4-9 灸焫鹽土傳 三宅意安撰
京大富士川文庫所蔵(キ/一一〇) 2026/08/17現在の表記「炙焫塩土伝」
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灸焫鹽土傳序
吾
東方灸焫之來邈矣然皆民俗之所用而 王者敢
不取焉故如延喜式典藥寮則載於湯液鍼行按摩
博士而未立於灸行博士者是也於傳有之云天正
記年 後陽成天皇貴恙今大路典藥老 奉 灸
表 於是時九條殿下中院諸公卿考正舊史始奏
進之自是茲來灸行盛而至今耳嗚呼漢𡈽灸法貴
散見於諸方書不全矣本朝和丹兩大醫所秘灸法
ウラ
或田夫野客所傳間亦流傳於唐山者亦不少不佞
執匙之暇蒐録本邦灸法若干條分為二册子號曰
灸法鹽土傳 吾國玄古彦火々出見命迫於兄
雐命吟海畔時忽逢鹽土老翁得龍都道此乃天助
而後代蒼生傳於大道之來由是也由是為書名然
皇和寶暦八戊寅孟秋望
大彦命八十五世神裔 〔裔‥原文、「衣」下「回」に作る〕
大邨圭貞厚三宅意安甫 誌
【訓み下し】
灸焫鹽土傳の序
吾が
東方、灸焫の來たること邈(はる)かなり。然して皆な民俗の用いる所なり。而れども王者は敢えて焉(これ)を取らず。故に延喜式の典藥寮の如きは、則ち湯液鍼行按摩博士を載せて、而して未だ灸行博士なる者を立てざるは是れなり。傳に於いて之有りて云う、天正記年 後陽成天皇に貴恙し、今大路典藥老 灸を奉じて表す。 是の時に於いて九條殿下、中の院、諸公卿、舊史を考正して、始めて奏して之を進(たてまつ)る。是茲(このとし)自り來(このかた)、灸行盛んにして今に至るのみ。嗚呼、漢土の灸法貴くして諸もろの方書に散見するも全からず。本朝和丹の兩大醫、秘する所の灸法、
ウラ
或いは田夫野客の傳うる所、間ま亦た唐山より流傳する者、亦た少なからず。不佞、匙を執るの暇、本邦の灸法を蒐録すること若干條、分けて二册子と為(し)、號して灸法鹽土傳と曰う。 吾が國玄古、彦火々出見命(ひこほほでのみこと)、兄の雐命に迫られ、海畔に吟(なげ)く時、忽ち鹽土老翁に逢い、龍都の道を得たり。此れ乃ち天の助けなり。而して後代の蒼生、大道を傳うる來由は、是れなり。是れに由り書名を為すこと然り。
皇和寶暦八戊寅 孟秋望
大彦命八十五世神裔
大邨圭貞厚三宅意安甫 誌(しる)す
【注釋】
○吾東方‥日本。 ○焫‥「爇」に同じ。もやす。『素問』異法方宜論「藏寒生滿病、其治宜灸焫。故灸焫者、亦從北方來」。 ○邈‥久遠、遙遠。 ○延喜式‥律令格に対する施行細則を集大成した古代法典の一つ。延喜五(九〇五)年、醍醐天皇に命により編纂を開始したが、完成奏上は延長五(九二七)年(『国史大辞典』)。 ○典藥寮‥令制宮内省の被管で医療を掌る官司。 ○湯液‥医博士のことか。「鍼行」「灸行」の「行」字、『十四経發揮』盛應陽序に「湯液行者」「鍼行者」「灸行者」の語句が見えるが、あるいは『醫心方』にみえる「(從五位下)行鍼博士(兼丹波介)」を「鍼行博士」としたものか。「行鍼博士」の「行」は大官が小官(鍼博士は從七位下)を兼ねる意。 ○天正‥一五七三年~一五九二年。 ○記年‥紀年。 ○後陽成天皇‥第百七代天皇。在位天正十四(一五八六)年~慶長十六(一六一一)年。 ○貴恙‥貴人の病状を伺うことば。 ○今大路典藥老‥曲直瀬玄朔(一五四九~一六三一)。 ○奉灸表‥曲直瀬玄朔『醫學天正記』卷上・欝二十に、今上皇帝(後陽成天皇)に対して「予奏上欲灸膏肓。有詔、攝家名家見尋舊記。九條殿・二條殿・近衞殿御答、雖無舊記、以艾灸本復、奏上之旨分明、可被灸治。一條殿・鷹司殿御答者、無舊記云云、故不能灸」とあり、施灸はされなかったが、下卷・癰疽四十四に「慶長三年之秋、御腦(ママ)之時、予欲灸治。依無其例、不能灸。頃中院入道也足軒觀出舊記、而奏上、依其、今灸腫上。自今已來、可有灸治之敕意也」とある。 ○九條殿下‥五摂家のひとつ。九条兼孝(天文二十二/一五五三年~ 寛永十三/一六三六年)か。関白。 ○中院‥中院入道也足軒。中院(なかのいん)通勝(みちかつ)(弘治二/一五五六年~慶長十五/一六一〇年)。戦国時代から江戸時代前期にかけての公家・和学者。 ○公卿‥「公」と「卿」の総称。公は太政大臣、左・右大臣、卿は大・中納言、三位以上の朝官および参議。上達部(かんだちめ)。くげ。こうけい。 ○茲‥年。 ○漢𡈽‥唐土。もろこし。「𡈽」は「土」の増画字。 ○貴‥ひとまず「貴」字と解した。 ○本朝‥日本。 ○和丹‥典薬頭、和氣と丹波。 ウラ ○田夫野客‥農夫や山野に住むひと。ひろく民間のひとをいう。 ○傳間‥あるいは「傳聞」か。 ○唐山‥唐土。もろこし。から。 ○不佞‥才知のないこと。自分をへりくだっていう語。 ○執匙‥医業。 ○玄古‥太古。古代。 ○彦火々出見命‥ヒコホホデミノミコト。火遠理命(ほおりのみこと)。山幸彦。 ○兄雐命‥兄は火照命(ほてりのみこと)(天火明命(あめのほあかりのみこと)、海幸彦)。「雐」は「虐」の俗字で「むごい命令」の意か。 ○吟‥嘆息する。苦しい時に発する声。 ○海畔‥海辺。 ○鹽土老翁‥しおつちのおじ。『日本書紀』での表記。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)。山幸彦が兄の海幸彦から借りた釣り針を返せず困っていたときに、海神の宮へ行く道を教えた。 ○龍都‥竜宮。 ○蒼生‥民衆。 ○來由‥来歴。ゆえん。 ○皇和‥日本。皇(おお)いなる大和。 ○寶暦八戊寅‥一七五八年。 ○孟秋‥陰暦七月。 ○望‥十五日。 ○大彦命‥おおびこのみこと。孝元天皇の第一皇子。 ○神裔‥後代の子孫。 ○大邨圭貞厚三宅意安‥享保六(一七二一)年生まれ(谷田伸治)。「大邨」は「屯倉(みやけ)」に通じ、「大邨圭」は「みやけ」か。あるいは「大邨、圭」か。京大富士川文庫には「三宅意安(恂)」とある。
灸焫鹽土傳の序
吾が東方、灸焫の來たること邈(はる)かなり。
【意訳】わが大陸の東方にある日本に灸焫療法が伝来してから長い時間がたっている。
然して皆な民俗の用いる所なり。
【意訳】そしてみな民間で利用されていた。
而れども王者は敢えて焉(これ)を取らず。
【意訳】しかし天子はこれを採用していなかった。
故に延喜式の典藥寮の如きは、則ち湯液鍼行按摩博士を載せて、而して未だ灸行博士なる者を立てざるは是れなり。
【意訳】そのため延喜式における典薬寮には,湯液・鍼・按摩の博士の役職は掲載されているが,灸をおこなう者が立項されていないのが,その証拠である。
傳に於いて之有りて云う、天正記年 後陽成天皇に貴恙し、今大路典藥老 灸を奉じて表す。
【意訳】つぎのような伝聞がある。天正(1573~1592)年間に,後陽成天皇が健康を害されたときに,診察した今大路典薬頭(てんやくのかみ)である曲直瀬玄朔老は,灸治療を進言した。
是の時に於いて九條殿下、中の院、諸公卿、舊史を考正して、始めて奏して之を進(たてまつ)る、と。
【意訳】(はじめは前例がないとして退けられたが)この時(慶長三年=1598年),九条殿下(関白九条兼孝?)や中院(なかのいん)通勝(みちかつ)など諸公卿が,古くからの史書などを調査し,はじめて天皇に奏上されて施灸ができるようになった,と。
是茲(このとし)自り來(このかた)、灸行盛んにして今に至るのみ。
【意訳】この年から,灸治療が盛んになって現在に至っている。
嗚呼、漢土の灸法貴くして諸もろの方書に散見するも全からず。
【意訳】ああ,大陸から伝来した灸法は貴重なものであり,多くの医学書にあちこち見られるものの,十分ではない。
本朝和丹の兩大醫、秘する所の灸法、或いは田夫野客の傳うる所、間ま亦た唐山より流傳する者、亦た少なからず。
【意訳】わが国を代表する和気と丹波という二大医学家が秘伝としている灸法,あるいは民間に伝承されているもの,時折大陸から伝わってきたものも少なくない。
不佞、匙を執るの暇(いとま)、本邦の灸法を蒐録すること若干條、分けて二册子と為(し)、號して灸法鹽土傳と曰う。
【意訳】わたくしは,診療の空いた時間に,我が国でおこなわれている灸法をいささかなりとも収集編纂して二冊にまとめ,『灸法塩土伝』と名付けた。
吾が國玄古、彦火々出見命(ひこほほでのみこと)、兄の雐〔虐〕命に迫られ、海畔に吟(なげ)く時、忽ち鹽土老翁に逢い、龍都の道を得たり。
【意訳】(書名の由来は)我が国の古代において,彦火々出見命(ひこほほでのみこと)(火遠理命(ほおりのみこと)=山幸彦)が兄(海幸彦)から(海でなくした釣り針を返せという)むごい命令に攻めたてられ,海辺で呻吟していた時,突然塩土老翁(しおつちのおじ)に会って,竜宮への道を教えられた。(そして無事釣り針を回収して戻った。)
此れ乃ち天の助けなり。
【意訳】これはまさしく天の助けであった。
而して後代の蒼生、大道を傳うる來由は、是れなり。
【意訳】そして後世の民衆に大いなる道を伝承した由来は,これである。
是れに由り書名を為すこと然り。
【意訳】これにちなんで,このように書名をつけることにした。
皇和寶暦八戊寅 孟秋望
【意訳】大いなる日本宝暦八年(1758)七月十五日
大彦命八十五世神裔 大邨圭貞厚三宅意安甫 誌(しる)す
【意訳】大彦命(おおびこのみこと。孝元天皇の第一皇子)の八十五世の子孫にあたる大邨圭(字は)貞厚,三宅意安が記した
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