う:……癰の疾,發する所 緩地ならば人を殺さず,發する所若(も)し險地に在らば,宜しく即(ただ)ちに消さしむべし,若し小膿に至るとも,猶お治す可し,大膿に至る者は禍いを致さん。一は腦(乃道の反(かえし))戶と為し,玉枕の下一寸に在り;二は舌本と為す;三は懸壅と為す;四は頸節と為す;五は胡脈と為す;六は五藏俞と為す;七は五[藏]繫と為す;八は兩乳と為す;九は心鳩尾と為す;十は兩手の魚際と為す;十一は腸屈の間と為す;十二は小道の後と為す;十三は九孔と為す;十四は兩脇腹と為す;十五は神主の舍と為す。凡そ十五處 傷つく可からず,而して況わんや癰をや?〕(『范汪方』*,『醫心方』卷15〔說癰疽所由第一〕より引用)

 *范汪(308年~372年),字玄平,南陽順陽(今湖北光化北)人。東晉時期著名政治家、醫學家。


    この文はまた『外臺祕要方』〔卷24〕癰疽方一十四首が引用する「于氏法」にも見え,その注に「『范汪』同じ」とあり,その中の「五繫」を「五藏繫」に作る。注目に値するのは,先に引用した唐の太宗は明堂孔穴図を閲覧して「五臓の系〔=繫〕がみな背に附く」ことを知っており,この『范汪方』に引かれる「経」にもこの「五臓の系」という専門用語があり,しかも引用されている文には鍼灸の刺禁の影響が明らかに見られることである。たとえば「脳戸」は鍼灸の経穴であることが明確に注記されている。また「五臓兪」「舌本(『黃帝明堂經』では「風府」穴の別名)」「魚際」「腸屈(『黃帝明堂經』では「腹結」穴の別名)」も同様である。「胡脈」は『醫心方』巻2・禁灸法第4に引用された「曹氏說不可灸者」*の二十穴に見えて,注に「陳延之 同じ」とあり,やはり六朝以前の鍼灸明堂文献を出自としている。また曹氏說不可灸者の中には「神府」(すなわち鳩尾)**があるが,これも『范汪方』に引用された「神主の舎」と意味は同じである。

 *『醫心方』巻2・禁灸法第4:「胡脈在頸本邊主乳中脈上是也,一名榮聽,人五臟血氣之注處也,無病不可多多灸,〔「多多灸」:前後の文によれば「灸〻」の誤記〕熟則血氣決泄不可止;有疾可灸五十壯」。

 **『醫心方』巻2・禁灸法第四:「神府者,人神之明堂也,無病不可灸,灸則少氣之,恆使人無精守;有疾可灸百壯。此則鳩尾,一名龍頭是也」。


    『范汪方』に引用された「経」が論じた癰疽の危険部位についての説は,影響が大きく,前後して『集驗方』『小品方』などの初期の中国医学の名著に引用された。また『外臺祕要方』巻29が引用する『深師方』にいう「其血瘤,瘤附左右胡脈,及上下懸癰、舌本諸險處,皆不可令消,消即血出不止,殺人,不可不詳之〔其の血瘤,瘤 左右の胡脈に附し,上下の懸癰と舌本 諸々の險處に及べば,皆な消(のぞ)かしむ可からず,消(のぞ)けば即ち血出でて止まず,人を殺す,之を詳らかにせざる可からず〕」も,この説に基づいているとすべきである。


2.2 鍼灸文献


     凡刺胸腹者,必避五臟。中心者環死,中脾者五日死,中腎者七日死,中肺者五日死,中膈者,皆為傷中,其病雖愈,不過一歲必死。(『素問』診要經終論)


     刺中心,一日死,其動為噫。刺中肝,五日死,其動為語。刺中腎,六日死,其動為嚏。刺中肺,三日死,其動為咳。刺中脾,十日死,其動為吞。刺中膽,一日半死,其動為嘔。刺跗上中大脈,血出不止死。刺面中溜脈,不幸為盲。刺頭中腦戶,入腦立死。刺舌下中脈太過,血出不止為瘖。刺足下布絡中脈,血不出為腫。刺郤中大脈,令人仆脫色。刺氣街中脈,血不出,為腫鼠仆。刺脊間中髓,為傴。刺乳上,中乳房,為腫根蝕。刺缺盆中內陷,氣泄,令人喘咳逆。刺手魚腹內陷,為腫。(『素問』刺禁論)


    刺陰股中大脈,血出不止死。刺客主人內陷中脈,為內漏為聾。刺膝髕出液,為跛。刺臂太陰脈,出血多立死。刺足少陰脈,重虛出血,為舌難以言。(『素問』刺禁論)


     刺膺中陷中肺,為喘逆仰息。刺肘中內陷,氣歸之,為不屈伸。刺陰股下三寸內陷,令人遺溺。刺腋下脇間內陷,令人咳。刺少腹中膀胱溺出,令人少腹滿。刺腨腸內陷,為腫。刺眶上陷骨中脈,為漏為盲。刺關節中液出,不得屈伸。刺面中溜脈,不幸為盲。(『素問』刺禁論》)


         陰尺動脈在五里,五腧之禁也。(『靈樞』本輸)


    禁じられている場所の多くは,大脈・臓腑・脳である。五臓の急所では「心」の重要性がより際立っていて,「中心者環死〔心に中(あ)たる者は環死す〕」という。しかし心と同様に重要な器官は脳であり,いわゆる「刺頭中腦戶,入腦立死〔頭を刺し腦戶に中たり,腦に入らば立ちどころに死す〕」*である。また注目すべきは,上記の経文が論じている刺すことを禁じている中には,鍼の操作を誤った致傷もあって,致死部位ではないものもある。老官山金傷死候簡にも同様に致死部位ではなく,金刃による傷が記載されているのは,似たような体例である。

    *『素問』刺禁論(52)。


    『黃帝明堂經』が記載する禁刺と禁灸の腧穴は神庭・頭維・脳戸・風府・瘂門・承光・糸竹空・人迎・乳中・鳩尾・臍中・石門(女子は刺灸を禁ず)・気衝・淵腋・天府・経渠・五里・伏兔・承筋・地五会である。『諸病源候論』巻36に記載されている金傷の急所は,「天窗(顖門)」の一箇所をのぞいて,みなここに見える。鍼灸文献*にも顖会穴を刺せば,「不幸令人死〔不幸にして人をして死せしむ〕」と記載されている。顖会穴がはっきりと禁刺禁灸の列に入れられなかったおもな理由は,小児は通常2歳前に顖門〔泉門〕が閉じるからである。顖門が閉鎖された後は,頭蓋骨が肥厚するため,鍼による脳実質の損傷が起こりにくくなる。これから分かるように,金刃による致死部位は必ずしも微鍼の禁刺穴ではない。逆に,微鍼でも傷つけられる箇所は,一層金刃によって損傷される。

    *『銅人鍼灸經』巻2:「顖會……八歲以上方可針。顖門未合,若針,不幸令人死」。


2.3 法医学文献


      頂心・顖門・兩額角・兩太陽・喉下・胸前・兩乳・兩脇肋・心腹・腦後乘枕・陰囊・穀道,並係要害致命之處。(婦人看陰門・兩奶膀。)(『洗冤集錄』驗屍)*

        *https://archive.org/details/02092495.cn/page/n25/mode/2up

        乾隆49年『洗冤錄』巻1。

        https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300055979/29?ln=ja


    論じられている「致命の処」は,「頂心」「喉下」「両脇肋」の三箇所以外は,みな二つの金傷の源になった文献〔『諸病源候論』『外臺祕要方』〕に見られた。


    説明が必要な用語:「頂心」は頭頂部(百会穴があるところ)を指す。『黃帝明堂經』には「前頂」「後頂」があり,両者の間にある百会穴の位置は,『黃帝明堂經』は「頂中央」といい,北宋の官修医典『太平聖惠方』巻55は「頂當心」といい,宋代の『洗冤集錄』は「頂心」と名づけている。このように「前頂」「頂心」「後頂」の三者はちょうど前後に連続している。これにもとづけば,鍼灸文献は百会穴の別名として「頂心」を補うべきである。「乘枕」とは,後頭部の枕に乗るところを指す。「奶膀」は〔『洗冤集錄』の撰者〕宋慈が採用した宋代の口語で,特に女性の乳房を指すために使われている。

    明代の法医学検死の重要文献である呂坤の『實政錄』は,致命傷の部位を二つに分けている。その一,死をまねく致命的な場所には,頂心・顖門・耳根・咽喉・心坎・腰眼・小腹・腎嚢が含まれる。その二,必死の部位には,脳後・額角・胸膛・背後・脇肋が含まれる[10]*。

    [10]杨晓秋.明清刑事证据制度研究[M].中国政法大学出版社,2017:156.

    *https://archive.org/details/02087361.cn/page/n19/mode/2up


    清代はまた明代の呂坤による致命部位の分類に基づき,仰面〔正面〕十六箇所と合面〔背面〕六箇所に分けた。


        仰面致命共十六處:頂心・偏左・偏右・顖門・額顱・額角・兩太陽穴(左右)・兩耳竅(左右)・咽喉・胸膛・兩乳(左右)・心坎・肚腹・兩脇(左右)・臍肚・腎囊(婦人產門・女子陰戶);合面致命共六處:腦後・兩耳根(左右)・脊背・脊膂・兩後脇(左右)・腰眼(左右)。(『律例館校正洗冤錄』屍格)*

  *原文(「肾囊妇人产门、女子阴户」)のままでは,仰面が17箇所になってしまうため,以下を参考にして表記を修正した。(清)王又槐增輯・李虛舟補輯『(律例館校正)洗冤錄』。

 http://shanben.ioc.u-tokyo.ac.jp/main_p.php?nu=B3885500&order=rn_no&no=00769&im=0010016&pg=16

 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00003821?page=18


    『律例館校正洗冤錄』は清朝では官書として献上され,国家は段階的に下達する形で天下に公布した。つまり清朝の人々にとって,この書は必ず遵守しなければならない法医学鑑定のガイドラインであった。

    以上の三つの文献〔金傷・鍼灸・法医学〕では,年代を見れば,鍼灸文献が最も早く,法医学文献が最も遅い。内容を見れば,鍼灸文献が最も系統的であり,急所の確認だけでなく,関連する理論の説明もある。後世の医学関連各科への影響を見ても,同様に鍼灸文献の影響が最も早く,最も広い。もう一つ指摘しなければならないことがある。時期や学科が異なっても,人体の急所に対する認識に大きな変化はないが,救急技術の進歩と救急治療の経験の蓄積にともなって,宋以降,前代の文献に論じられていた人体の急所に対する認識は,定性から定量へという絶えざる深化する過程を経ていた。

WHO 習近平 銅人形

 http://j.people.com.cn/n3/2024/1226/c94474-20258977.html

https://export.shobserver.com/baijiahao/html/826487.html

https://baijiahao.baidu.com/s?id=1556938977972516&wfr=spider&for=pc

2024年12月26日木曜日

黄龍祥 老官山から出土した金傷死候簡からみた傷科と法医学・鍼灸学による人体の急所に対する認識 1

 1 老官山出土金傷死候簡の釈文と補注

    老官山漢墓から金傷死候簡が全部で11枚出土した。『天回醫簡』*では整理小組によって『脈書』下経に分類され,分類番号は162から172である。出土時の医簡の原番号との対応は以下の通り:一六二 -147〔正しくは417〕・一六三 -387・一六四 -411・一六五 -377・一六六 -435・一六七 -450・一六八 -551・一六九 -431・一七〇 -474・一七一 -473・一七二 -478。

    *『天回醫簡』:文物出版社,2022年。https://www.zgyswxyjs.cn/?list_8/230.html


    筆者の文章作成の都合,また読者が読みやすいように,特に出土した11枚の金傷死候簡にある説明が必要な専門用語を以下にまとめて考証する。

        簡一六二:金傷。傷百節,斬絲骨,死。

         (整理者注:絲骨,即系骨,實指氣管。《證治準繩·損傷門》:「嚨下之內為肺,系骨者,累累然共十二。」)

    整理者の注にある「気管」は現代人体解剖学の用語であるが,「系骨」は現代解剖学用語としては,動物の指節骨中の近指節骨(一般的には各指に3つの指節骨がある)を指し,気管を指しておらず,人体解剖用語にも用いられていない。

    伝世医籍で「系骨」が人体の構造を表わす例は未見である。整理者が引用した『證治準繩』の文は,宋代の官修医書『聖濟總錄』骨解剖の専門篇*に由来する。原文は「肺系骨」(また「肺系」)である。宋代の解剖学専門書『存真圖』は「肺系」「氣系」に作る。宋代の法医学検死の専門書『洗冤集錄』では,「気系」の名で統一して使用され,「気系」と並行する構造を「食系」と呼んだ。ここでの「肺系骨」という言葉についての断句の誤りは,今人の点校本『證治準繩』を書き写したものか,あるいは整理者が原書を引用した時に句読を誤ったのかは不明である。

    *『聖濟總錄』卷第一百九十一・鍼灸門・骨空穴法:「嚨下之內為肺系骨者累累然共十二(無髓勢),肺系之後為谷骨者一(無髓)」。


        簡一六三:金傷。傷青上跬四寸,跛。

         (整理者注:跬,疑指踝上小腿外側,即衣圭所垂處。)

    ここで整理者は老官山医簡『十二脈』の足太陽脈が循行する部位にある文「出外踝胿中」を内証*として採用せず,別の方法を開拓して「衣圭」から解を求めた。もし出土した漢代の関連する衣服の実物を傍証として提供できるのであれば,それも有意義な解釈法かもしれない。ここで考慮すべきは,もし衣圭**の垂れる所が「跬」だとすれば,「垂れる所」は小腿〔下腿〕の前・後・外側である可能性があるのに,どうして「小腿外側」とだけ言うのか,ということである。またこの医簡の「四寸」の前にある「跬」は,特定かつ確定した部位名でなければならないので,関連する伝世文献を調査して判定する必要がある。考証の詳細は,「〔3の〕老官山金傷死候簡と関連伝世文献の互校互釈」節を参照されたい。

    *内証:校勘学用語。その本の中での考証で得られる証拠。その本以外で得られる証拠を外証または傍証という。

    **衣圭:整理者注に「漢代流行的一種衣飾」とあり,以下に『漢書』江充傳の顔師古注,『釋名』釋衣服から引用文があるが省略する。


        簡一六四:金傷。傷頭角嬰脈,旋。

         (整理者注:嬰,讀為“纓”,借指人迎脈及其延續到頭角附近之分支;旋,眩暈。)

        簡一六六:金傷。斬纓脈,血出不止,死。

        簡一六七:金傷。傷孅嬰,青,陰不用。

         (整理者注:孅嬰,當讀為“讖嬰”,借指腹股溝及小腹側方。)

        この一連の医簡にはみな「嬰(纓)」の字が現われる。伝統的な考え方に基づくと,「嬰」(「纓」)はもっぱら首を指すことになる。簡一六四はなんとか説明できるとしても,簡一六七の例は明らかに説明がつかない。

        『說文解字』に,「嬰,頸飾〔頸かざり〕也。从女・賏。賏,其連也」といい,また「賏,頸飾也。从二貝」,「纓,冠系〔冠のひも〕也」という。これからわかるように,「賏-嬰-纓」は実は古今字である。古人は貝を輪にしたものを「賏」と呼び,アクセサリーとして用いた。多くは女性の装飾品であったので,「嬰」字が派生した。後に組み紐で作るようになったので,「纓」字がさらに作られた。

        「嬰」の本義は女性の装飾品である。最もよく身につける部位は首で,その次は頭である。これ以外,上古では下腹部にも用いられ,陰部を飾るとともに隠すことを兼ねていた。考古学の発見により,西周時代の墓ではなお,墓主が「頭と首に貝・玉管・石管・瑪瑙珠などが数珠つなぎになっている装飾品を巻いている」のを見ることができる [1] 。

 [1]王巍,黄秀纯.1981-1983年琉璃河西周燕国墓地发掘简报[J].考古,1984(5):405.


        老官山医簡の「嬰」「纓」の字の用例から,以下の規則を見いだせる。「嬰」「纓」といって具体的な部位名をかぶせないものは,特に頸部の両側を指す。たとえば金傷簡の「纓脈」と『犮理』の「嬰脈」は,みなこの例である。その他の頭と体幹の左右対称の部位は,「嬰」または「纓」ともいえるが,具体的な部位を明示しなければならない。「頭角嬰脈」「孅嬰」がすなわちこの例である。このような問題では,伝存する字典を用いて,むりやりにそれに合わせて解釈するようなことは決してしてはならず,反対に出土文献という瑞々しい史料を使って字書を充実させ,完備したものにしていくべきである。

        整理小組の意見によると,「孅」(「讖」)を鼠蹊部と解釈している。伝世文献で常用される用語は「鼠鼷」(または「鼠僕」)である。『黃帝內經』『黃帝明堂經』にもとづけば,鼠鼷が傷つくと確かに「腫」「陰痿〔インポテンツ〕」となる。つまり青腫であり,陰不用〔陰 用いられず/インポテンツ〕である。


        簡一六五:金傷:傷股,從辨䐃,死。

        簡一六八:金傷:傷臂臑,從辨䐃,死。

    この二つの竹簡には,ともに「辨䐃」という語が現われる。「䐃」の意味について,『黃帝內經太素』巻5・十二水において楊上善は,「䐃,臑等塊肉也」と注し,『素問』玉機真藏論で王冰は,「䐃,謂肘・膝後肉如塊者」と注する。金傷簡では,股〔大腿〕と臑〔上腕〕をともに「䐃」といっていることから見ると,王冰の注がふさわしいと思われる。

    「辨」の意味について,『說文解字』は,「辧,判也。从刀,辡聲」という。 段玉裁の注は「古辨・判・別三字義同也」という。晉・郭璞注『爾雅』卷5・釋器に,「革中絕謂之辨。中斷皮也」[2]とある。つまり「辨䐃」とは,臑〔上腕〕と大腿膝部にある大きな筋肉が横に断裂する傷である。

    [2]郭璞注.尔雅[M].浙江古籍出版社,2011:35.


        簡一六九:金傷。折頭傷腦,血出不止,死。

        簡一七〇:金傷:傷百節帶會,訊(迅)而死。

    簡一六九は「脳を傷」つければ死をまねくことを明言し,簡一七〇は「迅(はや)く死ぬ」といい,より致命的な部位であることがわかる。伝世の法医学文献は,「頂心〔頭頂の中央〕」を「死を速(まね)き命を致(うしな)う処」としている。

    簡一七〇「百節帶會」の「帶」の字は不鮮明で,整理小組は欠損がある字形を「帶」字と解釈した。『廣雅』釋詁三:「帶,束也」。『說文解字』糸部:「總,聚束也」。つまり「百節帶會」とは,「百節總會」とおなじである。『黃帝內經』の「骨者髓之府」「腦為髓之海」の説に基づけば,脳が「百節の總會」であることがわかる。清代の官修医学典籍『醫宗金鑒』正骨心法要訣の「顛頂骨」に「一名天靈蓋,位居至高,內函腦髓如蓋,以統全體者也〔一に天靈蓋と名づく,位 至高に居り,內に腦髓を函(い)れて蓋の如し,以て全體を統(す)ぶる者なり〕」という[3]。顛頂骨は周身の百節を統率するものでもある。伝存する道家の文献にも明確な論述がある。たとえば,『黃庭經』には「腦神精根字泥丸……泥丸百節皆有神」とあり,その梁丘子の注は「腦神丹田,百神之主」[4]という。法医学検死の代表作である宋代の『洗冤集錄』は人体の急所致命傷となる部位を論じて,「頂心」を第一にあげている*。宋代の許叔微による『普濟本事方』巻2は「泥丸即頂心是也,名百會穴」[5]という。これもすなわち百節の会の意味である。

    [3]吴谦.医宗金鉴 正骨心法要诀[M].赵燕宜整理.中国医药科技出版社,2017:21.

    [4]王西平.道家养生功法集要[M].陕西科学技术出版社,1989:21.

    [5]许叔微.普济本事方[M].中国中医药出版社,2007:29.

    *下文,2.3 法医学を参照。


        簡一七一:〼□血二斗,死。

        (整理者注:「血」上約殘損三字。/「血」の上,3字ほど欠損している。)〔『天回醫簡』の写真を見ると,「血」字の上部で竹簡が破損して失われている〕

    他の10本の竹簡を通観すると,みな「金傷」で始まるので,この簡に欠けている3字のうち,前の2字は「金傷」,3字目は「出」の字であると推察される。秦漢時代には一斗は十升に等しく,一升は現代の200㎖に相当し,二斗は4 000㎖である。60 kgの成人の総血液量(4200~4800 ㎖)にほぼ近いので,死に至るのは疑いない。


        簡一七二:金傷,傷三毛,從陰及陽脈,死。

    老官山から出土した鍼処方簡『刺數』に「厥陰足大指讚毛」とあり,経脈簡『十二脈』は「足大指叢毛」に作る。『靈樞』經脈の足厥陰脈は「大指叢毛」,足少陰脈は「三毛」に作る。これから「三」「叢」「讚(攢)」は通用することがわかる。簡一七二の「三毛」は,陰部の叢毛を指す。「陰及陽脈」とは,すなわち男女の陽根と陰門である。宋以降,法医学の文献はこれらの部位の刀傷は致命的であると明言している。


黄龍祥 老官山から出土した金傷死候簡からみた傷科と法医学・鍼灸学による人体の急所に対する認識 0

                                                 〔〕と*は,訳注。若干,改行を増やした。

                  『中国針灸』2024年10月第44卷第10期に掲載された。一部,修正あり。


  【要旨】老官山から出土した11枚の金傷死候簡の背後には,古代の医師の人体の急所に対する認識が反映されている。出土した金傷死候簡と伝世の金傷文献の縦断的研究*を通じて,老官山医簡の釈文と解読に残された疑問点が明らかになったが,伝世の金傷文献の起源と発展を整理するという以前には深く入ることができなかった道筋にも,信頼できる道標が見つかった。さらに,金傷・法医・鍼灸学の横断的比較を通じて発見されたことは,異なる学科の術語の相違や,同一学科内での後世の人々による前代の文献の誤読による古今の文献の差を除けば,金傷・法医・鍼灸学などの異なる学科が,数千年にわたって,異なる方法を通じて得られた人体の急所に関する認識には非常に高い一致が見られるということである。そのため,老官山の金傷死候簡が反映した傷科の人体の急所に対する認識は多重証拠の支持を得ただけでなく,鍼灸学・法医学検査などの関連学科理論の信頼性も有力な確証を得て,「二重証拠法」*を応用して出土と伝世文献の研究を行なって重大な学術問題を解決するために,非常に典型的な実例を提供して,さらに中国医学学術研究,特に異なる学科間の有効なコミュニケーションのための,新しい道を模索した。

    *縦断(的比較)研究 〔縦向研究/longitudinal study〕は主に一定期間内の個人または集団の発達変化に注目し,因果関係と長期的傾向を探求するためによく使用される。一方,横断(的比較)研究〔横向研究/cross-sectional study〕は同一時点における異なる個体あるいは群体間の差異に注目し,主に現象の描写と差異の比較に用いる。/本論に沿って言えば,著者は異分野を横断的に比較研究することを「横向研究」,一つの分野を通史的に研究することを「縦向研究」と呼んでいるようだ。

    **二重証拠法とは,歴史資料全般を『史記』などの伝世資料と甲骨文などの出土資料の二種類に大別した上で,伝世資料が出土資料によって否定されない限りは,伝世資料を基本的には信じてよいとする方法論である。

   【キーワード】老官山医簡; 金傷死候簡;人体の急所;文献研究;新しい方法の探究 

****************************************

     「金傷」は「金瘡」「金創」ともいい,刀剣による瘡傷を指す。金傷は,『周禮』に記載された医学分科では「瘍医」の所管に帰属していた。宋代には独立して「金鏃」科が設置され,元・明時代はこれを踏襲し,刀・斧・槍・矢などによる戦傷疾病の診療を主管した。金傷による生死の判定は戦場での救急処置の最優先事項であり,その理論の基礎は人体の急所の構造機能に対する認識にある。

    人体の急所の所在とその機能を研究するのは,金鏃科のほかにも,主なものに法医学と鍼灸学がある。文献に記載された時期から見ると,伝世医学文献の中で人体の急所に関する最も早く,最も明確な論述は鍼灸文献に見られ,傷科と法医学類の文献がそれに次ぐ。文献学と学術史・科学史研究の現状から見ると,鍼灸学が最も系統的であり,それに次ぐのは法医学で,最も弱いのは傷科である。

    このたびの老官山金傷死候簡の出土は,傷科文献の起源と発展を考察するうえで信頼性にたる正確な座標が提供されただけでなく,傷科・法医・鍼灸学という多学科にわたる交差研究の基盤も提供された。これによって中国医学関連問題の研究をより大きな背景の下で全体的に展開されるので,より明確で,より完全,正確な研究の結論が得られる可能性が高くなる。そのうえ,研究成果は多学科で共有されることにより,関連する学科のより深い考察を誘引することができるようになり,出土文献の意義と価値もこれによって最大限に発揮されることになる。



2024年11月24日日曜日

『蓬松』 柳谷素霊 巻頭言「私の古典研究の方法を省みて」

  第一巻第三号 昭和13年7月10日発行

 

 私が古典に腰を据えて研究し初めてから既に十数年にもなるだらう。素霊の号を僭称してから十二年にもなる。考へて見れば長いものであった。が,省みて進境を見ればいささか忸怩(じくじ)たるものがある。何んとも遅々として進まざることよ,何んとなさけなきことよと思ふて心にきけば,汗顔至極である。

 初めは上野の図書館〔=帝国図書館〕へ通って鍼灸医書と見れば手あたりばったり何でも乱読したものであった。解っても解らんでも,兎も角も読んだものである。そして必要だと思ふことはノートに抜き記した。このノートが一年,二年と経つうちにだんだん冊数が増えて行った。今それ等のノートを傍に置いて感慨深くペンを運んでゐる。

 図書館にある書物の目録を作るのが一苦労であった。キチンと鍼灸件名目録がうちにあってくれれば文句はないのだが,上野図書館の目録は全部ないのである。

 それは今でもそうらしい。だから先づ目録を作ること,書物を探し出すに骨を折った記憶がある。あっちの目録,こっちの目録を漁(あさ)ってどうやら鍼灸の古典等をめ(・)っ(・)け(・)出す時は全々うれしいものであった。そうしてめっけ出した本を読み出すのであるが,どうも解らぬだらけであり,机の上にハンデウする,ヨダレを出して居眠りもした。いくら探しても分らぬ中(うち)に業を煮やして,もう本を読むことをやめたこともあった。又は再び目録を調べてその註訳本の発見に大童(おおわらわ)になったこともある。

 このやうに先づ本を見つけ出す苦心と,次にそれを読むに苦心し,読めてもそれを解訳に苦心するのであった。読んでゐる中にどうも読めない文字が出て来る。早速手許(てもと)の辞書を引いて見る。どうしてもその辞書にない。辞書と云ふても,『詳解漢和大字典』『字源』等であった。これをいくら見てもない。例へば『難経本義』の凡例十六難に「而篇中並不畣(○)所問〔而して並びに問う所に畣へず〕」と云ふ文がある。この例,圈の字,つまり「畣」をどう読んでよいものやら,いくら辞書をひいても書いてない。まあまあその中(うち)に解るだらうと,そこを飛ばして次を読むと云ふやうな風であった。また『鍼灸甲乙経』を読んだ時のことであった。「刺雞足」言ふ句があった。これもまた意味が分らぬ,分らねば読んで行くことが出来ぬと云うやうな気分で,人にも聞き考へもし,実際思いあぐんだりであった。ところが他の本を読んでゐるうちに「畣」が「答」の古字であると云ふことが分り,「刺雞足」なんて云ものも雞の足のやうに鍼を並べて刺すのだと云ふことを半年後に他の本の傍註で分ったのであるが,こんな時にはハッとして恋人にでも会ったやうな気持がするし,又非常に高貴なものを大発見でもしたやうな誇りさへ感ずるのであった。いつか今一寸(ちょっと)思ひ出せぬが,『霊枢』の「不可掛以髪」の解訳なぞが分った時なぞは全く感激これを全うして涙がこぼれる思いであった。


2024年11月18日月曜日

電脳医学古典資料 その11 岡本一抱の諺解シリーズ,その他

 

20241117日 第11回配信

岡本一抱の諺解シリーズ,その他

25冊)

 

ダウンロードして下さい。数秒でダウンロードできます。

   ↓

http://point.umin.jp/temp/okamotoipou.zip

 

●医学至要鈔

●医学正伝或問諺解

●医学切要指南

●医経遡洄集和語鈔

●医方大成論諺解 医方大成論和語鈔 南北経験医方大成

●格致餘論諺解

●灸法口訣指南

●経穴密語集

●広益鍼灸抜萃

●校正引経訣

●三蔵弁解

●十四経絡発揮和解

●人体図 岡本一抱子画人体図

●素問諺解

●銅人輸穴図 人体図

●内経奇経八脈詳解 と 経穴密語集 聖済総録と十四経発揮

●難経本義諺解

●万病回春指南:特に〈病名彙攷〉を中心に

●万病回春病因指南

●万病回春脈法指南

●鍼灸阿是要穴

●鍼灸初心鈔 鍼灸溯洄集 高津敬節のコピー

●鍼灸抜萃大成

●鍼灸要旨

●鍼灸溯洄集 高津敬節

 

書名と見出しを作成し,国書データベース,富士川文庫,内閣文庫のwebファイルにアクセスできるようにしたExcel database です。

昭和の初期の先生たちは,みな岡本一抱の『素問諺解』『難経本義』『十四経絡発揮和解』から古典をスタートしていました。

 

 ●●●index ファイルにリンクを作ってありますから,このExcel ファイルを開くと便利です。


つづく

 

小林健二

メール kobayashi-toua@vesta.ocn.ne.jp

2024年11月10日日曜日

電脳医学古典資料 その10 文献解説 小曽戸洋 篠原孝市 丸山敏秋 先生など

20241110日 第10回配信

 

★★文献解説 小曽戸洋 篠原孝市 丸山敏秋 先生など

 

ダウンロードして下さい。圧縮してありますから解凍して下さい。

数秒でダウンロードできます。(62Kb=キロバイト)

  ↓

http://point.umin.jp/temp/bunkenkaisetu.zip

 

 

○漢方古典文献解説 Web 小曽戸洋.xlsx

○針灸古典入門 Web 丸山敏秋.xlsx

○鍼灸医学典籍大系 Web.xlsx

○医学古典 解説 研究 資料 Web.xlsx

 

いずれも国立国会図書館デジタルコレクションです。

この黄金の財宝のような公開資料のいくつかは目次見出しが無いものもあります。

○鍼灸医学典籍大系 Web.xlsx

○医学古典 解説 研究 資料 Web.xlsx

 は,見出しを作り,リンクしてありますから捜す時間が短縮されます。

300ページ,500ページのどこに目的の資料があるのか手間がかかりますが,これならワンクリックで該当するページに出会えます。


解題,解説を読まずに古典文献に挑戦することは,地図,羅針盤を持たずに荒海航海に出るようなものです。



送信サービスで閲覧可能です。

●個人送信で閲覧可能

「個人送信サービスを利用する」

 国立国会図書館の登録利用者(本登録)の方を対象としたサービスです。

 

「利用者登録」していない人は登録することをお勧めします。

 

 

つづく

2024年11月9日土曜日

電脳医学古典資料 その9 素問 霊枢 関連 データベース

 

2024119日 第9回配信

 

素問 霊枢 関連 データベースその1

 

●●● 約1500冊の医学古典.xlsx

●●●『素問』『霊枢』句索引Webリンク版.xlsm

●●●素問 霊枢 難経 扁鵲倉公伝の和訓付きデータベース.xlsm

★★★古典テキスト 常用漢字版 聖恵方追加 .txt

★★★古典テキスト 常用漢字版 聖恵方追加.docx

素問古注選集 Web公開資料.xlsx

素問識と素問紹識と素問攷注 Web公開資料.xlsx

 

以上7ファイルです。

 

 

 ダウンロードして下さい。

7 MB(メガバイト)あります。数十秒でダウンロードできます。

  ↓

http://point.umin.jp/temp/somon reisu-01.zip

 

WordExcelとテキストデータです。

30年近くテキストを追加し校正の繰り返しでまとめたものです。

最後にメモ書きがありますが無視してください。

あくまで個人的な作業記録です。まだ〈終わり〉はありません。

 

Word文章ですが,データ量があり動作が遅いので,キビキビ使いたい人はエディタをお勧めします。

個人的には,いつも「秀丸エディタ」を使っています。

Excel はさすがにデータベースソフトですので早いです。

 

 

 

つづく

2024年11月6日水曜日

電脳医学古典資料 その8 『経穴彙解』,その他の図版を使い,『霊枢』経脈(10)の経文に従い流注を順序よく描いた資料


2024116日 第8回配信

 

『経穴彙解』,その他の図版を使い,『霊枢』経脈(10)の経文に従い流注を順序よく描いた資料

 

PowerPointを使った資料です。10年ほど前に作りました。

我が家のハードディスクに眠らせておくのはもったいないので公開します。

(自分で使って便利だった)

 

タイトルは,

 

●霊枢の経脈と経別と経筋および馬王堆の流注の流れを図版化してビジュアルに見るサンプルモデル

 

 ダウンロードして下さい。

186 MB(メガバイト)あります。それほど時間はかからないと思います。

  ↓

http://point.umin.jp/temp/keimyakuzuhanrutyu.zip

 

 

あくまでサンプルモデルです。各人が手を入れて自分用に作ればいいと思います。


霊枢の経文と図版資料だけでは理解しにくいと思い,図版に経文の内容を順序通りに入れてあります

経脈がどこから始まり,どこを通り,どこで終わるのか。途中の経穴は何か,等など流れを追いながら見ることができます。 

 

つづく

電脳医学古典資料 その7 十二経脈 各種版本のデータベース

 2024年11月5日 第7回配信


●流注と経脈病症

★★★十二経脈 各種版本のデータベース


前回の「十四経脈の図版データベース」の文字データ版です。


 ダウンロードして下さい(2つの Excel ファイルがあります)

   ↓

http://point.umin.jp/temp/12keimyaku.zip



内容:

ファイルは,

十二経脈 各種版本のリンク.xlsx


11種類の文献,16版本の12経脈を分類しリンクさせた資料


『霊枢』 内閣文庫の2種類の版本

『霊枢講義』 富士川文庫

『脈経』 内閣文庫

『甲乙経』 内閣文庫の2種類の版本

『太素』 富士川文庫

『千金方』 富士川文庫

『銅人』 国書データベース

『聖済総録』 内閣文庫

『十四経発揮』 内閣文庫

『医学綱目』 内閣文庫と富士川文庫

『鍼灸聚英』 富士川文庫

『鍼灸聚英』(抄本)内閣文庫

『類経』         富士川文庫




さらに各種版本,出土文献資料の経脈を比較校合した校勘データです。


ファイルは,

霊枢 経脈(10) 校勘データ.xlsx


なお,今までの電脳医学古典資料シリーズのまとめは以下の場所にあります。

これからも,このアドレスにアクセスすれば追加が見られます。

  ↓

http://point.umin.jp/temp/20241028.htm


つづく


2024年11月4日月曜日

電脳医学古典資料 その6 十四経脈の図版データベース

 電脳医学古典資料庫 その6 ●十四経脈の図版データベース


2024年11月4日 第6回配信


●十四経脈の図版データベース


『医心方』から明治,大正,昭和,200年代の中国の教科書の〈経脈図〉のある83文献を収録。


詳しい解説は,当会で図書販売している『鍼灸名著集成』にありますから購入し参照してください。


全1,237枚の画像ファイルを分かる範囲で年代別に十四経分類してあります。


データ量は300 MB(バイト)

圧縮してありますから,ダウンロードしたファイルをダブルクリックして解凍すること。

右上にある「すべて展開」をクリックするとファイルが解凍できます。

  ↓


http://point.umin.jp/temp/14keizuhan.zip


参考までに:

1930年(昭和5年)の『心療図解』(平田内蔵吉)は,美術解剖学者の描く経絡図(西田正秋=東京芸術大学美術学部美術解剖学講座教授)です。

西田の絵は,代田文誌に引き継がれています。


つづく


2024年11月2日土曜日

電脳医学古典資料 その5 〈病名+鍼灸治療〉のデータベース

 電脳医学古典資料 その5


2024年11月2日  第5回配信

ここにアクセスしてください。

http://point.umin.jp/temp/20241028.htm


内容:

〈病名+鍼灸治療〉のデータベースです。


歴代の鍼灸文献はみな,このスタイルで書かれています。


〈病名,症状,鍼灸処方〉が内容としてある文献53冊を限定し,なおかつ〈あいうえお順〉に整理し,調べられる資料。


内容は『鍼灸甲乙経』『千金方』から大正時代の『鍼灸手引草』(久木田七郎)まで53文献。

文字化の処理はしていません。すべて〈病名+鍼灸治療〉の画像ファイルです。



画像ファイル約5,500枚あります。

約1.4GB(ギガバイト)あります。

画像ファイルですからダウンロードに時間と容量が必要です。

20分から30分は必要です。

個人のPC環境によって相違があります。自己責任でダウンロードして下さい。


版本選び,見出し名処理,画像処理から画像整理,数ヶ月かかりましたからダウンロードの30分待つのは「時間はゼロ」にひとしいところです。


あいうえお順ですから「噫気(あいき)」,「噫(あい)」……「遺尿(いにょう)」から「腕痛(わんつう)」まで並べてありますから簡単に見られます。

古典用語の知識が必要ですから,そこは各自で学習してください。

 

サンプルとして,

http://point.umin.jp/temp/byoumei.xlsx

 

を参照してください。

実際は,このファイルにある項目と画像ファイルはリンクしています。

 

 

つづく


2024年11月1日金曜日

電脳医学古典資料 その4 鍼灸関係,漢方関係の学会誌 雑誌のデータベース

 電脳医学古典資料 その4


2024111日  第4回配信

 

30年前から少しずつまとめたものです。

雑誌の目次をスキャナーで読み取り,文字化し,Excelでまとめたもの。

その時々に作ったものですから書式が統一されていませんが実用にはなります。

 

単行本の背表紙は本の顔ですから,本棚に置いておけばすぐ見つけられます。

雑誌は雑誌名,号数ですから中身がわからない。

そういうストレスを解消できます。

 

内容:鍼灸関係,漢方関係の学会誌 雑誌のデータベース

 

★学会誌 雑誌 のデータベース

index TAO鍼灸療法

index 医道の日本 1945-2020

index 漢方と漢薬 東亜医学

index 漢方の臨床 創刊号からの目次索引

index 漢方研究 1976年から2016

index 経絡治療学会誌

index 現代東洋医学

index 中医臨床

index 東邦医学

index 東洋医学 緑書房

index 日本医史学雑誌(1954年~2013)検索マクロあり

index 日本東洋医学雑誌1950年から

index 和漢薬 001500目次

index 鍼灸osaka

index 鍼灸ジャーナル

鍼灸雑誌(明治から昭和30年ころの鍼灸関係9雑誌)

 

以上15冊 プラス 国立国会図書館デジタルコレクションの9冊をまとめてあります。

 

ダウンロードファイルして下さい。これも圧縮したZIPファイルです。

   ↓

20241101-1.zip

 

つづく


2024年10月31日木曜日

電脳医学古典資料 その3 経穴部位,主治症のデータベース

 電脳医学古典資料庫 その3



2024年10月31日  第3回配信

以下のURLをクリック

http://point.umin.jp/temp/20241028.htm


内容:経穴部位,主治症のデータベース


★★★経穴データベース2024年バージョン

01 経穴データベース 一名 位置 穴性 帰経 など

02 経穴データベース 主治症 『鍼灸甲乙経』から『聖済総録』までの主治症

03 藍川慎 読甲乙経丙卷要略

04 藍川慎 鍼灸甲乙経孔穴主治

05 新彫孫真人千金方 巻第30 と 宋版の千金方


01から05は,あくまで個人的に整理したもので未完成バージョンです。

03と04は,藍川愼が天保10年(1839年)に『鍼灸甲乙経』を考証学的に編纂した著書です。

05は,宋本『千金方』と宋改前の『千金方』の巻30を整理したものです。


いずれも実用的な「手引き本」ではなく研究者向けです。


なお,穴名表記は(湧泉,涌泉,勇泉)などのように様々ですので,すべて数値化(湧泉なら&293;)してあります。

検索するときに「293」で統一して検索可能です。




【マクロありのExcelの注意】

はじめてこのファイルを開く時に、画面左上方に

!「セキュリティの警告」 「マクロが無効にされました」 「コンテンツの有効化」


というメッセージが上段に出ます。


「コンテンツの有効化」をクリックし、「有効」にして下さい。



ダウンロードファイルは以下です

20241031.zip


小林


2024年10月30日水曜日

電脳医学古典資料 その2 『大漢和辞典』のページを見つける資料,古典の病名など理解するための資料,

 電脳医学古典資料 その2

以下のホームページにアクセスして下さい

http://point.umin.jp/temp/20241028.htm


2024/10/29 配信

http://point.umin.jp/temp/20241029001.zip

内容1:和暦,西暦の年表, 『大漢和辞典』のページを見つける資料
    日本内経医学会のblog(談話室)にある内容

・002 年表
・003 大漢和辞典5万字の親字と熟語索引 その他
・004 ブログ 日本内経医学会

http://point.umin.jp/temp/20241029002.zip

内容2:古典の病名など理解するための資料

万病回春 医学入門 諸病源候論 病名彙解など病名病因のまとめ マクロあり.xlsm

・万病回春(明・龔廷賢編 1615年)
・(回春)病因指南(岡本一抱)
・病名彙考(岡本一抱『万病回春指南』卷2・病名彙考)
・病名彙解(蘆川桂洲 貞享3年(1686))
・医学入門(明・李梴 1575序刊)
・諸病源候論(隋・巣元方 610年)
・鍼灸備要(青山道醇 明治20年(1887))
・鍼灸手引草(久木田七郎 大正1年(1912))
・丸山昌朗『内経』病名漢洋対比表


つづく

2024年10月29日火曜日

  扁鵲医籍考 06.2

 


 孫思邈が『刪繁方』から孫引きした『扁鵲鍼灸経』の条文は以上のものだけにとどまらない。ただ現在は確定された「指紋」が少ないために,それらを正確に識別できないだけである。しかし,すでに識別された佚文によっても,扁鵲医学の鍼灸腧穴における成果と特徴について,より具体的な理解が得られた。特に,『扁鵲鍼灸経』の一部腧穴の名称・位置・主治の内容が漢代の腧穴の古典『黄帝明堂経』に反映されていることが見つかった。


 ① 『扁鵲鍼灸経』の穴名は,『黄帝明堂経』では別名として処理されている。たとえば,「幽門,一名上門。在巨闕兩旁各五分陷者中」,「氣穴,一名胞門,一名子戶。在四滿下一寸,衝脈、足少陰之會。刺入一寸,灸五壯。主腹中痛,月水不通,奔泄,氣上下引腰脊痛」となっていて,上述した『扁鵲鍼灸経』で関わりのある穴の位置と主治はみな一致しているが,『扁鵲鍼灸経』の穴名は『黄帝明堂経』では別名として扱われている。もしさらに多くの『扁鵲鍼灸経』の佚文やこの書よりさらに古い扁鵲の腧穴の佚文を識別できるならば,『黄帝明堂』が利用した「扁鵲明堂」の実例をより多く見つけることができるであろう。

 ② 『扁鵲鍼灸経』と扁鵲の鍼灸処方の佚文を『華佗鍼灸経』『黄帝明堂経』の背部兪穴の位置と詳細に比較した結果,三者ともに背部兪穴の横方向の距離は実際には同じであり,「脊傍一寸」または「夾脊三寸」*に位置している。人々の理解の違いや伝承過程での誤字によって,三者の背俞穴の横方向の距離の記述に大きな違いが生じた。現代では扁鵲医学を継承している『華佗鍼灸経』の背部兪穴を経外奇穴とみなして「華佗夾脊穴」と名づけ,『黄帝明堂経』の背部兪穴と区別している。


    *たとえば,『医心方』が引用する『華佗鍼灸経』の背部兪穴は「諸椎俠脊相去一寸也」であるが,『備急肘後方〔肘後備急方〕』と『医心方』が引用する華佗の霍乱灸法は,ともに「去脊各一寸」としている。これにより,華佗の背部兪穴の文は「諸椎俠脊各相去一寸也」とすべきであることがわかる。『霊枢』背腧は背部兪穴を「皆挾脊相去三寸所」〔穴と穴との距離は脊椎を挟んで3寸ほど〕とし,『医心方』が引用する『黄帝明堂経』は「夾脊椎下間傍相去三寸」としている。文言は異なるが実質は同じであり,「去脊各一寸」〔脊椎の端からそれぞれ1寸〕と同じ表現である。これは古人は「脊」の幅を一寸と定めていたためである。後世の理解と表現の誤りによって,扁鵲と華佗の穴が「経外奇穴」となった。さらに『鍼灸甲乙経』の背部兪穴の記述の仕方に基づいて扁鵲と華佗の穴が改められたのである。


 ③ 『華佗鍼灸経』は『扁鵲鍼灸経』と相承関係にあり,扁鵲の鍼灸学を継承発展させたものである。たとえば,『扁鵲鍼灸経』に記載されている十九の背部兪穴のうち,最後の三穴には名称がなかったが,『華佗鍼灸経』ではこれらが補完されており,そのうちの第二十椎の名称は『扁鵲鍼灸経』の主治に直接基づいて「重下兪」と命名されている。この両書の関係が確定したことも,華佗が扁鵲医学の伝承者であることの有力な証拠となった。

 このほか,筆者は早くも『中国鍼灸学術史大綱』において,扁鵲医学の早期の鍼灸処方の主治は,『黄帝明堂経』の関連する腧穴に取り入れられていることをすでに明確に指摘している。たとえば,扁鵲の尸厥を治療した処方の主治は,隠白・大敦・厲兌の三穴の主症にすでに見られる。このことから分かることは,『黄帝明堂経』は実際上,漢代以前の諸家の鍼灸用穴の経験を集大成したものであって,『扁鵲偃側明堂』『扁鵲鍼灸経』が一家〔一流派〕の書であるのとは異なる性質が異なる,ということである。

 『扁鵲鍼灸経』の影響を受けたことが明確な鍼灸古籍には,敦煌巻子『佚名灸方』(詳細は敦煌巻子『佚名灸方』考を参照〔原書178頁~〕)や宋代の官修医書『太平聖恵方』鍼灸巻がある。たとえば『太平聖恵方』の「督兪」は『扁鵲鍼灸経』に見られ,その位置は『華佗鍼灸経』に基づくものである。また,厥陰兪は『扁鵲鍼灸経』に由来し,穴名は別名を採用しているが,扁鵲の原書では「関兪」(「闕兪」とも書かれている)を正式名称としている。気海兪は『華佗鍼灸経』に由来し,やはり別名が用いられていて,原書では「陽結兪」を正式名称としている。「関元兪」の位置と主治は『扁鵲鍼灸経』に由来する。

 孫思邈が孫引きした「扁鵲曰」の文には,典型的な鍼灸処方の特徴を持つ文も見られ,引用数は上述した『扁鵲鍼灸経』に由来する佚文よりも多い。その中には,鍼灸処方の穴名と位置が上述した『扁鵲鍼灸経』から引用された文とよく一致しているものもある。例:

     治眼暗灸方:灸大椎下數節第十,當脊中安灸二百壯,惟多為佳,至驗,不在方藥也(『新雕孫真人千金方』卷十一〔・肝勞第三〕)。

     眼暗,灸大椎下第十節,正當脊中二百壯,唯多佳。可以明目,神良。灸滿千日,不假湯藥(『千金翼方』卷二十七〔・肝病第一〕)。

     治眼暗灸方:灸大椎下數取第十節,正當脊中央二百壯,唯多為佳,至驗,不須方藥也(『醫心方』卷五〔・治目不明方第十三〕)。

     肝俞,主目不明,灸二百壯,小兒寸數斟酌,灸可一二七壯(『千金翼方』卷二十七〔・肝病第一〕)。

     治溫病後食五辛即不見物,遂成雀目,灸第九椎,名肝俞,二百壯,永差〔=瘥〕(『千金翼方』卷二十七〔・肝病第一〕)。

 これらの灸処方の穴名とその位置は,前述した『扁鵲鍼灸経』の佚文中の肝兪穴と非常に高い一致を示しており,両者の比較可能な主治症状さえも一致して,両者の関係は唐代鍼灸大家の甄権の腧穴専門書『鍼経』とその鍼灸処方の専門書『鍼方』の関係と同じである。しかしながら,これらの証拠だけでは謝士泰が『刪繁方』を編纂した際に引用した扁鵲の鍼灸の文が,それぞれ『扁鵲鍼灸経』ともう一つの鍼灸処方書に由来するかどうかを判断することはできない。まず,現在確認されている『扁鵲鍼灸経』の佚文だけでは,判定するには十分ではない。この書の内容は腧穴だけで,鍼灸処方には言及がない。次に,隋以前の図書目録には扁鵲の名を冠した鍼灸処方の専門書は著録されていない。しかし,最近出土した扁鵲医書によれば,漢以前にはすでに扁鵲の鍼灸処方の専門書(現在の専門篇に相当)が流布しており,原書には書名がない。いまのところ公開された数条の文は以下の通り。

    逆氣,兩辟(臂)、陽明各五及督;

    疽病、多臥,兩陽明、少陽各五;

    轉筋,足鉅陽落各五。

 筆者のこれまでの研究成果により,早期の扁鵲の鍼灸処方を判定する「指紋」の特徴は確立されている。その特徴は,第一に,鍼灸処方が経脈と同名の「経脈穴」,または「経脈穴」と,部位は表記されているが名称のない穴から構成されていること,第二に,穴の下に鍼刺の数が記されていることである。

 上に挙げた出土文献はこの二つの特徴を完全に満たしているので,この出土文献は早期の扁鵲の鍼灸処方の専門書と判定できる。特に注目すべきは,鍼灸処方に絡脈穴「足巨陽落」が現われたことである。これはきわめて価値のある発見である。全文が公開され,さらに多くの絡脈穴を用いる鍼灸処方が見つかれば,扁鵲の鍼灸処方の新たな発展を示すこととなる。かつまたとりわけ都合がいいことには,六朝時代の謝士泰が引用した扁鵲の鍼灸処方にも一致度がきわめて高い鍼灸処方の佚文が見つけられることである。

    『刪繁方』……治轉筋,脛骨痛不可忍方:灸屈膝下廉橫筋上三炷(『醫心方』卷六〔・治筋病方第二十三〕)。

    治轉筋,脛骨痛不可忍,灸屈膝下廉橫筋上三壯(『新雕孫真人千金方』卷十一〔・治筋極第四〕と『千金翼方』卷二十七〔・肝病第一〕)。

 処方中の「屈膝下廉横筋上」とは,すなわち『霊枢』本輸にいう「太陽之絡」★である委陽脈であり,謝士泰が引用したこの扁鵲の鍼灸処方と老官山から出土した漢簡の扁鵲の鍼灸処方には継承関係があることを示している。『黄帝明堂経』には「委陽,三焦下輔俞也。在足太陽之前,少陽之後,出於膕中外廉兩筋間,扶承下六寸,此足太陽之絡也」とあり,同じ脈の同じ穴だと言える。特に主治の症状として「脚急兢兢然,筋急痛」★★もはっきりと挙げられている。これも『黄帝明堂経』が扁鵲の鍼灸経験を採用したもう一つの例証である。

    ★『靈樞』本輸:「三焦下腧在於足大趾之前,少陽之後,出于膕中外廉,名曰委陽,是太陽絡也」。

    ★★『鍼灸甲乙經』卷9・足厥陰脈動喜怒不時發㿗疝遺溺癃第11:「胸滿膨膨然,實則癃閉,腋下腫,虛則遺溺,脚急兢兢然,筋急痛,不得大小便,腰痛引腹不得俯仰,委陽主之」。

 扁鵲の鍼灸処方の「指紋」の特徴に基づき,筆者は15年前に,出土した漢代の画像石「扁鵲鍼刺図」と『史記』扁鵲倉公列伝にみえる倉公の鍼刺処方をあらためて解読し,あわせて伝世本『素問』に収録されている早期の扁鵲の鍼処方を識別した。

  *黄龙祥. 中国针灸学术史大纲 [M]. 北京:华夏出版社,2001:223-226.

 孫思邈の書に保存された大量の扁鵲の鍼灸処方を見ると,多くは尸厥・卒中(五臓六腑の中風を含む)・癲狂・癰疽・瘧病に集中しており,これらはまさに早期の扁鵲医学の鍼灸治療でよく見られる病症であった。その中の多くの処方にも早期の扁鵲の鍼灸処方の「経脈穴」を用いるという特徴が反映されている。その例は,『孫真人千金方』巻十四・〔治〕風癲第五に収録されている倉公の鍼灸癲狂処方にも見られる。

    狂癲風驚,厥逆心煩,灸巨陽五十壯。

    狂癲鬼語,灸足太陽四十壯。

    狂走驚恍惚,灸足陽明三十壯。

    狂癲癇易疾,灸足少陽隨年壯。

    狂癲驚走恍惚,嗔喜笑罵〔原書『孫真人千金方』は「瞋喜罵笑」に作る〕歌哭鬼語,悉灸頭太陽、腦戶、風池、手太陽、陽蹻、少陽、太陰、陰蹻、足跟,悉隨隨〔原書『孫真人千金方』は「隨」一字に作る〕年壯。

 また,扁鵲鍼灸の診脈刺脈の特徴に基づいて,筆者は伝世本『霊枢』癲狂が扁鵲医学を源とすると判定した*。

    * 黄龙祥. 扁鹊医籍辨佚与拼接 [J]. 中华医史杂志,2005,45(1):33-43. /『季刊内經』No.203 2016年夏号:岡田隆訳 黄龍祥「散佚扁鵲医籍の識別・収集・連結」 

 ここで特に注目すべきは「頭太陽」穴である。筆者が以前に目にした扁鵲の鍼灸処方の構成は,「経脈」穴で構成されるもの,専用の穴名のない鍼灸部位で構成されるもの,「経脈」穴と名を持たない鍼灸部位で構成されるものがある。しかし上に挙げた倉公の灸処方には「頭太陽」という「部位名+経脈名」という新たな腧穴命名方式が現れている。伝世医籍でまさにこの命名方式を採用しているのは,扁鵲医学の癰疽病診療において,その理論と実践を継承する『劉涓子鬼遺方』である。この書は現存する版本の質がよくないことを考慮して,ここでは『千金翼方』巻二十三が引用する『劉涓子鬼遺方』の原文を主とし,あわせて『医心方』と『諸病源候論』の二書の引用文を参照して以下のように校正した。

    手心主脈有腫,癰在股脛。

    手陽明脈有腫,癰在腋淵。

    脇少陽脈有腫,癰在頸。

    足少陽脈有腫,癰在脅。

    腰太陽脈有腫,交脈屬於陽明,癰在頸。

    尻太陽脈有腫,癰在足心、少陽脈。

    股太陽脈有腫,癰在足太陽。

    肩太陽、太陰脈有腫,癰在脛。

    頭陽明脈有腫,癰在尻。

 以上のように,これらの異なる部位の「脈」は,脈を診る場所であり,刺灸する場所でもある。現在知られている扁鵲医籍の佚文にはこれらの「脈」の具体的な部位はまだ見つかっていないが,扁鵲医学での診脈する場所の一般的な規則に基づいて基本的な判断は可能である。つまり,同時期の扁鵲の経脈循行に描写されている「出」る場所,および経脈の起こるところと終わるところに位置するものである。過去には扁鵲医学について理解が浅く,『劉涓子鬼遺方』が伝承する明らかな扁鵲鍼灸学に特徴的な文言をまったく読解することができなかったため,宋代に孫思邈の『備急千金要方』を校改した際に,倉公の灸処方にあったこの「頭太陽」穴も削除された。

 扁鵲の鍼灸処方には,灸療の壮数が多いというはっきりとした特徴がある。まさに孫思邈が「依扁鵲灸法有至千壯〔扁鵲の灸法に依れば千壯に至る有り〕」(『新雕孫真人千金方』巻二十九)と述べているとおりである。これについては,特に癰疽の灸治において顕著である。

  『醫門方』云:扁鵲曰:㿈腫癤疽風腫惡毒腫等,當其頭上灸之數千壯,無不差者;四畔亦灸三二百壯。此是醫家秘法。小者灸五六處,大者灸七八處(『醫心方』卷十五〔治癰疽未膿方第二〕)。

 また『刪繁方』に収載された扁鵲の鍼灸処方をみると,数百壮や随年壮とするものが多い。

 ここで特に指摘しなければならないことがある。孫思邈が当時『備急千金要方』を編纂した際に病症治療の下に多くの灸処方を付け加えたが,その多くは『刪繁方』から孫引きした『扁鵲鍼灸経』の腧穴主治であることが少なくない。しかし,宋人がこの部分を校正した時には,『千金要方』全体のスタイルに合わせるために,これらの腧穴主治条文をみな鍼灸処方の形式に改編した。そのため,扁鵲医籍の佚文を考察する際には,宋校本『備急千金要方』を決してそのまま利用してはならない。

 

2024年10月28日月曜日

  扁鵲医籍考 06.1

   二、扁鵲鍼方明堂 


 早期の扁鵲医籍の多くは単篇として伝えられていたが,書名はもちろん篇名すらないものもあった。対して,扁鵲の「鍼灸明堂」類の医籍は比較的晩出で,『隋書』経籍志には「扁鵲偃側鍼灸図」三巻が著録されている。伝世文献にはっきりと引用されている書名は二つあって,一つは「扁鵲鍼灸経」,もう一つは「扁鵲明堂経」という。伝世の「鍼灸経」または「明堂経」と題される鍼灸古籍を見ると,いずれも鍼灸の腧穴を専門に論じた書であり,鍼灸の処方を掲載しているものは少ない。

 『医心方』には「扁鵲鍼灸経」という正式名称が3箇所引用されている。その巻二〔諸家取背輸法第二と灸例法第六〕と巻十八〔治灸瘡不瘥方第二〕にあるものは同一で,出典も完全に同じであることから,「扁鵲鍼灸経」という書名は原書にもとからあったもので,後人が定めたものではないことを物語っている。ただ,この書が三巻本の『扁鵲偃側鍼灸図』とどのような関係にあるかは不明である。「扁鵲明堂経」として引用されているものは宋代の『太平聖恵方』巻一百に見られるが,筆者が調査したところ,宋代の人々は鍼灸書を「明堂経」と総称する習慣があったため,この一条の引用だけで宋代に『扁鵲鍼灸経』とは異なる題名の扁鵲の鍼灸明堂書が残され伝わっていたと断定することはできない。

 早期の鍼灸処方は「経方」類には入れられず,「医経」類に分類されていた。伝世本の『霊枢』『素問』には方薬の論述は少ないが,多くの鍼灸処方が見られ,そのうち少なくとも一部は扁鵲の医籍を出自とすることが確認できる。陳延之の『小品方』自序には,彼が撰用した書目の中に『華佗方』十巻があり,『隋書』経籍志には「扁鵲肘後方」三巻が著録されている。後世の医書には晋代の『肘後方』以降,扁鵲の鍼灸処方を引用しているものは少なくないが,いずれも出典を明記していないため,歴史上に扁鵲の鍼灸処方の専門書が存在したかどうかは断定できない。成都市金牛区天回鎮漢墓から出土した漢簡の扁鵲医籍で暫定的に「経脈数」★と名づけられたもののいくつかの条文を見ると,筆者はこれが現在知られている最も古い扁鵲の鍼灸処方の専門書であり,書名は(全篇が鍼刺法のみであれば)「扁鵲鍼方」,あるいは(文中に灸法の内容が含まれていれば)「扁鵲鍼灸方」とすべきであると確信している。

    ★文物出版社から出版された天回医簡整理組編著『天回医簡』(2022年)では,「刺数」と命名されたものに該当すると思われる。

 この書の出土は,筆者が15年前に伝世本『素問』『霊枢』中の扁鵲の鍼灸処方について識別し解読したことが完全に正しかったことを証明している*。実のところ,筆者はもっと早くから「出土した鍼灸書や非鍼灸書中の鍼灸処方の状況を見ると,基本的に伝世医書の中に,同じかあるいは類似の文字を見つけることができる。我々はこれらの伝世鍼灸文献,特に鍼灸名著の研究に主要な精力を注ぐべきであり,大量の鍼灸の貴重書がまだ地下に埋蔵されているとか,すっかりなくなって残っていないという誤った考えをするべきではない」と明確に提唱していた**。確実な伝世文献に基づいて扁鵲医学の「指紋」を正確に抽出しなければ,今回出土した扁鵲医籍の書名(または篇名)を確定することはできないし,これらの文献が本当に扁鵲医籍に属するかどうかも確定できない。

    * 黄龙祥.中国针灸学术史大纲[M]. 北京:华夏出版社,2001:223-226.

    ** 黄龙祥.针灸名著集成 [M]. 北京:华夏出版社,1996:3. /黄龍祥『鍼灸古典の解説-『鍼灸名著集成』の解説部分の翻訳(改訂新版)』. 東京:日本内経医学会,2022:4.を参照。

 漢代の倉公以降,確実に扁鵲医学の継承者として確認できるのは,後漢の華佗と六朝時代の謝士泰である。華佗の医書は早くに失われたが,『医心方』には『華佗鍼灸経』の文が引用されている。謝士泰の『刪繁方』も失われたが,隋代の『諸病源候論』と,特に唐代の孫思邈の『千金要方』にその内容が多数引用されていて,その中には鍼灸に関する内容が多数含まれている。

 そこで,『扁鵲鍼灸経』の佚文を考察する際の主な拠り所となる文献は,『扁鵲鍼灸経』を直接引用している『医心方』と,『刪繁方』から孫引きしている『新雕孫真人千金方』であり,その次は宋代の改変が比較的少ない『千金翼方』である。『新雕孫真人千金方』に残っていない箇所★については,まず宋校本『備急千金要方』から引用文を探し,その後『千金翼方』から対応する文を探す。疑問のあって解決が難しい場合は,さらに『諸病源候論』『外治秘要』で該当する文を探し,総合的に比較して取捨選択する。

    ★現存する宋版『新雕孫真人千金方』(静嘉堂文庫所蔵)は,巻6~10,巻16~20を欠く。

 『扁鵲鍼灸経』の識別に関する一つの確固たる座標は『医心方』が完全な出所を明確に示す三つの『扁鵲鍼灸経』の佚文である。その中で巻二〔・諸家取背輸法第二〕は『扁鵲鍼灸経』の背輸穴を引用する時に多くの伝本を採用し,あわせて異なる版本の異同を記している。収録された背輸穴は全部で19穴であるが,穴名と位置が『黄帝明堂経』と同じ5穴は省略されて収録されていない。いま一括して以下のように補い,補った文には角括弧をつけた。


    『扁鵲鍼灸經』曰:

    第二椎名大抒(各一寸半,又名風府)。

    第四椎名閞〔「關」の異体字〕輸[また「闕輸」「巨闕輸」にも作る]。


 按ずるに,原名は「闕輸」「巨闕輸」とすべきで,「閞〔關・関〕輸」は形が似ているための誤りである。『千金翼方』には「厥陰兪」とも書かれているが,これは経脈理論が変遷した産物である。「巨闕」は心の募穴であるが,心に関連する経脈には歴史上二つの異なる見解がある。一つは手心主脈に関連し,もう一つは手少陰脈に関連するものである。唐以前,「巨闕」に関連する経脈の五輸穴は手心主脈であったが,この脈の名称が「手厥陰脈」に改められて流行するようになると,それに伴い「巨闕」に対応する「厥陰兪」という名称が出現した。もし『扁鵲鍼灸経』が晋以降の書でないのであれば,「巨闕」に対応する背輸は「闕輸」または「巨闕輸」であって,「厥陰輸」ではない。


    第五椎名督脈輸

    第六椎名心輸(與佗同)

    [第七椎名鬲輸] 

    第八椎名肺輸

    [第九椎名肝輸]

    第十椎名脾輸(與佗同)

    [第十二椎名胃輸]

    第十三椎名懸極輸(不可灸,殺人)

    [第十四椎名腎輸] 

    第十五椎名下極輸

    [第十六椎名大腸輸] 

    第十七椎名小腸輸(與佗同)

    第十八椎名三膲輸(或名小童腸輸)


 按ずるに,「小童腸」の意味は未詳であるが,『外台秘要』が『刪繁方』から孫引きした扁鵲鍼灸の条文には「扁鵲曰:第十八椎名小腸兪,主小便不利,少腹脹滿虛乏,兩邊各一寸五分,隨年壯灸之,主骨極」とある。「十八椎」が誤りか,穴名が誤りかは不明である。この条文を調べたところ,宋人による校改を経ていない『新雕孫真人千金方』では欠巻にあたり,宋人が校改した『備急千金要方』と『千金翼方』は,どちらも「小腸兪」として引用されているため,この疑問はいまのところ解決されていない。

    

    第十九椎名腰輸    

    第二十椎(主重下)


 按ずるに,『華佗鍼灸経』はこの穴の主治に基づき穴名を補って「重下兪」としている。


    第二十一椎(不治)


 按ずるに,『華佗鍼灸経』はこの穴を「解脊兪」と名づけている。


    第二十二椎(主腰背筋攣痹)

    凡十九椎應治其病灸之,諸輸俠脊左右各一寸半或一寸二分。但肝輸一椎灸其節。其第十三幷二十一椎,此二椎不治,殺人。

    『扁鵲鍼灸經』云:凡灸,因火生瘡,長潤,久久不差〔=瘥〕。變成火疽,取穀樹*東邊皮一寸已上煮熟去滓,煎令如糖,和散付〔=敷〕,驗(『醫心方』卷二〔・灸例法第六〕)。

    『扁鵲鍼灸經』云:凡灸,因火生瘡,長潤,久久不差,變成火疽方:取穀樹東邊皮,煮熟去滓,煎令如糖,和散付(『醫心方』卷十八〔・治灸瘡不差方第二〕)。

    

    *穀樹とは,カジノキ(paper mulberry)のことで,落葉喬木。新生枝は灰色の太い毛で密に覆われ,乳汁がある。/★『医心方』には,「カチ」と添え仮名あり。


 以上の確定された疑いのない「座標」に基づいて,さらに『外台秘要』や『医心方』の注の引用出典を参照することで,孫思邈の書の中にさらに多くの『扁鵲鍼灸経』の佚文を発見することができる。


    第一椎名大抒,無所不主,夾左右一寸半或一寸二分,主頭項痛,不得顧,胸中煩急,灸隨年壯(『千金翼方』卷二十七)。

    第四椎名巨闕俞,主胸膈中氣。灸隨年壯(『千金翼方』卷二十七)。

    第四椎名厥陰俞,主胸中膈氣,積聚好吐,隨年壯灸之(『千金翼方』卷二十七)。

    第九椎名肝俞,主腹內兩脇脅下脹滿,食不消,喉痹,目眩,眉頭痛,骨急嘔吐,當椎灸五十壯,老小以意斟酌之。灸二百壯,主目不明,神驗(『新雕孫真人千金方』卷十一)。

    肝俞,主肝風[又第九椎名肝俞主] 腹脹,食不消化,吐血,酸削,四肢羸露,不欲食,鼻衄,目䀮䀮,眉頭脅下痛,少腹急,灸百壯(『千金翼方』卷二十六)。

    第十一椎名脾俞,主四肢寒熱,腰疼不得俯仰,身黃腹滿,食嘔,舌根直,灸十一椎及左右各一寸三處各七壯(『新雕孫真人千金方』卷十五)。

    [第十一椎名]脾俞,主四肢寒熱,腰疼不得俯仰,身黃腹滿,食嘔,舌根直,並灸椎上三穴各七壯(『千金翼方』卷二十七)。

    第十五椎名下極俞,主腹中疾,腰痛,膀胱寒,澼飲注下,隨年壯灸之(『千金翼方』卷二十七)。

    灸第十七椎七壯,是小腸俞,及左右兩邊各一寸,主三焦也(『新雕孫真人千金方』卷十四)。

    小腸俞,主三焦寒熱,一如灸腎法(『千金翼方』卷二十七)。

    『刪繁』骨極虛寒:又灸法,扁鵲曰第十八椎名小腸俞,主小便不利,少腹脹 滿虛乏,兩邊各一寸五分,隨年壯灸之,主骨極。並出第八卷中(『外台秘要』卷十六)。

    第二十椎主便血,灸隨年壯(『新雕孫真人千金方』卷十五)。

    灸第二十二椎隨年壯,主腰背不便,轉筋,急痹筋攣(『千金翼方』卷二十七)。

    第二十一(二)椎,主腰背不便,筋轉痹,灸隨年壯(『千金翼方』卷二十七)。

    第二十二椎,主腰背不便,筋攣痹縮,虛熱閉塞,灸隨年壯,兩旁各一寸五分(『千金翼方』卷二十七)。


 以上の〔諸書に〕引用された背輸穴は,第一椎から第二十二椎までの計9穴であり,「大杼」穴の部位および「十八椎」の穴名を除いて*,その他の穴の部位と名称は,みな『医心方』に引用された『扁鵲鍼灸経』と完全に一致し,主治内容さえもかなり一致している。謝士泰が編纂した『刪繁方』は引用時に「扁鵲曰」とだけ表記し,書名を明記していない(孫思邈が孫引きした時は,引用書名を補って記すことはなおさらできなかった)が,『医心方』に引用された『扁鵲鍼灸経』と一致度がこれほど高い文は,同じ書物――『扁鵲鍼灸経』を出自とするとしか考えられない。これからも,この書の編纂年代の下限は『刪繁方』が成書した六朝時代であると確定できる。

    *この二つ〔大杼穴と十八椎穴〕の条文は,『新雕孫真人千金方』の欠落した巻にあるため,孫思邈が引用した際の原文がこの通りであったかどうかは判断できない。

 謝士泰が収録した文は一層整っているので,『扁鵲鍼灸経』の内容をより具体的に理解する手助けとなるだけでなく,この書物の記述形式の特徴が明瞭に見て取れる。すなわち,腧穴について,部位・穴名・主治・刺灸法*の順序で記述されていることである。

    *『千金要方』と『千金翼方』で確認された『扁鵲鍼灸経』の佚文には刺法の記述は見られないが,これは『扁鵲鍼灸経』の原書が灸法のみを収録していたことを意味するものではない。晋から唐にかけての「備急」類の方書が鍼灸文献を引用する際には,『備急肘後方』〔『肘後備急方』〕の著者葛洪が「使人用鍼,自非究習醫方,素識明堂流注者,則身中榮衛尚不知其所在,安能用鍼以治之哉〔人をして鍼を用いしむるに,自(も)し醫方を究習し,素より明堂流注を識(し)るに非ざる者は,則ち身中の榮衛 尚お其の在る所を知らず,安(いず)くんぞ能く鍼を用いて以て之を治せんや〕」〔葛洪『肘後備急方』序〕と言っているのと多くは同様の考え方をしている。孫思邈もこの例に倣って,鍼灸の腧穴文献や鍼灸処方を引用する際に,多くは灸法のみを収録し,鍼法は収録しなかったのである。


 この腧穴内容を記すスタイルは,既知の唐以前の鍼灸文献には他に見られないものであるので,この特徴を『扁鵲鍼灸経』の佚文を識別するもう一つ別の「指紋」として,孫思邈の書においてさらに多くの『扁鵲鍼灸経』の佚文を発見することができた。


     兩乳間,名身堂,主上氣厥逆,百壯(『新雕孫真人千金方』卷十五〔・治脾虛實方第三〕)。

     當心下一寸,名巨闕,主心悶痛,上氣,引少腹呤,灸二七壯(『千金翼方』卷二十七〔・心病第三〕)。

     俠巨闕兩邊相去各一寸,名曰幽門,主胸中痛引腰背,心下嘔逆,面無滋潤,灸之各隨年壯(『新雕孫真人千金方』卷十三〔・脈極第四〕)。

     俠巨闕兩邊相去各半寸,名曰上門,主胸中痛引腰背,心下嘔逆,面無滋潤,各灸隨年壯(『千金翼方』卷二十七〔・心病第三〕)。

     俠巨闕相去五寸,名承滿,主腸中雷鳴相逐,痢下,兩邊一處,各灸五十壯(『千金翼方』卷二十七〔・大腸病第八〕)。

     灸夾丹田兩邊相去各一寸,名四滿,主月水不利,賁血上下幷無子。灸三十壯,丹田在臍下二寸(『千金翼方』卷二十六〔・婦人第二〕)。

     俠臍旁相去兩邊各二寸半,名大橫,主四肢不可舉動,多汗洞痢,灸之隨年壯(『千金翼方』卷二十七〔・膀胱病第十〕)。

     俠屈骨相去五寸,名水道,主三焦、膀胱、腎中熱氣,隨年壯。屈骨在臍下五寸,屈骨端水道俠兩旁各二寸半(『千金翼方』卷二十七〔・膀胱病第十〕)。

     俠膽俞旁行相去五寸,名濁浴,主胸中膽病,灸隨年壯(『新雕孫真人千金方』卷十二〔・膽虛實第二〕)。

    俠膽俞旁行相去五寸名濁浴,主胸中膽病,隨年壯(『千金翼方』卷二十七〔・膽病第二〕)。

     手無名指甲後一韭葉,名關衝,主喉痹,不得下食飲,心熱噏噏,常以繆刺之,患左刺右,患右刺左也,都患刺兩畔(『千金翼方』卷二十六〔・舌病第五〕)。

    〔一部,「名」字の前に読点(,)を加えた。〕


電脳医学古典資料 その1 PC用の文字入力の道具箱

 電脳医学古典資料 その1 PC用の文字入力の道具箱


PC用の文字入力の道具箱です。

もう一つは,ネット検索で古典文献をスムーズに行えるExcelファイルです。

ここにリンクしてありますからダウンロードして下さい。

http://point.umin.jp/temp/20241028.htm

なお,公開資料は,まだまだ続きます。


こばやし


2024年10月27日日曜日

  扁鵲医籍考 05

   (五)『難経』


 『難経』でひもとかれた「経論」の多くは,『脈経』に引用されている扁鵲医籍に見られる。しかし,『難経』の編者が引用した経文の一部の意味を明確に理解できていなかったことから判断すると,編者は扁鵲や倉公の時代からかなり後の人か,あるいは扁鵲医学の直系の伝承者ではないと考えられる。例を挙げる。


      七難曰:經言少陽之至,乍小乍大,乍短乍長;陽明之至,浮大而短;太陽之至,洪大而長;太陰之至,緊大而長;少陰之至,緊細而微;厥陰之至,沈短而敦。此六者,是平脈耶?將病脈耶?然:皆王脈也。其氣以何月,各王幾日?然:冬至之後,得甲子少陽王,復得甲子陽明王,復得甲子太陽王,復得甲子太陰王,復得甲子少陰王,復得甲子厥陰王。王各六十日,六六三百六十日,以成一歲。此三陽三陰之王時日大要也。


 この文章は『脈経』巻五・扁鵲陰陽脈法第二に見られるもので,三陰三陽の平脈,すなわち正常な脈象について述べている。しかし,『難経』の編者は明らかにこれを理解できていない。また,扁鵲脈法では,太陽の脈は三月・四月の甲子に旺盛となり,陽明の脈は五月・六月の甲子に旺盛となるが,『難経』の編者はこの二つの脈の順序を逆にしている。三陰三陽と四時陰陽が異なって配当されている背景には,実際上,三陰三陽の本義に対する異なる理解が反映されている。扁鵲医学の枠組みでは,「陽明」は「重陽」と見なされ,陽の盛である。つまり,『霊枢』陰陽系日月における「兩火幷合,故為陽明〔兩火幷合す,故と陽明と為(い)う〕」という意味であり,陽気が最も盛んな夏季と対応している。〔『脈経』卷5〕「扁鵲陰陽脈法」〔第2〕で「脈,平旦曰太陽,日中曰陽明〔脈,平旦を太陽と曰い,日中を陽明と曰う〕」と述べているのは,この観念の表われである。


 経文を解釈する書物として,私的に経文を改変する可能性は低く,『難経』が採用した扁鵲医書は後期の伝本で,その学術思想は早期・中期の扁鵲医学とはかなり異なっていた,という可能性の方が高い。

 伝世医籍に遺された扁鵲医籍の佚文をその問答にある名に基づいてまとめと,以下の四種類の異なる伝本がある。

  (1) 「襄公問扁鵲」伝本――『刪繁方』所伝。

 (2) 「黄帝問扁鵲」伝本――倉公が伝授されたものと『千金翼方』所伝。

 (3) 「雷公問黄帝」伝本――伝世本『素問』『霊枢』所伝。

 (4) 「扁鵲曰」という伝本――『脈経』所伝。

 直接に上述した異なる版本の扁鵲医書を引用した文献には,『脈経』『刪繁方』『千金翼方』『内経』『難経』がある。その中で最も原書を忠実に引用しているのは『脈経』である*。一方で一般に最も知られていないのは『刪繁方』である。この書が六朝時代の方書と最も異なるところは,論説と処方があることである。『黄帝内経』がすでに絶対的な正統的地位を得ていた当時,『刪繁方』の編者は扁鵲医学に特別な愛着を持ち,大量にその文を引用するだけでなく,扁鵲の「六虚」「六極」「六絶」理論を発揚している。扁鵲医学の伝承者と見なしてよい。

    *残念ながら,宋代の林億らが校注をおこなった時に多くの改編がなされたので,引用する際には宋人の校改を経ていない『新雕孫真人千金方』『太平聖恵方』を参照して判断する必要がある。