史記馮信臨淄人爲齊太倉長性好醫方
精於診處而淄川王猶以其爲識見未深
更令就淳于學方意敎以按法逆順論藥
法定五味及和劑湯法信受之擅名漢世
【訓み下し】004-2
『史記』:馮信,臨淄の人。齊の太倉長と爲る。性 醫方を好み,診處に精(くわ)し。而れども淄川王 猶お其の識見未だ深からずと爲すを以て,更に淳于〔意〕に就き,方を學ばしむ。意 教うるに按法逆順を以てし,藥法を論じ,五味及び和劑の湯法を定む。信 之を受けて,名を漢の世に擅(ほしいまま)にす。
【注釋】
○史記:003-1を参照。以下の文の詳細な注については,003-1で紹介した幻雲・浅井図南・多紀元簡らの研究を参照。 ○馮信:西漢醫生。臨淄(今屬山東)人。嘗任齊太倉長(一說為太倉馬長),其性好喜方。齊王嘗令其就淳于意學,淳于教以按法、逆順、論藥法、定五味及和劑湯法等。醫名噪一時。 ○臨淄:古營丘地。周封太公望爲齊國。獻公自薄姑徙都此。〔國策齊策〕「蘇秦説齊宣王曰。臨淄之中七萬戸。」秦滅齊。因故城置齊郡。其後項羽封田都爲齊王。漢有天下。封庶長子肥爲齊王。皆卽故城都焉。漢置臨淄縣。爲齊郡治。 ○太倉:古代京師儲穀的大倉。職官名。職掌倉廩出納的職務。 ○長:『史記』作「馬長」。 ○淄川王:菑川王。劉賢。齊の悼惠王劉肥の子(青木五郎)。 ○淳于:『醫說』に,この下「意」字あり。 ○敎:「教」の異体字。 ○擅名:享有名聲。/擅:專斷、獨行、包攬。據有。
○『史記』扁鵲倉公列傳:「菑川王時遣太倉馬長馮信正方,臣意教以案法逆順,論藥法,定五味及和齊湯法」。
○『醫說』卷一・三皇歷代名醫・馮信:「馮信,齊臨淄人也。為齊太倉長。性好醫方,精於診處,而臨淄王猶以其識見未深,更令就淳于意學方。意教以按法逆順,論藥法,定五味及和劑湯法,信受之,擅名於漢(出史記)」。
識典古籍*******************************************************
《史記》:馮信,臨淄人,爲齊太倉長。性好醫方,精於診處,而淄川王猶以其爲識見未深,更令就淳于學方。意教以按法逆順,論藥法,定五味及和劑湯法。信受之,擅名漢世。
【AI譯文】
《史记》记载:冯信,是临淄人,担任齐国太仓的长官。他生性喜好医方,在诊断处置方面很精通,但淄川王仍认为他见识不够深刻,又让他跟随淳于意学习医方。淳于意教给他们按照脉法判断脉象的逆顺,论述用药的方法,确定药物的五味以及调制汤剂的方法。冯信接受了这些意见,在汉朝声名远扬。
【AI 1】『史記』によると、馮信は臨淄の出身で、斉国の太倉の長官を務めました。彼は生来医学を好み、診断や処置に非常に精通していました。しかし、淄川王は彼の見識が十分ではないと考え、さらに淳于意に師事して医学を学ぶよう命じました。淳于意は彼らに脈法を用いた脈象の判断法、薬の使用法、薬の五味の特定、そして湯薬の調合法を教えました。馮信はこれらの知識を受け入れ、漢代で広く名声を馳せました。
【AI 2】『史記』にはこう記されています:冯信(ふうしん)は臨淄(りんし)出身で、斉国の太倉(国の穀物倉庫)の長官を務めていた。彼は生まれつき医術を好み、診察や処置にも非常に精通していたが、淄川王(しかおう)はなおも彼の見識が十分ではないと考え、彼を淳于意(じゅんうい)に従わせて医術を学ばせた。淳于意は彼らに、脈法によって脈の状態を判断する方法、薬の使い方の理論、薬の五味(ごみ)や湯薬の調合方法を教えた。冯信はこれらの教えを受け入れ、漢の時代には名声を広めた。
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