2026年9月29日火曜日

神楽坂の東瀛閣について

 2023年1月に宮川先生から「漢方の臨床の12月号の「目で見る漢方資料館」432に、神楽坂の「東嬴閣」の写真が載っています。ネットでしらべても、情報がありません。おわかりになる方は、著者の小曽戸先生に教えてあげてください。」というメールが届いた。https://photos.app.goo.gl/BHLLpt8FNnc3m8Sk9

昭和30年(1955)の写真らしい。神楽坂のすぐ近くに住む私としては、なんとか調べられないものかと、手を尽くし、1月末に一応の結論を出したのだが、まだ調べ切れていない資料などがあったので、今回3年越しに都立中央図書館の当時の地図や電話帳を探り、不可解だったポイントなどが解消できたので、以下にまとめてみた。


1.早稲田鶴巻町の「東瀛閣」

「東瀛閣」は、歌手として知られる東海林太郎と弟の東海林三郎が、昭和5~6年(1930~31)頃に早稲田鶴巻町で始めた中華料理店であった。

このことが一番わかる最近公開されたブログがある。詳しいので読んでみてほしい。https://damebunkei.livedoor.blog/archives/41970868.html

この調査では、昭和5年12月号の『我観』にすでに東瀛閣が登場することから、昭和5年11月以前には営業していた可能性が指摘されている。店名は東海林太郎が付けたとされ、弟の三郎がその後の経営の中心となったらしい。早稲田大学の学生や大学関係者などにもよく利用されていた。

所在地については早稲田鶴巻町59番と70番の二説があるが、当時の商工名鑑の広告や火災保険特殊地図などから、70番を店舗所在地とみる説が有力である。ただし、59番説にも同時代資料があり、完全には確定していない。

昭和17年(1942)4月18日のドーリットル空襲では、早稲田鶴巻町も爆撃を受けた。当時の早大生の回想には、東瀛閣について「類焼したらしく、水浸しになっていた」という記述がある。したがって東瀛閣が空襲で被災したようである。

その後、昭和19年(1944)の資料でも東海林三郎は「支那料理業」とされ、さらに戦後には東瀛閣に下宿していた人物の回想から、戦後も中華料理店として営業していたことが確認できる。その人物が東瀛閣を出たのが昭和25年(1950)頃で、それ以後の早稲田店の営業を直接確認できる資料は今のところ見つかっていない。また三郎の住所も、昭和22年には店舗所在地と考えられる早稲田鶴巻町70番だったものが、昭和26年には130番に変わっている。

したがって、早稲田の東瀛閣は戦時中に被災しながらも戦後まで営業し、昭和25~26年(1950~51)頃に早稲田での営業を終えたのではないかというのが、現在の比較的妥当な推定になる。


2.その後、神楽坂2丁目(地図の緑丸)へ移った可能性


東京都立中央図書館で確認した昭和27年(1952)9月の『東京都職業別電話帳』では、「中華料理」の項目に、「東濂閣 神楽坂2-12」という店が掲載されている。

さらに、わずか2か月後の昭和27年11月の火災保険特殊地図を見ると、神楽坂2-12-12に、「東叡園食堂」と読める飲食店が記載されている。

「東濂閣」と「東叡園食堂」という表記は一致しないが、同じ時期、ほぼ同じ住所、一方は明確に「中華料理」、いずれも「東○」という特徴的な名称、「東瀛」は日常的には非常に読み書きしにくい文字、地元の聞き込み調査にで、この場所について「東海林太郎の弟がやっていた中華料理屋だった」という地元の証言が残っていることを合わせると、これらが「東瀛閣」を誤記・異表記したものであった可能性を考えることができる。

ここで時系列に注目すると、

1950~51年頃 早稲田の東瀛閣の記録が途絶える

↓

1952年9月 神楽坂2-12に「東濂閣」という中華料理店

↓

1952年11月 同地点に「東叡園食堂」

となる。

そのため、早稲田鶴巻町での営業終了後、東海林三郎が神楽坂2丁目に店を移したのではないかという仮説は、時間的にも地理的にも成立する。


3.昭和29~32年頃、「神楽坂東えい閣」が鍼灸・漢方関係者の会合に利用される

『医道の日本』や『漢方の臨床』を調べると、昭和29~32年(1954~57)頃の記事に、「神楽坂東えい閣で会合」や「東えい閣で座談会」といった記録が複数確認できる。

医道の日本社, 1955-01
https://photos.app.goo.gl/NP7DSsr85XRGEQHg7

漢方の臨床 40(3)(463)(東亜医学協会, 1993-03)
https://photos.app.goo.gl/4WuiTSHHn6n6HkL56

写真も残されており、単なる一度だけの利用ではなく、昭和30年前後の鍼灸・漢方関係者が会食・座談会・会合を行う場所として、ある程度知られた店だったらしい。

これが1952年の神楽坂2-12の「東濂閣/東叡園食堂」と同一の店であったとすれば、1952年頃に神楽坂へ移転 → 昭和30年前後には矢数医院(地図の青丸)の近くにあるために鍼灸・漢方界の会合場所として利用という流れができる。

この点は東瀛閣の歴史だけでなく、昭和30年代初頭の漢方・鍼灸界の人的交流を考える上でも興味深い。


4.神楽坂2-12-12のその後

同地点については、住宅地図と地元の証言から、その後の変遷がかなり追えるようになった。

現時点で確認できる流れは、

1952年「東濂閣」または「東叡園食堂」と記録される飲食店=東瀛閣であった可能性

↓

1957年料亭「福らく」

↓

1962年キャバレー「ムーンライト」

↓

その後、うなぎ割烹「志満金」の建て替え
時の仮店舗

↓

現在、建物はなく、新築工事中(2000年ころから先日まではカラオケ屋だった)

という変遷になる。

地元の方の証言の一つに「ムーンライトになる前には、東海林太郎の弟がやっている中華料理屋があった」という証言があった。


5.もう一つの証言

実は、地元の証言にもう一つ有力としていたものがあった。「現在津久戸町の熊谷組の本社がある場所(地図の赤丸)にあった」というもので、他の方に聞いたところ「そこは「東京閣」という看板ではなかったかな、でも子供のころのことで漢字が読めなかったのかな」ということで、赤丸にお店があったことと考えていた。しかし、『東京都全住宅案内図帳 新宿区』[1957]と『東京都全住宅案内図帳 新宿区』[1962?]を確認したところ、赤丸の場所に「旅館 東京閣」という表記があり、史料に裏付けられたことにより、二人目の証言が正しいこととして、赤丸の地点には東瀛閣はないことがほぼ確定となった。


6.写真の会合の内容

小林健二先生が調べてくださったことになるが、写真の撮影を昭和30年として、柳谷素霊がいることによりフランス鍼灸学会の招聘により「ヨーロッパにおける鍼指導の旅」(昭和30年6月14日~9月20日)を外すと、下記の二つに絞られる。

*中国医師・潭述渠氏、邸錦城氏、呉恵平氏の三氏、京都の日本東洋医学会(第六回)に出席のため来日、三氏の歓送迎会(4月12日)など、1ケ月程滞在し矢数道明氏、柳谷素霊氏らと交流。(昭和30年4月)

*「柳谷素霊先生、フランス帰朝報告講演会」東京教育会館 (30年10月2日)

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