2010年12月3日金曜日

12-3 刺絡聞見録

12-3刺絡聞見録
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『刺絡聞見録』(シ・466)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』12所収

刺絡聞見録序
吾本州人荻元凱著刺絡編、詳説
和蘭之術、毉家刺絡之術自是而
興焉、越前縣道策近江中神右内
輩皆長此術矣、雖然非專于此者
也、其專此術而屢奏神效者、莫三
輪東朔若也、東朔之言曰、百病生于
欝滯、〃〃生于氣血擁塞、刺絡祛瘀
  一ウラ
濁之血、通邪結之氣、則擁塞者開
焉、欝滯者散焉、正氣宣達而眞
血流通、諸患於是乎頓瘥矣、是刺
絡之效也、臺駘宣汾洮、神禹疏九
河、瀹濟漯決汝漢排淮泗、能止天
下之大患、能濟天下之黔黎、吾術
同于此矣、彼昏不知、補住是悦、欝
者益欝、壅者益壅、不近似鯀障
  二オモテ
洪水乎、此言極是、夫專其術者、必
造其玅、〃而不止、必入其神、東朔
專攻此術、四十年如一日矣、今年
踰七旬、其術殆入神妙、而其獲
奇效偉驗、駭人之耳目、固宜矣、
雖然醫之發汗吐下、莫非開欝、莫
非達塞、又何特刺絡乎、吐下之所
不及、假此開達壅欝、是爲得之矣、
  二ウラ
醫治非專在于此、而是亦醫治之
所不可闕也、吾門人信濃伊藤大介
精于古醫方、頃從東朔受其術、筆
記其説以傳四方、來而請序於予、
予語之曰、鯀障洪水而殛死、漢志
以隄障爲下策、雖然漢唐宋明能
捍黄河之大患者、唯此隄障、〃〃
之功能殖百穀、能育萬民、則上古
  三オモテ
之事不可以律今也、且也靜然補
病、莊周曾言之、病之有補、三代遺
言也、予以謂醫治補瀉兩端、猶車
之有兩輪、與聖人之德刑、仝缺一不
可、發汗吐下、皆是瀉也、刺絡則瀉
術之最明顯者也、聖人德禮之化、
後人難企、而覇者政刑之治、其功
易成、醫家之滔〃乎趣瀉術、是亦
  三ウラ
世道之汚隆、時勢之所使然、予不
得不爲此三嘆也
文化丁丑春二月十三日
  錦城老人加賀大田元貞才
  佐撰
    董齋文進書
〔印形黒字「文」「進」、白字「董/齋」〕
         沖鶴年鎸

 【訓み下し】
刺絡聞見録序
吾が本州人荻元凱、『刺絡編』を著わし、
和蘭の術を詳説す。醫家刺絡之術、是れ自り而して
興る。越前の縣道策、近江の中神右内
輩、皆な此の術に長ず。然りと雖も、此れに專らなる者に非ざる
也。其れ此の術に專らに而して屢しば神效を奏する者は、三
輪東朔に若くは莫し。東朔の言に曰く:「百病は、
欝滯に生じ、欝滯は氣血擁塞に生ず。絡を刺し瘀
  一ウラ
濁の血を祛(さ)り、邪結の氣を通ぜしめば、則ち擁塞する者は開き、
欝滯する者は散ず。正氣宣達して眞
血流通す。諸患、是(ここ)に於いてか頓に瘥えん。是れ刺
絡の效なり。臺駘は汾・洮を宣(とお)し、神禹は九
河を疏(とお)して、濟・漯を瀹(おさ)め、汝・漢を決して、淮・泗を排し、能く天
下の大患を止め、能く天下の黔黎を濟(すく)う。吾が術は
此れに同じ。彼れ昏くして知らず、補い住(どと)むるを是れ悦(よろこ)びて、欝する
者は益々欝し、壅する者は益々壅するを。鯀の洪水を障(さえぎ)るに近似せざるや」と。
  二オモテ
此の言極めて是なり。夫れ其の術を專らにする者は、必ず
其の玅に造(いた)り、玅にして止まらざれば、必ず其の神に入る。東朔、
專ら此の術を攻(おさ)めて、四十年、一日の如し。今年、
七旬を踰(こ)え、其の術、殆ど神妙に入る。而して其の
奇效偉驗を獲て、人の耳目を駭(おどろ)かすこと、固(まこと)に宜(むべ)なるかな。
然りと雖も醫の發汗吐下、欝を開くに非ざるは莫く、
塞を達するに非ざるは莫し。又た何ぞ特(た)だ刺絡のみならんや。吐下の
及ばざる所は、此れに假りて壅欝を開達す。是れ之を得たりと爲す。
  二ウラ
醫治は專ら此に在るに非ず。而して是れも亦た醫治の
闕(か)く可からざる所なり。吾が門人、信濃の伊藤大介、
古醫方に精(くわ)し。頃(このご)ろ東朔に從いて其の術を受け、
其の説を筆記し以て四方に傳う。來りて序を予に請う。
予、之に語りて曰く:「鯀、洪水を障りて殛死す。『漢・志』、
隄障を以て下策と爲す。然りと雖も漢・唐・宋・明、能く
黄河の大患を捍(ふせ)ぐ者は、唯だ此の隄障のみ。隄障
の功は能く百穀を殖(う)え、能く萬民を育つ。則ち上古
  三オモテ
の事は以て今を律す可からざるなり。且や靜然として
病を補うこと、莊周、曾て之を言い、病に補有り、と。三代の遺言(いげん)
なり。予以謂(おもえ)く、醫治の補瀉は兩端にして、猶お車
の兩輪有るがごとし。聖人の德刑と同じくして、一も缺(か)くも不
可なり。發汗吐下、皆な是れ瀉なり。刺絡は則ち瀉
術の最も明顯なる者なり。聖人德禮の化は、
後人企て難し。而れども覇者政刑の治、其の功、
成り易し。醫家の滔滔乎として瀉術に趣く。是れも亦た
  三ウラ
世道の汚隆、時勢の然ら使むる所なり、と。予、
此れが爲に三嘆せざるを得ざるなり。
文化丁丑春二月十三日
  錦城老人加賀大田元貞才佐撰
    董齋文進書
〔文進〕〔董/齋〕
         沖鶴年鎸

 おもな参考文献:小曽戸洋『日本漢方典籍辞典』大修館書店、1999年。
  【注釋】
○荻元凱:荻野元凱(おぎのげんがい)。1737~1806。『刺絡編』、刺絡療法の解説書。全一巻。明和八(1771)年刊。 ○縣道策:江戸中期の人(生没年未詳)。越前府中の医家。名は長英、字は華山、道策は通称。奥村良筑に吐方を学び、刺絡療法にも通じた。著書『縣氏吐方』。長男(名は省、字は子修)は二代目縣道策、大田錦城が一時養嗣子になった。二男(名は蘭)は奥村良筑の養嗣子となった。//この項目、北里研究所附属東洋医学総合研究所医史学研究部の天野陽介先生による。 ○中神右内:中神琴渓(なかがみきんけい)。1744~1833。名は孚(まこと)、字は以隣(いりん)、通称右内(うない)。堂号は生々堂(せいせいどう)。門人の筆録として『生々堂医譚』『生々堂養生論』『生々堂傷寒約言』『生々堂雑記』などの書がある。
  一ウラ
○祛:とりのぞく。「はらう」が一般的な訓。 ○臺駘:上古五帝のひとり、帝嚳の時の人。汾河、洮河を治めた。『春秋左氏傳』昭公元年「臺駘能業其官、宣汾・洮」。 ○禹:五帝のひとり、帝顓頊の孫。夏王朝の創始者。黄河の治水につとめる。『孟子』滕文公上「禹疏九河、瀹濟漯、……決汝漢、排淮泗」。九河は多くの河川。濟・漯・汝・漢・淮・泗は、みな河川の名前。禹は、たくさんの河川を治水した。濟水・漯水を疏通させ、汝水・漢水を決壊させ、淮水・泗水に流し込んだ。 ○黔黎:人民。一般の人々。 ○彼昏不知:『詩経』小雅・節南山・小宛「彼昏不知」。 ○鯀:禹の父。堤防を築くことによって黄河の氾濫を治めようと試みたが、失敗した。そのため堯に殺されたともいう。 
  二オモテ
○七旬:七十。  
  二ウラ
○殛:責めて殺す。 ○漢志:『漢書』卷二十九・溝洫志第九「治河有上中下策……若乃繕完故隄、增卑倍薄、勞費無已、數逢其害、此最下策也」。 ○隄障:堤防。
  三オモテ
○靜然補病:『莊子』外物「靜然可以補病、揃滅可以休老、寧可以止遽」。 ○莊周:『莊子』の撰者とされる。 ○三代:夏・殷・周の三王朝。 ○遺言:『黄帝内経』のことか。 ○德刑:恩沢と刑罰。『左傳』宣公十二年:「叛而伐之、服而舍之、德刑成矣。伐叛、刑也。柔服、德也。二者立矣」。 ○滔滔:世の風潮にしたがって進み行くさま。
  三ウラ
○汚隆:時世風俗の盛衰。浮き沈み。 ○三嘆:何度も感嘆する。深く感心する。 ○文化丁丑:文化十四(1817)年。 ○大田元貞:1765(明和 2)~1825(文政 8・ 4・23)。名は元貞、字は公軒、通称は才佐、号は錦城。加賀大聖寺の医師・本草学者大田玄覚の子。京都の皆川淇園、江戸の山本北山に学ぶも、意に満たず、考証派となる。 ○董齋文進:姓、未詳。江東区の亀戸天神に董斎筆塚があるという。 ○沖鶴年:おきかくねん。近世後期の版木彫り師。名家の書や序跋文の摸刻など、字彫りを専らとした。生没年、伝未詳。鶴年の名を刻する作品には、文化十一年刊『諸家人名録』の亀田鵬斎序(秦星池書)、文化十四年刊三輪東朔『刺絡見聞録』の大田錦城序文、文政二年刊大窪詩仏著『西游詩艸』大田錦城序(秦星池書)、文政四年刊大田錦城著『仁説三書』源半千序(秦星池書)、松本董斎序(書も)、同年刊林国雄著『興哥考』松本董斎序(書も)など。//この項目、(c)高橋明彦 1999年4月12日 HTMLによる公開:初出 :『日本古典籍書誌学辞典』岩波書店(1999年 3月) による。 ○鎸:鐫の異体字。刻む。彫る。

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