2026年8月23日日曜日

【意訳】江戸時代鍼灸文献序跋集6-1 鍼道發秘

 6-1 鍼道發秘  葦原英俊撰 

    京大富士川文庫所蔵(シ/五八九)

     https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00003558

 

鍼道發秘序

醫有十三科鍼居其一焉夫疾病之初發也

大抵可鍼刺而已其既盛也可以湯藥治之

也鍼刺葢因輕揚之因重減之因衰彰之故

曰善用鍼者從陰引陽從陽引陰以右治左

以左治右以我治彼以表知裏以觀過不及

之理其從引左右彼我表裏及補瀉之術必

  一ウラ

有至理精蘊而存焉不然則焉得有若龎安

時診桐城孕婦七日不産而鍼其虎口使縮

手而遽下甄權治魯州刺史庫狄嶔風痺不

得挽弓針肩髃即可射者哉扁之言曰得之

於手而應於心口不能言有數而存焉於其

間可謂至言矣鍼之徃來刺之淺深進退遲

速動靜緩急如魚鼈之觸鈎若鳥銃之發炮

  二オモテ

通身貫徹手足瞤動譬諸良將布陣機會交

投矣葦原英俊幼而喪明研精鍼刺善練九

鍼尤工於毫鍼員利三稜等之術也是以王

侯大人固勿論焉士農工商之就於家而請

治者日以百數焉今茲辛卯夏著鍼道發秘

齎來乞序於余ヒ語之以謝肇淛之言曰古

之醫皆以鍼石灸炙為先藥餌次之今世灸

  二ウラ

艾唯施之風痺急卒之症鍼者百無一焉世

之專此技者苟讀斯書而知其有至理精蘊

也則鍼道復古我於發秘而見之英俊曰謹

奉教因書為序

天保二年重光單閼秋七月 〔この行一字擡頭〕


東都醫官 岡本玄冶叔保撰 

        〔印形黒字「橘藏/之印」、白字「字曰/叔保」〕


  【訓み下し】

鍼道發秘の序

醫に十三科有り。鍼、其の一に居す。夫れ疾病の初めて發(お)こるや、大抵、鍼刺して已(い)やす可し。其の既に盛んなるや、湯藥を以て之を治す可し。鍼刺は、蓋し輕に因って之を揚げ、重に因って之を減ず、衰うるに因って之を彰す。故に曰く「善く鍼を用いる者は、陰從り陽を引き、陽從り陰を引き、右を以て左を治し、左を以て右を治し、我を以て彼を治し、表を以て裏を知り、以て過不及の理を觀す」と。其の從引左右、彼我表裏、及び補瀉の術、必ず

  一ウラ

至理精蘊有りて存す。然らずんば〔則ち〕焉(いず)くんぞ龎安時、桐城の孕婦、七日産せざるを診して、其の虎口に鍼し、手を縮せしむれば、遽かに下り、甄權、魯州刺史庫狄嶔、風痺弓を挽くことを得ざるを治するに、肩髃に針して即ち射る可き若き者を有るを得んや。扁の言に曰く「之を手に得て、心に應じ、口、言うこと能わず、數有りて其の間に存す」と。至言と謂(いい)つ可し。鍼の往來、刺の淺深、進退遲速、動靜緩急、魚鼈の鈎に觸るるが如く、鳥銃の炮を發するが若(ごと)し。

  二オモテ

通身貫徹、手足瞤動、諸(これ)を良將の陣を布くに譬うれば、機會交(こも)ごも投ずるがごとし。葦原英俊、幼にして明を喪い、鍼刺を研精し、善く九鍼を練し、尤も毫鍼、員利、三稜等の術に工(たくみ)なり。是(ここ)を以て王侯大人は固(もと)より論勿(な)し、士農工商の家に就いて治を請う者、日に百を以て數う。今茲辛卯の夏、鍼道發秘を著し、齎(もたら)し來たって、序を余に乞う。余、之に語るに、謝肇淛の言を以て曰く「古の醫は、皆な鍼石灸炙を以て先と為し、藥餌は之に次ぐ。今世は灸

  二ウラ

艾唯だ之を風痺急卒の症に施し、鍼する者は百に一無し」と。世の此の技を專らにする者、苟も斯の書を讀みて、其の至理精蘊有るを知らば、〔則ち〕鍼道の古に復すること、我れ發秘に於いて之を見る。英俊曰く「謹んで教えを奉ず」と。因って書して序と為す。

天保二年重光單閼 秋七月


東都醫官 岡本玄冶叔保撰す


 【注釋】 

 ○醫有十三科‥『元史』志 刑法二 學規「諸醫人於十三科内、不能精通一科者、不得行醫」。『明史』志 職官三 太醫院「太醫院掌醫療之法。凡醫術十三科、醫官、醫生、醫士、專科肄業、曰大方脈、曰小方脈、曰婦人、曰瘡瘍、曰鍼灸、曰眼、曰口齒、曰接骨、曰傷寒、曰咽喉、曰金鏃、曰按摩、曰祝由」。 ○葢‥「蓋」の異体。 ○因輕揚之……‥『素問』陰陽應象大論「病之始起也、可刺而已。……故因其輕而揚之、因其重而減之、因其衰而彰之」。 ○故曰‥陰陽應象大論「故善用鍼者、從陰引陽、從陽引陰、以右治左、以左治右、以我知彼、以表知裏、以觀過與不及之理、見微得過、用之不殆」。 一ウラ ○至理‥至高無上の道理。 ○精蘊‥ことわりの奥深いところ。精奧。 ○龎安時‥『宋史』列傳 方技下「龐安時、字安常、蘄州蘄水人……嘗詣舒之桐城、有民家婦孕將産、七日而子不下、百術無所效。安時之弟子李百全適在傍舍、邀安時往視之。纔見、即連呼不死、令其家人以湯温其腰腹、自為上下拊摩。孕者覺腸胃微痛、呻吟間生一男子。其家驚喜、而不知所以然。安時曰、兒已出胞、而一手誤執母腸不復能脱、故非符藥所能為。吾隔腹捫兒手所在、鍼其虎口、既痛即縮手、所以遽生、無他術也。取兒視之、右手虎口鍼痕存焉。其妙如此」。 ○甄權‥『新唐書』列傳・方技「甄權、許州扶溝人。以母病、與弟立言究習方書、遂為高醫。仕隋為祕書省正字、稱疾免。魯州刺史庫狄嶔風痺不得挽弓、權使彀矢嚮堋立、鍼其肩隅(ママ)、一進。曰、可以射矣。果如言」。 ○扁之言曰‥『莊子』天道にみえる。3-3 鍼科發揮の注を参照。 ○徃‥「往」の異体。 ○魚鼈‥魚とスッポン。広く水中に棲む生物を指す。 ○鈎‥「鉤」の異体。釣り針。 ○鳥銃‥鳥嘴銃。鳥槍。銃の一種。近くの鳥なら粉砕され、やや離れたところの鳥はやっと原型をとどめる、ということで命名された。殺傷力が強い。 ○發炮‥発砲に同じ。 二オモテ ○通身‥全身。 ○貫徹‥貫通。通じて。 ○瞤動‥「瞤」は、まぶたがひくひく動いたり、筋肉が痙攣することをいうが、ここでは単に動くことか。あるいは「蠢動」に通じるか。 ○機會‥適当な時機。 ○葦原英俊‥横田觀風『新版 鍼道發秘講義』(日本の医学社、二〇〇六年、大浦慈觀、町泉寿郎論文)を引用する。補足するのみ。寛政九(一七九七)年四月十一日~安政四(一八五七)年一月二十四日。文政四(一八二一)年検校。天保三(一八三二)年法眼となり、葦原玄道と改めた。本姓は木曾氏。幼名は酒造太郎。名は義長。剃髪して英俊と改めた。 ○幼而喪明‥七歳のときに失明。 ○研精‥緻密に研究する。 ○王侯大人‥藩主などの身分の高いひと。次の井田信齋の跋文を参照。 ○就‥おもむく。 ○今茲‥ことし。 ○辛卯‥天保二(一八三一)年。 ○謝肇淛‥明のひと。『五雜組(俎)』十六卷を著す。清代は禁書となった。 ○言曰‥『五雜組』卷五「古之醫、皆以針石灸艾為先、藥餌次之。今之灸艾、惟施之風痹急卒之症、針者百無一焉、石則絶不傳矣」。 二ウラ ○天保二年‥一八三一年。辛卯年。 ○重光‥辛の異名。 ○單閼‥卯の異名。 ○東都‥江戸。 ○醫官‥幕府の医師。 ○岡本玄冶叔保‥八世、法印崇室。叔保は字(横田觀風)。初代は、天正十五年生まれ。曲直瀬(まなせ)玄朔(げんさく)にまなぶ。元和九年将軍德川秀忠の侍医となり、のち将軍德川家光の病をなおし、千石の領地をえる。京都と江戸を往復、京都にいるときは天皇を診療した。正保二年四月二十日死去。五十九歳。京都出身。名は宗什、諸品。号は啓迪院(『日本人名大辞典』+Plus)。橘は、姓。


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鍼道發秘の序

醫に十三科有り。

 【意訳】医学には(『元史』や『明史』にもあるように)十三の科目がある。

鍼、其の一に居す。

 【意訳】鍼は,その中の一つである。

夫れ疾病の初めて發(お)こるや、大抵、鍼刺して已(い)やす可し。

 【意訳】そもそも疾病が初発のときは,(『素問』陰陽応象大論(05)にもあるように,)大抵のものは,鍼を刺せば治るものである。

其の既に盛んなるや、湯藥を以て之を治す可し。

 【意訳】それが初発の時期を過ぎて盛んになっても,湯液を用いれば治すことができる。

鍼刺は、蓋し輕に因って之を揚げ、重に因って之を減ず、衰うるに因って之を彰す。

 【意訳】鍼による施術は,おおむね(『素問』陰陽応象大論にあるように,)軽度で体表に近いところに病邪がある場合は,これを引き上げ,重度で深いところに病邪がある場合は,これを瀉す。気血が衰えている場合は,これを補益して顕著にさせる。

故に曰く「善く鍼を用いる者は、陰從り陽を引き、陽從り陰を引き、右を以て左を治し、左を以て右を治し、我を以て彼を治し、表を以て裏を知り、以て過不及の理を觀す」と。

 【意訳】そのため陰陽応象大論に「善く鍼術を用いる者は,陰にある邪を陽に導いて治し,陽にある邪を陰に導いて治し,右にある病をその対応する左の場所で治し,左にある病をその対応する右の場所で治し,正常な状態にある自分を基準として病者を治し,体表の状態から,内部の病的状態を知り,病邪の大過・精気の不及のことわりを観察する」とある。

其の從引左右、彼我表裏、及び補瀉の術、必ず至理精蘊有りて存す。

 【意訳】その左右に病邪を導き治療すること,患者と治療者,体表と体内,および補瀉の術には,かならず至高の道理,奥義というものが存在する。

然らずんば〔則ち〕焉(いず)くんぞ龎安時、桐城の孕婦、七日産せざるを診して、其の虎口に鍼し、手を縮せしむれば、遽かに下り、甄權、魯州刺史庫狄嶔、風痺弓を挽くことを得ざるを治するに、肩髃に針して即ち射る可き若き者を有るを得んや。

 【意訳】そういうものがなかったしたら,どうして龐安時が舒州桐城の妊婦が七日間難産に苦しんでいたのを診察して,(妊婦の腹部の体表から体内にある胎児の)合谷穴に鍼を刺すと,胎児が母の腸をつかんでいた手をすくめたので,すぐに生まれたり,甄権が魯州の刺史である庫狄嶔が風痺(風湿の邪による関節炎)にかかって弓を引けなくなっていたのを,肩髃に刺鍼したところ,たちまち弓を引き矢を射ることができるようになったというようなことがあり得ようか。

扁の言に曰く「之を手に得て、心に應じ、口、言うこと能わず、數有りて其の間に存す」と。

 【意訳】車大工の扁は,「(技術は)実践を通して身につけるもので,それは心で理解できるが,言葉で表現することはできない。その技術はその微妙な間に存在する」と言った。

至言と謂(いい)つ可し。

 【意訳】まさに最も道理にかなったことばということができる。

鍼の往來、刺の淺深、進退遲速、動靜緩急、魚鼈の鈎に觸るるが如く、鳥銃の炮を發するが若(ごと)し。

 【意訳】鍼の刺入・抜出,刺す深さの違い,その進めると退けると,早い遅い,動作の緩急などは,魚が釣り針に触れるような(微妙な)ものであり,またライフルを発砲するような(激しい)ものでもある。

通身貫徹、手足瞤動、諸(これ)を良將の陣を布くに譬うれば、機會交(こも)ごも投ずるがごとし。

 【意訳】全身が一体となった,手足の動き,これを優れた武将の布陣にたとえれば,適切な時に部隊を投入するようなものである。

葦原英俊、幼にして明を喪い、鍼刺を研精し、善く九鍼を練し、尤も毫鍼、員利、三稜等の術に工(たくみ)なり。

 【意訳】葦原英俊は,幼くして失明してから,鍼術を緻密に研究し,九鍼の用法をよく修練し,とりわけ毫鍼・員利鍼・三稜鍼の技術に優れている。

是(ここ)を以て王侯大人は固(もと)より論勿(な)し、士農工商の家に就いて治を請う者、日に百を以て數う。

 【意訳】そういうわけで,将軍や大名は論ずるまでもなく,士農工商のあらゆる家業のものが治療を求めたが,その数は一日に百人を数えるほどである。

今茲辛卯の夏、鍼道發秘を著し、齎(もたら)し來たって、序を余に乞う。

 【意訳】今年,天保二年(1831)の夏に,『鍼道発微』を著わして,それを持参してわたくしに序文を書いてほしいと要請された。

余、之に語るに、謝肇淛の言を以て曰く「古の醫は、皆な鍼石灸炙を以て先と為し、藥餌は之に次ぐ。今世は灸艾唯だ之を風痺急卒の症に施し、鍼する者は百に一無し」と。

 【意訳】わたくしは,葦原英俊に明·謝肇淛の『五雑組』の言葉を引用して「古代の医者は,鍼・砭石・灸焫による治療を第一として,薬物による治療はその次の手段であった。現代では,風痺などの急性症状に施灸するだけで,鍼で治療する人は,百人に一人もいない」と言った。

世の此の技を專らにする者、苟も斯の書を讀みて、其の至理精蘊有るを知らば、〔則ち〕鍼道の古に復(かえ)ること、我れ發秘に於いて之を見る。

 【意訳】(さらに,)「今の世で,この鍼術を専門にする人が,もしこの書を読んでその理を尽くした奥義を知ることになったら,鍼の道が古(いにしえ)(の理想的な状態)にかえることを,わたくしはこの『鍼道発微』を見て確信するものである」と。

英俊曰く「謹んで教えを奉ず」と。

 【意訳】葦原英俊は,「謹んで先生の教えを忠実に守ります」と言った。

因って書して序と為す。

 【意訳】そういうわけで,このことを書き記して序とする。

天保二年重光單閼 秋七月

 【意訳】天保二年辛卯年(1831),秋七月

東都醫官 岡本玄冶叔保撰す

 【意訳】江戸の奥医師 岡本玄冶(八世),字は叔保,これを著わす。


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跋(井田信齋)

葦原検校英俊一系出於木曾義仲義仲十

九世孫曰義昌豊大閤時移封於下總阿知

戸食邑一萬石其子曰義利有故國除義利

六世孫曰義忠不事諸侯以劔法教授焉其

子忠大夫義富繼業遊歷諸國文化元年卒

于東都是英俊一之父也英俊幼而頴悟七

  一ウラ

歳喪明冒葦原氏以鍼醫為業深造其妙遊

事於松代侯賜月俸二十口謁尾紀二公又

應 儀同公及德川兵部卿之召他列侯貴

戚之請治療者不可勝數也居恆慨然歎世

醫之不熟鍼術而多誤人命矣今茲天保辛

卯夏著此書來乞言余曰醫之不熟術者臨

於死生緩急之地坐見其死草根木皮亦無

  二オモテ

所施矣若夫魏安行妻風痿十年不起王克

明一針而動履如初朱彦修治女子之病衆

患皆除唯頰丹不滅葛可久刺乳立消則術

妙皆入於神境矣是以軒轅岐伯娓娓論而

不置焉世醫之讀此書苟得肯綮焉則譬猶

射者交射矢鋒相觸墜於地而塵不揚御者

取道致遠氣力有餘未甞覺山谷之嶮原隰

  二ウラ

之夷視之一也鍼道發秘於是乎出焉英俊

甞建碑於粟津使余記祖先之事蹟焉因書

為跋


    東都    信齋井田寛仁甫撰


  【訓み下し】

葦原検校英俊一は、系、木曾義仲に出づ。義仲十九世の孫を義昌と曰う。豐大閤の時、封を下總阿知戸に移す。食邑一萬石。其の子を義利と曰う。故有り、國除く。義利六世孫を義忠と曰う。諸侯に事(つか)えず。劔法を以て教授す。其の子忠大夫義富、業を繼ぎて諸國に遊歷す。文化元年、東都に卒す。是れ英俊一の父なり。英俊幼にして頴悟、七

  一ウラ

歳、明を喪う。葦原氏を冒す。鍼醫を以て業と為(す)。深く其の妙に造(いた)る。松代侯に遊事して、月俸二十口を賜う。尾紀二公に謁し、又た儀同公及び德川兵部卿の召に應ず。他の列侯貴戚の治療を請う者、勝(あ)げて數う可からざるなり。居恒慨然として世醫の鍼術に熟せず、而して多く人命を誤ることを歎ず。今茲天保辛卯の夏、此の書を著し、來たって言を乞う。余曰く、醫の術に熟せざる者は、死生緩急の地に臨んで、坐(い)ながら其の死を見る。草根木皮も、亦た

  二オモテ

施す所無し。夫(か)の魏安行の妻、風痿十年起たず、王克明、一たび針して、而して動履、初めの如く、朱彦修、女子の病を治するに、衆患皆な除くも、唯だ頰丹滅せず、葛可久、乳に刺して立ちどころに消するが若きは、則ち術の妙、皆(とも)に神境に入ればなり。是(ここ)を以て軒轅岐伯、娓娓として論じて置かず。世醫の此の書を讀みて、苟も肯綮を得るときは、〔則ち〕譬えば猶お射者交ごも射て、矢鋒相い觸れ、地に墜つるも塵揚らず、御者、道を取って遠を致し、氣力餘り有り、未だ嘗て山谷の嶮、原隰

  二ウラ

の夷を覺えず、之を視ること一なるがごとくなり。鍼道發秘、是(ここ)に於いて出づ。英俊嘗て碑を粟津に建つ。余をして祖先の事蹟を記せしむ。因って書して跋と為(す)。


    東都    信齋井田寛仁甫撰す


 【注釋】 

 ○木曾義仲‥源(みなもとの)義仲(よしなか)の通称。久寿元(一一五四年)~元暦元年一月二十日(一一八四年三月四日)。平安時代末期の武将。源為義の子義賢の次男(『朝日日本歴史人物事典』杉橋隆夫)。 ○義昌‥木曾義昌(天文九(一五四〇)~文禄四年三月十七日(一五九五年四月二十六日))。安土桃山時代の武将。信濃国(長野県)木曾の領主義康の子。伊予守、左馬頭。弘治元(一五五五)年に甲斐(山梨県)の武田信玄に下り、その娘を妻とした。武田氏のもとで支配域を拡大し、木曾郡全域を領した。武田氏に衰えがみえ始めると、いち早く織田信長に内通する。天正十(一五八二) 年二月これを知った武田勝頼の軍が木曾に攻めてくると、織田信忠の援軍を得て鳥居峠で破った。同年六月信長から安曇・筑摩両郡を加増されたが、六月に信長が死んだため実際の支配はできず、二郡の領有を小笠原貞慶と争うことになる。同十八年の小田原攻めののちは德川家康の関東移封に従い、下総の海上郡に一万石を領して網戸(千葉県旭市)に居館を構えた。山梨県では裏切り者とされ、木曾では勇敢な領主とされるが、小領主として戦国時代を泳ぎ渡った典型的な人物である。なお、没した日を十三日とする説もある。∧参考文献∨『岐蘇古今沿革志』『木曾福島町史』(『朝日日本歴史人物事典』笹本正治)。 ○豊大閤‥豐臣秀吉。天文六年二月(一五三七)~慶長三年八月一八日(一五九八年九月十八日)。安土桃山時代の武将(『朝日日本歴史人物事典』林屋辰三郎)。 ○下總‥現在の千葉県北部と茨城県の南部にあたる。 ○阿知戸‥あじと。 ○食邑‥領地。 ○義利‥一五七七~一六三九。織豊時代の武将。天正五年生まれ。木曾義昌(よしまさ)の長男。母は武田信玄の娘眞龍院。天正十八年下総(しもうさ)蘆戸(あじと)(千葉県)一万石をつぐ。慶長五年関ケ原の戦いで石田三成方につき、所領没収、追放となった。叔父木曾義豐を殺害したためともいわれる。寛永十六年死去。六十三歳。通称は仙三郎(『日本人名大辞典』+Plus)。 ○有故國除‥右の注を参照。 ○義忠‥天明二年没。『新版』三三五頁。 ○不事諸侯‥大名に仕官しない。浪人。 ○忠大夫義富‥ ○文化元年‥一八〇四年。 ○卒‥死亡する。 ○東都‥江戸。 ○頴悟‥穎悟。聡明なることひとに過ぐるをいう。 一ウラ ○喪明‥失明。 ○冒‥他人の姓を名乗る。 ○葦原氏‥父の後妻の姓。勾当叙任を期に葦原氏を称す。 ○造‥至る。到達する。 ○遊事‥つかえる。「遊」は「(故郷を離れて)仕官する」意。 ○松代侯‥松代(まつしろ)藩は、江戸時代、信濃国埴科郡松代町にあった藩。眞田家。六代、幸公。七代、幸專(ゆきたか)。八代、幸貫(ゆきつら)。 ○月俸二十口‥二十人扶持。幕府では、一人扶持で一日当たり男五合、女三合の玄米が毎月支給され、他藩もこれにならった。 ○尾紀二公‥尾張藩と紀州和歌山藩の藩主。 ○儀同公‥一橋家第二代当主、治濟(はるさだ)。 ○德川兵部卿‥第十一代将軍、德川家齊。 ○他列侯貴戚‥町論文によれば、鍋島侯など。 ○居恆‥日常。つねに。「恆」は「恒」の異体。 ○慨然‥感慨深く。 ○世醫‥代々医学をもって職業としているひと。 ○誤人命‥ひとの生命を傷つける。 ○今茲‥ことし。 ○天保辛卯‥天保二(一八三一)年。 ○乞言‥教えの言葉を請い求める。ここでいう「言」とは、序跋。 ○死生‥死亡。 ○緩急‥危急。緊急のとき。 ○坐‥空しく。何の対処もとれずにいる。 ○草根木皮‥薬物。 二オモテ ○若夫‥~に関しては。 ○魏安行‥宋、饒州楽平のひと。字は彦成。滁州知などを歴任。 ○王克明‥『宋史』列傳第 方技下「王克明、字彦昭、其始饒州樂平人、後徙湖州烏程縣。紹興、乾道間名醫也。……鍼灸尤精……魏安行妻風痿十年不起、克明施鍼、而歩履如初」。 ○朱彦修‥朱丹溪(一二八一~一三五八)。名は震亨、字は彦修。義烏(今、浙江義烏市)赤岸の人。金元四大家のひとり。 ○葛可久‥『明史』列傳 方伎 「葛乾孫、字可久、長洲人。父應雷、以醫名……」。一三〇五~一三五三。元代、平江路の人。『古今圖書集成』醫部全録 醫術名流列傳 明 葛乾孫に引ける『異林』に同様の内容が見える(葛乾孫は「兩乳」に刺した)が、井田信齋は『五雜組』から引用したのであろう。『五雜組』卷五「魏安行妻風痿十年不起、王克明一針而動履如初。朱彦修治女子療疾皆愈、唯頰丹不滅、葛可久刺乳而立消」。 ○軒轅‥黄帝の名号。姓は公孫、軒轅の丘に生まれたため、軒轅氏と称される。 ○岐伯‥黄帝の臣。医学に精通し、黄帝と問答して、その内容は『内経』に記載される。 ○娓娓‥談論して倦かず、勤勉なるさまをいう。 ○世醫‥代々医学を業とするひと。 ○肯綮‥事物の要所。 ○交‥一斉に。 ○矢鋒‥矢の尖端。『列子』湯問「(紀昌 飛衞)相遇於野、二人交射。中路矢鋒相觸、而墜於地、而塵不揚」。弓の名人飛衞がその弟子紀昌に技を伝えたが、紀昌は天下の敵は師のみとして謀殺しようとして、互いに矢を射た。それが中央で矢の尖端がぶつかって地に落ちた。つぎの井田赤城跋の注を参照。 ○御者‥『列子』湯問「造父之始從習御也……取道致遠、而氣力有餘、誠得其術也。……未嘗覺山谷之險。原隰之夷、視之一也。吾術窮矣。汝其識之」。 ○嶮‥地勢が険悪で進みがたい。 ○原隰‥広大にして平坦なところと低く湿った地。 二ウラ ○夷‥平坦。 ○粟津‥いま、滋賀県大津市。 ○祖先之事蹟‥木曾義仲の経歴など。横田「葦原検校について」を参照。碑文は義仲寺に現存する。 ○東都‥江戸。 ○信齋井田寛仁‥名は經綸、寛。字は子裕。号は信齋(『新版』二九四頁)。天保四(一八三三)年没。二十七歳。つぎの跋によれば井田赤城の子。『諸葛孔明傳註』(文政十年自序、同十二年跋)、『知道詩篇』(初編文政三序、続編天保三跋)あり。


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 跋

葦原検校英俊一は、系、木曾義仲に出づ。

 【意訳】葦原検校英俊一の家系は,木曾(源)義仲を出自としている。

義仲十九世の孫を義昌と曰う。豐大閤の時、封を下總阿知戸に移す。食邑一萬石。

 【意訳】義仲の十九代目を義昌という。豊臣秀吉が太閤であった時に,下総の阿知戸(蘆戸/あじと)に移封された。一万石である。

其の子を義利と曰う。故有り、國除く。

 【意訳】その子息の名は,義利という。わけあって,所領を没収された。

義利六世孫を義忠と曰う。諸侯に事(つか)えず。劔法を以て教授す。

 【意訳】義利から六代目の孫の名前は,義忠という。仕官せず,剣術を教えていた。

其の子忠大夫義富、業を繼ぎて諸國に遊歷す。

 【意訳】その子の忠大夫義富は,父の仕事を継承して,諸国を遍歴していた。

文化元年、東都に卒す。是れ英俊一の父なり。

 【意訳】文化元年(1804),江戸でなくなった。この義富が英俊一の父である。

英俊幼にして頴悟、七歳、明を喪う。

 【意訳】英俊一は幼いながらもひときわ聡明であったが,七歳の時に失明した。

葦原氏を冒す。鍼醫を以て業と為(す)。深く其の妙に造(いた)る。

 【意訳】改姓して葦原氏を名乗った。鍼医を職業とし,その極めてすぐれたところまで到達した。

松代侯に遊事して、月俸二十口を賜う。

 【意訳】松代藩に仕官して,月俸二十口を賜わった。

尾紀二公に謁し、又た儀同公及び德川兵部卿の召に應ず。

 【意訳】尾張藩と紀州藩の当主に拝謁し,また一橋家第二代当主治済(はるさだ)とその子である徳川兵部卿(将軍・家斉(いえなり)/『新版 鍼道発微講義』による)に招聘された。

他の列侯貴戚の治療を請う者、勝(あ)げて數う可からざるなり。

 【意訳】その他,諸藩の藩主などで治療を希望するひとは,数え切れないほどであった。

居恒慨然として世醫の鍼術に熟せず、而して多く人命を誤ることを歎ず。

 【意訳】常に感慨深く医を業とするものが鍼術に習熟せずに,多くの人命が失われる過ちを犯していることを嘆いていた。

今茲天保辛卯の夏、此の書を著し、來たって言を乞う。

 【意訳】今年,天保2年(1831)の夏に,本書を著わし,たずさえて来訪し,「お言葉を賜わりたい」と言った。

余曰く、醫の術に熟せざる者は、死生緩急の地に臨んで、坐(い)ながら其の死を見る。

 【意訳】わたくしは,次のように言った。「医術に習熟しないひとは,患者が死に瀕する危急の事態になっても,その死にゆくのをなすすべもなくただ見ているだけである。

草根木皮も、亦た施す所無し。

 【意訳】草根木皮などの薬物も役に立たない。

夫(か)の魏安行の妻、風痿十年起たず、王克明、一たび針して、而して動履、初めの如く、朱彦修、女子の病を治するに、衆患皆な除くも、唯だ頰丹滅せず、葛可久、乳に刺して立ちどころに消するが若きは、則ち術の妙、皆(とも)に神境に入ればなり。

 【意訳】たとえば,魏安行の妻は風痿(下肢の麻痺)を十年間患って立って歩くことができなかったが,王克明が一度鍼すると,昔のように歩けるようになった。朱彦修が女子の病を治療して,多くの症状はみな除かれたが,頰の赤みは消えなかった。葛可久が乳部に刺すと,すぐさま消えた。このような鍼のすばらしい技術は,みな神の領域に技術が達しているからである。

    ★「女子」には女児と女性一般の意味がある。徐禎卿の『異林』に「可久曰:法當刺兩乳。主人難之。可久曰:請覆以衣,援鍼刺之。應手而滅」とある。主人が「之を難(かた)んじた(はばかった)」理由は,乳部(胸部)への刺鍼の危険性によるか,乳部を露出することへの忌避か。葛可久が「衣で覆う」と言っていることから,後者か。であれば,女児である可能性は低かろう。

是(ここ)を以て軒轅岐伯、娓娓として論じて置かず。

 【意訳】そういうわけで,黄帝と岐伯は,鍼術を勤勉に論じてやまなかったのである。

世醫の此の書を讀みて、苟も肯綮を得るときは、〔則ち〕譬えば猶お射者交ごも射て、矢鋒相い觸れ、地に墜つるも塵揚らず、御者、道を取って遠を致し、氣力餘り有り、未だ嘗て山谷の嶮、原隰の夷を覺えず、之を視ること一なるがごとくなり。

 【意訳】医学を業とするひとが,本書を読んで鍼術の要点を得れば,譬えてみれば,(『列子』湯問にあるように)弓の名手たちが互いに矢を放ち,空中で互いの矢の先端がぶつかり合って,そのまま(勢いを相殺させて)地面に落ちるため,ちり一つ舞い上がらない,また,優れた御者が馬車を走らせるときは,道を進んで遥か遠くまで行き着いても,馬の気力にはまだ十分な余裕があり,山や谷の険しい場所,あるいは原野や湿地を通ってきたという感覚(苦労)すらなく,どこを走っていても全く同じ平坦な道を走っているかのように見えるようなものである。

鍼道發秘、是(ここ)に於いて出づ。

 【意訳】『鍼道発微』がこうして世に出た。

英俊嘗て碑を粟津に建つ。

 【意訳】葦原英俊は,以前,碑を粟津に建立した。

余をして祖先の事蹟を記せしむ。

 【意訳】そしてわたくしに,祖先の事蹟を記述させた。

因って書して跋と為(す)。

 【意訳】それをここに書きとめて跋文とする。


    東都    信齋井田寛仁甫撰す

 【意訳】江戸 井田寛仁,号は信斎,これを記す


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跋(井田赤城)

語曰内不足者急於人知霈焉有餘厥聞四馳是以

達人專修其道也若夫庖丁之解牛王良之御車飛

衛之學射扁鵲之診病則其所好者道也進乎技矣

所謂霈焉有餘厥聞四馳何以急於人知乎葦原撿

挍之鍼術亦如四子則醫門多疾者於是可知矣天

保二庚寅十一月晦日初見於

大君翌年壬辰九月十四日重有 〔この行一字擡頭〕

  三ウラ

命新 賜俸米準侍醫四年癸巳四月有佩刀之

命是古之所無也可謂德充於内應物於外者矣徃

歳著鍼道發秘官醫岡本玄冶法眼有題辭男信齋

亦作之序則何別以贅語為雖然其需不可拒也因

書登庸寵遇之次序以跋

天保五年癸巳春三月


          退耕老人撰〔印形白字「田」「龍」〕


  【訓み下し】

語に曰く、内、足らざる者は、人の知ることを急にす。霈焉として餘り有れば、厥(そ)の聞、四(よも)に馳す、と。是(ここ)を以て達人は專ら其の道を修む。夫(か)の庖丁の牛を解き、王良の車を御し、飛衛の射を學び、扁鵲の病を診するが若きは、則ち其の好む所の者は道なり。技より進む。所謂(いわゆる)霈焉として餘り有り、厥の聞、四に馳す、何を以て人の知ることを急にせんや。葦原撿校の鍼術も、亦た四子の如かるときは、則ち醫門多疾者、是(ここ)に於いて知る可し。天保二庚寅十一月晦日、初めて

大君に見(まみ)ゆ。翌年壬辰九月十四日、重ねて

  三ウラ

命有り、新たに 俸米を賜う。侍醫に準ず。四年癸巳四月、佩刀の命有り。是れ古の無き所なり。謂(いい)つ可し、德、内に充ちて、物に、外に應ずる者と。往歳、鍼道發秘を著す。官醫岡本玄冶法眼、題辭有り。男信齋も亦た之が序を作るときは、〔則ち〕何ぞ別に贅語を以て為(せ)ん。然りと雖も其の需(もと)め拒む可からざるなり。因って登庸寵遇の次序を書して以て跋す。

天保五年癸巳 春三月


          退耕老人撰す


 【注釋】 

○語曰‥韓愈『五箴五首』知名箴「内不足者、急於人知。霈焉有餘、厥聞四馳」。 ○聞‥名誉、名望。 ○四‥四方。 ○庖丁之解牛‥『莊子』養生主「庖丁為文惠君解牛、手之所觸、肩之所倚、足之所履、膝之所踦、砉然嚮然、奏刀騞然、莫不中音。合於桑林之舞、乃中經首之會。文惠君曰、譆、善哉。技蓋至此乎。庖丁釋刀對曰、臣之所好者道也、進乎技矣……」。 ○王良之御車‥『荀子』王霸「王良、造父者、善服馭者也」。 ○飛衛之學射‥『列子』湯問「甘蠅、古之善射者、彀弓而獸伏鳥下。弟子名飛衛、學射于甘蠅、而巧過其師。紀昌者、又學射于飛衛。飛衛曰、爾先學不瞬、而後可言射矣。紀昌歸、偃臥其妻之機下、以目承牽挺。二年之後、雖錐末倒眥而不瞬也。以告飛衛。飛衛曰、未也、必學視而後可。視小如大、視微如著、而後告我。昌以氂懸虱于牖。南面而望之。旬日之間、浸大也。三年之後、如車輪焉。以睹餘物、皆丘山也。乃以燕角之弧、朔蓬之簳、射之、貫虱之心、而懸不絶。以告飛衛。飛衛高蹈拊膺曰、汝得之矣。紀昌既盡衛之術、計天下之敵己者一人而已、乃謀殺飛衛。相遇于野、二人交射。中路端鋒相觸、而墜于地、而塵不揚。飛衛之矢先窮。紀昌遺一矢、既發、飛衛以棘刺之端扞之、而無差焉。于是二子泣而投弓、相拜于塗、請為父子。尅臂以誓、不得告術于人」。 ○扁鵲之診病‥扁鵲傳を参照。韓愈『送高閑上人序』「堯舜禹湯治天下、養叔治射、庖丁治牛、師曠治音聲、扁鵲治病」。 ○挍‥「校」に同じ。 ○四子‥庖丁、王良、飛衛、扁鵲。 ○天保二庚寅‥天保二(一九三一)年は庚寅ではなく辛卯。 ○初見於大君‥将軍にお目見え。原文、「大君」は一字擡頭。寄合医師となったか。 ○翌年壬辰‥天保三年。 三ウラ ○賜俸米‥二十人扶持。 ○準侍醫‥奥医師となる。 ○四年癸巳‥一八三三年。 ○佩刀‥帯刀。打刀と脇差の二本の刀を腰に帯びること。 ○德充於内應物於外‥『莊子』德充符。篇名に関する郭象注に「德充于内、應物于外、外内玄合、信若符命、而遺其形骸也」とある。 ○徃歳‥往年。過去。 ○岡本玄冶法眼‥序の注を参照。 ○男‥子息。 ○信齋‥井田信齋。 ○贅語‥贅言。余計な言辞。 ○登庸‥人才を登用する。 ○寵遇‥特別に恩寵ある待遇を受ける。 ○次序‥次第。 ○天保五年癸巳‥天保五(一八三四)年は甲午。前文に「四年癸巳」とある。 ○退耕老人‥井田赤城。名は龍。通称は定七郎。字は雲卿。赤城・愚直翁・退耕處士と号す。長尾村神木(神奈川県川崎市高津区)の出身であるため、著作では長尾赤城と称することも多い。明和五(一七六八)年生まれ(一説、明和七年)、天保十三(一八四二)年没。大和高取藩に仕える(江戸詰)。晩年長尾に帰り、退耕處士と号した。


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語に曰く、内、足らざる者は、人の知ることを急にす。

 【意訳】古語(韓愈『五箴五首』知名箴)に,「内実に不足があるひとほど,他人に認められようと焦るものである。

霈焉として餘り有れば、厥(そ)の聞、四(よも)に馳す、と。

 【意訳】あふれて余りあるほど内面が充実しているひとは,自分からはなにもしなくとも,その名声は自然に四方に知れ渡るものである」とある。

是(ここ)を以て達人は專ら其の道を修む。

 【意訳】そういうわけで,達人は(他人の承認など求めず)自分が極めようとする道に専心する。

夫(か)の庖丁の牛を解き、王良の車を御し、飛衛の射を學び、扁鵲の病を診するが若きは、則ち其の好む所の者は道なり。

 【意訳】あの(『荘子』養生主に登場する)見事に牛を解体する庖丁,(『荀子』王霸に登場する)優れた御者である王良,(『列子』湯問に登場する)弓の名手である飛衛,名医である扁鵲がよろこぶ対象は道である。

技より進む。

 【意訳】技術から道に進むのである。

所謂(いわゆる)霈焉として餘り有り、厥の聞、四に馳す、何を以て人の知ることを急にせんや。

 【意訳】韓愈が言うところの「霈焉として餘り有り,厥の聞,四に馳す」である。どうして他人に知られることにあくせくすることがあろうか。

葦原撿校の鍼術も、亦た四子の如かるときは、則ち醫門多疾者、是(ここ)に於いて知る可し。

 【意訳】葦原検校の鍼術も,庖丁・王良・飛衛・扁鵲という四人の達人と同様であるので,(優秀な)医者の門前には多くの病人が集まるというように,こうして人々は検校の鍼術の素晴らしさを知ることができる。

 ★『莊子』人間世:「(顏)回嘗聞之夫子(=孔子),曰:『治國去之,亂國就之,醫門多疾』。願以所聞思其則,庶幾其國有瘳乎!」

天保二庚寅十一月晦日、初めて大君に見(まみ)ゆ。

 【意訳】天保2年11月30日に,検校ははじめて徳川将軍に御目見(おめみえ)(の資格を得た)。

翌年壬辰九月十四日、重ねて命有り、新たに 俸米を賜う。侍醫に準ず。

 【意訳】翌年天保3年9月14日に,ふたたび下命を拝し,改めて扶持米を賜わり,奥医師と同じ待遇となった。

四年癸巳四月、佩刀の命有り。

 【意訳】天保4年4月には,帯刀を許すとのご下命あり。

是れ古の無き所なり。

 【意訳】これは,古来先例のないことである。

謂(いい)つ可し、德、内に充ちて、物に、外に應ずる者と。

 【意訳】まさに(『荘子』徳充符の郭象注にいう)「徳が内部に満ちると,形として外部に反応があらわれる」と言うべきものである。

往歳、鍼道發秘を著す。

 【意訳】検校は先年,『鍼道発微』を著わした。

官醫岡本玄冶法眼、題辭有り。

 【意訳】御典医である岡本玄冶法眼による序文がある。

男信齋も亦た之が序を作るときは、〔則ち〕何ぞ別に贅語を以て為(せ)ん。

 【意訳】我が子,井田信斎も序文(跋文)を書いているのであるから,どうしてこれらとは別に余計な文言など必要があろうか。

然りと雖も其の需(もと)め拒む可からざるなり。

 【意訳】とはいえ,要請があったので,拒絶することもできない。

因って登庸寵遇の次序を書して以て跋す。

 【意訳】そのため将軍に登用され,特別の待遇を受けることになった次第を書いて,跋文とする。

天保五年癸巳 春三月

 【意訳】天保5年春三月

          退耕老人撰す

 【意訳】退耕老人 著わす

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