2010年10月28日木曜日

3-3 鍼科發揮

3-3 『鍼科發揮』
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『方円鍼法鍼科發揮』(ホ・81)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』3所収

鍼科發揮自序
庖犠畫八卦而隂陽之道著矣神農嘗百草而毒藥
之品眀矣軒轅制九鍼而補瀉之法備矣故讀太易
而以通變化之妙讀本草而以處眼餌之方讀内經   餌:原文「食+甘」
而以究鍼刺之奥嗚呼微三墳之書則後世之醫者
皆服左袵而言侏離矣聖人之德澤其大哉吾先考
方圓齋之鍼法也悉祖述素難而憲章諸家經濟之
功頗多矣自號臨淵子曽謂用鍼之道以氣為主夫
如輪扁之説齊桓淂之心而應手不疾不徐有數存
其間言是傳授之心法也能以調其邪正和其剛柔
  一ウラ
導其血氣為要矣不佞行有餘力之日詳類遺法宏   宏:原文「ウ冠に尤」
採約求釐而為編命曰鍼科發揮以使門弟子熟讀
而知其階梯也
旹維元禄戊辰冬十月日 毉官 柳川清泉識


  書き下し
鍼科發揮自序
庖犧(ふつき)、八卦を畫(えが)きて陰陽の道著(あらわ)る。神農、百草を嘗めて毒藥
の品明らかなり。軒轅、九鍼を制して補瀉の法備わる。故に太易を讀みて
以て變化の妙に通じ、本草を讀みて以て眼餌の方を處し、内經を讀みて
以て鍼刺の奥を究む。嗚呼(ああ)、三墳の書微(な)かりせば、則ち後世の醫者、
皆な左袵に服して言侏離せん。聖人の德澤、其れ大なるかな。吾が先考、
方圓齋の鍼法なるや、悉く素難を祖述して諸家を憲章し、經濟の
功頗る多し。自ら臨淵子と號す。曽て謂えらく用鍼の道は氣を以て主と為す、と。夫れ
輪扁の齊の桓に説くが如し。之を心に得て手に應じ、疾ならず徐ならざるは、數の
其の間に存する有り。是れ傳授の心法を言うなり。能く其の邪正を調え、其の剛柔を和し、
  一ウラ
其の血氣を導くを以て要と為す。不佞行い、餘力有るの日、詳らかに遺法を類し、宏く
採り約して求め、釐(おさ)めて編を為し命(なづ)けて曰く、鍼科發揮。以て門弟子をして熟讀して
其の階梯を知らしむるなり。
旹維(こ)れ元禄戊辰冬十月日 毉官 柳川清泉識(しる)す


 【注釋】
○庖犠:庖犧。古代の帝王のひとり。はじめて八卦を画き、書契を造る。犧牲を養い庖廚を充したので、「庖犧」と称する。「伏羲」にもつくる。 ○八卦:『易経』中の八つの基本となる卦。伏羲氏が作ったとされる。陰と陽の二爻の組み合わせにより成り、三爻で卦を成し、宇宙の構造と物事の変化を象徴する。 ○神農:伝説上の上古の帝王。農業を振興し、百草をなめ、方書をつくり、製薬の創始者とされたので「神農」と称される。 ○眀:「明」の異体字。 ○軒轅:黄帝の号。 ○制九鍼:『帝王世紀』などは伏羲が九鍼を制したとするなど、諸説あり。『備急千金要方』序「伏羲氏作、因之而畫八卦、立庖廚、滋味既興、瘵萌起。大聖神農氏憫黎元之多疾、遂嘗百藥以救療之、猶未盡善。黄帝受命、創制九針、與方士岐伯、雷公之倫、備論經脈、旁通問難、詳究義理、以為經論、故後世可得根據而暢焉。」 ○太易:大易。『周易』の別名。 ○本草:『(神農)本草経』。 ○眼餌(原文「食+甘」):未詳。「眼の栄養となる」の意か。 ○方:方剤。 ○内經:『黄帝内経』。 ○奥:奥義。深奥。 ○三墳之書:伏羲、神農、黄帝の書。漢・孔安國『書經』序:「伏羲、神農、黄帝之書、謂之三墳、言大道也。」 ○左袵:左衽に同じ。衣服の前襟(おくみ)を左前にする。古代の夷狄の服装の特色。異族と同化することの隠喩。 ○侏離:蠻夷のことば。唐・韓愈『與孟尚書書』:「向無孟氏、則皆服左袵而言侏離矣。」 ○德澤:徳恵恩沢。 ○先考:今は亡き父。敬語。 ○方圓齋:柳川靖泉の父。『素問』八正神明論(26)に「寫必用方……補必用員(圓)」とある。 ○祖述:先人の説を受けつぎ、それをもとにして多少補いながら・研究を進める(学説を述べる)。 ○素難:『素問』『難経』。 ○憲章:手本として明らかにする。『禮記』中庸:「仲尼祖述堯、舜、憲章文、武。」 ○經濟:經世濟民(国をおさめ、人民の生活を豊かにする)。 ○臨淵:行為が慎重であることのたとえ。『素問』宝命全形論(25)に「刺虚者須其實、刺實者須其虚……如臨深淵」とある。 ○輪扁:春秋時代、斉のひと。車輪作りの名人。『莊子』天道:「桓公讀書於堂上、輪扁斲輪於堂下、釋椎鑿而上、問桓公曰「敢問公之所讀者何言邪?」公曰「聖人之言也。」曰「聖人在乎?」公曰「已死矣。」曰「然則君之所讀者、古人之糟魄已夫!」桓公曰「寡人讀書、輪人安得議乎!有說則可、无說則死。」輪扁曰「臣也、以臣之事觀之。斲輪、徐則甘而不固、疾則苦而不入。不徐不疾、得之於手而應於心、口不能言、有數存焉於其間。臣不能以喻臣之子、臣之子亦不能受之於臣、是以行年七十而老斲輪。古之人與其不可傳也死矣、然則君之所讀者、古人之糟魄已矣。」[桓公、書を堂上に讀む。輪扁、輪を堂下に斲る。椎鑿を釋きて上り、桓公に問ひて曰く、敢へて問ふ、公の讀む所は何の言と爲すや。公の曰く、聖人の言也。曰く、聖人在り乎。公の曰く、已に死せり。曰く、然らば則ち君の讀む所は、古人の糟魄なるのみ。桓公曰く、寡人の書を讀むに、輪人安んぞ議するを得ん乎。説有らば則ち可なり、説无くんば則ち死せん。輪扁曰く、臣や、臣の事を以って之を觀るに、輪を斲るに、徐なれば則ち甘くして固からず。疾なれば則ち苦にして入らず。徐ならず疾ならざるは、之を手に得て心に應じ、口に言ふ能はず。數の其の間に存する有り、臣以て臣の子に喩すこと能はず。臣の子も亦、之を臣より受くること能はず。是を以て行年七十にして老いて輪を斲る。古への人と其の傳ふ可からざるものとは死せり。然らば則ち君の讀む所は、古人の糟魄なるのみ。]」 ○齊桓:春秋時代の齊國の桓公。 ○淂:「得」の異体字。 ○數:法則。 
  一ウラ
○不佞:不才。自己を謙遜していう。 ○宏:原文はウ冠に「尤」。異体字。 ○門弟子:門弟と同じ。論語泰伯:「曾子有疾、召門弟子曰……」。 ○階梯:はしご。より高い段階に達するための手引き。 ○旹:「時」の異体字。 ○元禄戊辰:元禄元(1688)年。 ○柳川清泉:『臨床実践鍼灸流儀書集成』2、長野仁先生の解説に、「『良医名鑑』[一七一三刊]によれば、柳川靖泉は、山脇玄心[一五九七~一六七八]の門人で、大准后御医として法橋に叙せられている(本書巻頭では法眼)。」とある。京都のひと。
 書末に「寛政丁巳〔九/1797〕秋九月蕉亭主人寫」とある。また、識語に「此書卷文係/棕軒謙德君筆遺宜祕藏/也」「癸酉〔明治六/1873〕三月廿七日 森立之」とある。
 備後福山藩五代藩主、阿部正精(まさきよ)〔安永三年(1774)~文政九年(1826)〕、号は蕉亭、棕軒など。諡は謙徳院満誉清高良節。老中をつとめた。森立之〔文化四(1807)年~明治十八(1885)年〕、字は立夫。号は養竹、枳園など。江戸末期の考証学者で、福山藩医。
 『(方円心法)鍼科発揮』は、臨床実践鍼灸流儀書集成2にも収められる。その解説に、「奈須恒徳の旧蔵にかかることが森立之の明治六年[一八七三]の識語から分かる」とあるが、これは「棕軒謙德」の誤読によるか。

0 件のコメント:

コメントを投稿