2011年2月5日土曜日

26-4 鍼灸經驗方

26-4鍼灸經驗方
       京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『鍼灸経験方』(シ-491)
       オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』26所収

〔〕内は不読の可能性あり。[]内は文義から補った。
 (序1) 
 一オモテ
朝鮮鍼灸經驗方序
鍼灸經驗方朝鮮國名醫許任之所
著而其國首相金氏命以鏤梓布之
于四方使國人識鍼灸之要所以助
仁濟之道之書也予少時曾遊學於
朝鮮称習之餘間接醫人數聽説鍼
灸爲醫家之要又行見鍼灸醫病其
效最捷就扣其所用之方法則壹是
  一ウラ
皆因許氏經驗方學以然者也而覽
其所著要而不煩簡而無遺所謂撮
百家之要闢千古之秘者也冝哉有
夫學之者各達其術能至其妙獨以
朝鮮呼為鍼刺之最素有聲于中華
實不誣矣夫國之有彦猶山有良木
也國以彦光山以材名美哉金許二
氏以良相醫無缺救濟古人云不為
  二オモテ
良相願為良醫今顧他所為各一出
於古人所欲而長以為仁人醫國之
鑑也而其所救活終是幾億兆哉吁
嗟德孰加焉今茲以予所韞之許氏
經驗方投之于剞劂氏散之于四方
与好生諸君子共之可見金許二賢
之美遐溢异域令名不与草木朽遺
澤与天地之等壽虖術可不盡乎有覽
  二ウラ
之人日將月就能達其要能窮其妙
不汲〃於衒徇只孜〃於救濟則殆
幾於志士仁人之用心云爾
享保十年歳在乙巳暮春三月山川
淳菴書

  【訓み下し】
  一オモテ
朝鮮鍼灸經驗方序
鍼灸經驗方は、朝鮮國の名醫許任の著す所にして、
而して其の國の首相金氏命じて、以て梓に鏤(ちりば)め、〔之を〕
四方に布して、國人をして鍼灸の要を識(し)らしめ、
仁濟の道を助くる所以(ゆえん)の書なり。予、少(わか)かりし時、曾(かつ)て學に
朝鮮に遊ぶ。稱習の餘、間々(まま)醫人に接して、數々(しばしば)鍼灸は
醫家の要爲(た)ることを説(と)くことを聽く。又行々(ゆくゆく)鍼灸の病を醫して其の
效(しる)し最も捷となるを見る。就いて其の用(もちい)る所の方法を扣(たた)くときは、〔則ち〕壹に是れ
  一ウラ
皆な許氏の經驗方に因って學んで以て然る者なり。而して其の著す所を覽(み)るに、
要にして煩(わずらわ)しからず、簡にして遺(のこ)すこと無し。所謂(いわゆ)る
百家の要を撮り、千古の秘を闢(ひら)く者なり。宜(むべ)なるかな、
夫(か)の之を學ぶこと有る者。各々其の術に達し、能く其の妙に至り、獨り
朝鮮を以て、呼んで鍼刺の最と爲(す)ること、素より中華に聲(な)有ること、
實に誣(し)いず。夫(そ)れ國の彦有るは、猶お山に良木有るがごとし。
國は彦を以て光り、山は材を以て名あり。美なるかな。金・許の二
氏、良相醫を以て救濟に缺くこと無し。古人の云わく、
  二オモテ
良相爲(た)らずんば、願わくは良醫爲らんと。今ま他の爲(す)る所を顧るに、各々一つに
古人の欲する所に出でて、而して長く以て仁人醫國の鑑と爲(な)る。
而して其の救活する所、終(つい)に是れ幾(いく)億兆ぞや。吁嗟(ああ)、
德、孰(たれ)か焉(これ)に加えん。今ま茲(ここ)に予が韞(おさ)む所の許氏の
經驗方を以て、之を剞劂氏に投じ、之を四方に散じて、
好生の諸君子と之を共にす。見(みつ)つ可し、金・許二賢の
美、遐(とお)く異域に溢れ、令名、草木と〔與(とも)に〕朽ちず、遺
澤、天地と壽(ひさ)しきことを等しくすることを。虖(ああ)、術、盡くさざる可けんや。
  二ウラ
之を覽(み)ること有るの人、日に將(すす)み月々に就(な)って、能(よ)く其の要に達し、能く其の妙を窮め、
衒徇に汲汲たらず、只だ救濟に孜孜たるときは、〔則ち〕殆(ほと)んど
志士仁人の心を用いるに幾(ちか)からんと爾(しか)云う。
享保十年、歳、乙巳に在り、暮春三月、山川
淳菴書す。


  【注釋】
○行:やがて。ほどなく。 ○扣:質問する。教えを請う。
  一ウラ
○金許二氏:金氏については、次の序の注を参照。許は、撰者許任。 ○聲:名声。 ○彦:才学・徳行が他に抜きんでたひと。
  二オモテ
○不爲良相、願爲良醫:宋・呉曾『能改齋漫録』卷十三・文正公願爲良醫。宋代の名儒、范仲淹のことば。「相」は宰相。 ○醫國:国をいやす。 ○剞劂氏:印刷工。出版者。剞劂は、彫刻用の曲刀。 ○好生:生命を愛惜する美徳を持つ。 ○异:「異」の異体字。 ○遺澤:後世にのこされた恩恵・徳沢。
  二ウラ
○日將月就:精進をかさねて、やまないこと。毎日進歩して、毎月成就する。『詩經』周頌・敬之:「維予小子、不聰敬止。日就月將、學有緝熙于光明」。 ○汲汲:ひたすらつとめるさま。うそいつわりがあるさま。 ○衒徇:てらう、みせびらかすこと。 ○孜孜:つとめて怠らないさま。 ○志士仁人:理想を抱くひとと道徳仁心を持つひと。『論語』衛靈公:「志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁」。 ○享保十年:一七二五年。 ○山川淳菴:摂津大坂のひと。


  (序2)
  三オモテ
鍼灸經驗方序
此方即許太醫任之所著者也
和扁以後以醫名者世不乏人
亦各有述而其方古其訣秘自
老師或病其難曉況委巷晩出
之輩乎許太醫素稱神術平生
  三ウラ
所救活指不勝屈間多起死之
效名聲動一世刺家之流推以
爲宗今此方文乃其得乎耳存
乎心而試諸手者也微者顯之
煩者約之訛者正之凡疾病之
源委治療之要妙一開卷而便
  四オモテ
瞭然於目前可謂簡而易略而
詳矣夫按証收效莫良於藥餌
而牛溲馬勃非素畜則難辨金
石丹砂在僻郷而何獲況一服
打疉有不可期者耶鍼焫則不
然其具易備其效甚速而其方
  四ウラ
尤爲指南之捷徑苟得是方隨
証治之則是家家戸戸皆得遇
其神手也其所濟活庸可量哉
是宜與世共之以廣其傳不可
以時詘而有所靳也今首台北
渚金相國都提内局不佞適忝
  五オモテ
在下風遂將此方屬諸湖南觀
察使睦公性善而刊行之亦所
以體
聖上康濟萬姓之至意也後之
觀風者宜有以繼之歳甲申四
月内毉院提調資憲大夫議政
  五ウラ
府右參賛兼知 經筵春秋館
事五衛都捴府都捴管李景奭
謹跋
  【訓み下し】
  三オモテ
鍼灸經驗方序
此の方は、即ち許太醫任の著す所の者なり。
和扁以後、醫を以て名ある者、世々、人に乏しからず。
亦た各々述ぶること有り。而(しかれ)ども其の方、古(いにしえ)より其の訣、秘せり。
老師自(よ)りも或いは其の曉し難きを病む。況んや委巷晩出の
輩(やから)をや。許太醫、素(もと)より神術と稱す。平生
  三ウラ
救活する所、指(ゆび)勝(あ)げて屈(かが)めず。間々起死の效(しる)し多し。
名聲、一世を動かす。刺家の流、推して以て
宗と爲す。今ま此の方の文は、乃ち其の耳に得て、
心に存し、而して諸(これ)を手に試みる者なり。微なる者は之を顯(あらわ)し、
煩(わずら)わしき者は之を約にし、訛(あやま)る者は之を正し、凡そ疾病の
源委、治療の要妙、一たび卷を開きて、而して便ち
  四オモテ
目前に瞭然たり。謂(いつ)つ可し、簡にして而して易、略にして而して
詳(つまび)らかなり、と。夫れ証を按じて效(しる)しを收むるは、藥餌より良なるは莫し。
而して牛溲馬勃、素より畜(たくわ)ゆるに非れば、〔則ち〕辨じ難し。金
石丹砂、僻郷に在って、而も何ぞ獲ん。況んや一服
打疉して、期す可からざる者有るをや。鍼焫は則ち
然らず。其の具、備え易く、其の效し甚だ速なり。而して其の方
  四ウラ
尤も指南の捷徑爲(た)り。苟(いやしく)も是の方を得て、証に隨って
之を治するときは、〔則ち〕是れ家家戸戸、皆な
其の神手に遇うことを得るなり。其の濟活する所、庸(も)って量る可けんや。
是れ宜しく世と之を共にして、以て其の傳を廣くすべくして、
時を以て詘して而して靳(おし)む所有る可からず。今の首台、北
渚の金相國都提内局は、不佞適(たま)々忝(かたじけな)く
  五オモテ
下風に在り。遂に此の方を將(も)って諸(これ)を湖南の觀
察使睦公性善に屬して、而して之を刊行す。亦た
聖上、萬姓を康濟するの至意を體する所以なり。後の
風を觀ん者、宜しく以て之を繼ぐこと有るべし。歳の甲申四
月、内毉院提調、資憲大夫、議政
  五ウラ
府右參賛、兼知 經筵春秋館
事、五衛都捴府都捴管、李景奭
謹みて跋す。

  【注釋】
  三オモテ
○和扁:戦国時代秦の名医である医和(『春秋左氏伝』昭公元年)と扁鵲(『史記』扁鵲倉公伝)。 ○委巷:曲がった町村の小道。ひろく民間を指す。引伸して卑俗の意。 ○平生:生平、一生。 
  三ウラ
○指不勝屈:指を屈してすべてを数え切れない。 ○起死:起死回生。 ○源委:物事の本末。始まりから終わりまで。 
  四オモテ
○牛溲馬勃:牛溲は、車前草。水腫や腹脹の治療に用いられる。馬勃は菌類で、止血薬として用いられる。牛溲馬勃は卑賎なもののたとえ。唐・韓愈『進學解』:「玉札丹砂、赤箭青芝、牛溲馬勃、敗鼓之皮、倶收並蓄、待用無遺者、醫師之良也」。 ○金石:鉱物薬。丹薬。 ○丹砂:水銀と硫黄の天然化合物。 ○打疉:収拾。処置。 ○焫:もやす。ここでは灸。
  四ウラ
○指南:問題を解決したり、物事を行うための最もよい方途。 ○捷徑:近道。 ○詘:抑える。口ごもる。 ○首台:首臺。首相。 ○金:金瑬(1571-1648)〔김、 류〕キム・ユ か? 北渚は号。字は冠玉。本貫は順天。諡号は文忠。官職は文衡、即ち大提学。 ○不佞:不才。謙遜の辞。わたくし。 ○相國:議政府の領議政・左議政・右議政。
  五オモテ
○下風:下位にいることの比喩。配下。 ○湖南:全羅道の別名。 ○觀察使:国王に直属し、道内の守令(郡県などの長官)の監察や、勧農・救恤・登用試験・収税・軍事・裁判などの業務を担当。 ○睦性善:一六四四年六月~一六四五年六月まで全羅道観察使を務める(李羲権著『朝鮮後期地方統治行政研究』(集文堂)の附録別表1による)。 ○屬:付託する。「嘱」に同じ。 ○聖上:天子に対する尊称。 ○萬姓:百姓。人民。大衆。 ○康濟:民衆をやすらかにすくう。 ○至意:きわめて深く厚い誠、こころもち。 ○體:実行する。 ○觀風:民情を観察して、施政の得失を理解する。『禮記』王制「命大師陳詩以觀民風」。/機会を観察して臨機応変に対処する。『易經』觀卦・六三「觀我生進退」。孔穎達正義:「故時可則進、時不可則退、觀風相幾、未失其道」。  ○歳甲申:仁祖二十二年(1644)。 ○内毉院:国王のために使う薬に関する業務を担当する官庁。 ○提調:従一品。正一品は都提調。 ○資憲大夫:東西班階・宗親階・儀賓階の役職。正二品。宗親階では承憲大夫。儀賓階では通憲大夫。 ○議政府:内閣。百官を統率し、庶政を公平にし、善悪を治め、国を経理する行政府の最高機関。官職は、国家政策の決定権を持つ、正一品の領議政、左議政、右議政を設け、その下に従一品の左、右賛成、正二品の左、右参賛などの司録が設けられている。
  五ウラ
○右參賛:議政府の役職。正二品。 ○經筵:帝王が経書を聴講するのにかかわる官庁であろう。経書を講読して、論評し、研究する任務を管掌する。他の官司の官員が兼任するが、すべて文官を任用する。ただし、領事、参賛官は文官でなくとも兼任できる。官職は、正一品の領事(議政が兼任)、正二品の知事、従二品の同知事、正三品の参賛官(承旨と副提学が兼任)などがある。 ○春秋館:政事に関する記録を担当する官庁。現在の政治を記録する任務を担当する。すべて文官を任用し、他の官司の官員が兼任する。官職は、正一品の領事(領議政が兼任)、従一品の監事(左、右議政が兼任)、正二品の知事などがある。 ○事:経筵庁・春秋館の知事。 ○五衛都捴府都捴管:五衛都摠府は五衛(義興衛・龍驤衛・虎賁衛・忠佐衛・忠武衛)の軍務を総轄する官庁。李氏朝鮮後期では、五衛制はすたれ、名目のみの官庁。 ○李景奭:1595(宣祖二十八)~1671(顕宗十二)。朝鮮中期の文臣。本貫は全州。字は尚輔、号は白軒・雙溪。王族徳泉君李厚生の六代孫で同中枢府事李惟侃の子である。金長生の門人。/1613年(光海君五)進士となり、1617年増広別試に及第したが、翌年仁穆大妃の廃妃上疏に加担せず削籍されてしまった。/1623年仁祖反正後、謁聖文科に乙科で及第、承文院副正字などに登用され翌年には注書・待教を歴任、1626年(仁祖四)文科重試に壮元で合格したのち賜暇読書をした。丙子胡乱で清に降伏すると、副提学として王命を背くことができず、屈辱的な三田渡碑の碑文を書いた。1637年芸文館と弘文館の大提学を兼任、吏曹判書を経て、1641年貳師となって清に赴き昭顕世子を輔弼した。この時平安道に明の船が往来した顛末を事実通りに明らかにしろという清の命令に背いたとして清により官職への登用を禁止された。1644年復職、大司憲・吏曹判書を歴任し、1645年右議政に昇って翌年に謝恩使として清に赴いた。ついで左議政を経て、1649年(孝宗即位年)領議政に昇った。/この年金自點の密告で孝宗の北伐計画が清に知られ追及されると、自ら責任をとることを請い、清により義州白馬山城に監禁された。1651年(孝宗2)に釈放されたが、清の圧力で登用されず、1653年ようやく領中枢府事に任命され、1659年領敦寧府事となりその年に耆老所に入った。1668年(顕宗9)几杖を下賜された。/生涯『小学」と『論語』を鑑として修養し、老年には『近思録』と朱子諸書を耽読した。文章と書に特に優れており、彼の詩文は経学を根本としたものが主流をなしていた。/彼の政治的生涯は十七世紀の初期・中期に該当する仁祖・孝宗・顕宗の三代五十年にわたり、時局の裏表に絡みついた難局を直接主管した名相であったが、宋時烈など名分を重んじる人物により三田渡碑文作成のような現実的姿勢が非難されることもあった。彼自身が止揚しようとした意図とは違い晩年には次第に党争の中に深く巻き込まれていき、死後には激しい論難の対象になることもあった。/著書には『白軒集』など遺集五十巻余が刊行され、趙絅・趙翼らとともに『長陵誌状』を編纂した。書には三田渡碑文があり、この他左相李廷龜碑文・吏判李明漢碑・知敦寧鄭廣成碑文などがある。/謚号は文忠で、南原の方山書院に祭享された。
・以上、李氏朝鮮に関する注については、朴永圭『朝鮮王朝実録』(尹淑姫、神田聡訳、新潮社、一九九七年)付録を引用(数字などの表記を若干かえた)し、また
(大河の釣り人 http://www.geocities.co.jp/nkks437758/index.html)
kaikenさんに教えを請うた。

  (序3)
  六オモテ
鍼灸經驗方序
經曰邪之所湊其氣必虚何則凡人
疾病皆由於飲食失節酒食過度風
寒暑濕乘虚鑠入經絡榮衞不行故
也治之之法專在於明知其部分必
以鍼灸補虚瀉實各調其氣血也觀
其部分之色多青則痛多黒則風痺
多白則寒多黄赤則熱風濕寒熱皆
  六ウラ
現於五色而寒多則筋攣骨痛熱多
則筋緩骨消惡寒而身寒者冷也惡
寒而身熱者熱也且頭無冷痛腹無
熱痛凡痛善行數變者風也痛在一
處而皮膚赤熱者膿兆也或有皮膚
外浮而不痒不痛者痰也頭目眩暈
者痰挾風也痰入心竅則精神昏迷
言語錯亂脾胃不和則不能飲食中
  七オモテ
風則亦言語蹇澁痰厥則亦頭痛嘔
吐大槩諸痛痒瘡瘍皆屬心諸風掉
眩皆屬肝諸濕腫滿皆屬脾諸咳氣
喘皆屬肺諸筋骨痛皆屬腎諸節皆
屬膽此固醫家之大綱察病之捷逕
而亦愚平生所用要訣也凡人手足
各有三陽三陰脉合爲十二經手之
三陰從臟走之手手之三陽從手走
  七ウラ
至頭足之三陽從頭下走至足足之
三陽從足上走入腹脉絡傳注周流
不息故經脉者通陰陽以榮於一身
者也其始從中焦注手太陰陽明陽
明注足陽明太陰太陰注手少陰太
陽太陽走足太陽少陰少陰注手心
主厥陰少陽少陽注足少陽厥陰厥
陰復還注手太陰其氣常以平朝爲
  八オモテ
紀晝二十五度夜二十五度與漏水
下百刻爲配晝夜流行與天同度終
而復始行於筋骨膚腠之間比之水
行谿谷如或有物碍滯則水不能行
必待開疏而後乃能流行也觀其証
勢隨時應變疏其滯通其塞須方大
禹開川導水之義乃可却病經曰醫
者意也或若膠滯不知變化則不可
  八ウラ
與論病論病尚且不可況望其能治
乎必得之於心應之於手運意轉換
各隨其經從陽引陰從陰引陽左之
右右之左以鍼以灸則必有其效矣
經曰能與人規矩不能與人巧若論
陰陽則背爲陽腹爲陰左爲陽右爲
陰外爲陽内爲陰女子反是背爲陰
腹爲陽左爲陰右爲陽外爲陰内爲
  九オモテ
陽也臨病將治必察部分經絡井滎
兪經合及臟腑募原會之穴診其動
脉搓捻催氣然後行其先陽後陰補
瀉迎隨之法則其驗若響應矣所謂
補者當刺五分之穴則鍼入二分停
少時次入二分又停少時次入一分
令患人吸而出鍼即以手按住鍼孔
保其眞氣是所謂補也瀉者當刺五
  九ウラ
分之穴則入鍼五分停少時出鍼二
分又停少時出鍼二分又停少時令
患人呼而出鍼引其邪氣迎而奪之
是所謂瀉也灸亦有補瀉之法艾火
至肉以待自滅謂補也艾火不得自
滅旋即掃卻謂瀉也自古用手之法
非不詳盡後人未達其意徒務量穴
之分寸不曉動脉之應手不取對病
  十オモテ
要穴而亂刺諸經未祛病源徒泄眞
氣此正古人所謂廣絡原野冀獲一
兎其可得乎愚以不敏少爲親病從
事醫家積久用功粗知門戸及今衰
老仍恐正法之不傳乃將平素聞見
粗加編次先著察病之要并論轉換
之機發明補瀉之法校正取之訛又
著雜論若干且記試效要穴及當藥
合爲一卷非敢自擬於古人著述只
爲一生苦心不忍自棄覽者若能加
之意則庶於急活命或有少補云爾
河陽許任識

  【訓み下し】
  六オモテ
鍼灸經驗方序
經に曰く、邪の湊(あつ)まる所、其の氣必ず虚す、と。何んとなれば則ち凡そ人の
疾病は皆な飲食、節を失し、酒食、度に過ぎ、風
寒暑濕、虚に乘じて鑠(しみ)て經絡に入るに由って、榮衞行(めぐ)らざる故なり。
之を治する〔の〕法、專ら明らかに其の部分を知り、必ず
鍼灸を以て、虚を補い、實を瀉し、各々其の氣血を調うるに在り。
其の部分の色を觀るに、青多きときは〔則ち〕痛み、黒多きときは〔則ち〕風痺し、
白多きときは〔則ち〕寒し、黄赤多きときは〔則ち〕熱し、風濕寒熱皆な
  六ウラ
五色に現る。而して寒多きときは〔則ち〕筋攣骨痛し、熱多きときは
〔則ち〕筋緩骨消す。惡寒して而して身寒する者は冷(ひえ)なり。惡
寒して而して身熱する者は熱なり。且つ頭に冷痛無く、腹に
熱痛無し。凡そ痛み善く行き、數(しば)々變ずる者は風なり。痛み
一處に在って、而して皮膚赤く熱する者は膿の兆(きざし)なり。或いは皮膚
外に浮くこと有って、而して痒からず痛からざる者は痰なり。頭目眩暈する
者は痰、風を挾むなり。痰、心竅に入るときは〔則ち〕精神昏迷し、
言語錯亂す。脾胃和せざるときは〔則ち〕飲食すること能わず。中
  七オモテ
風は〔則ち〕亦た言語、蹇澁し、痰厥も則ち亦た頭痛、嘔
吐す。大概諸の痛痒瘡瘍は、皆な心に屬し、諸風掉
眩は、皆な肝に屬し、諸濕腫滿は、皆な脾に屬し、諸咳氣
喘は、皆な肺に屬し、諸の筋骨痛は、皆な腎に屬し、諸節[痛]は、皆な
膽に屬す。此れ固(まこと)に醫家の大綱、察病の捷逕なり。
而して亦た愚が平生用いる所の要訣なり。凡そ人の手足、
各々三陽三陰の脉有り。合して十二經と爲す。手の
三陰は、臟從り走って手に之き、手の三陽は、手從り走って
  七ウラ
頭に至り、足の三陽は、頭從り下り走って足に至り、足の
三陽は、足從り上り走って腹に入る。脉絡傳注し、周流して
息(やす)まず。故に經脉は、陰陽に通じて以て一身に榮する
者なり。其の始め、中焦從り手の太陰陽明に注ぎ、陽
明は足の陽明太陰に注ぎ、太陰は手の少陰太
陽に注ぎ、太陽は足の太陽少陰に走り、少陰は手の心
主厥陰少陽に注ぎ、少陽は足の少陽厥陰に注ぎ、厥
陰は復た還(かえ)って手の太陰に注ぐ。其の氣、常に平朝を以て
  八オモテ
紀と爲す。晝(ひる)、二十五度、夜、二十五度、漏水の
下ること百刻と〔與(とも)に〕配と爲す。晝夜流行して天と度を同じうし、終って
而して復た始まり、筋骨膚腠の間に行く。之を水の
谿谷に行くに比す。如(も)し或いは物有って碍(さ)え滯らすときは〔則ち〕水、行くこと能わず、
必ず開疏を待って、而して後に乃ち能く流行す。其の証勢を觀(み)、
時に隨い、變に應じて、其の滯を疏し、其の塞を通ず。須(すべか)らく大
禹の川を開き、水を導くの義に法(のつと)るべし。乃ち病を却く可し。經に曰く、醫は
意なり、と。或いは若(も)し膠滯して變化を知らざるときは〔則ち〕與(とも)に病を論ず可からず。
  八ウラ
病を論ずるとも、尚お且つ不可なり。況(いわ)んや其の能く治するを望まんや。
必ず之を心に得て、之を手に應ず。運意轉換、
各々其の經に隨い、陽從り陰に引き、陰從り陽に引き、左は右に之き、
右は左に之き、以て鍼し、以て灸するときは〔則ち〕必ず其の效(しるし)有り。
經に曰く、能く人に規矩を與(あた)うれども、人に巧を與うること能わず、と。若し
陰陽を論ずるときは〔則ち〕背は陽爲(た)り、腹は陰爲り。左は陽爲り、右は陰爲り。
外は陽爲り、内は陰爲り。女子は是れに反す。背は陰爲り、
腹は陽爲り。左は陰爲り、右は陽爲り。外は陰爲り、内は陽爲り。
  九オモテ
病に臨んで將に治せんとせば、必ず部分經絡、井滎
兪經合、及び臟腑募原會の穴を察し、其の動脉を診し、
搓捻して氣を催し、然して後、其の先陽後陰、補瀉迎隨の法を行うときは〔則ち〕
其の驗(しるし)、響の應ずるが若(ごと)し。所謂る
補とは、五分を刺すの穴に當たって、則ち鍼入るること二分、停(とど)むること
少しく時あって、次に入るること二分、又た停むること少しく時あって、次に入るること一分、
患人をして吸せしめて、而して鍼を出だし、即ち手を以て鍼孔を按住し、
其の眞氣を保す。是れ所謂る補なり。瀉は、五分を刺すの穴に當たって、
  九ウラ
〔則ち〕鍼を入るること五分、停むること少しく時して、鍼を出すこと二
分、又た停むること少しく時して、鍼を出だすこと二分、又た停むること少しく時して、
患人をして呼せしめて、而して鍼を出だし、其の邪氣を引き、迎えて而して之を奪う。
是れ所謂る瀉なり。灸も亦た補瀉の法有り。艾火、
肉に至って以て自ら滅(きゆ)るを待つを補と謂う。艾火、自ら滅(きゆ)ること得せしめず、
旋(かえ)って即ち掃卻するを瀉と謂う。古(いにしえ)自り手を用いるの法、
詳らかに盡さざるに非ず。後人未だ其の意に達せず。徒(いたず)らに穴を量るの
分寸を務めて、動脉の手に應ずるを曉(さと)らず、病に對する要穴を取らずして、
  十オモテ
而して諸經を亂刺し、未だ病源を祛(さ)らず、徒(いたず)らに眞氣を泄す。
此れ正に古人の所謂る廣く原野を絡(まと)って、一兎を獲んことを冀(こいねが)う。
其れ得可(うべ)けんや。愚、不敏を以て少(わか)くして親病の爲に
醫家に從事し、久しきを積みて功を用う。粗(あら)々門戸を知る。今に及んで衰
老せり。仍って正法の傳わらざらんことを恐る。乃ち平素の聞見を將(も)って、
粗(あら)々編次を加え、先きに察病の要を著し、并びに轉換の機を論じ、
補瀉の法を發明し、之れが訛(あやま)りを取ることを校正し、又た
雜論若干(そくばく)を著し、且つ試效の要穴及び當藥を記して、
合して一卷と爲す。敢(あえ)て自(みずか)ら古人の著述に擬するに非ず。只だ
一生の苦心、自ら棄つるに忍びざるが爲なり。覽ん者、若(も)し能く
之が意を加ふるときは〔則ち〕庶(ねがわ)くは急に命を活するに於いて、或いは少なき補い有らんと、爾(しか)か云う。
河陽の許任識(しる)す。


  【注釋】
  六オモテ
○經曰:『素問』評熱病論。 
  六ウラ
○而多寒則筋攣骨痛:『素問』皮部論(56)を参照。 ○凡痛善行:『素問』風論(42)を参照。 
  七オモテ
○大槩諸痛痒瘡瘍:「槩」は「概」の異体字。以下、『素問』至真要大論(74)を参照。 ○諸節皆屬膽:『霊枢』経脈や『察病要訣』などによれば、「節」の下、「痛」を脱するか。 ○愚:わたくし。謙遜語。
  八オモテ
○大禹:夏禹の美称。夏を開国した君主。顓頊の孫、姓は姒氏、禹と号す。洪水を治めて功有り、舜の禅譲を受けて天子となる。 ○醫者意也:『金匱玉函經』卷一・證治總例など。
  八ウラ
○從陽引陰:『素問』陰陽応象大論(05)「故善用鍼者、從陰引陽、從陽引陰、以右治左、以左治右」。 ○經曰:『孟子』盡心下「梓匠輪輿能與人規矩、不能使人巧」。
  九オモテ
○搓捻:ひねる。ねじる。 
  十オモテ
○廣絡原野:『唐書』巻二百四・列傳第一百二十九・方技・甄權「今之人不善為脈、以情度病、多其物以幸有功、譬獵不知兔、廣絡原野、冀一人獲之、術亦疏矣」。 ○門戸:出入りする上で必要な要点。 ○加意:注意する。心に留める。 ○許任:許任(ホ・イム)は、李氏朝鮮時代の医者。本貫は陽川。鍼灸に優れ、朝鮮最高の鍼医との評がある。許浚と同時代の人であり、医官録(1612年)にともに記録されている。/宣祖末期から光海君、仁祖にわたって王朝に仕えている。/宣祖の時、鍼灸で王を治療して功を立て、東班の位階を受けた。1616年、永平県令に任命され、楊州牧使、富平府使を経て、1622年、南陽府使となった。/著書に『鍼灸経験方』(仁祖二十二年、1644年)、『東医聞見方』などがある。ja.wikipedia.

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