2011年3月20日日曜日

『素問』陰陽応象大論(05)王冰注において引用される天元紀大論(66)に関連して

陰陽応象大論の王冰注に
02-01b03 05 W明前天地殺生之殊用也。《神農》曰:「天以陽生陰長,地以陽殺陰藏。」
とある。
実際は,神農本草經ではなく,天元紀大論の文である。
19-04b07 66 天以陽生陰長,地以陽殺陰藏。

王冰が引用出典名を時々誤ることは周知のことであるので,ここでの出典名の誤りは,いま問わない。

問題は,天元紀大論の本文と一致していることである。
以前は,運気七篇は王冰が竄入したとして評判が芳しくなかったが,山田慶児先生は,運気論を『素問』に組み入れたのは,王冰以後のひとであるという説を提出した。

上に挙げた王冰注に見える天元紀大論の本文は,山田説にたいする反証になりうるか。
あるいは別の説明が可能であろうか。

『段逸山挙要医古文』337頁を読んでいて,ふと思った。

1 件のコメント:

  1. これは結構むずかしい話だと思う。
    「王冰が引用出典名を時々誤る」のは。周知のことであると言っても、本当は王冰が誤っているのか、彼にとっての本と、我々にとっての本が違うのか、知れたものではない。たとえば、今の『霊枢』に在る句を引用するのに、『霊枢経』と言ったり、『鍼経』と言ったり、はては同じものを別の箇所では別の名で呼んだりと、気まぐれだと思われがちだが、本当は『霊枢経』という書物と『鍼経』という書物は、相対的に別物だったかも知れない。ここで『神農』として引用されているという句にしても、かつて『神農』ナントカいう別の書物が有って、それはむしろ天元紀大論とかの近親だったかも知れない。
    我々は後世の眼で、太い流れの末端にいると思いがちだが、実は他にも太い流れが有って、そっちのほうがむしろ本流で、時々そのはぐれてしまった情報に接して首を傾げているのかも知れない。まあ、我々は後世に残った僅少な偏頗な資料から探るしか無いわけですが。だから、時には所謂医古文に反逆して、欲しいままの妄想に身を委ねる覚悟も要るのではなかろうか。(まあ、そうは言っても、私自身は現在に至る太い流れは、そこそこ信頼して良いのだろうと思っています。と、言いながら謀叛心がムクムクと……。)

    返信削除