1.3 奇正と超越
古典鍼灸学の枠組みの中に,脈には経と奇があり,穴には経と奇があり,刺には経と繆がある。鍼の名手は,奇正の法を巧みに用いて鍼法の妙を尽くすことができる。
鍼灸師として,単に経兪を知っているだけで奇兪を知らないと,基本的に奇兪を取らなければならないか,あるいはまず奇兪を取るべき病症の診療のときに,選穴処方において手の下しようがなかったり,正しい方向から外れたり,治療の優先順位を間違えたりする。たとえば脹の治療では,「先瀉其脹之血絡,後調其經,刺去其血絡也〔先ず其の脹の血絡を瀉し,後に其の經を調え,刺して其の血絡を去るなり〕」〔『霊枢』水脹〕し,「凡刺寒熱者皆多血絡,必間日而一取之,血盡而止,乃調其虛實〔凡そ寒熱を刺す者は皆な血絡多ければ,必ず日を間(へだ)てて一たび之を取り,血盡くれば止め,乃ち其の虛實を調う〕」〔『霊枢』経脈〕ようにしなければならない。
兪穴の常態を知っているだけで,その動態を察しなければ,治療はできないし,選穴処方も的がないのに矢を放つようなものである。たとえば癲狂の治療には,高頻度の経兪の中で「視之盛者,皆取之〔之を視て盛んなる者は,皆な之を取る〕」べきで,「不盛,釋之也〔盛んならざるは,之を釋(お)くなり〕」〔『霊枢』癲狂〕のである。つまり,癲狂を主治する経兪の中から,「動」兪を選んで鍼を刺すのである。
経兪について単にその「正」の属性しか目に入らず,その「奇」の面を知らなければ,脈が結ぼれて通じないことによって起こる多くの痺証では,委中や委陽などの経兪のところで血絡・結絡をさぐり,「解結」法を用いて「血脈を去る」ことには思いが至らない。また,足の太陽の筋急による経筋病の場合,委中・委陽・天柱などの経兪のところで筋急あるいは結筋点を探ることを自分で覚えていなければ,筋急を除く「筋刺」法を用いて治療することには思いが至らない。ただひたすらに経兪を取り経刺法で治療するだけでは,治療効果が得られず,なぜそうなるか分からず,困惑するばかりである。
鍼灸臨床において,正を知って奇を用い,あるいは正を奇とし,あるいは奇を正とすることは,鍼を用いることによってはじめてその繊細で巧妙な技を発揮することができる。
しかし時には,我々は奇正という視点の束縛を超えて,「病に応ずる」血絡・筋急点そのものに注目しなければならない。必ずしもそれらが経兪の上にあるかどうか、経兪に属するのか奇兪に属するのかと葛藤する必要はない。たとえば痺証を診察して、血絡・結絡が,膕(ひかがみ)の中に見られようと,膕(ひかがみ)の外側に見られようと,それを見て除けば,それが委中あるいは委陽に当たるどうかで葛藤する必要はなく,たとえ経兪の委中と委陽と見なしたとしても,経法を用いて刺すことはなく,血を刺して結を解する方法を採用する。実際,『素問』刺腰痛で王冰が次のように注した通りである。「委中穴,足太陽合也。在膝後屈處膕中央約文中動脈,刺可入同身寸之五分,留七呼,若灸者可灸三壯,此經刺法也。今則取其結絡大如黍米者,當黑血箭射而出,見血變赤,然可止也〔委中穴は,足の太陽の合なり。膝の後の屈する處の膕の中央約文中の動脈に在り,刺して同身寸の五分を入る可し,留むること七呼,若し灸する者は三壯を灸す可し,此れ經刺の法なり。今ま則ち其の結絡の大いさ黍米の如き者を取るときは,黑血に當てて箭射して出だし,血の赤に變ずるを見れば,然して止む可し〕」。血を刺し結ぼれを解いたあとも,脈が平常にならなければ,さらに委中に経刺法を用いて平らかに調える必要がある。
同様に,筋が急(ひきつ)った所を見れば,必要に応じて異なる刺法を採用して筋を柔らげ脈を通すことが好ましく,それが経筋にあるのか経兪にあるのかを考慮する必要はない。我々が「経兪」のラベルを貼ったとしても,鍼治療の際に採用するのは「筋急を去る」刺法であって,通常の「経刺」法ではないからである。「筋急を去った」後でも,脈が依然として平常にならなければ,関連する脈兪や蔵府の兪を取り経刺法によって虚を補い実を瀉し,平を以て期と為す必要がある。「脈の平」は,古典鍼灸学の治療効果を判定する究極の目標であり,鍼灸が他の治療法と区別される一つの顕著な標識でもある。
ちょうど奇経が正経に制約されないように,血絡と結絡も脈兪に制約されない。同様に筋急と結筋も気穴に制約されない。このように、「奇正」の視野を超えて,血絡と結絡,筋急と結筋そのものの診療法則および刺法規範に注目すべきである。
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