2011年3月5日土曜日

33-3 釋骨

33-3 釋骨
     独立行政法人国立内閣文庫所蔵(子五〇函一〇号)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』33卷所収

(『釋骨』跋)
釋骨一卷乾隆庚子歳呉江沈冠雲著周
官禄田考所附刻其釋分部形象王安道
小易賦寗一玉折骨分經遠不及也奈何
儒流屬諸弁髦醫家鮮有知者焉余幸從
永壽院架藏中而借抄以授劂氏使從事
我業者有所稽攷云
 寛政戊午仲秋日
 江都法眼侍醫兼醫學針科教諭山崎宗運識
    〔印形白字「山印/次善」、黒字「鳳/來」〕


  【訓み下し】
釋骨一卷は、乾隆庚子の歳、呉江の沈冠雲、周
官禄田考を著し、附刻する所なり。其の分部形象を釋するは、王安道が
小易賦、寗一玉が折(析)骨分經は、遠く及ばざるなり。奈何(いかん)せん
儒流は諸(これ)を弁髦に屬せしめ、醫家は知る者有ること鮮(すく)なし。余は幸いに
永壽院の架藏中從り、借りて抄し、以て劂氏に授く。
我が業に從事する者をして稽攷する所有らしむと云う。
 寛政戊午仲秋の日
 江都法眼、侍醫兼醫學針科教諭、山崎宗運識(しる)す。


  【注釋】
○乾隆庚子歳:乾隆四十五(一七八〇)年。 ○呉江:今の江蘇省蘇州市呉江市。 ○沈冠雲:沈彤(一六八八~一七五二年)、字は冠雲、号は果堂。徐珂『清稗類鈔』經術類・沈冠雲精研六經「呉江沈彤、字冠雲、乾隆宏博科之表表者。少醇篤、精研『六經』、尤善理學。與修三『禮』及『一統志』、書成、授官不就而歸。顧家計貧甚、家無竈、以行竈炊爨、有『行竈記』存集中。嘗絶糧、其母采羊眼豆以供晩食。寒齋絮衣、纂述不勌。所著『周官祿田考』諸書、皆有功經學也」。 ○周官禄田考:三卷。『沈果堂全集』に『周官祿田考』(乾隆十六年刊)とともに『釋骨』一卷あり。 ○分部:全体から析出した部分単位。 ○形象:かたち。形状、外貌。 ○王安道:王履(一三三二~一三九一年)、字は安道、号は畸叟、または奇翁、抱独山人。昆山(今の江蘇省)のひと。『医経溯洄集』一卷、『百病鈎元』二十卷、『医韻統』百卷、『小易賦』、『十二経絡賦』などを著す。 ○小易賦:王履の撰。おそらく中国には伝存せず。内閣文庫に寬保二年刊本あり。 ○寗一玉:寧一玉。明のひと。『按部分經録』一卷などあり。「寗」は清代の避諱にかかる。 ○折骨分經:正しくは『析骨分經』。元・陶宗儀編、 明・陶珽編續『説郛』續編𢎥第三十・第一百五十二册所収。 ○儒流:儒家に属するひとたち。 ○弁髦:無用のもの、役に立たないものの比喩。元服の儀式の時にまず緇布冠をかぶり、次に皮弁をつけ、さらに爵弁をつける。その後に垂れ髪(髦)を剃る。これらのものは、成人後はいらなくなるから。『沈果堂全集』には、『周官祿田考』のほか、『儀禮小疏』『尚書小疏』『春秋左傳小疏』があり、みな儒教経典に関する書。  ○永壽院:多紀元悳(一七三二~一八〇一年)。藍溪と号す。寛政二年、法眼から法印に進む。廣壽院と称し、のちに永壽院とあらためた。 ○抄:書き写す。 ○劂氏:彫り師。出版事業者。/劂:彫刻刀。彫刻する。 ○我業:鍼立て。鍼灸。 ○稽攷:稽考。考証する。考査する。 ○云:文末に用いる助詞。意味はない。 ○寛政戊午:寛政十(一七八九)年。 ○仲秋:陰暦八月。 ○江都:江戸。 ○法眼:僧都の位階。法印の下で、法橋の上。のちに僧侶でないもの(外才者)にも叙せられた。 ○侍醫:御目見(おめみえ)医師。お匙。 ○兼:原文は、最終筆が欠筆。将軍徳川家か山崎家の避諱か。 ○山崎宗運:一七六一~一八三五。名は次善。字は子政。号は鳳来、渉園など。法眼。医学館鍼科教諭。多紀元悳の四男が宗運の養子となった。「拓本鍼灸図経考」「大椎攷」などを撰す。

0 件のコメント:

コメントを投稿