2011年3月24日木曜日

36-7 古診脉説

36-7『古診脉説』
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『古診脉説』(コ・48)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』36所収
  原文には訓点がほどこされているが、一部不備があるため、適宜処理した。

古診脉説序
夫人身上下左右動脉可得診者皆過絶道在骨上
其動不過寸餘故有寸口氣口脉口目不特大淵經
渠二穴之動脉也難經特取大淵經渠二穴之動脉
決死生吉凶以寸關尺爲三部以浮中沉爲九候三
指診按以辨三部九候以別上下左右五臟六腑之
有餘不足嗚虖難矣哉葢診脈之法不明于今日者  〔「嗚」原文は「鳴」。「脈」原文は「豚」〕
難經實爲俑也後人加以七表八裡二十四種等之
説彼以爲高妙精微也無益于今日原無頼僞書漫
唱虚説不得實據猶學射無正鵠夜行而失斗也然
  一ウラ
而和漢古今國手良工置診脉之法於可識不可識
之間或回護爲半沉半浮半陰半陽等鑿々説亦以  〔「護」原文は「獲」〕
爲辨毫釐極精密而背馳堂々焉古神醫之診法敷
在方策者千有餘年平心而論之診脉法苦學而焉
不可得也孟子曰道在邇而求諸遠是之謂乎余有
慨焉于此匕稼之暇採摭素問靈樞經文爲實據作
古診脉説一卷自今以後學者識頭手足三部而九
候以察上下左右邪劇易診其大小長短滑濇明五
中有餘不足形強弱盛衰診家能事畢張長沙曰握
手不及足人迎趺陽三部不參動數發息不滿五十
  二オモテ
短期未知決診可謂知言也           〔「未」原文は「末」〕
  時
明治十一年建戊寅周正之正月岡宗益書于定理堂
南窓下


  【訓み下し】
古診脉説序
夫(そ)れ人身、上下左右、動脉の診を得る可き者は、皆な絶道を過(よ)ぎりて骨上に在り。
其の動は寸餘に過ぎず。故に寸口・氣口・脉口の目有り。特(た)だ大淵・經
渠二穴の動脉のみにあらざるなり。難經、特だ大淵・經渠、二穴の動脉のみを取り、
死生・吉凶を決す。寸關尺を以て、三部と爲し、浮中沉を以て九候と爲す。三
指もて診按し、以て三部九候を辨じ、以て上下左右、五臟六腑の
有餘不足を別つ。嗚虖(ああ)、難(かた)きかな。蓋し診脈の法、今日に明かならざるは、
難經、實(まこと)に俑を爲(つく)ればなり。後人加うるに七表八裡二十四種等の
説を以てす。彼は以て高妙精微と爲すも、今日に益無く、原(もと)より無頼なり。僞書漫(みだ)りに
唱え、虚説、實據を得ざること、猶お射を學びて正鵠無く、夜行して斗を失うがごときなり。然り
  一ウラ
而して和漢古今の國手良工、診脉の法を、識(し)る可きと識る可からざるの間に置き、
或いは回護して半沉半浮、半陰半陽等を鑿々の説と爲し、亦た以て
毫釐を辨じて極めて精密と爲し、而して背馳すること堂々焉たり。古(いにし)えの神醫の診法、敷して
方策に在る者(こと)、千有餘年。平心にして之を論ずれば、診脉の法、苦學して焉(いず)くんぞ
得可からざらんや。孟子曰く、道は邇(ちか)きに在れども、而(しか)るに諸(これ)を遠きに求む、と。是れを之れ謂うか。余、
此に于いて慨焉有り。匕稼の暇(いとま)、素問靈樞の經文を採摭して、實據と爲し、
古診脉説一卷を作る。自今以後、學ぶ者は頭手足三部を識(し)り、而して九
候以て上下・左右、邪の劇易を察し、其の大小・長短・滑濇を診し、五
中の有餘不足、形の強弱・盛衰を明らかにすれば、診家は能事畢る。張長沙曰く、
手を握りて足に及ばず、人迎・趺陽、三部參(まじ)えず、動數發息、五十に滿たず、
  二オモテ
短期なるも未だ診を決するを知らず、と。言を知ると謂う可きなり。
  時に
明治十一年、建は戊寅、周正の正月、岡宗益、定理堂
南窓下に書す


  【注釋】
○絶道:『靈樞』經脈「黄帝曰、諸絡脉、皆不能經大節之間、必行絶道而出入、復合於皮中、其會皆見於外」。 ○目:名称。 ○大淵:「太淵」ともいう。手太陰肺経の穴。手関節の動脈搏動部にあり。 ○經渠:太淵の上一寸、動脈搏動部にあり。 ○難經:書名。後漢に成書した医学書。 ○決死生吉凶:『難經』一難「十二經皆有動脉、獨取寸口、以決五藏六府死生吉凶之法」。以下、『難經』を参照。 ○爲俑:「俑」は、殉葬に用いられた木偶(でく)〔ひとがた〕。『孟子』梁惠王上「仲尼曰、始作俑者、其無後乎、為其象人而用之也/仲尼曰く、始めて俑を作る者は、其れ後無からんか、と。其の人に象りて之を用うるが為なり」。俑を殉葬するのは、あたかも実際にひとを生き埋めにするようなものだとして、孔子はそれを始めたものの不仁を憎んだ。のちに「作俑」は創始の意味となり、おもに悪い先例を作ったことのたとえとなる。 ○七表八裡二十四種等之説:『脈訣』「七表八裏、又有九道」。『脈經』二十四脈「浮・孔・滑・実・弦・緊・洪・微・沈・緩・嗇・遅・伏・濡・弱・長・短・虚・促・結・代・牢・動・細」。 ○無頼:頼りにならない。信頼性がない。拠り所がない。 ○正鵠:的の中心。 ○斗:北斗七星。北の方角を知るよすが。
  一ウラ
○然而:逆接の接続詞。 ○國手:あるの才能技術がその国で一流の人。ここでは医術の名手。 ○良工:技術の精妙な工匠。 ○回護:庇護する。かばいまもる。「護」、原文は「獲」に作るが、「護」の誤りと解した。 ○鑿鑿:話などが確実で根拠があるさま。 ○毫釐:きわめて微細なこと。 ○背馳:道にそむく。目的とすることと反対の方向へむかう。 ○方策:典籍。方法対策。 ○孟子曰:『孟子』離婁上。道は高遠なところにあるのではなく、日常の身近なところにある。 ○慨焉:歎き哀しむさま。 ○匕稼:医業。「匕」は薬物を計量するさじ。「匙」に通ず。 ○採摭:拾い取る。 ○自今以後:今よりのち。 ○三部而九候:本文および『素問』三部九候論を参照。 ○五中:心、肝、脾、肺、腎の五臓を指す。人体の中にあるので「五中」という。「五内」ともいう。 ○診家:診察者。 ○能事畢:なすべきことはすべて成し遂げる。『易』繫辭傳。「能事」は、なしうる事柄。成すべき仕事。 ○張長沙:張仲景。長沙の太守をしていたという。 ○曰:引用文は、『傷寒論(傷寒卒病論集)』序に見える。手の脈を診ても、足の脈を診ることはなく、人迎・跗陽、寸口の三箇所の脈を参照することもない。脈拍も、五十に満たぬまに数えるのをやめてしまう。余命いくばくもないのに、それを診断できない。
  二オモテ
○明治十一年建戊寅:一八七八年。「建」は、北斗七星の指す方向。 ○周正之正月:旧暦の十一月。『史記』歴書に「夏正以正月、殷正以十二月、周正以十一月」とある。 ○岡宗益:寿道?定理齋。櫟園も号のひとつであろう。幕府の産科医(未調査)。『定理齋坐右救苦常用治験方府』『長沙方原』を著す。 ○定理堂:岡宗益の書斎名。


望問聞切之中古今以診脉之
法爲第一也今哉西洋之學術
專行於東方臨病診體之法殆
爲一變如診脉之法即措而至
不論此書雖屬陳腐後世之人
視以得爲一助則幸甚矣
ウラ
明治二十年第四月 岡 宗益識
     〔印形黒字「櫟/園」、白字「岡印/宗益」〕


  【訓み下し】
望問聞切の中、古今、診脉の
法を以て、第一と爲すなり。今や西洋の學術
專ら東方に行われ、病に臨んで體を診るの法、殆ど
一變を爲す。診脉の法の如きは、即ち措(お)きて
論ぜざるに至る。此の書は陳腐に屬すと雖も、後世の人
視て以て一助と爲るを得れば、則ち幸甚なり。
ウラ
明治二十年第四月 岡 宗益識(しる)す

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